二十話 白状 カチコチと、時計の秒針が規則的なリズムを堅苦しそうに刻んでいる。聞き飽きたそれに鬱屈としながら、ヴァイスは目の前にある机にだらりと身を寄せた。
「なんで入り浸ってるんだ、お前は」
向かいに座る人物から言葉が飛んでくる。ヴァイスは鉛を持ち上げるように顔を上げて、その人物を見た。
「ディアン……」
「声低っ」
獣が唸るように声を漏らして、眼前の人の名前を呼ぶ。テンションが低いながらも、どこか憂慮するような声色に気が抜ける。伴うようにして更に体をだらけさせれば「邪魔すんな」と叱咤された。
今日はディアンが報告書作成を担当する日。自室にこもってカタカタとパソコンで作業を続けるディアンの元へ、ヴァイスはほぼちょっかいをかける形で押しかけたのだ。アポイントもなしにこういうことをしても、ディアンは怒りも何もしない。相変わらず甘い彼ではあるが、昔からそれが当たり前だったヴァイスは、そんな認識もなく作業を続けるディアンのことを眺めていた。
「何か用か?」
不意に、ディアンがそう聞いてくる。釣られるようにして彼の方を見た。目線は変わらずパソコンに向かい、タイピングをする手も止まることはない。このまま返事をしなければ聞き流せそうなくらいに自然な問いには、ディアンの気遣いが最大限含まれているのだろう。
流石にその気遣いは感じ取ることができたヴァイス。欲しかったものを与えられた子供のように目を見開いて、穴が開いてしまいそうなほどにディアンを見つめた。
脳内で言葉をどうにかこうにかまとめながらも、ヴァイスの視線の行先は保たれたまま。気まずい思いはあったのか、堪忍したようにディアンはヴァイスと目を合わせる。分かりやすく眉を下げた困り顔をしていた。その表情に後押しされるようにして、そうしてヴァイスは口を開く。
「ディアン、はさ……検査の時ってどんな感じ?」
「検査ぁ?」
途端、ディアンは予想が外れたかのようなトーンでそう言った。ヴァイスは不安を募らせながらも、「うん、検査」と再び返す。内容を咀嚼し切ったらしいディアンは徐々にその表情を落ち着かせ、まるで思考を補助させるように無機質なパソコンへと向き合った。カタ、カタと聞こえてくる薄い音の合間を縫うようにして、ディアンは言葉をこぼす。
「別に、普通だ。気付いたら寝てて、目ぇ覚めたら終わってる。こんなもんだろ」
シンプルイズベスト。まさにその表現が似合う回答をディアンは述べた。こちらを見ずに言うその姿から推察するに、きっと彼にとってはさして興味のない話なのだろう。ヴァイスは彼の知らぬうちに思考を繰り広げる。
けれどヴァイスにとって、彼がこの話題に興味があるかどうかは本題ではなかった。ディアンと同じ、興味がないのだ。ヴァイスの疑念が真に向く先は、今回の検査で起こった出来事が果たして通常あり得るのかどうか。たったそれだけ。
ヴァイスはこれまでに何度も検査を受けているし、検査の最中に夢を見たという話だって聞いたことも体験したこともない。だからもう解答は出ているに等しいが、それでも気になってしまうのだ。
もしこれが、偶発的なものではなかったら? 予言——あるいは、それに近しい事象を表すものならば。そんなことを考えずにはいられない。この異常なまでの探究心の源だって、ヴァイスには分からなかった。
「……お前、何か悩み事でもあんだろ」
先程までBGMのように小刻みに流れていたタイピング音が止んだかと思えば、ディアンがそう聞いてきた。質問への回答の時とは違って、少しだけ深みの増したトーン。少し前にも、ヴァイスはこんな音を聞いた。
「なんで?」
ヴァイスは特に何かを考える訳でもなく、ディアンにそう返した。まるでディアンがパスした球を、壁となったヴァイスがそのまま山形にリリースするかのように。
脊髄反射のようなその言葉に、ディアンはぱちりと瞬きを一つした。
「なんでって、そりゃあ……お前が今まで検査のことについて何かを言ってた記憶がねえからな。それに、明らかに〝何かありました〟みたいな態度だぞ。今のお前は」
呆れたように息を吐きながら、ディアンは己が推測を立てた理由を述べた。
ヴァイスは彼の返答を聞いて、おぉうとそういう鳴き声の生物みたいな声を漏らした。検査のことについて言及したことがないかどうかはヴァイス自身は覚えていないが、それはそうとしてなんて記憶力のある男だ、と彼は思う。ぷく、と頬に息を詰め、ヴァイスはぶすくれた表情を作る。その姿はまるでハムスターのようだ。
「僕、そんなに分かりやすいですかねー」
「そんなに分かりやすいんですよ」
拗ねたように言えば、あちらも適当な風に返してくる。ご丁寧に敬語も言い方も真似される始末だ。
ヴァイスはジト目でディアンを見やる。そうすればディアンは薄く笑った。けれどそこにからかいの意図はそこまで含まれているようには思えなくて、仕方なく許してやった。自分自身の分かりやすい性質は棚に上げてしまうのは、きっとこの少年の悪いところである。
「ヴァイス、仕事手伝え。したら愚痴でも相談でも、なんでも付き合ってやるからよ」
傍に置いてあった一枚の紙切れで頭をペシペシと叩かれる。たかが一枚ではあったため、ほんの少しの風圧を感じた程度で済んだ。
ヴァイスは重い動きで顔を上げ、次に椅子から立ち上がる。体全体を使って椅子を持ち上げ、フローリングを傷つけないようにと注意を払いながら、それでも怠そうに抱えた椅子をディアンの方へと近づけた。ガタガタと、何度か位置を調整して。そしてようやくと言ったようにドスンと着席した。
不服そうな顔を維持させたまま作業に取り掛かる。隣の少年は寛大そうな笑いをこぼした。ずっとこのままでいるつもりだったのに、釣られてしまったのかヴァイスも思わず笑ってしまった。彼はまさに、分かりやすくて単純な男児だった。
そして数十分後、駄弁りながら作業を進めてた割には早めに終わったことにヴァイスは驚きつつ、ふぅと息を吐いて安堵を示した。チラリと横を見ると、ディアンはパソコンの片付けをしていて。あっという間に終わらせたかと思えば、コピーした報告書をパラパラとめくって確認していた。
「そんじゃま、作業も終わったことだし……ほら、白状しやがれ」
そんな中、随分とぶっきらぼうな態度で話を切り出された。何も考えずにじっと見ていただけに、ヴァイスは迅速な反応ができなかった。えっ、と素っ頓狂な声を漏らしながらディアンの方を見る。
「さっき言ったこと、もう忘れたのか? ま、手間賃みてえなもんだと思え」
ほらほら、と声を声をかけながら、ディアンは扉の方へと向かった。道すがらヴァイスの話を聞くつもりなのだろう。
ディアンはそのまま颯爽と扉を開け、彼のそんな動作でスイッチが入ったかのようにヴァイスは慌てて立ち上がった。落ち着きのない動きで追いかける。先に行ってしまったと思っていたディアンは、先導するように扉の先で不敵な笑みを浮かべていた。
「……変な夢、か」
事の顛末を全て白状し、ヴァイスの悩みの種を暴くことに成功したディアンは今現在見事なまでの皺を眉間に作っていた。どうやら真剣に考え込んでいるらしい。
予想通り、どころか予想以上に真面目な対応をされると少し申し訳なくなってしまう。どうしたものかと少々悩んだ挙句、皺の合間を狙って突くという荒技を実行した。
「いてっ! 何すんだよ……」
見事刻み込まれた縦線は消え去り、彼の表情は柔らかくなる——なんて上手くいくはずもなく、ヴァイスの思惑は盛大に外れてしまった。むしろ、ヴァイスが刺激を与えてしまったことにより、更に深く皺が刻み込まれてしまったようにも見える。想定以上に頑固なディアンの眉間の皺に対し、ヴァイスは勝手に謎を深めさせた。
それはさておきと彼に返す言葉を考える。うーんと少しだけ視線を泳がせて、そして彼に向き直った。
「ディアンがそこまで真剣に悩んでくれるなんて思わなくてさ。……でも、それでちょっと安心したかも。だから大丈夫」
お馴染みの、安心させるための笑みを浮かべてそう言った。ディアンはほんの少しだけ不服そうな顔をしていたが、どうやら納得はしてくれたらしい。次第に表情が和らいで、今度はヴァイスの思惑通り安堵したような顔をした。
物理じゃない方が効くのか、と実用性がありそうでなさそうな発見をしつつ、気が付けば目的地に到着していた。あっ、と声をあげながら足を止める。両手に持っていた書類を片手に持ち替えていると、背後から伸びてきた手によってその紙の束は取り上げられた。
「あとは提出するだけだから、ヴァイスはもう戻っていいぞ。お疲れ様」
ヴァイスから取り上げた分の髪をぴらぴらとたなびかせながら、ディアンは極々自然にそう言った。あまりにもスムーズに放たれたその言葉。事前予告も無しに放たれた側のヴァイスは、少しの間呆然とする。情報を咀嚼し切って、ようやく曖昧な返事をした。はは、と愉快気に笑われてしまった。
折角ここまで一緒に来たのだから、別に提出の作業もお供するのに。ヴァイスはそう思ったが、こればかりはディアンの厚意であると理解できたので、何も突き詰めないことにした。そして別れ際、あっと思い出したようにディアンを呼び止める。
「なんだよ?」
「お礼とはいえ話、聞いてもらったからね。怪我のことノワールにチクったのはチャラにしてやる」
ビシッと真っ直ぐに伸びたヴァイスの指は、行儀悪くディアンを指し示す。線分を結んだ先で、ディアンはぎくりとしたような表情を見せた。やがて気まずそうに鉄紺の髪をわしゃわしゃと掻き撫でてから、参ったとでも言うように笑う。
「さんきゅな」
そう言って笑ったディアンの顔にヴァイスがしてやったり感を覚えてしまったことは、きっとディアン自身にもバレているだろう。
手を振り合うだけの短いやり取り。そんなことで相手の内情を察してしまえるのだから、過ごした時間の長さと濃度というものは恐ろしい。もちろんいい意味だ。だって、全く嫌だとは思わないのだから。
さてと来た道を戻るために方向転換をする。心が軽やかになったのと連動するように、バレリーナのような軽快なターンをして。独特な鼻歌をご機嫌に奏でながらも、あれと何か忘れているような感覚を覚える。鼻歌は徐々に記憶を辿るための導のような声に変わり、その音は珍しく抑揚をつけながら宙を舞った。
けれども思い出せない。それなら些細な事であろう。それか、日常茶飯事な出来事か。
本日の仕事を終えたことを、その日のタスク終了と同義であると考えるヴァイスにとっては、記憶の棚から引き出すまでもないことなのだ。それがどれだけ、仕事を始める前のヴァイスにとって重要なことであったとしても。