駆け引き 人は酔うと暑くなると知ったのは、霊幻に飲みに連れられたときだった。
着ていたスーツも暑くなって脱ぎ捨て、酔い潰れた霊幻をおぶったときは背中が燃えたように暑かったのを覚えていた。翌日、互いに限界酒量を越えた摂取で二日酔いになりながら、なぜ酔うと暑くなるのか、暇な時間に霊幻が理屈を説明してくれた。アルコールで血管が拡張して、血流が早くなって起こる現象らしい。
それ以降、霊幻と飲みに行くことは今の所タイミングが合わずにないが、学校の友人に誘われてみんなが酔っ払ったときに彼の説明が頭を過ぎるようになった。
彼の言葉は芹沢の中で知識や知恵としてそこかしこに残っていた。例えば、トイレ掃除のときには酸性とアルカリ性の洗剤は混ぜないほうがいいとか、徒歩五分は大体五百メートルとか、依頼では人が嘘をつくときは、本当のことを言うときとの反応の違いと比べると分かりやすいとか。
大事なことからどうでも良いこと、真似するのが難しいことなどあらゆることを教えてくれた。唯一ちゃんと教えてくれないのは学校の宿題だけだった。
二学期の終わりに、芹沢は通っている夜間中学校の友人に告白された。よくノートの貸し借りをしていた十代の女の子だった。
トメよりも年上だが、髪も染めておらず化粧っ気もない、オーバーサイズのパーカーにズボンの姿は、芹沢にとっては相談所に出入りしている年下の友人たちとそう変わらないように見えたから、そもそも恋愛対象として見られていたことに驚いた。すぐに返事が出来ずにまごついていると、返事は今すぐでなくて良いからと言い逃げられて、そのまま冬休みに突入してしまった。
クリスマスが過ぎて年末の飾りに街が入れ替わっていく中、正月休みを貼り紙した頃から、身体の不調を訴える依頼者の数が増えていった。休みの前のちょっとした繁忙期である。
寒くなって筋肉がこわばることで起こる症状がほとんどだったので、九割方は霊幻が対応する客だった。芹沢の出番はというと、クリスマスの後だからか、二股を掛けて生霊に取り憑かれた女性とか、振った相手を呪って体調不良になっている男性とか、生きている人間同士のトラブルが多かった。
芹沢が簡単に取り除いたあとの心のケアは霊幻が担っていたので、芹沢は空き時間に告白されたときのことを思い出しては悩んでいたので、客足が落ち着いた頃に聞いてみたのだ。
「霊幻さん、告白された時に傷付けずに断る方法って知ってますか?」
「え、なに、告白されたのか?」
驚く霊幻に、冬休み前に告白されたこと、相手の情報などを伝えると、パソコンから顔を離し、指を唇の下に当てて考え込む様子が見えた。
無料の相談に乗ってもらっている状況に、落ち着かなくなって料金表に視線が行く。給料から天引きしてもらうべきなのだろうかと心配がよぎった。
「告白を受け入れなきゃ、どんな答えを出したとしても傷付くだろうな。傷付いても希望に賭けて勇気を出したんなら、誠実に向き合う以外にないと思うぞ」
「なるほど……。希望って、その子に対して何かしてあげたりした記憶はないんですけど」
「モテる男は言うことが違うなぁ」
「からかわないでくださいよ」
なにせ、本気で心当たりがないのだ。口元ににやついた笑いを浮かべ、明らかに揶揄うように言う霊幻に対して、芹沢は強めに窘めた。
肩を竦めた彼はパソコンに目を逸らした。
「何かしてあげたとか気持ちを伝えたとか、狙ったところに投げたボールじゃなくても、勝手に受け取ることだってあるからな。目に見える物じゃないから分かりにくいけど、人とやり取りしてるって言うのは絶えず情報を交換しあってるんだ。芹沢がした親切とか、会話が盛り上がった楽しい記憶とか、そういうところから発生した感情かもしれない」
「すごいですね、霊幻さん……そんなこと考えたことなかった」
話術とパフォーマンスに長けた彼の言葉に圧倒される。常に彼はそうしたことを考えて対応しているのが窺えた。
芹沢の感嘆も流されて、パソコンに逸らされていた視線が戻ってきて背筋が伸びた。
「話を戻すが、告白されてその子を意識したのか?」
芹沢は首を振った。
「いえ、女の子だなとは思ってたけど、恋愛とかは全然……できる自信がないです」
「じゃあ早めに伝えてやれよ。年始から最悪な気分にさせるより、今年のうちに終わらせてあげたほうが良い」
「ああ、……年末も年始も、別に他の日と同じ一日のはずなのに、なんであんなに気持ちが切り替わるんでしょうね」
「今みたいに正月の雰囲気を作って盛り上げていって、気持ちを切り替わらせるために作ってるんだよ、ああ言うのは」
そこから他愛のない話に切り替わって、その話題は終わった、かのように見えた。
その日の営業時間が終わってから、霊幻から飲みに誘われた。相談所の忘年会をやろうという理由だった。芹沢も冬休みに入っていたし、夜に特に予定もない。学校の忘年会は先日済ませたところだったので、応じない理由がなかった。
晩御飯どきの時間帯で、影山やトメのいない大人同士の忘年会は居酒屋になった。半個室のテーブル席に案内されて、タッチパネルを操作してドリンクを頼む。
ノンアルコールのビールを二つ、さっぱりしたものとこってりしたものを交互に食べながら、苦味で流し込み、段々と霊幻の顔が赤くなっていった。以前にアルコールで酔ったときよりは持っているものの、舌ったらずな言動や目の動きが酔っ払いのそれだった。ノンアルコールでも酔えるのが不思議だった。
「いいよなぁ、モブも芹沢も、学校があるから告白なんつー甘酸っぱいイベントができてさぁ。相談所しかねぇんだぞこっちは。学生に戻りてーよ」
ノンアルコールビールをぐいと呷って、息を吐き出すのに合わせて霊幻がぼやく。唐突に蒸し返される話題に、芹沢は苦く笑った。今まで家にしか居場所がなかったから、彼の心細さと言うのは分からない訳ではない。けれど、それをただ羨まれるという経験はしたことがなかったから、どう返すのが良いのか分からなかった。
「霊幻さんも趣味とかないんですか?」
「筋トレとランニングー」
「一人で出来ちゃいますね……」
会話が途切れて沈黙が生まれる。どうにか会話の糸口を探そうと視線を彷徨わせていると、手を握られた。赤い顔の霊幻と目が合う。
「好きな奴が出来てもいいから、付き合っても相談所やめんなよ」
「いやいや、全然関係ないじゃないですか。やめないですよ」
話の脈絡のなさに思わず首を振る。誰かと付き合ったら相談所を辞める、と言うのは芹沢でもおかしい論理だと分かる。
そのおかしさに気付いていない様子の霊幻が、芹沢の反論に黙ったまま手を握る力を込めてくる。合っていた視線はいつの間にか伏せられて、騒音の中にトーンダウンした霊幻の声に顔を寄せる。
「お前がいなくなったら仕事が回らなくなるからな……」
呟きを聞きながら、漠然とした違和感に芹沢は返事が出来なかった。握ってくる手のひらは冷たい。この人、酔ってないんじゃないか、という可能性に思い至ると、次に出てくるのはなぜそんなことを言い出したかだ。
「霊幻さん、本当に仕事が回らなくなるから、なんですか? 俺が相談所をやめて欲しくないの」
思い至った一つの可能性を口に出すと、緊張して声が震えた。
まさか、とは思うし、信じられない気持ちはある。でも否定して欲しいと心の奥底で願ってしまう。
握られた手を動かすと引っ込められそうになった。指先を掴み、手のひらを重ね合わせる。
「……俺が嫌だからって言ったら?」
霊幻の目の奥を芹沢は覗き込む。投げられたボールを受け取った手のひらに、じんわりと汗が滲んだ。