耳のあくたも「隆俊、耳掃除してあげる」
恋人の甘さを帯びた声色の誘いに、比治山に緊張が走った。
「耳、掃除か」
「そうだよ」
聞き間違いでない証拠に慈愛の眼差しを向ける手には古式ゆかしい梵天の付いた竹製の耳かきがある。先ほどから比治山が耳を何度か触っていたのがその発想の出どころだろう。
しかし、比治山は知っている。ツカサの手先は不器用だ。コンソールを淀みなく叩く傍ら、どうにも細やかな動きは苦手のようで、何につけても力加減が甘い。レトルトパウチを開け損ねたかと思えば盛大に引き裂き、菓子の紙パッケージは正規の開け口から開いていることが難しく、字を書けばミミズが這ったような有様だ。
比治山に触れるのだって、今でこそ加減を覚えているが、初めの頃は男同士で見掛けから頑丈そうだということを差し引いても女性相手ならば乱暴と取られても仕方ない調子だった。
当然、他人の耳掃除などしたことがないだろうし、下手くそに決まっている。
俺の耳はどうなってしまうのか。
恋人を信頼したい一方で、真っ先に心に浮かんだのは心配だ。
「あー、気持ちは有難いが、ツカサに汚い場所を見せたくはない。明日にでもメディカルセンタ―で処理してくる」
いまや耳のメンテナンスも全自動だ。人の手による耳掃除とは急場しのぎのセルフケアに過ぎない。都合のいい断り文句を生み出せたのではないだろうか。
だが沖野は可愛らしい不機嫌をあらわに唇を尖らせた。
「いつも僕のあんなとこやこんなとこを見てるんだからいいじゃないか。耳ぐらいで汚いも何もあるか」
「うっ……。それとこれとは違う気がするが……」
比治山は沖野に汚いところなどないと思っている。しかしそれは言葉の綾で、彼を愛しているからだ。
沖野も同じだと言いたいことは分かる。つまるところ沖野はふれあいの延長で比治山の耳掃除をしたいと言っているのだ。
そうなれば最早覚悟を決めるしかない。
沖野が「ここへおいで」と叩く膝の上にクッションを乗せ、頭を横たえる。
「これは何?」
「重いだろう」
間に何か挟んでおけば荷重が分散される。
「必要無いよ」
沖野は手際よく比治山の頭を持ち上げるとクッションを引き抜いてしまった。
肉付きの薄い太ももに転がり、比治山は全くの無防備だ。
耳と光源の位置を調整するためにいくらか頭を動かされた後、健全と不健全の間の手付きで輪郭を撫でる。
「っ、ツカサ。やるなら真面目に……!」
ふっと吹きかけられた息に比治山は言葉を詰めた。ひとまわりも年齢が離れている頭を子供にするようによしよしと撫でられる。
「大人しくしててね」
静かに耳かきの先端が侵入してきた。比治山の危惧とは裏腹に慎重かつ的確な手付きで身体の内側の皮膚に触れ、違和感のあった場所をちょうどよく掻いていく。
「これは大物かな? カリカリしようね」
「ん……? ああ……」
必要以上に喋っては邪魔になるだろう。沖野の発言もひとりごとのようなものだし、そっとしておく。
「そうだ、このあたりに疲れが取れるツボがあるんだよ」
「待て、そこは少し、おい、くすぐったいぞ」
「ふふ。敏感だね」
湾曲した棒の先で二度三度と撫でられて思わず比治山は頭を動かさないようにしつつも身悶えた。あまり触っては危ないと判断したのか、沖野もまた真面目な耳掃除に戻る。
彼はこの行為をとても楽しんでいるようで、比治山も普段とは違う体勢で恋人を頭の上にも下にも感じ、自分のメンテナンスに取り組んでもらっているのは悪い気がしなかった。
もちろん身体維持の観点からは自動機械に任せた方が過不足ないのは分かってはいるが……毎回でも頼みたくなってしまう気持ち良さだ。心理的なケア効果なら機械と比べるべくもない。
目を閉じてもたらされるもの全てに身を委ねる。……委ねようとして、比治山は気付いた。
快適過ぎる。
「……ツカサ」
耳かき棒が出て行ったタイミングを見計らって首をひねり、さっきまで自分の耳を覗き込んでいた恋人の顔を見る。
「なんだい?」
「どこで覚えた?」
「なにがだい?」
沖野の顔には疑問ではなく戸惑いが浮かんでいた。
彼の手先は不器用で、他人に耳掃除などしたことがないはずだ。
「これは上手すぎるだろう」
「気に入ってもらえて嬉しいよ。練習したんだ」
「いくらお前の物覚えが良くとも、自分の耳と人の耳では勝手が違うはずだ」
「あー、うん、まぁそういうこともあるよね。イメトレっていうか、そういう感じ?」
「お前はさっきどこで覚えたか聞いた時に『なにが?』と言ったな。俺に何か隠しているんじゃないのか」
「う……」
過去に誰か他の親しい相手や子供にこういったことをしたことがある、という程度ならば比治山も気にはしない。対人関係が希薄だった沖野に限ってその可能性は著しく低いが、零と決めつけるのは早合点ということもあろう。
ただ、それにしては言動がおかしかった。明らかに蠱惑的だ。言葉だけならいかがわしいコンテンツを見て真似をしたと思えばいい。だが動きの方はどうだ。彼が言うようにイメージトレーニングなのか。
「俺に怒られるようなことしたのか」
「……少し、した」
「怒らないから言ってくれ」
比治山は沖野の形のいい顎を親指でなぞった。膝の上からは彼の控えめな喉仏や薄い皮膚に包まれた骨の形がよく見える。どこをとっても美しい、比治山の恋人だ。
「VRで、ちょっと……」
それ以上の詳細は話せない。なんとしても誤魔化したい。
沖野には不器用の自覚があった。それでも恋人らしいひとときを楽しむアイデアとして膝枕で耳掃除というものをやってみたかった。比治山はわりとこういったベタなものを好むから、きっと喜ぶはずだろう。となれば後は自分の習熟度の問題だ。
沖野はバーチャル美少女受肉した。もとい、女性キャラクターアバターを設定して、店員としてそういった接待が出来るバーチャルワールドにログインして実践を積んだ。何人もの人間の耳を突いて悶絶させてきた。しかし仮想空間なので実際に怪我をさせることもなく、それどころか纏った外見のお陰で「無口クールな天然ドS」として客はなぜか喜んでおり、練習台はいくらでもやってきた。
その甲斐あって、手首のひねり、力加減、押すべきツボを完璧に把握した。他人のいかがわしいやりとりを覗けたのもかなり参考になった。
しかし、自分の腕以外の感覚入出力を切って耳かき以上のサービスをしなかったとはいえ、倫理観によっては風俗店で働いたと見做されてもおかしくはない。絶対にバレたくない。
「なんだ、そんなことか」
「怒らない?」
「怒らないと言ったろう。わざわざ医療者用のプログラムを使って練習したとは恐れ入る」
「え、ああ。うん」
そんなものがあったのか、と沖野は今更知った。比治山がそう思っているのならそういうことにしておこう。
「さぁ、反対側やるよ!」
耳を上にされてしまっては表情は見えず、会話も出来ない。
比治山としては若干気になる部分はあったものの彼の練習の成果が十分なのは先程体感したし、沖野が何か隠したがっている以上、踏み込んでも良い結果になるとは思えない。知らぬが花だ。
沖野の腰に向き合うように体勢を変えさせられた比治山は暗く影になった視界の中で目を閉じた。これは、なかなか際どい位置に頭があるのではなかろうか。
妙な落ち着かなさは耳に差し入れられた棒によって繊細にかき混ぜられ、耳朶をつまむ指は優しくくすぐったい。
比治山はただ、ツカサに愛されていることだけを考えることにした。
2024.01.08