風鈴 五月に季節外れの猛暑が訪れた。連日三十度を超える気温に、ニュースで熱中症が増えているという警鐘が鳴らされて、芹沢が勤める霊とか相談所にも茂夫とトメからの要望もあって、早めの冷房を導入することになった。
日中は冷房のある場所で過ごせると言っても、通勤途中は日差しに焼かれることになる。ビルに入って階段を上がり、霊とか相談所の玄関に到着する頃にはインナーが背中に張り付き、朝方にシャワーを浴びて出たのにも関わらず汗がこめかみを伝っていた。
「おはようございます」
扉を開けると、ぬるい風が肌にあたり、ちりんと涼しげな音が鳴る。音の元を辿ると内扉の上に吊るされた風鈴が目に入った。
「これどうしたんですか?」
昨日の夕方、上がったときにはなかったはずだ。質問を投げた霊幻は、玄関からすぐの場所にある客用のソファで、ぬるい冷房の下で団扇を扇いでいた。「あー」と気だるそうに顔を向けられると、彼の口から文句が出てくる前に芹沢は扉を閉めた。
「夜に来た常連さんがくれたんだよ。最近暑いから気持ちだけでもって」
「確かに、梅雨の前に夏が来てますもんねぇ」
鞄を自分のデスクの横に掛けて準備をする間も、霊幻は少しでも冷房の風を浴びれる場所に身体を移動させている。
彼のデスクは真後ろに窓があるので、直射日光が当たって地獄のような暑さになる。少しでも涼みたい気持ちも分からなくはなかった。
それでも始業時間を迎えて予約していた客がやってくる頃には、ジャケットを羽織り相談所の所長然とした姿に変わる。それを見て芹沢はすごいなぁといつも感心してしまう。
風鈴はただ涼しげな音を奏でるだけではなかった。扉が開くたびに、客からも漏れなく反応があったのだ。会話が持つという意味でもありがたく、お茶を出すまでの待ち時間に何度か助けられた。今まで特別関心を払うこともなかったが、季節ものは会話を円滑にするありがたいものであると芹沢は認識を改めた。
客足がぱたりと途絶える昼下がりになって、霊幻は遅めの昼食を取りに外に出た。芹沢は持ってきた弁当を食べていると、ちりん、と音が鳴った。すでに馴染み始めた涼やかな音に、口の中に入っていたものを慌てて飲み込んで顔を上げる。
「っすみません、所長は席を外しており……」
途中で言葉が止まったのは、風鈴が鳴った扉が開いていなかったからだ。探しても人の姿は見当たらず、首を傾げた。冷房の風のせいだろうか。今まで鳴ったことはなかったのに、理由を探し始めるとどうしても無理やり辻褄を合わせようとしてしまう。
ふとソファが気になって視線を移すと、微かな違和感があった。目を凝らすと薄く透けた老人が座っているのが見えた。古ぼけたシャツとスラックス姿の男性のようだった。表情も乏しく、芹沢にはどこにでもいる浮遊霊にしか見えなかった。特になにかを訴えたり、なにをするでもなくただその場所にいるだけで、無視をしていても問題ないように思えた。だが、と迷う。そのうちいなくなると分かっていても、訪れた以上は客として対応するべきではないだろうか。依頼をされても困るが、最低限の応対ぐらいはしておいたほうが良いかもしれない。
わずかな逡巡の末に、芹沢は立ち上がって冷蔵庫に向かい、ペットボトルを取り出す。夏日になってから棚卸したガラスの湯呑みに、麦茶を注いで出すのが主流になっていた。浮遊霊の座った位置の手前に茶托に乗せた湯呑みを置くと、わずかにお辞儀をしたように見えて、ほっと胸を撫で下ろす。そのまま黙って離れて定位置に戻り、芹沢は再び弁当に手をつけた。
「ただいまー。あれ、お客が来たのか?」
次に風鈴が鳴り響いたときには、扉が開く音と霊幻の声が響いた。食事を終えて、訪れた微睡が一気に覚醒に傾いていく。慌てて立ち上がると腿にデスクがぶつかり、大きな音が響いた。
「いたっ! そうじゃないんですが、えっと……すみません、片付けますね」
咄嗟にうまく返せずにいると、大丈夫か?と言わんばかりの眼差しが向けられて、芹沢の顔が熱くなる。
ソファにはすでに浮遊霊の姿はなく、湯呑みの中身は当然ながら減っていなかった。
それからたまに、ちりんと涼しげな音だけが響くことがあった。その度に芹沢は席を立ち上がって、お茶を出している。