王子誕2024イコプリ「Everything is OK」 警戒区域からほど近い1LDKの単身者用マンションには、三門市立大学に通う生駒と水上、そして隠岐が隣同士で暮らしている。
年の瀬が近づいてきた今日、生駒宅の玄関には住人の他に二足分、持ち主の異なる靴が並ぶ。一足は少しだけ踵のすり減った代赭色のスニーカー、もう一足は手入れの行き届いた暗褐色の革靴だった。個室のローテーブルに置かれたノートパソコンの画面を生駒・水上・蔵内が取り巻いている。
「王子のイメージはやっぱり青や思うんやけど、そんな色のケーキある?」
生駒はブラインドタッチが不得手というより雨垂れ打ちに近いため、入力担当は副官である水上である。スクエア型ハーフリムタイプのブルーライトカットグラスをかけ、キーワードを入力した。
晴天を思わせるスポンジの断面が異なる六色と生クリームで彩られた、可愛らしい画像に成人男性の驚愕の声が重なった。
「なにこれ、虹色のケーキやん!ヤバない?」
「これは凄い」
「せやけど、王子っぽくはない気がするんは俺だけやろか?アイツのキラキラって、もっとこう……つやつやした感じな気ぃする」
「確かに。甘いというより瑞々しい、の方が近いな」
「分かるわ。さっきチェックしたワインに合わせるなら何がええんか、水上?」
「すんませんイコさん。俺、ワインはよう分かれへんのですわ。蔵っち、分かる?」
「そうだな……。食後用の貴腐ワインの方なら、チーズケーキ辺りが妥当だろうな」
「おお……!流石やなぁ!助かるわぁ……」
水上が検索欄に「チーズケーキ 青」と入力する。画面一杯に広がる検索結果の一つに、三人の視線が集まった。
「あ」
「これやん」
「間違いないな」
ぷはっ。同時に噴き出す。カーソルを合わせ、クリックした。
三週間後、場所は同じく生駒の部屋。但し、客人が異なる。唐茶色の内羽根プレーントゥを揃えた後、勝手知ったる恋人の家のリビングでロイヤルブルーのピーコートと濃紺のスヌードを外してから洗面所で手を洗った王子がダイニングテーブルの椅子に腰かけた。
「それでイコさん。ぼくのリクエスト、どうやって応えてくれたの?」
最高のタイミングで料理を並べた生駒は乾杯直前に問われ、一連の流れをそのまま王子に話した。慣れない手つきで生駒が注いだワイン。そのグラスの中の気泡が絶え間なく上昇し、葡萄の香りが鼻腔を擽る。
王子の眉間に皺が刻まれ、半眼になる。外気と同温の声音が全方位に響いた。テーブルに並んだばかりの夕食が、食される前に冷え切りそうだ。
「ふーん、イコさん、ぼくのことなのに他の人に訊くんだ……。ぼくのこと、一番分かってくれている訳じゃないんだ……。そっか……」
それを聞いて生駒が総毛立つ。背筋がぴん、と伸びた。
「すまん!オージにぎょうさん喜んで貰いたくて、かしこな二人を頼ってもうた」
ぱんっ。両手を合わせ首を垂れる生駒の必死さに、王子の眦が下がる。
「ふふっ、もういいよ。確かにあの二人はぼくたち以上にぼくたちのこと分かってくれているものね」
蔵内と水上。
二人とも有能な副官であり、王子と生駒の近しい友人であり、理解者である。
彼らは自分自身より自分たち隊長を優先するきらいはあるが、それでも互いを選んでいる。
それがとても、嬉しい。
ストイックで献身的な二人だからこそ、倖せになってもらいたい。
告げるつもりはないが、掛け値なしの本音だった。
勿論、生駒に他意がないことは充分承知していた。だからこれはパフォーマンスでもある。生駒が自分のことで心を揺さぶれるのは、どんな方向であろうと嬉しい。知らず微笑んでしまう。王子の表情の変化に気付いた生駒の情緒も復活した。小さく吐息を落とすと、声を張る。
「そうなんや。俺もオージのことは色々分かっとるつもりやけど、やっぱし知らへんこともあるか思てな。ほんまに助かったで。水上と蔵っちの太鼓判貰うたヤツや、きっとオージも気に入ってくれる思う」
「そっか、ぼくも二人にお礼を言っておくね」
「ん。そうしてくれると助かる。おおきにな」
生駒が右腕を曲げ、上腕を左手でぽんぽんと叩く。
「来年はケーキも俺が作ったるさかい、待っとってな。お菓子作りはそない得意とちがうけど、頑張んで」
「うん。楽しみにしてる。そうだ、下調べも兼ねて今度カフェに行こう」
「ははっ、ええよ。オージはせっかちさんやな」
「え、ダメかな?」
「そんなことあらへんで。でも、俺はおしゃれなカフェに行ったらあかんとちがうか?」
「大丈夫、きっと楽しいから。行こうよ、ね?」
「おん」
きっと、全部、大丈夫。
二人なら。
「それじゃあ、イコさんの手料理をいただこうか」
「せやな。まだ冷めてへんとええのやけど」
「ごめんね、イコさん」
「ええって。俺が悪かったんやし」
「そんなことないよ。ぼくが悪かったんだ」
「……ん?」
二人同時に放った台詞に笑いが込み上げる。破顔した二人は「いただきます」と合掌してからグラスを手に取った。
「オージ、誕生日おめでとうさん」
「ありがとう」
未だ細やかな気泡が上るグラスを翳し、口元に運ぶ。
「どない?初めてだけど辛口大丈夫?」
「うん、美味しいねこれ。辛口だけど泡がまろやかにしてくれるし、果実味もあって飲みやすい。それに泡も細かくて綺麗だね」
「せやろ?実はマンガで紹介されたやつなんやけど、美味しそうやったしデザート用だけではなしに食事用にもワインがあった方がええか思てな」
「そうなの?ぼくも読んでみようかな」
老竹色のボトルに蜜柑色のラベルが貼られたボトルを手にする。ピノビアンコとシャルドネが同率で用いられ、爽やかさと甘やかさのバランスが取れている。グラスを空けると、生駒が再度注いでくれた。
王子の二十歳の誕生日である今夜の食事は、茄子とベーコンのパスタ並びにフレンチドレッシングのサラダ。約二年前の遠征選抜試験初日のメニューとなっている。それは、王子本人のリクエストに因るものだ。
「初めて食べたイコさんの手料理だからね。凄く美味しかったから、また食べたかったんだ」
「えっ……、そんなに気に入ってくれとったなんて、知らへんかった。同しメニューだと飽きられるかなと思うとったわ」
「それで毎回違う料理だったんだね。どれも美味しかったよ。今日も、あの時のメニューにオニオングラタンスープが加わって、更に美味しそうだ」
「おん。やっぱりオージが美味しいって笑てくれると嬉しいで、気合入れたんよ」
表情筋に依らずとも、翡翠色の瞳だけで厚意が十二分に染み渡る。王子は一度瞼を落としてから、徐に上げた。小首を傾げると、さらり、と長めの前髪が揺れる。
「ふふっ、ありがと」
その気持ちが……一番のプレゼントだよ。
「それに、今回はお酒解禁やからな。料理とデザート、両方に合うワインも用意してあんで。こっちは水上と蔵っちからのプレゼントや」
土耳古石が二度、瞬いた。軽く嘆息する。
「あの二人は、ぼくらに甘いなぁ……」
「ええ子やな、二人とも」
「うん。本当に」
生駒の脳裏に蘇る、三週間前。ワインを注文する際に水上が耳打ちしてきた一言。
「当日俺らは蔵っちの家におるんで、お気兼ねなく」
「!!」
「 ん゙ん゙ っ!」
瞠目する生駒と喉を鳴らす蔵内。蔵内が水上の左肩をぺしん、と叩いた。
「じゃじゃーん!」
実年齢より遥かにレトロな効果音を生駒が口にする。それと同時に冷蔵庫からいそいそと取り出した箱をそっとテーブルに置いた。白と浅葱が爽やかなデザインの箱には瑠璃色・新橋色・乳白色の三層に分かれたケーキが描かれている。中には直径十二センチ、高さ四センチ程のレアチーズケーキが入っていた。
「うわぁ、綺麗だね。海みたいだ……!」
「せやろ?綺麗なオージに綺麗なケーキ、ぴったりやん?」
少しだけ鼻息を荒くして厚い胸を反らす。その一方で、湯で温めてから拭いた包丁で慎重に切り分けた。小皿に載せ、王子の前に提供する。再度、冷蔵庫から取り出したものは、小ぶりで細身のワイン。明るい黄金色のボトルに、白と金を主とした釣鐘型のラベルが存在を主張する。
「こっちのは、ええと……せや、『貴腐ワイン』っちゅうやつや。『貴族サマ=オージ』やから、これしかあらへん思てな。最初に決めたんや」
告げながら新しいグラスに注ぐ。きらきらと琥珀色に輝き、凝縮した葡萄だけではなく杏やライチのような香りが弾ける。改めて「いただきます」と声を揃えてから、グラスを傾けた。
「これも美味しいね!とても甘いけどくどくない。蜂蜜みたいなのに爽やかだ。楽しい!」
稚く唇を綻ばせ声を弾ませる王子を眺める生駒は、満足げに頷いた。あっという間に飲み干した王子のグラスを満たしてやる。
「気に入ってくれたみたいで良かったわぁ。ほら、ケーキもおあがり」
「うん」
ケーキフォークを入れると、天面のジュレが海面のように煌めいた。その下はムース同様の柔らかさで一気に底まで切断できる。ぱくり、と頬張った。
「!」
ジュレは甘いラムネであり、真ん中は軽やかなフロマージュ、最下層は更に塩味も漂う。真夏の海岸が二人の脳裏に描かれる。それをワインがフォローしつつもリセットして、食後とは思えない速度で二人は完食した。
「ごちそうさまでした。美味しかったよ、ありがとう」
ほぅ、と息を吐く。王子の頬が珊瑚色に染まり、瞳の輝きはまろやかになっている。生駒の口の端が二ミリ上がった。
「よろしゅうおあがりやす。俺は洗い物するから、オージはむこうで休んどき」
「ぼくも手伝うよ」
「あかん。今日は誕生日なんやから、ゆっくりして欲しいんや。お手伝いはまた今度頼むわ。ほら、初めての酒やし水飲んどき」
「はぁい、おーじりょーかい」
いつもよりは体幹が定まらない歩調で、隣室の生駒のベッド脇に腰を下ろして凭れた。貰ったペットボトルのキャップを捻る。数口飲んでキャップを閉めた。
もう、イコさんは可愛いなぁ……。
ふわふわとぽかぽかが身体に満ちる。
これは、酔っているからだけではない。
生駒が王子の為に選んだ物が、王子をどう捉えているかと同義だと考えているからだ。
つまり、『きらきらぴかぴか。綺麗で甘くて爽やかで、夢中になってしまう』ということなのだろう。
こんな風に想われて、擽ったい。
でも、だからこそ。
ぼくは隊長としてではなく、ただの『王子一彰』として甘えることができる。
ぼく本人はそんな『綺麗な人』ではなくても、そう思って貰えるならそうでありたい。
だって、そんなイコさんこそが『綺麗な人』なのだから。
「お待ちどうさん。王子お風呂おあがりや」
食器洗いと入浴を手早く終えた生駒が、ベッドの側面を背にスマホでチェスアプリを開いていた王子の隣に座る。王子が軽く首肯してアプリを閉じた。
「はい、イコさん。どうぞ」
スマホをバッグにしまった王子は両手で包んだものを生駒の眼前で開花させる。ラッピングを解くと金赤と濡羽色を主とした箱が現れた。
「ありがとうさん。なんや?」
「ぼくの香水と同じメーカーの新作だけど、イコさんに合うと思って。今日のお礼も兼ねて」
破らないように慎重に箱を開ける。無色の直方体に同色の四角錐台を逆さにした蓋がついていて、外箱と同じデザインの丸いラベルが貼ってある。生駒が様々な角度から瓶を覗き込むと紅緋色の液体に細波が立った。
「えっ、ええのん?俺、無香料の制汗スプレーしか使うたらあかん顔しとるやん?」
「そんなことないよ。ね、つけてあげるから」
生駒の手を取り右手首にワンプッシュした。それを、反対の手首に一度つける。最後に首筋にも、とん、と当てた。ふわり、と清涼感と柑橘類と黒胡椒が混在した不思議な香りがした。だが、生駒にはその香りに覚えがあった。
「……カレーやん!え、いや、全部とちゃうけど、カレーやないこれ?」
刹那瞠目した後、土耳古石が輝いた。桜色の唇が綻ぶ。
「ふふっ、やっぱりイコさんはおもしろいね。そう、カレーにも入っているカルダモンの香りだよ。でもカレーはこんなに甘く香らないだろう?」
「あ、確かに。やってもうたな」
そう言うと、ほんのり生乾きの濡羽色の髪をかいた。地中海を彷彿させる瞳が和む。
「つけたての香りが混ざると分からなくなるから、今日はイコさんのだけつけるね」
「おん。オージのええ香りって、香水のお陰もあるんやな。俺ずっとオージそのものが甘いんや思うとったで」
王子自身は、大学入学を機に香水をつけるようになった。しかし、自分のメンタルの為なので毎日つける訳ではなく、複数所持していることもあり生駒が香水そのものに気付くことはなかった。
「あはは、ありがと。じゃあ今日は、『ぼくそのもの』を感じてね」
浴室に消える前に投げかけられた、濡れた土耳古石の意図を正しく把握する。
「……生駒了解」
翡翠の奥に、烈火が灯った。
王子が戻る頃、準備万端のベッドにはカルダモンの粒子がすっかり馴染んでいた。
紅緋色の香りを纏った生駒からは、猛々しさと優しさがより強く感じられた。
王子に咲き誇る花弁と生駒の背中についた掻破痕や肩口の咬傷の多さが、それらを雄弁に物語っている。大判のタオルケットに包まった身体から役目を果たしたそれを生駒が優しく剝いてやる。むわり、と劣情の残滓が立ち昇った。
清潔なシーツの波に沈み、漸く呼吸の整った王子がぽつりと呟く。掠れているので囁き程度の音量だが、生駒の鼓膜は正確に拾った。
「……やっぱり、つけないで」
三つ目のゴムの処理を終えた生駒が傍らに横たわり、存在を忘れ去られベッド下に蹴落とされていた掛け布団を肩まで上げてやってから視線を合わせた。
「なんでや?折角オージが選んでくれたのに。いつもつけていたいんや」
「それは、嬉しいんだけど……」
「ん……?」
生駒の厚い掌が、朱鷺色に染まった王子の頬を撫でる。碧い双眸がうっとりと細められた。
だが、桜色の唇から零れた言葉には、ほろ苦さが滲んでいた。
「みんながイコさんの良さに気付いてしまうから、やだ。ぼくの……ぼくだけのイコさんなのに」
違う。それは分かってる。
イコさんはイコさんだけのものだし、みんなの真ん中にいるのがよく似合ってる。
お日様のような人だから。
でも、ぼく以外の人がこの人のこの瞳を、この息を、この匂いを知ることなんて許せない。許さない。
王子の虹彩が鮮烈に燃え上がる。それを受けた翡翠が穏やかに煌めいた。柔らかく乱れた黄櫨色の髪をゆったりと手櫛で梳く。
「ん、分かった。オージといるときだけ、つけるな」
ふわり、とミドルからラストノートへの移ろいが王子の鼻梁を掠めた。それはまったりと甘やかに寄り添ってくれる。
「……ありがと、イコさん」
大好きだよ。
続く言葉は生駒の鼓膜ではなく、唇に直接届けられた。