エヌナナヒャク「全員居るな?」
休日の午前中の東京駅の混雑は相当なものだ。不慣れな経路で乗り換えしようとする人が多いために行き交う人々の動きは少しばかり無秩序で、旅行荷物を携えて歩くにはちょっとした苦労を伴う。おまけに中央線から東海道新幹線には広大な駅内をほとんど横断する距離を歩かねばならない。
案内板に従って新幹線の改札口手前に辿り着き、隆俊は後ろを振り返った。
「いるよ」
確認するまでもなく隣をぴったりと付いて来ていたツカサは隆俊の黒く大きいキャリーケースを掴む手に自分の手を重ねた。彼だけは荷物を持っておらず、手荷物すら隆俊に預けて身軽だ。だからこうして少しも離れることはなかった。立ち止まったことでツカサを振り返って見る視線が増えたことに気付いて、胸ポケットからサングラスを渡して掛けさせた。
他の二人は大丈夫だろうか。大抵の人間よりも頭ひとつ高い身長と、鍛え上げられた立派な筋肉を持つ隆俊は立っているだけで同行者の目印になれる。芸能人にも引けを取らないツカサの美貌と並ぶと余計に目を惹いてしまうのだが、彼にその自覚は無い。
少し遅れて彼らに追いついた沖野は小さめの銀色のキャリーケースを引き、比治山は電車を降りた時に背負い直した大きなリュックサックを前側へ抱えていた。
「すみません、比治山くんがリュックを人にぶつけてしまって」
「面目ない……」
「だから僕のカートの上に載せろって」
「俺がそいつも持つと言って断ったのは貴様だろう」
「こんな往来で立ち止まって受け渡ししてられないだろ」
いつものように始まった掛け合いに、ツカサが隆俊の脇腹をつつく。
隆俊はちらりと腕時計を確認してから売店の様子へ目を向けた。これから移動中に昼食を済まそうとする人々がかなり並んで混雑しているが、時間にはまだ余裕があった。
「比治山くん、俺が荷物を見ているからツカサを連れて何か見繕って来てくれないか。飲み物も頼む。君と同じのでいい」
財布から四人分の購入に十分な紙幣を取り出し、沖野に渡す。当然、彼も一緒に行って来なさいということだ。
「僕はいいよ、隆俊と一緒に待ってる」
「お前は好き嫌いが多いだろ。後で文句を言わないように自分で選んで来い」
「大丈夫、なんでも食べるし、食べられないのは隆俊に食べてもらうから」
隆俊はため息をついたが、こんなやりとりには沖野も比治山も慣れっこだ。
「ツカサさんの苦手なものはだいたい知っているつもりです」
「比治山くん、分かっていると思うが焼きそばパン以外を選ぶんだぞ」
「俺にも旅の情緒くらいある!」
「では、行って来ます」
二人の少年はあっという間に雑踏に紛れていく。男子として小柄な方の沖野はもちろんのこと、背の高い比治山も構内の高低差が手伝ってすぐに人波で見えなくなった。
彼ら四人は一軒家に同居しているが家族ではない。恋人関係の隆俊とツカサはそれに近いと言えるが、当人たちの希望でまだ同棲段階と宣言している。比治山と沖野はそれぞれの家庭の事情や進学の都合があって、高校進学を機に縁者である彼らの家で居候の身となった次第だ。
だが、限りなく家族旅行に近い形で彼らは今日、大阪に向けて出発する。
「グリーン車じゃないなんて久しぶりだなぁ。座席狭い!」
言葉とは裏腹にツカサは率先して七号車の二人掛けシートの窓側へ腰掛けた。前後二列、合計四席が彼らの指定席である。座席を回転させてクロスシートのように向かい合って座ることは可能だが、常日頃から顔を突き合わせている男所帯、わざわざそんなことはしない。
隆俊は比治山と共に荷物棚へ全員分の荷物を軽々と上げて、ついでに近くで難儀していた女性客を手伝った。
「下ろしたい時は遠慮なく声をかけてください、我々は終点の新大阪まで乗りますので」
老齢の母親と社会人の娘の二人旅だろうか、女性達は礼を言い、同じ行先だと遠慮がちに告げた。普段から体格を理由に恐れられることの多い隆俊は努めて人当たりの良い笑顔を作り、会釈だけ返してツカサの隣に座る。
「見てたよ。惚れちゃうね」
「惚れているのだろう」
周囲に聞こえないように小声で交わす睦言はくすぐったい。
とはいえ流石にすぐ後ろの席には聞こえているのだ。沖野は弁当を持って一度座った席を立ち上がった。
「比治山くん、奥へ座りなよ。外見たいだろ」
「貴様はいいのか?」
「僕はたまに乗る機会があるからね。今日はよく晴れてるから、富士山見えるよ」
「そうか!」
遠慮なく比治山が窓側へ座る。口元から喜びが隠せていない。
「おや、比治山くんが後ろか」
僅かに座席を倒したツカサは隙間から目があった沖野に意味ありげに笑った。そして席を元に戻す。
「お弁当がまだだったね」
「新横浜を出たら食べよう。それまでは人の出入りが多い」
「じゃあ飲み物だけ先に」
四人分を預かっていた沖野がペットボトルの緑茶と水を前の座席へ渡す。
「弁当も先にもらっておこう、狭いだろう」
「すみません、じゃあこれも」
隆俊へは比治山と同じ、ボリューム感のある牛肉がメインに煮物のおかずの入った重形式の弁当、ツカサには軽食と言って差し支えないミックスサンドを渡す。沖野はそれらとは別に副菜がバランスよく入っている幕の内を選んだ。
「あんまり駅弁らしくないな」
「こら、ツカサ。買って来てもらって文句を言うな」
「はいはい。ありがとね、比治山くん」
「選んだのは僕だよ」
ドアが閉まり、出発のアナウンスが流れる。品川へ向けて静かに滑り出した車内でテーブルを出して弁当を置きつつ、沖野は密かに溜息を付いた。
時間帯のせいか、駅弁は売り切れが続出していて密かに悩まされたのだ。一人で新幹線に乗る時はわざわざ並んだりせず、どこででも買えるようなパンを買っておいて済ませているからこんなに混むものだとは知らなかった。
――沖野、これはどうだ?
比治山は最初、高価な牛肉重に目を奪われたところを遠慮して有名なシウマイ弁当を選ぼうとしていた。
――やめておこう。それは普段でも食べようと思えば食べられる。それに……。
ツカサはその店のシウマイが好きではない。いつだったか、土産物を前にそんなことを言っていた。だからツカサが隆俊と同じものがいいと言い出したら比治山の分を取り上げて自分の幕の内を比治山に渡すつもりでミックスサンドを采配した。
一応、東京駅限定と宣伝されていた逸品だ。
どうやら正解だったようだ。
今回の旅行は沖野が課外研究発表のために日帰りで大阪に行く予定だったところに、他の三人の都合が合ったので隆俊の発案で宿泊して観光することになったものだ。
これまでも四人で出かけたことはあるが、大抵は隆俊の運転する車で近郊のアウトドアというのが定番であり、こんな遠出はしたことがない。沖野の移動は経費で出るとしても、旅費は馬鹿にならないだろう。隆俊は「ご実家から十分に預かっているから気にするな」と言ったがきっと方便で、隆俊とツカサが工面してくれたに違いない。
比治山も同じことを考えたようで、出発前に相談を持ち掛けられた。二人共用で与えられた部屋の中、声を潜める。
「おそらく、俺のためなのだろう」
沖野は元々用事があって大阪に向かう。大人二人は休暇さえ取れればいつでも旅行に行けるような生活ぶりだ。だが、一介の高校生である比治山は違う。校則上アルバイトも出来ずに小遣いをやりくりする身。旅行など考えたこともなかった。
仮に二人が沖野をきっかけに大阪に行くことを思いついたとして、比治山が呼ばれる理由はない。なのに旅先で飲み食いをするための追加の小遣いまで与えられた。
「君が気にする必要は無いと思うよ。あの人たちは自分が行きたいから行く、君を留守番させずに連れて行きたいと思ったから誘った、それ以上でもそれ以下でもないはずだ。特に、隆俊さんは――」
少年二人は、いくら家庭の事情とはいえ恋人たちの生活に乱入してしまったことに多少の負い目を感じている。彼らの蜜月ぶりはしばしば少年たちを困惑させるものの、それだけに自分たちがいなければもっと自由な生活を謳歌していただろう。
だが、隆俊は親元を離れることになった二人が充実した高校時代を過ごせるように色々と取り計らってくれている。他人と関わるのが好きで面倒見も良い性質なのだろう。父親代わりと言うにはやや若く、兄とするにはかなり年嵩だが、保護者として十分過ぎる人物だ。
ツカサの方は隆俊と二人きりになりたいだのと口では歓迎していないようなことを言っても恋人の普段と違う一面が見られるのは満更でもないらしく、比治山と沖野を何かと揶揄いの種にしてくるし、インドア派なのにレジャー事にはアウトドアであろうとしっかり一緒に来る。
もしかすると子供がいる生活というものをままごとのように楽しんでいるのかもしれない。沖野も比治山も高校生だ。社会ではまだ大人として扱ってもらえず、自分たちだけで生きていくことは不可能。けれど、世話が必要なほど子供ではないつもりだ。だから――恋人たちの刺激には丁度いいのだろう。
「ちょっと気を遣って二人にしてあげればいいさ。君だって、隆俊さんがツカサさんに甘いのを知ってるだろ。ツカサさんは言うまでも無く彼と二人で居るのを望んでる。それを見る僕たちの反応を面白がる事を含めてね」
「む……そういうものか」
「そういうものさ」
彼らは比治山と沖野の微妙な関係を――いずれ自分たちのようになるかもしれない厄介な感情を分かっているのだ。沖野としてはまだ、あくまで数多ある可能性のうちのひとつの話だが、ツカサはどうも確信しているようでタチが悪い。
だが、これくらいの気遣いは駄賃として飲み込もう。ツカサに借りは作りたくない。成長途上の沖野にとって彼はあらゆる意味で自分の上位互換であると思いつつ、どこか天敵のような、最もなりたくない大人像である。
既に中身を知っている幕の内弁当の蓋を見るふりをして隣の席の様子を窺う。比治山は熱心に外を見て、大都会が遠のいていく車窓を楽しんでいるようだ。もっともいくらかの気持ちは弁当にあるらしく時折テーブルの上の駅弁に視線が奪われている。そんな素直なところが好ましい。まだ身長が伸びているらしい体躯は未成年ながら既に座席が窮屈そうだ。後で隆俊さんと見比べてみようか。
比治山ほどではないにしろ、彼が隣にいることで沖野の気持ちも普段の移動より浮足立っているようだった。
新横浜を出て各々が駅弁を味わっている間に新幹線は反対側の車窓に時折海を臨みつつ明らかに都市を離れていた。最初は興味深そうに窓の外を眺めていた比治山も、富士山を通過した辺りで山と工業地と田園の繰り返しになる風景にいくらか退屈を覚え始めていた。
前の座席からツカサが声を掛ける。
「ねぇ、椅子、深めに倒していい?」
ツカサは朝に弱い。今朝も隆俊が起こしてから随分と眠たそうに支度をしていた。食事を済ませて昼寝といったところか。
「どうぞ」
特に断る理由もなく、無意識に乗り出していた身を背もたれにぴたりと付ける。
「比治山くん、それなら僕が奥へ座ろう。狭いだろ」
彼は後ろに気を遣ってか、少しも座席を倒していなかった。そこに前の席が倒されると彼の体格では圧迫感を覚えるだろう。沖野ならば比治山よりも薄い。
比治山は少しばかり悩んだが、沖野に景色の良い窓側を譲るのもいいだろうと考えた。彼にはきっと自分が邪魔で外がよく見えなかったはずだ。
「ついでにこれ、片付けてきてくれ。デッキにゴミ箱がある」
「そういうことなら。隆俊さんたちのも貰います」
「ありがとー」
「すまんな」
差し出された空の弁当箱を順番に受け取り、手早く購入時の袋へまとめる。走行中とはいえ、長々と立っていては邪魔だろう。出入口に分かりやすく示されているゴミ箱のピクトグラムを頼りに歩き出す。
「さて、遠慮なく」
「なっ!」
比治山が背を向けて沖野が窓側に落ち着くなり、ツカサは限界まで背もたれを倒した。
「ツカサさん……限度ってものがあるだろ……!」
さすがに窮屈だ。テーブルを出していたら身動きが取れなくなっていたのではないだろうか。沖野は大きく空いた座席と座席の間から助けを求めて隆俊の顔を見る。
「ツカサ」
「はいはい、冗談だよ」
ひとまず常識的な角度まで戻してもらい、一息つく。大人げが無いとはツカサのためにあるような言葉だ。デッキから戻ってきた比治山と目が合う。不在の間に何が起きたかは大体察することが出来たようだ。
「代わって正解だろ」
「沖野だからだろう。ツカサさんは俺にはここまでせん」
「聞こえてるよぉ」
いつの間にかアイマスクをつけたツカサがにやにやとした口元で比治山が見えているかのように笑う。
「他の人の迷惑にならんようにな」
言外に静かに、と言われては仕方がない。駅を出てから時間が経ったためか、歓談に興じていた他の乗客も弁当を食べ終えるなどして無言になり始めている。眠っている人も散見された。
「比治山くん。背もたれ、俺も少しいいか」
「あ、はい。どうぞ」
隆俊はほんの僅かに、倒したと言えないくらい席を倒した。彼も仮眠を摂るのだろうか。比治山も少し眠気を感じてるが、慣れない旅行で落ち着かない気持ちも大きい。それに眠っている間に到着では何とも味気ない。隣の沖野の様子を覗き見ると、タブレット端末を片手に何か電子書籍を読もうとしているようだ。しかし表紙や目次を流すばかりで文字を追っている様子はない。これは話しかけても良さそうだ。
「貴様は、大阪は初めてではないのだな」
控えめに口に出すと、沖野はすぐにタブレットの画面を消して比治山へ顔を向けた。
「ああ。何度か行ってるよ。今回みたいな……前に説明したかな。企業が学生の研究に出資してくれるプロジェクトがあって、その本社が大阪なんだ。それで、報告発表に」
「観光はしたのか」
「いつも日帰りか、泊まりでも日中は企業訪問だから。会社の近くで他の学生と懇親会をした程度だよ。そうだね……今回みたいな旅行は僕も初めてだ」
「そうか!」
声を抑えつつ、密かに喜びを噛みしめる。隆俊とツカサは過去に二人で訪れたことがあると言う。それ以外にも彼らは仕事などでそれぞれ大阪に行き、旅程を考えるにも多少の知見があるようだった。沖野が時々大阪に行っているのは知っていたから比治山だけが初めてのことにはしゃぐのは少し子供っぽい気がしていた。しかし、観光となれば沖野も同じ立場なのだ。
「比治山くんは西の出身だろ。行ったことがないのは意外だな」
「京都と奈良には中学の修学旅行で行ったのだがな。兵庫にも部活動の大会で行ったことがある。だが大阪は初めてだ」
「へぇ。何だか珍しいね。大阪だけ行かないなんて」
「……何代か前の先輩方が自由行動中にドウトンボリに飛び込んだらしい。それで大阪は目的地から外されるようになったともっぱらの噂だ」
神妙に語る様子に沖野は堪え切れなかった笑い声を漏らした。
「腕白なんだなぁ」
「俺のことじゃないぞ!」
比治山と沖野の育ってきた環境はまるで違う。田舎と称して差し支えない牧歌的な地方から東京へスポーツ推薦で出て来た比治山、生まれも育ちも都内で幼少期から先端技術の英才教育を受けてきた沖野は本来なら出会うことのなかった間柄だろう。
「隆俊さんの紹介がなければ俺は今も地元の学校に通って、世の中の広さというものを知らずにいたに違いない。全く有難いことだ」
「……そうだね」
新幹線がトンネルに入った。窓から入り込んでいた昼下がりの眩い光はすっかり隠され、照明の白々しい明かりが車内を満たす。にわかに騒々しくなった走行音で乗客の会話が遠くなる。壁ばかりの車窓へ映り込む自分の顔へ沖野は呟いた。
「僕は、君の故郷を見てみたいと思うけど」
後ろから比治山がぐいと身体を乗り出してくる。
「すまん、聞こえなかった」
そうだろう、何しろ聞こえないように言ったのだ。
「ここからはしばらくトンネルの繰り返しだ。少し休んでもいいんだよ」
お返しのように顔を近付けると比治山は慌てて仰け反った。
「き、貴様はずっと本を読むのか」
「移動には慣れてる。疲れたら眠るよ」
「そうか。なら俺は先に寝かせてもらう」
公共交通機関の中でこれ以上動揺させられては堪らない。
比治山はぐっと目を閉じ、窮屈な座席で通路にはみ出さないように膝へしっかりと手を置いた。
何か暇を潰すものを持って来ていれば良かったが、そこまで考えが至らなかった。約二時間半、車窓を眺め、会話をしていればそのうち着くだろうと思っていたのだ。だが、沖野は景色が見えなくなることを知っていた。新横浜から名古屋まで停車駅もなく高速で走り抜ける新幹線の車内の静けさを知っていた。
比治山は新幹線に乗るのも初めてだった。修学旅行は貸切のバスで、実家と居候先への行き来も夜行バスだった。
東京での暮らしは地元と何もかも違っていた。人が多い。情報が多い。新しい物事ばかりだ。だのに人々はそれを平然と受け流す。
沖野の振る舞いだってそうだ。彼のように聡明で風変りな男子が地元に居たなら学年を越えて噂になっているだろうに、東京ではただの優秀な少年の一人でしかない。隆俊とツカサのような同棲関係もテレビや新聞の中の遠い世界の出来事だったが、ごく当たり前に存在して疑問も持たれない。
いつしか比治山もそれに慣れていた。騒ぐ心を落ち着かせ、何でもないことのように初めての新幹線の座席に座っている。
親元を離れ、高校生という大人の階段に足を掛けたからだろうか。それとも都市が比治山をこうしてしまったのだろうか。
分からないし、答えは出ない。
時折明るくなる視界に薄目を開けるとトンネルの合間に山間の集落が見え、懐かしい心地を感じる間もなくあっという間に過ぎ去っていった。
「……寝たかな?」
後ろの席が静かになった頃を見計らってツカサがアイマスクを外した。隆俊は乱れた髪を軽く頭を振って整える様子に目を向ける。
「お前こそ眠ってなかったのか」
「人の声があると落ち着かなくてね」
車内の離れた座席では子供連れや、友人同士の旅行者が歓談している。気になるほどの話し声ではないが、ツカサにとってそれは煩いものらしい。
「耳栓は」
「隆俊がいるのに?」
くすりと潜めた声で笑う。
彼は変わった。出会った頃は他者の声を嫌って四六時中イヤホンで世界を遮断しているような人間だったのに、今はそれを置いて耳を傾けたい対象があるのだ。今日だって彼なりに弟分に世話を焼いているようだ。
「アイス食べたいな。すごく硬いやつ」
「車内販売は無くなったぞ」
「げ、忘れてた」
グリーン車なら二次元コードから注文できるが、生憎とここは普通の指定席車両だ。こんな事もあろうかと懐に持っていたチョコレートバーを渡す。
「準備がいいね」
「どうせ昼を少ししか食わんと思った」
「言っとくけど選んだのは僕じゃないからな」
倒したままの座席を放置して身体を起こし、チョコを頬張る。
ツカサは甘いものが好きだ。本人は無自覚らしいが、隆俊が渡すと喜んで食べる。
「大阪ってしょっぱいものばかりだよね。たこ焼きとか肉まんとか。ええと、後は串カツ?」
「そうでもないらしいぞ。最近はチーズケーキやロールケーキも有名らしい」
「……君の口からケーキの話を聞くと面白いな。でもいいよ、しょっぱいので」
頭の中に収めている旅程を思い返す。
新大阪に着いたら、まずは地下鉄でホテルに移動だ。隆俊とツカサ、比治山と沖野でツインを二部屋取った。旅館などではなく全国チェーンのありふれたビジネスホテルだ。荷物を置いて新世界と呼ばれるエリアへ行き、観光タワーである通天閣へ登って近場のご当地モノで早めの夕食を済ませる。その後は道頓堀のネオンサインを見に行く少年二人を見送って大人は少しばかり酒を嗜んで帰る予定だ。
隆俊は最初、不慣れな土地の繁華街を日が暮れてから子供だけで出歩く計画に難色を示していたが、観光地である大通り以外の場所に行かないことと、必ず二人で行動して夜遅くならないことを条件に決着した。
子供たちも常に保護者に付き添われては羽を伸ばせないだろう。翌日も別行動で、沖野たちは彼の希望で郊外の企業博物館へ、隆俊たちはベイエリアの水族館へ行くつもりだ。夜には合流して四人で食事を摂るが、これは単に串カツやお好み焼きといった名物料理を食べるなら人数がいた方がいいという算段に過ぎない。
最終日は企業訪問の沖野と別れ、三人で先に帰る。
「なんか……どこでも変わりないよね。食べて見て寝るだけ?」
「俺たちは大人だからな。彼らは移動そのものが経験だ」
「隆俊、じじくさい」
ちょっとやそっとの攻撃ではびくともしない堅い脇腹をツンツンと突く。それで困った顔をするところも含めてツカサのお気に入りだ。
とはいえ実のところツカサは今回の旅行にあまり乗り気ではなかった。騒がしい場所は嫌いだ。東京に暮らす以上、隆俊との日常のデートは必然的に都会の喧騒の中になる。都内、少し足を伸ばして横浜。どこへ行っても人が多い。大阪も同じようなものだろう。
だから二人きりで旅行なら郊外の静かな旅館でゆっくりと過ごすのが定番だ。それが少年二人が来てからは隆俊の趣味で海だのキャンプだのとアウトドアの機会が増えた。
それはそれでよかった。ツカサはインドア派だが、凛々しく張り切る恋人を眺めているのは楽しい。
だが、大阪に行って楽しいだろうか。隆俊とは仕事のついでのようなもので前に行ったこともあるし、どうせなら神戸はどうだろう。距離は誤差の範囲だ。京都は観光客が多過ぎるから却下。……と提案する前に比治山少年の顔に「実に楽しみだ」の文字が見えてしまった。彼は食が好きだ。ソース文化の大阪を、きっと誰よりも楽しむだろう。神戸や京都よりも、ずっと。
愛しの隆俊を無邪気に若く青くしたような彼のことをツカサは密かに気に入っている。面白がると言い換えられるそれは恋愛感情などでは全くないのだが、ちょっとばかり優しくしてあげようという気にはなる。彼からせっかくの大阪を奪うのは可哀相だ。自分だけ留守番の選択も勿論なし。
休日に隆俊と離れて過ごすなんて有り得ない。だからついて来た。退屈で面倒で気乗りがしなくても、どこでだって隆俊の隣がいい。
ツカサは周囲をちらりと見てから二人の席を隔てる肘掛けを上げて収納した。初めにそうしておくべきだったかもしれない。何しろこの座席は隆俊にとって狭い。区切りなんか不要で、自由になった空間から腕を絡めとって引き寄せる。
「こら、外だぞ」
「誰も気にしないよ」
どうせ、普通の恋人には見えない。ツカサは今でも時々十代に間違われるくらいだ。年の離れた隆俊とは上司と部下か、親戚か、下手をすれば親子だと言われたことだってある。絡めた腕は殆ど二人の間に隠されて目立つことはない。
「やっぱり隆俊は落ち着くなぁ」
温かい体温と親しんだ香りが眠気を誘う。傾けた背もたれにツカサが身体を預けると、隆俊の腕もそちら側へ引っ張り込まれる。
隆俊の体勢はやや不安定ながら窮屈だった先程よりも余裕を持って座れるようになった。その代わりに右腕が動かせないのだが。これくらいのことは仕方ない。何しろ隆俊もツカサと過ごしたいという気持ちが常にある。大人としての建前や節度は持っていたいものだが旅の中の解放感もまた、抗いがたい。
ツカサの頭が比治山の腕にことりと傾く。アイマスクも耳栓も今の彼には不要なのだ。今朝方も時間の限りこうしていたはずなのに人波に揉まれて列車が進むように遠くなっていた。それを今、確かに感じ直す。
眠るつもりがないまま、隆俊も目を閉じた。走行音、乗客の会話、傍らのツカサの様子へ思いを巡らせ、日常と非日常の境界を享受する。
子供たちにとっても、自分たちにとっても良い旅にしよう。
それから数時間ほど経った頃である。すっかり寝入っていたツカサが身動ぎした。
「んう、おはよ」
「おはよう。まだ着かんぞ」
隆俊の言葉に違和感を覚えてツカサが腕のスマートウォッチを見ると、既に到着予定時刻は過ぎている。列車はすぐに停車出来そうな程度の徐行運転で、車窓には田畑が目立つ平地。京都や大阪の市街地と呼べそうな風景は見当たらない。
席を立ちたいらしい隆俊の腕を解放して、地図アプリを立ち上げる。GPSが指し示す位置は滋賀県、通過駅である米原を過ぎたあたりだ。
車内は些か落ち着かない様子だが混乱はない。となれば珍しいことではあるが単純な遅延だろう。デッキへ行って戻って来た隆俊に事情を尋ねる。
「新大阪駅の設備トラブルだそうだ。三十分ほど停車して復旧はしたが、どうも乗降客の混雑で遅延が拡がっているらしく、到着時刻未定の放送があった」
「……それで頭がすっきりしてるわけだ」
想定の倍以上は眠っていた計算になる。その間、隆俊は動けなかったようだから悪い事をした。後ろの少年たちは既に目を覚ましていたらしく、何事かを相談している。
「旅程は……元々かなり余裕があったよね」
「ああ。店や施設の待ち時間があるだろうと思ってな」
予定時刻などあってないようなものだ。隆俊の顔にも焦りの色はない。
遅延自体は構わないのだが……携帯端末でニュースサイトやSNSを確認し、おおよその状況を把握した。
「隆俊、京都で降りよう」
「京都で? どうしてまた」
「賛成です。これを」
座席から軽く腰を上げた沖野が見せたのは鉄道会社が配信している運行中の列車位置情報だ。新大阪駅の手前で遅延印のついた列車が数珠繋ぎになっている。
「駅はこんな感じだよ」
ニュースサイトに掲載された新大阪駅の様子は入場規制がかかっていないのが不思議なほど人で溢れ返っていた。これから更にいくつもの列車がまだそこへ停まろうとしているわけだ。
「京都のあたりは?」
「まだ大丈夫かと」
徐行運転ではあるが、列車は立ち往生せず発着している。
「この様子なら京都から在来線で大阪へ出た方が混雑に巻き込まれずに済む。所要時間は三、四十分程度。新大阪まで乗るならどう見てもそれ以上待たされるよ」
ツカサの爪がこつりと沖野の持つ端末画面を叩いた。
「ふむ……そういうことか」
問題は、無い気がする。だが何かが引っ掛かった。
「隆俊、何か考え事?」
「ああ……、いや」
車内の人々は取り乱してはいないが、皆が不安そうにしている。到着時間が分からないのだ。融通の利く自分たちと違って外せない用事がある人もいるに違いない。一介の乗客である隆俊は勿論それをどうする事も出来ないことも分かっている。
ふと、一組の乗客と目が合った。乗車時に手伝いをした親子らしき二人連れの女性だ。彼女たちは新大阪で降りると言っていたから、隆俊たちが先に京都で降りてしまっては荷物を下ろすのに難儀するだろう。
隆俊の懸念はそれだ。小声でツカサに伝える。
「それなら先に下ろしておいて、僕たちの席に荷物を置いておけばいい。予約上は新大阪まで確保されてる」
「それもそうか。いや、しかし……」
自分たちが京都駅で降りるのは混雑回避のためだ。親切心を出すなら、彼女たちにも同じ提案をした方がいい。先ほど見た写真には新大阪駅で改札から出られなくなっている乗客の様子があった。後続の列車はまだいくつもある。当分解消されることはないだろう。
だが、そのようなことを申し出て他の乗客たちにも混乱を与えないだろうか。
「予定を変更して降りる、ってだけじゃだめかな。遅延で観光先を変えるのは自然だと思うけど」
「うむ……」
隆俊の性格では気づいてしまった以上、悩むのだろう。
ツカサとしては、周囲の乗客が混乱したとしてもそれは彼ら自身の責任と判断の結果だ。だが、ここにいるのは確かな判断力を持っているとは言えない一般市民でもある。未成年同士の旅や、旅行に慣れていない老人、赤子連れの家族もいる。頭脳を他者のために使うべきだとかいう偏った教育を受けたツカサにとって彼らの脆弱さは嫌になるほど知っている。
ただの乗客である隆俊が彼らの安全まで考える必要はないのだが……職業病だ。ルールがあれば彼はそれに則って行動出来るのに無ければ良心とリスクの板挟みに陥ってしまう。ツカサの言葉や存在は隆俊個人の判断基準として機能するが……。
「君ならどうする?」
あえて沖野に投げかけた。
「……小声で、そのまま伝えましょう。あの人たちや、周囲の聞こえてしまった人がどう判断するか僕たちに責任は負えない。それに鉄道会社が正式に対応をするつもりなら京都駅に着くまでにアナウンスがあるはずだ」
「さすが、良識的な落とし所」
同じ結論を考えていた。ただ、そんな親切を口にする性格ではないのがツカサだ。
「別案としては、そうだね、僕と隆俊だけ新大阪まで乗ろうか」
「どういうことだ?」
「そのままの意味さ。比治山くんと沖野くんは京都経由で予定通り大阪観光をするなり、予定を変更して京都に行くなりすればいい。彼らだって高校生だ。自分たちで宿へ辿り着くくらいのことは出来る。僕は正直観光しなくてもいいし、隆俊と一緒ならどこに何時間いてもいい。こっちの方が隆俊の格好いいところも見られそうだし」
どうだい比治山くん? と議論に立ち入らずに黙って座っていた少年に意見を求める。
「余計なことを言わずに済んで、隆俊さんは目の前の困っている人を助けられるってことですね」
期待通りの答えにツカサは頷く。しかし沖野も比治山も気づいた。大局で見れば混雑する新大阪駅に二人の人間が増えることになる。たかが二人ではあるが、されど二人。京都で降りられる人間は京都で降りた方が、結果的に混雑は緩和される。
「分かった、四人で京都で降りよう」
隆俊は決意した。
「ツカサがあの混雑に耐えられると思えん。その状態で俺が他の人を手伝うことは無理だ」
「……そうきたか」
それは読み切れなかったな、とツカサは口元に手を当てた。緩んだ口角を隠すためだ。
沖野と比治山は相談のために前のめりになっていた背を同時にシートに沈めた。脱力とはこのことだ。隆俊は彼らにとって模範的な大人だ。だが、ツカサにはひどく過保護で甘い。
「ねぇ隆俊? 僕も京都で下ろして君だけ残るって手もあるんだよ?」
「お前が断るだろ。俺も今はプライベートのつもりなんだ」
比治山は小声で沖野へ話しかける。
「俺が残るのはどうだ」
「君ひとりで合流出来るのかい。それに観光を一番楽しみにしていたのは君だ。三人とも賛成しないよ。さっき調べた過去の事例では到着が深夜になったこともある。隆俊さんは高校生にそのリスクを認めないだろうね」
「ぐ……」
沖野は窓の外に目を向けた。先ほどより住宅が増えて少しずつ都市に近付いている気配がある。記憶ではあと一度トンネルを抜けたら京都市内に入り、しばらくすれば京都駅だ。
「思いついた親切が最良とは限らない。それに一人の手で助けられることには限りがある。全員が最適解を選ぶのは無理だ。だから結局、守る相手を選ぶしかない」
「沖野……」
比治山が見る沖野の横顔は時々とても遠い。ひとつ屋根の下に暮らして同じ食事をしていながら、途方もないところまで見通して、時に批判されている気分になる。それはツカサにも感じることだ。彼らは似た者同士で、自分がそう思うように沖野もまた比治山が隆俊と似ていると捉えてこう言うのだろう。
少しだけ、面白くない。隆俊さんと俺も、ツカサさんと沖野だって別の人間だ。
急に黙り込んだ比治山の顔を見て、沖野は何か言い過ぎたような気がした。比治山くんは隆俊さんと違ってすぐ表情に出る。あの人が感情を態度で表すのは恋人の前だけだ。比治山は誰にでも分かりやすい。
「僕らは子供だからね。保護者に任せて、気楽に行こう」
慰めになったかは分からないが、隣の男は気を取り直して頷いてくれた。そこへ、前の席から隆俊が声を掛ける。
「沖野くん、一緒に来てくれないか。ほら、俺だけで急に女性に声をかけると、ちょっとな」
「あ、はい」
席を立ち、比治山の膝を跨ごうとする。
「俺ではいかんのか」
「君だって結構威圧感が……っと、」
思った以上にしっかりしていた腿に足先が引っ掛かった。体勢を崩して、とっさに比治山の肩に手を付いてしまう。
「ごめんよ、比治山くん」
「気を付けろよ」
比治山は支えようと伸ばしかけた腕を慌てて引っ込めた。どうしてか、沖野が離れた後の方が鼓動が速い。手を付かれた場所がじんわりと温かく、そこへ掛かった重みを考えると落ち着かない。いい匂いがしたような気さえする。
彼が転び掛けて焦ったのだ。何事も無くて良かった。戻って来た時は席を立ってやろう。自分への誤魔化しを重ねて比治山は一人で何度も頷いた。
沖野と共に女性客の元へ向かった隆俊は率直に事情を話した。彼女らは少し戸惑った様子だったが、沖野が見せた新大阪駅の様子を見て同様に京都で降りる事に決め、隆俊にもう荷物を下ろすように頼んだ。
そこで沖野と親子かと問われたのは苦笑ものであったが。
「親戚です。今日は引率みたいなもので」
嘘ではないのでそう言っておく。妙な四人連れの謎が解けたのだろうか、母親と思しき女性が明らかに安堵していた。
「今日どころか。伯父さんにはいつもお世話になっています」
沖野の助け舟も有難い。彼はこんな所でよく機転が利く。制服姿の勤務中ならば警備員として一般市民に何かと頼りにされる隆俊であるが、私服ではどうにも恐れられがちなのが密かな悩みであった。やはり来てもらって正解だ。
「有難う、沖野くん」
「いえ、これくらい何でもありません」
後は京都に着くのを待っていればいいだろう。
座席に戻ると、何故か比治山の隣にツカサが座っていた。通路側にいた比治山が窓側へ追いやられた形だ。
「……ツカサ」
「退屈だったから話し相手が欲しくてね」
にんまりと笑うツカサと対照的に比治山が助けを求める視線を沖野に送る。倒されたまま放置された前の座席のせいで身も心も窮屈そうで気の毒だ。だが、沖野に新幹線の車内で子供のように騒ぐ趣味は無い。
「隆俊さん。前の席に座らせていただいてもいいですか」
「ああ。あいつのせいだ、気にするな」
促されるまま窓側へと座り、せめてもの情けで倒された座席を元に戻してやる。肘掛けが上がっている事に気付いたが、特に使う訳でもないのだからそのままにした。後ろから何やら質問攻めにされる声が聞こえるが無視しておこう。
「ねぇ、さっき何を頷いてたの?」
「何でもありません!」
「沖野くんとくっ付いてたよね? それで?」
「あれは沖野が俺を跨いだだけで……!」
隆俊も、聞こえていないフリをしておいた。
列車は通常より遅い速度ではあるが順調に走り続け、定刻よりかなり遅れて京都駅に到着した。そちら混雑も中々のものであったが、休日の東京駅と比べればさして変わりない。新大阪を目指し、一行は再び荷物を手に歩き出した。