十七話 親 コツコツと鳴る一人分の足音は、室内に反響して与えた以上の大きさを返してくる。一人の寂しさを味わいながら、目的の人物を探した。室内にいくつかあるドアを順に見ていって、とりあえず一番最後に目についたところに向かおうとする。そしたら、そのタイミングでヴァイスが入ろうとしていた扉とは別の扉が開く。驚いて、ばっと振り向きそちらを見やった。
「あぁ、ヴァイスか! 来ていたんだな、いらっしゃい!」
ヒールの音を高鳴らしてそう出迎えたのは、月白の長髪を高く結った一人の女性。力強い笑みを見て、ヴァイスはほんの少しだけ目を見開いた。
「——グレース様」
つぶやいたように呼んだ名は、緊張感を纏っていた。
人工亜人を造り出すことができる研究者は、両手どころか片手の指でもすっぽりと収まってしまうほどに数少ない。世代交代の面もあるが、そもそもの“方法”を知る者が限られているからなのだ。
人工亜人という存在を造り出し、そうして今の形にまで改良させてきた当時の研究者たち。「ヘルシュタイン家」と「ノインテッター家」という、二つの良家の家から排出された研究者こそが、その当事者だ。そして、人工亜人を造り出す方法は、その二つの家の中でだけ代々受け継がれるものなのだ。
そしてヴァイスが「グレース様」と呼んだ彼女の本名はグレース・ヘルシュタイン。人工亜人を造ることを許された、数少ない研究者の一人だ。現代のヘルシュタイン家において、研究職に就いているのは彼女ただ一人。対してノインテッター家の方は二人。総じて三人が、今現在人工亜人を造り出すことができる数だ。言い換えれば、たった三人で異形への対抗手段を造り、異界を守っているのだ。彼女たちは。
訓練生時代に受けた授業でも、ヴァイスはこの話を散々聞かされた。毎回一語一句変わらぬ文言を聞かされたため、勉強の苦手な自分でも今なら何も見ずに声に出して説明できそうな気さえするほどだ。だがそれはつまり、異界にとってそれくらい、ヘルシュタインとノインテッターの研究者は尊ばれる存在なのである。
が、その事実を理解しつつも、ヴァイスはグレースに対して尊敬の念を抱ききれなかった。何も知らない第三者が聞けば、すぐさま非難の言葉を浴びせるだろう。そう、何も知らなければ。
ヴァイスがグレースのことを尊敬する対象として見ない理由は、彼女の内面にあった。
「ところで今日はどんな用だ?」
「あー、はい……実は」
「そう言えば定期検査が近かったな! そのことか? いや、決めつけるのは早計か! それならあれだろう! お前は昔から好奇心や勢いは旺盛だったからな、また気になるものを拾ってきたとかそんなところか? 全く仕方ないやつめ!」
「え、あぁ……」
これである。
グレースは自分本位に話を進めてしまうところがあった。昔からそうだ。振った話題が十にも百にもなり、更には趣旨も若干変化して返ってくる。これ自体が厄介極まりないのもそうだったが、グレース本人は至って悪気はなく、そして決して悪人ではないのが悩ましいところだった。能力も高く、研究者としての実績もあり実際に多くのものから尊敬されている。加えて立場も何も関係ない、とでも言わんばかりのフレンドリーさ。会えば毎度の如く、旧友のように気軽にヴァイスのことをかまってくれた。
ただ、話が通じないという性質が致命的すぎるだけで。ヴァイスは、それを感じる度に「中身はいい人なんだけどなぁ」と思っていた。
そしてヴァイスが頑なに検査の打診を拒否していたのも、彼女の性質がその理由の一つとなっている。毎回会話が噛み合わず、余計な時間を食ってしまうのだ。ノワールもそれを理解しているからこそ、一度検査に行けばしばらくは帰ってこないことを予測していた。毎回のことだ。
「あぁ、また親のようなことを言ってしまったな! いやでもあながち間違いではないのか。お前を造ったのは私だからな!」
不意にそんなことを言われて、ヴァイスはむず痒い思いになる。そう、ヴァイスは彼女の手によって生み出された人工亜人。他二人の研究者による介入はなく、彼女一人で手がけたという話を本人から聞いた。正真正銘、生みの親だ。こうしてヴァイスには特にかまってくれるのも、そういう愛着から来ているのかもしれないと思うと、色々複雑な気持ちになる。
ただいつまでもこうして彼女のペースに乗らされている訳にもいかない。本来ならば何にも苛まれることなく、ヴァイスは任務へと赴いていたのだ。間に合おうが間に合わなかろうが、さっさと済ませてしまいたいのは申し訳ないが本心だ。
少しの罪悪感を覚えつつ、ヴァイスは彼女の話を遮ることを決意した。
「にしても、ヴァイスが目覚めてから五年か。そう思うと感慨深いところもあり、素直に嬉しい部分も——」
「あの! 検査を受けに! 来たんですけど!」
前にも聞いたようなセリフを遮って、ヴァイスは普段の倍以上の声量でそう言った。その声にグレースは少しだけびくりとし、そのままフリーズする。先程までうるさいくらいに付けられていた身振り手振りもピタッと止まったため、少しうるさすぎたかとヴァイスは不安になった。
数秒して、グレースがようやくパチリと瞬きをしたことでその不安は解消される。良かった、と思うと同時にグレースは片手で頭を抱えた。下を向いた彼女だったが、元々身長が高くヒールを履いている彼女の顔はヴァイスから見えてしまう。ぎゅっと目を瞑り、恥じるように少しだけ頰を赤くしていた。
「そ、そうだったのか……すまない、またいつもの癖が出てしまったな」
そして、こういうところ。グレース本人は、自分本位に話を進めてしまうことを「悪癖」と自認していた。自認しても尚直すことのできないそれに頭を抱える様子も、会うたびに見ている。だからこそ、ヴァイスはそんな彼女を邪険にもできなかった。本人が一番その癖に苦しめられているのだから。
憎めない、とはこういうことなのだろうな。ヴァイスはグレースと話すたびに、その表現の意味を噛み締めることになるのだ。
「グレース様、僕は大丈夫ですよ」
慣れてますし、という言葉は飲み込んで。自分よりずっと背丈の大きい彼女を慰めるように言えば、グレースは申し訳なさそうを顔をして再び謝罪の言葉を述べる。にこりと微笑みで返せば、検査検査とつぶやきながら気を逸らすみたく準備に向かった。
その後ろ姿を見ながら、これならすぐに気を持ち直すだろうとヴァイスは人知れず頷く。異界への功績は大きく、腕も確かで随分と大人に見える彼女だが、節々に可愛らしさが見えるところは好ましい。
馬の尻尾のようにゆらめく束の髪を目にしながら、さてととヴァイス自身も検査を受けるために検査室へと向かった。
ヴァイスの大きさならすっぽりおさまってしまいそうな、無機質な白色の台の上。ヴァイスはちょこんと腰掛けて、足をプラプラとさせていた。
「聞いたぞ、ヴァイス。正隊員になったんだってな? どうだ、仕事の方は」
白い手袋を嵌めながら、グレースは会話を切り出す。ぼーっと天井を見つめていたヴァイスの反応は遅れるが、反省を生かしてかグレースは彼の返事を待ってくれていた。
「めちゃくちゃ楽勝です! って、言いたいんですけど、やっぱ普通に忙しいです。毎日の鍛錬だって欠かせないし」
内容に反して笑顔で答えながら、ヴァイスはここ最近の生活を記憶の糸を手繰って思い出していく。
朝は遅くても七時前に起きて、そしていつも通り食堂で、NoDiWSの四人と朝食を摂る。任務がある日だとその後は場合によっては夕方頃まで潰れ、そうして息つく暇もなくシャワー後に夕飯の時間。それが終われば待ち望んだ休息が……という訳でもなく、日替わりで勉強やら鍛錬やらの予定が入ってくるのだ。任務がない日は幸か不幸か、午前や昼にそれらの予定を回すため夜はゆっくりできるが、それでも忙しいことに変わりない。
そして仕事と言っても、ただひたすらに異形を倒すことだけに留まらないのだ。任務内で指定された場所の事前調査や、異形を討伐した際の後始末。まぁ後始末は別に係がいるのでさほど体力的な苦労はないが、それでも手配はこちらでしなければならないのでその分手間はかかる。そして任務終了後の報告書作成。事務仕事が壊滅的に苦手と言っても過言ではないヴァイスにとって、これは最大の難所である。他のメンバーが手助けしてくれるものの、毎回報告書が終わる前に既にヘトヘトになるのがヴァイスだった。
よくよく思い返してみると、正隊員がいかに忙しい立場なのか理解できる。遊びたい盛りのヴァイスには少々厳しいが、それでもへこたれない理由はいくつかある。異形を倒すため、人工亜人として生を受けたという元々の使命感と、あの日にディアンと交わした約束を守るための義務感。それら二つが大きかったが、けどそれだけという訳でもない。
想起するうちに閉じていた瞼を薄らと開く。膝の上で組んでいた手を擦り合わせ、息を吸った。
「——でも、家族のみんながいるから。だから、頑張れるんです」
雪解けの野から咲いた花のように、ふわりと笑う。細めた瞼と揺れるまつ毛のその奥に覗く露草色の瞳は、その芯に家族である三人を内密に浮かべていた。
ノワールと、ディアンと、そしてスティル。幼い頃からずっと、当たり前のように一緒にいた彼ら。好きなものだって価値観だって、同じところもあれば到底似つかない部分だってある。それでも、他の誰よりも彼らのことを信頼していたし、他の誰よりも彼らのことが好きだった。
友達のようで、仲間のようで、けれど結局は家族という括りに落ち着くあの三人がいるからこそ、ヴァイスは今まで頑張ってこれた。そしてこれからだって、あの三人と一緒ならどこまでだって進んでいけると、そう確信にも似た思いを抱いている。
そんな想いを伝えるみたく、まっすぐな視線をグレースに向ける。彼女はほんの少し驚いた顔をしたのちに、ふっと優しげに、けれどどこか寂しげに笑った。
「ヴァイスらしいな。……あの三人に、妬いてしまいそうだよ」
竜胆の花弁を溶かしたようなその瞳は、ヴァイスを捉えているようで、けれどどこか遠くを見ているようにも感じられた。そこに若干の違和感を覚えるが、それもすぐに払拭される。そういえば彼女から家族関係の話を聞いたことはあまりないな、と思いながら、柔く口元を綻ばせた。
「……それは、親心ですか?」
揶揄うようにそう言えば、グレースは愉快げに笑みをこぼす。
「あははっ! 親心か、そうか、そうくるか。……まぁ、似たようなものだな」
跳ねるような笑い声を含ませながら、グレースはそう言った。なんとなくはぐらかされた気がしなくもないが、けれど彼女が楽しそうだから気にしないことにする。
ヴァイスは視線を落として少し思考を巡らせたのちに、再びグレースに顔を向けた。
「グレース様のことも、ちゃんと好きですよ」
彼女の言葉は親心からくるものだと仮定して、ヴァイスは無邪気な子供を体現するかのように満面の笑みを浮かべる。グレースはまた笑い声をあげながら、そうしてヴァイスの頭をわしゃわしゃと雑に撫でた。勢いにつられて頭が揺れる。ふわりふわりと、自身の真白で織られた前髪が揺蕩う様が視界の端に映った。
何回か撫でられたのちに、グレースは手の動きを止める。満足したようにこくりと頷いて、終いにポンと一度だけ撫でられた。乱れた髪を振り払うように、ぷるぷると小動物みたく首を振る。終わった後に顔を上げればグレースと目が合って、二人は同じタイミングで破顔した。
雑談タイムは終わりを告げ、ヴァイスはごろりと硬い台の上に寝転がる。検査前に雑談を挟むのも毎回のこと。初めは緊張をほぐす目的だとばっかり思っていたが、最近になってグレースはただおしゃべり好きなのかもしれないと思い始めていた。それでもいきなり検査が始まるよりは良い。どういう意図があったとしても、本当に緊張はほぐれるから。
「さぁ、検査を始めるぞ」
台の前に仁王立ちになって、腕を組んだグレースがそう言った。その構図で見下ろされると威圧感を覚えるだとか、目の色からして興奮が伝わってくるだとかは言っても無駄なので秘めておく。
そわそわする心を抑えきれずに、ヴァイスは足を擦り合わせながら手をぎゅっと握り締めた。
鳩尾あたりにグレースの手が触れる。触れた部分から白い光が波状に広がり、ヴァイスは眠るように安らかに、引きずられるように急速に、意識を飛ばした。