夕暮れ時、無機質な光に照らされた室内で明輝は一人端末を見つめていた。画面の中に映るのは、次に出る新曲の振り付け動画。曲調が激しめであるが故にダンスの難易度も高く、踊りよりも歌を得意としている明輝は一人辟易としていた。
今日は新曲のダンス練習初日。とはいえあまりにも不出来だったため、個人の判断で居残り練習をしている。
明輝が今この場にいるのは、そういう経緯があってのことだった。
振り付けを一通り確認したところで、さてと練習をするべく立ち上がる。ぐっと背伸びをして体をほぐしたところで、ふと遠くから声が聞こえてきた。
「……ん、明輝くーん?」
最初は不鮮明だったその声は、段々とこちらに近づいてきているのか、はっきりとしたものへ変化していく。その声を知覚して数秒後、声の主が誰なのかを理解した。
どうしてこんな時間に、と疑問に感じつつ明輝は急いで扉を開けた。飼い主に名前を呼ばれた犬の如く、声がする方向へと走っていく。実態はそんな微笑ましいものでもないが、今の明輝にはそのような形容の仕方がピタリと当てはまっていた。
そして少し走ったのちに、一人の青年と相見える。
「明輝くんどこー? ……あ、明輝くん!」
「こ、胡蝶さん!」
明輝に“胡蝶さん”と呼ばれた青年は、へらりと笑って手を振った。明輝くんだ〜、とあまりにも呑気な風に言う彼とは違い、明輝はいまだに疑問をその顔に浮かべたままである。
「こんな時間にどうしたんですか」
明輝がそう聞けば、胡蝶はふふと楽しげに笑った。左手首をトントンと叩く仕草。動きに釣られて目を向ければ、同じタイミングで胡蝶の細身なスタイルにマッチした腕時計がパッと光った。彼が身につけているスマートウォッチには、カクカクとしたフォントで現在時刻が示されている。
明輝はそれを見て首を傾げながら、面を上げた。視界に入るのは、変わらずにこにこと微笑んでいる胡蝶の顔。それでも彼の意図が分からずに、曖昧に微笑みながら頭に疑問符を浮かべる。
「ブーメランだよ〜、明輝くん。それに俺は、明輝くんをご飯に誘いに来ただけだから」
ブーメラン。その言葉に明輝はぎくりとして。確かに彼のことをとやかくは言えないなと思いながら、それとは逆に彼が今ここにいる謎を解明しようと頭を働かせる。
大方、マネージャーから聞き出したのだろう。明輝とはまた違ったタイプのコミュニケーション能力の持ち主だ。そのくらいお安い御用であるに違いない。
そんな勝手な憶測を立てつつ、明輝はもう片方のご飯の話題へと意識をシフトさせる。胡蝶という親しい同業者からの誘いは、普段なら喜んで乗ったことであろう。だがしかしタイミングが悪い。
明輝はこれからダンスの練習に打ち込もうとしていたところ。幸か不幸か、一度沸いてしまった練習への熱意は易々と収まることはなく、加えて明輝は真面目な性格だ。他の用事ならともかく、言ってしまえば職業におけるスキルアップの予定など、簡単に覆せるほどの決断の良さを明輝は持ち合わせていない。
ご飯の誘い、と自身の判断を促すように口に出して。それでも迷った明輝は曖昧な笑みを浮かべながら軽く唸る。
「……明輝くん、ダメ?」
そんな明輝の様子から誘いを拒否されたと感じたのか、胡蝶は途端にしゅんとした表情を作ってそう言った。まるで捨てられた子犬のようである。一つだけとはいえ、年上らしからぬ胡蝶の振る舞いに明輝は動揺する。元々面倒見の良いたちであったから、こういう顔をされるのにはめっぽう弱い。
悶々とした明輝だったが、それよりもとまず事情を話すべきだということに気付いて。あの、と切り出せば胡蝶はそれに反応して首を傾げた。
「お誘いはありがたいんですけど、俺、ダンスの練習をしなくちゃいけなくて」
申し訳なさをたっぷり含ませた声でそう伝えると、胡蝶はぱちりと一つ瞬きをした。そして先ほどの振る舞いが嘘のようにいきなり鎮まり、顔を背けて何やら考え事を始めた。彼の動きに伴って、二つのピアスがチャリと音を鳴らしながら揺れる。思わず明輝は注意をそちらに向けた。
「明輝くん」
その呼びかけにハッとする。引っ張られるように視線を胡蝶のところへと戻せば、より一層笑みを深めた彼と目が合った。その裏にどんな意図があるのか。予想もつかずに、えっと、と声を漏らしながら微笑み返していれば、両肩にポンと手が置かれた。
「せっかくだから、俺も練習付き合うね?」
「へ?」
柔らかなトーンでそう言われて、明輝は思わず間抜けな声をあげる。そんな明輝の声を聞いても、胡蝶は気に留めずに笑顔を浮かべている。表情や声色からしても、彼が練習に加わることは決定事項らしい。
明輝は一瞬驚き戸惑うが、逆に好都合かもしれないと考える。何事においても、切磋琢磨する相手がいるというのは良いものだ。モチベーションの向上や、やる気の維持にも繋がる。夕飯の誘いの代わり、という訳でもないが、償いに近い気持ちで彼の提案を受け入れることにした。
明輝は一転してはにかんだ笑顔を浮かべながら、肩に置かれた胡蝶の手を柔く外す。そしてそのまま手を取るような形に持ち変えた。
「ありがとうございます、胡蝶さん。頼りにしてますよ?」
お返しのように明輝も疑問符をつけてそう言えば、胡蝶は満足げな微笑を浮かべた。
先程よりも人数の増えたレッスン室。プラス一でしかないが、一人きりだった時とはやはり違って活気が増している気がした。寂寥とした雰囲気も感じない。一人きりが嫌いという訳ではないが、元来人と関わるのが好きな明輝は、今のこの雰囲気が落ち着けた。
二人して端末を覗き込み、レッスン中断前に確認していた部分を流し見る。細かいところは明輝が口頭で説明すれば、確認は五分と経たずに終わった。
「新曲の振り付け、難しそうだね。だから居残り練? 偉いなぁ」
早速と練習を開始する直前、胡蝶がそう言った。しみじみとしたその口調も加わり、どことなく近所のおばちゃんみを感じる。なんてことは、アイドルに向かって思ってはいけないのだろうけど。心の中で自嘲して、明輝は思わず笑ってしまいそうになった。
けれど「偉い」かぁ、と明輝は考える。他人から見たらそうなのかもしれないが、特段明輝はこれが偉いことだとは思っていないから。人好きのする笑みを浮かべる胡蝶に、明輝もまた笑いかける。
「普通のことしてるだけですよ。ダンスは得意じゃないから、その分を補えるよう懸命に練習する。それって、普通でしょ?」
プロなんだし、と付け加える。そんなセリフだって、特別な考えや他意を込めた訳ではない。そう、普通なのだ。明輝にとっては。
明輝のそんな普通のセリフを聞いた胡蝶は一度ぽかんとして、それからおかしそうに笑った。楽しそうな彼に対して、明輝はきょとんとした顔をする。
「普通……そうだね、普通だね。それじゃあ、普通にプロらしく練習しようか。明輝くん?」
どこかいたずら好きの子供がするような表情を作って。呼応するように明輝も凛とした顔をして、彼の言葉に頷いた。
床を踏み鳴らし、リズムに乗って体を動かす。決めポーズの際に前へ出した足が、キュッという小気味の良い音を立てた。刹那、レッスン室内に流れていたリズミカルな足音が止んだ。代わって、ほんの少しの息遣いが溢れていく。
「は〜っ……流石に疲れるね」
「っ、ですねぇ……」
あははと笑い合って青年達は笑った。膝に手をつき息を整え、少量流れた汗を拭う。ふと壁に設置されている時計を見れば、既に一時間が経過していて。そんなに練習を続けていたのか、と驚いた。それは胡蝶も同じだったようで、明輝に倣って時計を見てからは、明輝以上に驚きを声にも顔にも示していた。
それから二人は運動終わりのストレッチをした。酷使した体を労るように、優しく入念に伸ばしていく。明輝が開脚をしているところに、胡蝶が思い切りのしかかってきた。
「いたたた!」
「あはは! 明輝くん、相変わらず体硬いね〜」
そう、明輝は元々柔軟性が欠けており、それは周知の事実であって。バラエティ番組やその他の場においても、よくそのことをいじられる。
分かっていると言うのに、胡蝶は更に体重をかけてきて。明輝は自らの体の硬さを痛感しながら悶えた。
「こ、ちょう、さんっ! 痛い、ですってぇ!」
第三者が見ても分かるほどに明輝の体はプルプルと震えており、その硬さがよく示されている。ヒィヒィと泣くような思いで懸命に伸ばしていれば、ようやく胡蝶は体を退かした。
尚も開放感に晒されることはなく、体の痛みに襲われながらのろのろと体を起こしていく。身長的にも年齢的にも大である大人なのに情けない。そう思いながら明輝は仰向けに寝転がった。
「ごめんね明輝くん……でも、確か柔軟は毎日してるって言ってたよね? 少しも変わんない?」
胡蝶に上から覗かれて、端正な顔が目に入った。光を反射しない瞳を見つめながら、明輝はう〜ん、と唸る。
「変わらないんですよねぇ、少したりとも……」
その真黒な瞳を通して日々の柔軟の記憶を思い出しながら、倒置法みたくそうぼやく。定期的におサボりをしている訳でもないし、もちろんちゃんと効果があるようにお風呂上がりに柔軟を行っているのだ。毎日欠かさず。それなのに明輝の体ときたら、柔軟性の欠片もないほどに進歩を見せてはくれない。体がエンドレスの反抗期である。なんとも嘆かわしいことだ。
過去には明輝と同じように、体が硬いことが悩みだという同業者もいたはずだ。そんなあの人だって、日々の柔軟によって並の人間程度には柔らかくなっていた。確か二年ほど前の話だ。
「人体の不思議だなぁ」
過去の出来事を思い起こしていれば、感じたままの言葉がすり抜けるように出てきた。そんな間も明輝の顔を覗き込んでいた胡蝶は、ぷっと吹き出す。
「明輝くん、面白いね。その硬さ、柔軟チャレンジとかで配信したら話題になりそうじゃない?」
彼は、褒めているのかどうか微妙に分からないラインでそう言った。そんなことを言う時でも、彼は変わらずにこにことしていて。裏があるように見えてしまうが、実際には口に出したことが彼の本当の気持ちなのだろう。
そういう、屈託のないところは胡蝶のいいところであると、明輝はそう思っている。が、それはそれとして。
「嫌ですよ! 恥ずかしいですし……それに、俺は配信とかやったことないから……」
「準備とか諸々俺がやるからさ〜」
この人はどれだけ自分の体の硬さ具合を配信したいのだ。明輝は思った。そこまで言うならせっかくだし、とならない訳でもないが、だがしかし彼の貴重な配信枠をそんなもので潰して良いのだろうか。
「胡蝶さん、ゲーム配信が主じゃないですか。急に柔軟配信とかしたら、みんなビックリしちゃいますよ。しかも俺って」
よいしょ、と体を起こしながら更に反論していく。胡蝶はぱちくりと目を瞬かせて、そして何やら考え込むような仕草をした。そしていきなりぱぁっと顔を明るくさせて、名案が思い浮かんだようにパチンッと完成度の高いフィンガースナップをしてみせる。
「じゃあ俺と明輝くんでゲーム配信しよう」
「趣旨ズレてません?」
体の硬さが〜と言っていたはずなのに、彼は早々に提案の根幹を変化させてしまった。切り替えが早いと言えば良いのか、頓着しないと言うべきか。悩んだ末に明輝はう〜んと唸る。
そしてまた一つ、明輝は重大な事実を思い出した。
「俺、ゲーム下手だしなぁ」
途端、己に対する感想が無意識に漏れ出して空気中に放り出される。過去に相手をスマッシュする某有名ゲームにおいて、操作ミスで幾度も自ら崖からの飛び降りを測った記憶が蘇ったのだ。あれは本当に酷いものだった、と我ながらに思う。
明輝はゲームができずとも、プレイ動画やゲーム配信などはよく見る方で。とりわけ胡蝶の配信は、仲の良い相手ということも相まって、熱心とは言えないほどではあるが追っている。ゲーム下手な明輝が見て分かるほどにプレイが上手な彼の配信に、自分が参戦すると考えると大分気が引けた。
「下手すぎて、みんなのこと怒らせちゃうかも」
努めて楽しげに言葉を発して。様子を伺うようにしていれば、胡蝶は全ての不安を振り払うようにくすりと笑った。
「みんなそんなことで怒ったりしないよ。それに、明輝くんがゲームしてるってだけで喜ぶ人はたくさんいると思うよ?」
普段滅多にやらないんだし、と子供のように無邪気に付け足す。それだけで気持ちが傾いてしまうのだから、きっと自分はチョロいのだろう。なんてことを思いつつ、だけれど真偽を探るようにじっと胡蝶の闇色の瞳を見つめた。無駄なことだとは分かっているけれど。
胡蝶もまた、対抗するようにして明輝の深緑を湛える瞳を見据える。何も言わず、互いに見つめ合う時間が続いたあと、先に言葉を漏らしたのは胡蝶だ。どもったようなその声は、明輝の不安を助長させる。「胡蝶さん?」と呼びかければ、眼前の青年はあははと笑った。
「本音を言えば、俺が明輝くんとゲームしたいだけなんだよね。……明輝くんとならもっと楽しめそうって、そう思うし」
効果音で表すならほわほわと言ったような笑みで、胡蝶はなんの恥ずかしげもなくに言う。そこまでストレートに伝えられるとこちらは気恥ずかしくなってしまうと言うのに、正直と言うかなんと言うか。むず痒い気持ちを覚えながら、明輝はへらりと笑ってみせる。
「機会があれば、ぜひ」
実に曖昧な答えだ。口に出した明輝自身もそう感じて。言った後で申し訳なさを感じつつ端末をしまおうとする。だが不意に感じた視線が気になって、ついそちらを向いてしまった。
観察するように、じっくりと。黒瑪瑙をはめ込んだような瞳が、少しのズレもなく明輝を見つめている。まるで何かの音を聞き入る時の猫のようだ、と使う感覚器官は別ながらにそんな感想を抱いた。
そわそわとした思いを抱えながらも、明輝は後片付けの手を止めない。次に彼の名を呼びかけようとした時、追い越すように彼が発声した。
「夕飯の話だけどさ、俺の家でご馳走させてくれないかな」
「えっ?」
急な提案に明輝は驚く。危うく荷物を落としかけて、少し焦った。そうだ、元々は彼が夕飯の誘いに来たことが今に繋がっているのだ。明輝は一時間と少し前の出来事を思い出す。
彼からの誘いはもちろん嬉しい。家にあげてもらえるほど彼からの好感度が高いのだと言うのももちろん、練習に付き合っても尚誘ってくれたこと自体が。
けれど明輝はその誘いに素直には引っ掛からなかった。ジト、と訝しげに彼を見る。
「……それ、一緒にゲームしたいから、とか……そういうのじゃ」
「え! よく分かったね?」
眼前の青年は心底驚いたような顔をする。鎌掛けのつもりだったのに、まさか本当にゲーム目当てだったとは。明輝も驚いて、思わずと言ったように口をあんぐりとさせてしまった。そしてそんな裏で、そこまで言われるなら一緒に遊んでみたいと思ってしまうのだから、やはり自分はチョロいな、と思う。様々な感情が混じり合った末に生まれたのは、間の抜けた笑いだった。
「あ、配信はしないから! そこは安心して」
にこりと微笑みながら胡蝶は言う。その言葉選びから察するに、明輝は自分の誘いを受けてくれるという確信を抱いているのだろう。いや、確信というより、自信に近いものかもしれない。そんなところも彼らしいと思った。
「しょうがない人だなぁ、胡蝶さんは。……とりあえず、シャワー浴びてからにしましょうか。その後はもう好きにしてください」
セリフだけ見たら素っ気ないそれを、明輝は努めて柔らかく、楽しげに放った。
さてとレッスン室から出ようと扉に足を向けた明輝。ワンテンポ遅れて後ろから忙しい足音が聞こえてきたと思ったら、勢いよく飛びつかれて。明輝くん明輝くん、と何度も名前を呼ばれた。先程は猫のような態度をしていたのに、今はまるで犬のようである。そして犬は犬でも大型犬。
キャラ被りだ、なんて思いもしたが、そんなツッコミを入れている暇もなく、対応に追われてしまった。
これでもかと言うほど明輝に絡む、一見年上には思えない胡蝶と、面倒見の良さから年上に見られがちな明輝。正反対だけれどどこか似ている二人の青年は、そうして楽しげにレッスン室を出たのだった。