クリスマス2023蔵王「Last Christmas and... 」 防衛任務後、ボーダー本部を後にした蔵内と王子は蓮乃辺駅前に赴いていた。隣接する三門市における三年半前の大規模侵攻で一時期規模を縮小していたクリスマスイルミネーションが、漸く以前と同レベルに戻ったからである。駅前のロータリーには五メートルに及ぶ現代アーティストによるクリスマスツリーが据えられ、上品且つ華やかに彩られていた。そこから放射線状に広がる幾つかの大通りにはテイストの異なる電飾が施されていて、訪れた人々の目と心を楽しませている。更に、クリスマスソングがオルゴール版にアレンジされ、心地良い調べが街灯に設置されたスピーカーから控え目に降り注ぐ。
ある柔和なメロディーがオルゴールで奏でられると、オブジェを撮影していた蔵内の脳内に伸びやかな歌声が想起された。そして、その歌詞も。
Last Christmas I gave you my heart
暖色のライトが装飾された並木道で、蔵内は愛用の一眼レフを構えるのを止めた。二メートル先を歩きつつ通行人を観察していた王子が振り返る。
視線の先には静かに涙を浮べる一人の男が佇んでいた。
「ふふっ。どうしたんだい、クラウチ?景色に感動したの?」
軽く首を振ると、涙の理由を素直に答える。
「昨年のことを思い出したんだ」
王子が僅かに瞠目した。長い睫毛に縁どられた目を細める。
「……そっか、ごめんね」
ふ、と呼気を零した。
ふわり。体重を感じさせずに縁石に乗る。雑多で幸福に満ちた周囲は、そんな子供じみた行為を認識していない。それぞれの世界こそが全てであるからである。碧く輝く双眸でそれを確認すると、寒気で僅かに色褪せた唇が綻んだ。
「それから……ありがとう」
瞼をキスで拭う。さらり、と流れた前髪にもキスを落とす。
逆光になった王子の顔が離れる。頬に添えられた王子の左手を取り、柘榴石が土耳古石を捉えた。徐に瞼を伏せ厚めの唇を寄せる。手の甲に一度、手首には長めに一度。
「俺は、今年も……お前に捧げるよ」
再度、視線を絡ませる。
ふわり。丁字茶色の革靴が歩道に舞い戻る。仰角から俯角へと変化した眼差しに柘榴石が和んだ。クリスマス寒波の影響で、風は殆どないが冷え込む時間である。王子の鼻梁は頬や指先と同じくらい薄紅に染まっていて、白皙の肌によく映えていた。
昨春、高校入学を機にボーダーに入隊した二人がB級に上がるのは早かった。その頃「尖っていた」王子と「品行方正」の代名詞扱いされていた蔵内は、正反対に見えて実は類似点も多かった。一言でいえば「馬が合った」。故にC級時代から共に在ることも頻繁であった。
「ぼく、明日から弓場隊所属になったんだ」
六月のある日、蔵内の対面に荒々しく座った王子が不承不承を声音に、意趣返しを虹彩に宿らせて吐き捨てた。僅かに幼さの残る頬が上気している。それは彼らがB級に上がって一週間後のことだった。当然ながら個人ランク戦でのポイント蓄積がメインであり隊編成などはこれから、という時期である。
ラウンジで冷たい緑茶を飲みつつ王子を待っていた蔵内は、気圧されつつも次期生徒会長が確実視されている弓場のデータを脳内で展開する。他人にも厳しいが、自分には更に厳しい高邁な精神を持つ弓場は、六頴館生徒一同に非常に慕われている。ボーダー内では殆ど会わなかったが、学内では現副会長である弓場と一年生ながら前期生徒会の末席に加わっている蔵内は交流があったので為人は充分理解していた。だから、知らず言葉が溢れた。
「なら、俺も弓場隊に入れてもらうよ」
「え……っ?」
不意を突かれ、王子が双眸と口を丸く開く。
「……あ」
その反応で、自分の発語に蔵内は気付き軽く口を押えた。
でも、後悔はしていない。
ただでさえ学校が違うのに、ボーダーでも別隊となれば一緒にいられる時間がめっきり減ってしまう。
何より単純に、王子と話すのは楽しい。その機会が減るのは好ましくなかった。
弓場先輩は誠意を以て筋を通せば、きちんと応じてくれる筈だ。その上で断られたら、自分が精進して認めて貰えればいいだけの話であった。
半分ほど残っていた緑茶を飲み干す。かこん、と紙コップが置かれた。王子の意識が戻る。二度、瞬きをした。
「……クラウチ、本気かい?」
「無論だ。こんな大事なことで冗談なんか言わないさ」
「いや、でも、きみはまだ焦って入隊しなくてもいいだろう?ソロランク戦しながら情報収集してからでも遅くないよ」
「焦ってないから大丈夫だ。心配してくれてありがとう。早速、弓場先輩のところに行ってくるよ。どこにいるか知ってるか?」
「あ、うん、多分まだ弓場隊の作戦室にいると思う」
「じゃあまた後でな」
「え、うん。後で」
着席した時の勢いを削がれた王子のペースが戻る前に、蔵内の姿はラウンジから消えていた。王子の背中が椅子の背面をずるずる下がる。
「……やっぱりおもしろいな、クラウチは」
ほぅ、と吐息を漏らしてから黄櫨色の前髪を掻き上げた王子の独り言は、誰の耳にも届かなかった。
弓場は作戦室では常に立っている。長身の二人が不動で直面している風景は、傍から見れば一対一だと捉えられただろう。
蔵内は「友人である王子が弓場隊所属になったから、自分も弓場隊に入りたい。実力不足なのは承知の上だが、これから補うので見守ってほしい」と簡潔に告げ、丁寧に一礼した。
「仲間か……。分かった、入隊を許可する。但し、一つだけ条件がある」
軽く首肯した弓場が組んでいた両腕を解き、右手の人差し指を立てた。蔵内が固唾を吞む。
「条件とは?」
「学校とボーダーは違う。だから、ここでは先輩と呼ぶな」
にっ、と口角を上げる弓場。詰めていた呼気を緩やかに落とすと、蔵内の眦にうっすらと水膜が張る。
「はい、弓場さん。了解です」
「流石、飲み込みが早ェじゃねえか。これから宜しく頼む」
六頴館の制服に身を包んだ弓場の、漆黒の双眸が優しく煌めいた。右手が差し出される。触れるように差し出した右手を力強く握られた。それが、とても心強く感じられた。
時を前後して入隊した同じ六頴館の生徒である神田と共に、弓場隊の隊服に身を包むことになった。
その僅か半年後、王子は弓場隊脱退と自隊の設立を宣言する。
一見、翌日の天気を占うような凪いだ口調で。
弓場隊作戦室で告げた直後、蔵内と神田は激しく動揺し激高した。王子に詰め寄る。藤丸は腰に両手を据え、弓場と王子に凛とした視線を送る。
弓場はいつもの直立不動の姿勢で無言を貫いている。黒曜石が土耳古石を射抜く。焦点が発火するかと思われた。二人の様子に気付いた蔵内と神田が黙って一歩ずつ後退した。
ふぅ、と弓場が息を吐く。王子の唇が引き結ばれた。
「決めたんだな」
「はい」
「なら、俺から言うことはない。お前の要望通り四月のランク戦が終われば別の道だ。気張れよ」
「はい。ありがとうございます」
王子が最敬礼する。背筋が真っ直ぐ伸びた、美しい礼だった。
「だが、それまでは今まで通りビシッと締めていくからな。覚悟しておけ」
「ふふっ、お手柔らかに願いますよ」
「んなこと出来ねェのは、お前が一番よく分かってンだろうが」
弓場の大きな掌が王子の頭を掻き混ぜた。土耳古石が前髪に隠される。顔を上げた時には、既にいつもの王子だった。
「あはは、それもそうですね。それでは、今日はこれで失礼します」
「おう」
隊室のドアが閉まる。蔵内と神田が呪縛から解放されたように王子を追おうとした。弓場の静かな声が制する。
「待て、お前ら。王子は今、トリオン体じゃねェ。……生身だ」
「……っ!」
「…………神田、了解」
ぺしん。藤丸が後輩の背中を両手でそれぞれ叩いた。蔵内が肩を震わせる。そこに神田の右手が置かれ、額が乗せられた。
それが、十二月のランク戦最終日の出来事である。三門市に初雪が降る、寒さの厳しい一日だった。
充実した弓場隊で皆と共に在ろうという想いは踏みにじられたが、やっぱり王子に並び立ち、彼の世界と共に在りたい。
王子一彰を、諦めきれない。
三日三晩、自問して出た答えがこれであった。
走馬灯のように二人の八ヶ月が脳裏を過る。
それからは自分をすべて曝け出した。ぶつかり合い、迷走し、神田をはじめ周囲を巻き込んだ。
三門市に桜吹雪が舞う頃、漸く事態が落ち着いた。弓場は、最後まで毅然と見守ってくれていた。
そして、蔵内は高校二年生になった。
辛いこともあった。だけど、それは過去のことだ。
今、俺を映す瞳はこんなにも優しい。
これからも、一番近くにいられますように。
「メリークリスマス、王子」
想いを載せて、シャッターを切る。
一年前とよく似た粉雪が舞い始める。この上なく甘やかに微笑む王子の一瞬が収められた。