卒業式前日 王蔵王「ヘデラ」「そろそろ帰らないと」
そう呟いて王子がベッドから上半身を起こす。ベッドのスプリングが小さく鳴いた。
二月末日、日没前のやや柔らかい日差しがカーテン越しにその体躯を浮かび上がらせる。乗馬経験者だけあって王子様然とした顔立ちからは思いもよらない程、靭やかな筋肉を纏っていた。胸像よろしく生々しさと無縁のそれに、無粋な花弁が数枚散っている。それらを刻んだ張本人は残滓を惜しむように柘榴色の瞳を細めた。
「明日でその姿も見納めだな」
「きみもそうだろ。いや、昼前には跡形もなさそうだ」
制服のシャツに腕を通し「ふふっ、現着できないのが残念だよ」とボタンを留めながら軽く笑う。先刻記された深紅の花弁の真上に位置する、学生服の第二ボタンに指がかかると、蔵内が躊躇いがちに問いかける。
「……それを…貰えないだろうか……?」
土耳古石の双眸が瞠られる。二度瞬いた後、艶やかに輝いた。再び軽快な微笑を零して首肯した。ボタンを一撫でする。
「……成程、今日のキスマークが濃い理由が分かったよ。きみは結構ロマンチストなんだね」
涙もろいから、当然と言えば当然か。
そう胸中で独り言ちると、漸くベッドの上で胡坐をかく恋人の傍らに座る。ぎしり、とスプリングが呻く。
「いいけど…今かい?」
「いや、明日でいい。卒業式で咎められるのもなんだろう。予約だけさせてくれ」
「王子了解。……でも、心臓はあげられないよ?」
つきん。
妖艶なまでに瞳を蕩けさせておきながら、残酷な言葉を告げる。蔵内の心臓に氷の刃が突き立てられた。
制服の第二ボタンは「心臓に一番近い」故に「その人の一番大切な人になりたい」を意味すると言われている。中学校の卒業式で多数の相手から求められた後、調べて知ったことだった。王子も当然知っている、という返答に蔵内の暗澹たる思いが言葉となって零れ落ちた。
「………俺は、ネクタイも心臓も王子に貰って欲しい」
制服姿の王子の腰を裸の両腕で閉じ込める。哀願するように額を肩口に擦り付ける。ふるふると海老茶色の毛髪が揺れた。
少しでも傍に居たいし、献上したい。王子が居なければ俺の心臓は不要だから。
ふぅ、と柔らかな吐息が落とされる。
「知らないのかい?ネクタイを贈るということは”相手を束縛したい"を意味することを」
びくり。
瞬時に強張った腕に、更に力を込めてしまう。掠れた声音が、苦く響く。
「あぁ、知らなかった。……でも、そうだな。お前に受け入れられた今、俺は少しでもお前の近くに居たい。いつでも隣に居たい。お前の世界を俺で埋め尽くしたい。……それを、束縛と言うのだろう」
王子に指摘されて自嘲的に頷く。下唇を知らず噛みしめた。
こんな自分は知らなかった。
知らなかったんだ。
共に弓場さんの下を離れ、カシオや羽矢さんを迎えて王子隊として過ごしていた時も。
あんなに充実していた日々だったのに。
こんな自分なんて知りたくなかった。
知りたくなかったんだ。
知りたくなんて、なかったんだよ。王子。
「……王子の心臓になりたい」
「それではぼくはきみに触れられない」
顔を上げられ、音もなく零れる涙をそっと拭われる。
「きみに触れたときの歓びを知らなかった頃には戻りたくない」
「……王子と一つになりたい」
「それではぼくは独りきりだ」
半身を捻り、強く抱きしめられる。
「隙間なく重なる心地良さを忘れたくない」
温もりに満ちた両手で頬を包まれる。思わず頬をすり寄せる。
「ぼくは"ぼくときみ"で共に在りたい」
額にひとつ。
「ぼくはきみを誇りに思うし、きみにもそう思ってもらいたい」
瞼にひとつ。
「こんな我儘なぼくだけど、ぼくはぼくのままで、きみと居たい」
耳朶にひとつ。
「きみはきみのままで、ぼくと居て欲しい」
唇にひとつ。口づけを贈られる。
深められたそれを、言われた通り、隙間なく重ねて蹂躙する。王子の背中が僅かに跳ねて、腰が震えた。
光る糸と共にやがて離れた唇に代わって、互いの額が合わされる。さらり、と黄櫨色と海老茶色の前髪が重なった。
「きみが断ることはない、とわかっていてもきみの口から答えを訊きたい」
土耳古石が柘榴石を射抜く。
「ねえ言って、"ぼくの為に、最期まで生きる"って」
こちらの願いを全否定しておいて、自分の我を押し通す。それが王子の王子たる所以だと、再確認する。
ああ、これ以上なく清澄で蠱惑的な声音で紡がれる言葉が、ひとつひとつ、俺を絡め取る。
お前こそ、俺の首にタイを巻き付けて締め上げているではないか。
酸欠になる程の目眩。酩酊とも言える。
海よりも深い、その碧さに溺れてしまう。
ほろほろと溢れる涙が止まるのを待って、王子の両肩を抱く。
「わかった。”王子の為に、最期まで生きる”。俺の為に、最期まで生きるよ」
刹那、瞠目した後、芍薬の蕾が綻ぶように王子が微笑んだ。斜陽を背負った顔は手折りたくなる程、美しかった。
心臓はあげられない。
きみを守り抜くために。
一番に希ったそれは、蔵内の鼓膜には届けられず泡沫の如く消えた。