かなわない人 芹沢にとって世界は分からないことだらけだ。
まず普通というものが分からない。辞書を引けば言葉の意味は分かる。そもそもありふれているものも、広く一般に通じているものというのが一体なんなのか学習する機会がなかったために、何が普通で何が普通じゃないのかを判断する基準がない状態なのだ。
爪にいたときはそういったことを考えなくて良かった。全員が普通じゃなかったから、普通を知らなくても支障がなかったのだ。
しかし霊とか相談所では支障だらけだ。最初の数ヶ月は霊幻の言われるがままに動いていた。彼は言語化の達人だった。人の行動や気持ちについて、打てば響くように聞いたら芹沢が理解出来るように言葉にしてくれる。
芹沢の普通と普通じゃない基準は、霊幻の言葉になった。お陰で自分の半径数百メートル程度の社会の見方が構築された。霊幻がいなければそれは不可能だったし、今でも感謝している。
だが、何事にも例外もある。
付き合い始めてからというもの、霊幻は自分の気持ちについてはなかなか教えてくれなかった。
最初の頃はそれでも良かった。人に好きになってもらえたということに対してかなり浮かれていたし、自分も彼を好きになった。好きは七難を隠してくれる。あばたもえくぼとはよく言ったもので、困ったら気持ちに任せて抱き締めたりキスしたりすれば大体のことはどうでも良くなった。
霊幻は芹沢を好きで、芹沢は霊幻を好きで完結できる世界は、それはもう幸せだった。自他の境界もぐちゃぐちゃになって、二人だけでいる間は引きこもっていたときの柔らかい繭の中のような居心地の良さあった。
だが、社会人の恋愛というのは地続きの生活の上に乗っているものだ。恋愛以外でも日々の出来事は感情に作用するし、相手を自分の一部のように感じることにも弊害はあって、いろいろなコミュニケーションが疎かになっていき、些細なことで行き違いを起こす。
特に霊幻という人間は誰かを自分の一部だと認識すると、言葉を省略する節があった。表情や態度は分かりやすいが、言うなれば赤ん坊のようなものだ。泣いているだけじゃ何をして欲しいのか分からないので、手当たり次第試すことになる。だが、芹沢は何を試していいのかが分からない。
それが早いうちに当たれば良いが、外し続ければ大きなストレスになる。
芹沢と霊幻も、世のカップルの当たり前をなぞるようにして、三ヶ月の壁にぶち当たることになった。
「霊幻さんが言葉で教えてくれないと、俺は分からないです」
「言わなくても推量するのが大事なんだろうが。お前国語の成績いいんだろ?」
芹沢が夜間学校を終えて霊幻の家に向かった。日中の依頼が多くて疲れてはいたけれど、週に何度か決めたデートを疎かにはしたくない。家に到着してシャワーを借りて、上がってきたらベッドの端に霊幻が背中を向けて寝転がっていた。
不機嫌オーラは分かりやすい。はあ、と芹沢は溜息を吐く。またか、と思うくらいには疲れていた。
それでもベッドの傍に座って、霊幻の頭を撫でる。
どうしたんですか。拗ねないでくださいよ、一緒にテレビ見ません?
最初は優しく声を掛けるものの、なしのつぶてだと気持ちもざらついてくるのが分かる。
学校終わりに霊幻の顔を見て、少し疲れも和らいだのに、疲れがぶり返すと今度はその理不尽さに怒りが湧いてくる。
数週間前までは、しおらしく伝えようと懸命になってくれた健気さがあった。
今ではなにも教えてくれない。推量しろとまで言う。そのふてぶてしさに、売られた言葉を買ってしまう。
「当たらなくても怒らないならそうしますけど、外したら不機嫌になるでしょ」
「……」
「俺は霊幻さんといちゃいちゃしたくて家に来たんですけど、霊幻さんはその気持ちが無くなっちゃいましたか? 帰った方がいいなら帰りますけど」
「……帰らないで欲しい」
背中を向けたまま、手首を掴まれて、安堵の気持ちが湧く。これで意地を張られたら、芹沢も辛い。
「今回はどうしました?」
「うちに来たのにぎゅってしなかった」
「え、前は鬱陶しいって言ってたじゃないですか」
「俺がそう言ってもいつもしてるのにしなくなった」
ううん、と小さく唸る。
「めんどくせえと思っただろ」
「思ってませんよ」
嘘だった。でも割合としては僅かなものだ。一割にも満たない。他の九割は、可愛い、わがまま、不器用、この姿は俺だけが見れるという優越感が圧倒的だ。
芹沢もベッドに横になって、後ろから抱き締めた。
「俺は多分、一生霊幻さんのことは分からないと思うんで、全部教えてください。教えないまま不機嫌になるのは禁止です」
「芹沢もどう思ってるのか俺に教えてくれねぇのに、俺ばっかりかよ」
「今も俺が出来る限りで伝えてますけど……足りないと思うなら、もっと勉強して、もっと語彙を増やします。それと、どうやったらどう思っているか伝えられるのか、俺に教えてくださいよ」
ううん、と今度は霊幻が唸る番だった。
「面倒臭いと思いました?」
笑い混じりに芹沢が聞く。もう不機嫌は小さく萎んだようで、芹沢の手には暖かい霊幻の手が触れていた。
「今でこうなのに、これ以上学ばれたら俺が勝てなくなるんじゃないかと思った」
思いのほか真剣な調子の声音に、芹沢は驚く。
「まだ全然だと思うんですけど」
「そう思ってる奴が一番怖ぇんだよなぁ」
腕の中で霊幻が身じろいで向き合う形に変わった。顎を持ち上げる仕草は言葉にしなくても分かるサインだ。顔を傾けて芹沢は唇を塞いだ。