神社前常坂神社は特別な場所だ。
かつては「時間旅行」と称していたセクター間移動のゲートがあり、この神社を介して数々の出来事があった。比治山が桐子を追いかけてセクター5からセクター4へ渡って天涯孤独となったのも、怪獣に侵攻され荒涼とした故郷へ里帰りしたのも、自分を逃がして中枢に取り残された沖野の元へ必死で向かったのも、全てはこの神社からだった。
そして、自分たちが育った世界が仮想空間だと知り、未知の惑星での五年もの生活を送った今――ここは里帰りのための主要なログイン地点として設定されている。
僅かな眩暈と共に自分の姿が懐かしい学生服の少年となったことを確認して、比治山は拝殿を振り仰いだ。隣に並んだ沖野も彼に続いて顔を上げる。
「いつも背を向けてばかりで、ここの神様には申し訳ないな」
「神様、か。本当にいるのかな。ほら、神様って場所を移動させるには手続きが必要だって言うだろう。地球の日本列島から遥か遠く離れたここまで来てくれたとは思えないけど」
「いや、信仰は人の気持ちから生まれるものだ。たとえAIであろうと、この仮想世界に生きるものが尊ぶなら、ここにも神様がいるに違いない」
神前に向かう比治山に倣って、沖野もとりあえずは作法通りの礼をした。
信仰心というものを沖野はあまり持ち合わせていない。礼儀作法や、心理的な区切りをつけるための儀式としてこういったものを認識しているし、子供だけで降り立った惑星で生や死といった普遍的な問題を処理するにあたっていつか必要になる装置だとは理解している。
どちらもまだ実感は無いが。
比治山はそうではないようだ。彼の育った時代の影響もあるだろうか。きっと人々が神頼みをする場面も多かったに違いない。
少し長いように思える時間をかけて祈り終えた彼は沖野に手を差し出した。
「えっ」
とっさに状況が呑み込めず大きな掌と比治山の顔を交互に見る。
「なんだ。言わんと分からんのか」
差し出した手をそのままにむくれた顔は決して機嫌を損ねているのではなく気恥ずかしいと語っている。
長い時間をかけて交際を始めた比治山と沖野は現実世界では既に自然に手を繋ぐような間柄になっている。今日ここに来たのも、「デートをする」という明白な目的があってのことだ。
だから比治山の行動に少しもおかしなところはない。むしろ沖野の方が失念していたと言っていいだろう。
「……着替えてくるから、待ってて」
仮想空間の権限設定は以前よりもかなり自由になっていて、見た目を変える程度はゲームのように簡単だ。しかし白昼堂々というのは気が咎める。どこか物陰に入って衣装設定を変更して出てくればいい。
差し出されたままの手を置いて背を向けようとした腕を比治山が掴む。
「別に着替える必要はないだろ。まだ疑っているのか」
今度は明確に不満を浮かべる表情があった。
二人が五年間の曖昧な関係からはっきりと付き合うきっかけになったのは、このセクター4のデータを復旧させて皆で里帰りをした日のことだ。
その時に沖野は「桐子」の姿で比治山を焚き付けた。
彼に好きだと言われるには女性でないといけないと考えていたし、女性になれることを証明すれば彼が告白してくるだろうと思ったからだ。
それは沖野の間違いだった。
ずっとボタンを掛け違えていたような勘違いをしていて、五年もの間、気持ちは同じだった。
今日の「デート」はあの日のやり直しの意味もあった。
しかし、
「ここはセクター4だ。他人の目だってある。この時代で男同士が手を繋いで歩くのはおかしいよ」
現実世界では惹かれ合った者同士が親しく過ごすのはごく当たり前のことだ。仲間たちも比治山と沖野のことを応援していた。
だから気持ちが通じ合った後は草原で、木陰で、荒野で、共同体の仲間に見られる気恥ずかしさは別でありつつも、誰に憚ることなく寄り添って歩いて来た。
だがこの時代では男女で交際することが普通で、それ以外は奇異の目で見られるものだ。沖野が「桐子」の姿になりさえすれば問題は解決する。
「構うものか。誰に何と言われようと、俺は貴様とデェトをしに来ている。今しがた神様にもそう報告した」
「比治山くん、君は……」
どんな言葉を続けるか迷った。現在よりも少し幼い容姿で真っ直ぐに向けられる視線はかつて沖野から逸らされていたものだ。
仮想世界の人々をただの背景装置と見做さず、彼は人の心を認めた。そして神も居ると語っている。その上で、男の沖野のまま恋人として隣を歩くつもりがあるのだ。
ならばこう言うべきだろう。
「呆れるくらい愚直だな」
引き留める腕から手へ繋ぎ替えて、差し出された時に素直に握っておけばよかったと思う。野良作業で作った豆のない、まだ柔らかい皮膚をした若い手だ。同じ強さで握り返す腕へ、人の視線が無いのを良いことに肩を寄せる。
「どこへ行きたい? 工廠があった彩芽峠へ行こうか。今は公園になってる。人目が少なくて、眺めが良くて、デート向きの場所だ。」
沖野が微笑みかけても比治山は昔のように動揺したりしない。沖野の気持ちを知っているからだ。
なのに比治山はひとつ咳払いをした。
「その……今日は平日だろう」
「はいはい。学校で焼きそばパンを買ってから、だね。しかしもうすぐ昼だ。売り切れる前に着けるといいんだけど……」
「何! それはいかん。急ぐぞ、沖野!」
「わっ、!」
走り出した比治山に引っ張られて沖野も走る。歩幅も運動能力も違うために一人で走るよりずっと速い。そしてこれならば手を繋いでいることも悪い風には見えないだろう。
鼓動が昂る。掌が汗ばんでいく。
もう知っているつもりだったこともこの姿だと新鮮だ。
靴の裏がアスファルトを叩く。すれ違った自転車が鈴を鳴らす。
馬鹿々々しさに笑いが零れる。走りながらそんなことをしたら呼吸が苦しくなるに決まっているのに止まらない。
常坂神社はすぐに遠くなった。
2024.04.07