十八話 白い蝶 検査を受けている間、ヴァイスは意識を失って、眠りの最中にいるような柔らかさに包まれる。そうして目を覚ませば、知らぬ間に検査が終わっていて、結果や所感を伝えられるのだ。
けれど今日は違った。例えるなら、夢の中で起床をすると言ったような、そんな心地を味わっていた。
体を動かそうと試みて、けれど上手くいかないことに気付く。眉を寄せて訝しみ、そうして声をあげようとしたところでまた一つの気付きを得る。声も出せない。音を紡ごうとして喉を震わせても、ヒュッと情けない空気が漏れるだけ。それも感覚だけで、実際にそのような音が聞こえる訳ではなかった。
あたりは薄闇に包まれており、そしてヴァイスは急激に不安へと誘われる。瞼にすら上手く力が入らない中、神経を集中させてどうにか目を閉じようとした。この不安から逃れるために。目を閉じたところで待つのは同じ暗闇だ。それでも何もできないよりはできた方がマシだと懸命に力を込めていれば、唐突に一筋の白が視界を掠める。急なことで驚きはしたが、目の痛みなどは一切なく、不思議な感覚を抱きながら眼球だけを動かしてその正体を追った。
白という単色の何かだと思っていたそれは、物体ではなく光だった。強いけれどどこか優しさを感じる、白色の光。縦に横にと不規則に揺れているそれの光源を探し当てれば、その挙動不審さに納得がいった。
それは蝶だった。白の光を放って、優雅に自由に舞い踊る。光に包まれながらも、蝶自身も真っ白なカラーリングをしていることに気付いた。そしてヴァイスは、その蝶を見たことがあった。そう、あれはチームの名前が決まって、その後ディアン以外のメンバー三人で外に出たあの日のこと。ヴァイスを導くようにして現れたその蝶は、その後本当に存在したのかも疑わしいほどにふっと消えてしまったのだ。一瞬の、邂逅とも言えないようなあのワンシーン。けれどアルビノのように真白なその躯体は、ヴァイスの記憶の隅に確かな存在感で残っていた。
だから今、目の前で遊ぶようにひらひらと羽ばたく蝶を見て、ヴァイスはすぐさまあの日のことを思い出したのだ。
一度見ただけ、何も知らない。それでも、この暗闇の中で唯一ヴァイスの記憶にあるそれを、黒の中で強い存在感を放つそれを求めずにはいられなかった。
音にならなくとも口を動かし、そうして全ての力を腕を動かすという一点のみに集中させる。封印が解けたようにようやく動いたかと思えば、蝶はヴァイスすらも包み込むような強い光をあたりに放った。暗闇に飲み込まれるだけだった蝶の光は、全てを覆すように空間を真白に塗りつぶした。
ふっと軽い感覚で瞼を開く。視界に映るのは、ほんの少しだけ青みを帯びた銀白色の天井。現実に戻ってきたのだと確信して、不安を全て拭うほどの安堵に襲われた。
やっと冷静さを取り戻した時、呼吸が荒くなっていることに気付く。そこからは腹式呼吸を繰り返して、体が落ち着くのを待った。数十秒の時間経過ののちに上体を起こせば、それに気付いたグレースがこちらへやって来た。
「あぁヴァイス、目が覚めたのか。良かった。ビックリしたんだぞ? 検査が終わっても目を覚さないし、かと思えばうなされてしまうし……」
分かりやすく焦りの表情を見せながら、グレースは早口で捲し立てる。朱色のリップが塗られた綺麗な口を歪ませて、そうして心配そうな表情をしながらヴァイスの顔を覗き込んだ。頭のてっぺんから、そして体をずらして足のつま先まで。まじまじと見られて少しだけ恥ずかしくなる。あの、と声をかけても、独り言をこぼすグレースはその声かけに気付かない。
観察されていることから下手に動くこともできずに、ピシッと固まって視診が終わるのを待つ。彼女の声に意識を傾ければ、独り言のうちいくつか内容を聞き取れた。
異常は特になかった。まさかもう。そんなこと、ある訳が。
大体こんな風な。一番最初に聞こえてきた言葉には安堵した。それだけには。その後聞こえてきたのは、何やら不穏な雰囲気を感じ取らざるを得ないものだった。異常はないんじゃないのか、とすぐにでも問い詰めたい気分である。
だが勢いのままに問いかけたとて、更に上を行く勢いの化身ことグレースには百倍返しをされる自信しかない。彼女との対面では冷静さが必須だ。だからヴァイスは一度だけ深呼吸をして静かに、けれど確かな重みを持ってグレースの名を呼んだ。
「ん? あ、あぁ……すまない。動転し過ぎてしまっていたようだ。だが、お前に何かあっては困るからな……」
大丈夫ですよ、と言おうとしていた口は閉ざされる。グレースが最後に放ったその一言が、やけに気になってしまった。
「……何で困るんですか?」
上目遣いになって、少し慎重な声色で聞いた。ヴァイスの顔を見たグレースは、少しだけ考え込むようにして口を引き結び、そしてニィッと笑みを作る。
「お前は私の、一番の宝物だからだ」
返された言葉はヴァイスの予想とあまりにもかけ離れていて、声も出さずに驚いた。手駒が減るだとか、彼女が一人で手がけた人工亜人だからだとか、そんなとこだと思ってた。そして今も、言葉の意味だけ解析したとて本音なのかどうかは分からない。
でも、グレースの瞳が本心だと語りかけてくる。慈愛の込められた視線を受けると、彼女の言っていることが嘘だなんて思えなくて。そうすると、もう何が何だか分からなくて。
息が詰まる思いだった。
「……他の人達が、嫉妬しますよ」
ようやく絞り出せたのは、そんなどうでもいい言葉。声が震えているのが自分でもよく分かった。
「それは困ってしまうな」
そんなヴァイスの胸中など御構い無しとでも言うように、グレースは笑みを含みながらそう言った。
かくして、〝一応〟異常はなかったらしいという結果の報告は終わった。ならばあの不穏な言葉選びはなんだったのか、とやはり思ってしまうもので。けれど聞いたところで望む反応が返ってくるのかも定かではない。うむ、と頭を悩ませた。
そうしていれば、どこか別室へと足を運んでいたグレースが戻ってくる。何の用だったのかとその立ち振る舞いから予想を立てようとするが、特段変わった様子もないので無意味なことだと諦めた。さてと時間を確認しようとしたところで、グレースがこちらに向かってくる。
「ヴァイス、これをやろう」
不意に腕を取られて、手のひらを表に向けられた。えっ、と困惑の声をあげていればその手の上にぽとりと物体が落とされる。何かと思って見てみると、水色の小さな包装紙がそこにはあった。
見てくれからして菓子の類であろうそれを、けれど意図もわからずにまじまじと見つめる。そしてその後にグレースの顔を見た。
「ミルクチョコだよ。検査終わりのご褒美と、それから少しでも気が軽くなるように、だな」
腰に両手を当てて、まるで自慢するみたくそう言ってみせる。その言葉と、これがチョコであるという事実にヴァイスは目を輝かせた。彼は甘いものが好物だったので。
今すぐにでも食べよう、と思いそれから少し考え直す。いくら検査終わりだからといってこんな場所で飲食をする訳にもいかないだろう。何か変に影響を与えてしまっては困る。包装を開けかけた手を止めて、スッとポケットにしまう。
「今食べてくれてもいいんだがな。私はここで飲み食いも寝泊まりもしてるぞ?」
「えっ?!」
唐突に告げられた衝撃の事実にヴァイスは驚いた。確かにグレースは前からなんとなく研究一筋、というような雰囲気を感じられることはあった。勢いの良い性格がそれを助長させているのかもしれないが、仕事以上の熱量があったのはなんとなく察することができたのだ。
けれどまさか、研究所で寝泊まりをするほどだなんて。
仕事熱心だと褒めればいいのか、ズボラすぎると窘めればいいのか。続く言葉に悩んでいれば、「ヴァイスは真面目だな」と先に言われてしまったので、その二つの選択肢すらも放棄することになってしまった。そして再びチョコを取り出そうとポケットに突っ込まれていた手は、そろりとさりげなく元の位置に戻したのだった。
「あ、そういえば……、あの!」
黒パーカーの袖から覗く自らの手を見て、ふと思い出す。意識の水底で見たあの光景。ヴァイスにとっては不可解な出来事でしかなかったが、彼を作ったグレースなら、あるいは。
グレースはヴァイスの声に反応して、不思議そうな顔をする。そんな彼女に、どう話を切り出そうかと頭を悩ませた。探究心が強い彼女を、けれども不安にさせることなくこちらの話題に興味を持たれるためにはどうすべきか。ヴァイスは右の手の甲をさすって、そうして一つ二つと頭に浮かんだ案から一番良さげなものを選んだ。
「グレース様は、白色の蝶々って見たことありますか?」
努めて明るく質問する。御伽話を信ずる子供のように、無邪気に。自分は見たことがないが、他の人はどうなんだろう? と、空想話を楽しむような言い方をすれば、不安にさせることはまずないと判断した。そして彼女は学者ではないが研究職についている亜人だ。こういう話題なら、少しは乗ってくれるかもしれない。そう踏んだ。
グレースは目をぱちくりとさせ、ふむ、と返答を考えるような仕草をしてみせる。その様子を見て、第一関門はクリアしたと確信した。
「白色の蝶と言えば、まぁメジャーはモンシロチョウだな。あとはツマキチョウ、シジミチョウ科も何種類か白いのが——」
「あ、いや、違います」
あまりにもまっすぐな回答にヴァイスは思わず食い気味にストップをかけてしまう。そうだった、彼女は一直線を勢いよく突き進んでいく女性。遠回しなパスは最善ではなかった。
盲点だったと反省しながら、そうして不服そうに言葉を止めたグレースに「すみません」と小声で謝る。もうこうなればストレートに聞くしかない。
さきほど長考した時間は無駄なものだったとは思うが、そう思っていても仕方ない。ふぅ、と落ち着きを促す思いで一つ息を吐き、グレースの瞳を見つめた。
「羽も、体も触覚も、嘘のように真っ白な蝶々に心当たりはありませんか」
求める心を最大に引き出すように、ヴァイス自身の声色も白く透き通っていた。遮るものを全て取り払ったような空色の瞳で、グレースを見つめ続ける。彼女の青藤の瞳と混ざってしまうほどに。
グレースはその視線に触発されたように目を見開く。そしてしばらく黙り込んだ。脳内でそれと該当するものを探しているのか、突飛な発言に思考を停止させてしまっているのか。どちらにせよ、今は彼女の次の反応を待つより他ない。気まずさを感じつつも、目だけは逸らすまいと唇を噛んで力を入れる。
そのうちに、グレースの視線の方がヴァイスの瞳からずれていることに気付いた。けれどそれはほんの些細な距離で、よく見なければ分からない程度の移動。少し上に寄っていることから、自分の真白な髪を見つめているのではないかと推測する。
じぃっと、食い入るように。心を盗られて魅入ってしまったような視線は、変わらずヴァイスの髪を見つめ続けている。その様子はまるで、ヴァイスの白髪と白蝶をリンクさせているかのようだった。
「……グレース様?」
いつまでも何も答えないグレースに、流石のヴァイスも不安に思う。声をかければ、彼女は途端に引き戻されるようにしてハッとした。あぁ、と声を漏らしてヴァイスを見る。返答を促すみたく首を傾げれば、グレースはぎこちなく微笑んだ。
「すまない、そのような蝶に心当たりはないな……」
一度目の回答の勢いは失われ、そうしてグレースは顔を背けて何か逡巡するように目を細める。
「……アルビノ持ちの個体、だったのかもしれないな」
そして言い訳をするみたく、グレースはそんな言葉をこぼした。アルビノ、とヴァイスも復唱する。
確かにそれなら躯体の色がないのも納得できた。ヴァイスは実際のアルビノをその目で見たことはないが、それでもあれをアルビノ個体で片付けることの容易さは理解できた。そのはずだ。
けれど、ヴァイスの頭はそれを否定している。頭、と言うより魂の部分と言った方が正しいほど、その否定は強くて。生じてぶつかり合う意見。どうすれば良いのか分からなくなってしまったヴァイスは、しばらくの間グレースの言葉に返すこともできずにいた。