ハーバリウムに口付けを 三話 少しの時間が過ぎて五月になった。心地の良い爽やかな風とは裏腹に、氷里は揺れるカーテンを横目に溜息を一つ吐く。机に置かれた教科書は風で捲れて読む必要のないページへと移り、開かれたノートにはいつまで経っても色が乗ることはなかった。
氷里たちの通う高校は、既に定期テストの期間に入っていた。氷里は特別勉強が苦手というわけでもない。どちらかと言えば運動の方が苦手である。背が低い上に運動が苦手、とはなんと不運なことかと氷里は時々嘆くが、別に今の関心はそこに向かっているわけではない。もっぱら、テスト勉強である。
だが勉強が苦手ではないとは言え、それがライクの領域に入ることはなかった。故にテスト期間はいつだって憂鬱だ。中学の頃から、ずっと。だがしかし努力を怠れば赤点は必至。全くもって面倒なことだと、氷里は皐月の清涼には似つかわしくない憂鬱を抱えていた。
指先でシャーペンをいじって遊ぶ。そろそろ集中しなければ、というところでピロンと軽快な音が二つ分流れた。某メッセージアプリの通知音。聞き慣れたそれに反応してロック画面を解除して、アプリを開けば算用数字の二が記された画面。そのまま左横に目をずらせば、「幸八君」と予め変更しておいたその名前が表示されていた。まるでスクリプトに設定されていたように瞬時にタップする。そうして開かれたチャット画面には「テスト範囲の勉強教えて!」という新規メッセージがあった。ギャグっぽい土下座スタンプも一緒に送られており、氷里は思わず笑みをこぼす。
幸八は勉強が苦手だった。テスト前は毎回項垂れているほど、それはもう顕著に。逆に運動は得意らしく、本当に自分たちは真逆の性質を持っているな、と氷里はよく思っていた。そして幸八本人は、神は二物を与えずだと笑いながら自虐しているのだ。その度に、そんなことないよと氷里は言っている。氷里からすれば本当にそうだった。見目も麗しく人当たりも良い、その上運動ができて男女共に好かれている。二物どころの騒ぎではない。
けれど氷里自身がそれに対して嫉妬の念を抱いたことはなかった。全てを含めて、由塚橋幸八という人間だと思っていたから。
氷里は、そういえば中学の頃も特に仲が良くなってからはこうしてテスト勉強の手伝いをしていたな、ということを思い出した。場所は大抵氷里の家か街中の図書館。幸八の家で勉強会を開いたことがないわけでもなかったが、思い返せばいつかの一度きりだったような気もする。まぁ諸々の事情があるのだろう。幸八の父が厳しい人で、他人を家に入らせることが好きではないという話を聞いたこともあった。
ならば今回も少なくとも幸八の家ではないかな、と氷里は思いつつ、了承の返事をした。場所はともあれ、幸八に頼られることは嬉しい。恋心の面からもそうだが、単純に友人として信頼されている気がして。
そしてそれに伴って湧いてきたやる気の矛先は眼前のノートへと向かうが、ちょうど視界の端に映った時計はお昼時を指していた。どうするかと迷ったのちに、氷里は静かに瞼を下ろして勉強道具を片付けた。
階段を下りてリビングへ。途中、ソファに座りテレビを観ていた姉に挨拶をしてからキッチンに立った。
「お姉ちゃん、何か食べたいものある?」
氷里は冷蔵庫の中身を確認しながら、姉に対して質問する。んー、と思考を巡らせるように声を発して、少しの時間が経ったのちに再び声を出す。
「オムライス!」
子どものように無邪気な声。そんな姉に氷里は笑みを含ませながら、はーいと返事をした。
開けたままだった冷蔵庫から、朝に炊いておいた残りの米とそれから鶏もも肉、玉ねぎを取り出す。卵、バター、ケチャップ、それから牛乳も。用意したものは作業台に置いた。
氷里は冷え切ってしまった米を電子レンジで温めて、その間に鶏肉を切り始めた。丁寧に脂肪を取り除き、一口サイズの大きさに切っていく。玉ねぎも食べやすいよう微塵切りに。途中でチンッという電子レンジ特有の軽快な音が鳴ったので、米を取り出してからまた玉ねぎを切った。
玉ねぎには硫化アリルという催涙性のある成分が含まれているらしい。普段はバランスを保たれるその成分。だがしかし、切るとその成分が空気中に蒸発するんだとか。故に玉ねぎを切る時は目に染みたり、涙が出たりするそうだ。
氷里は、いつだったか本で得た知識を思い出した。玉ねぎを切る時は、滲む涙に誘導されるようにして、そんなことを思い出すのだ。
無事、かどうかはともかく、二つの食材を切り終えた氷里は戸棚からフライパンを取り出した。IHクッキングヒーターの上に置いて、使いかけのバターを大さじ一杯分だけ取って熱する。じわじわ、気泡を立てて段々と溶けていく。個体が完全に崩れたのを確認してから、鶏肉と玉ねぎを入れる。炒めていく中で鶏肉の小麦を思わせるような色へと変わり、玉ねぎはよく火が通り透けていた。
氷里はダークグレーの調味料ラックから塩、こしょうを取ってフライパンの中へと振りかける。少し混ぜてからご飯を入れた。ほんのちょっとだけ火を強める。ほぐすようにして混ぜれば、なんとも美味しそうなチキンライスが完成した。
だがオムライスを作るならばそれでは足りない。氷里はパラパラになったチキンライスにケチャップをたっぷりと加えた。混ぜ込むようにして炒め、ライスとケチャップを馴染ませる。ムラなく朱に染まったケチャップライスに満足そうに微笑んで、氷里はそれをボウルへと移した。
次はいよいよ米を包む卵を作る。慣れた手つきでボウルの中に卵二つ分を割り入れる。そこに牛乳と塩を加えて、手早く、そして丁寧にかき混ぜた。黄身と白身が完全に混ざり合うように、入念に。先に洗って水気を拭き取ったフライパンにはサラダ油を入れて。しばらく熱したら、そこに注ぐようにして卵液を一度に加えた。半熟状態になったら火を止めて、ケチャップライスを半分ほどのせる。慎重に、破らないように、氷里は繊細な手つきでフライ返しを扱ってそのオムライスを形作る。ミスも焦げもない、ダンデライオンの色彩を乗せた綺麗なオムライスが出来上がった。仕上げに波線を描くようにしてケチャップをかければ、まるでお店のメニュー写真のように見栄えが美しくなった。
一連の作業を繰り返して、二人分の昼食はやっと完成した。
「うん、良い感じ」
盛り付けられたオムライスを見て、氷里は我ながら良い出来だと思った。そして食器を運ぼうとしたその時、姉が氷里の元へとやってくる。
「美味しそう〜! この見た目で更に味もいいんだから、やっぱ氷里は天才ね〜!」
「わっ、ちょっとお姉ちゃん……危ないから」
自分のことのようにご機嫌になった姉は、氷里の頭を撫でくりまわした。あまりの持ち上げように、氷里は嬉しさよりも呆れが強いような声を出す。
姉は一々氷里のことを過剰に褒める部分があるので、そこは慣れっこだったのだ。可愛げを欠いたその返事に姉は仕方ないな、と言うように笑って、それから氷里の手から食器を奪い去っていった。
「え、お姉ちゃんお皿——」
「いいのいいの〜! 作ってもらったんだから、配膳くらいしないとね」
にこやかに笑って、流水のような動きで配膳を進める。そんな姉に氷里は笑みをこぼして、少し乱雑に整えられた食卓に着いた。
「いただきます」
兄妹顔を見合わせて、お互い笑みを浮かべながら挨拶をした。
小さく一口オムライスを頬張った。濃厚な味わいのケチャップライスを包む、ふわとろ卵の優しい味わい。定番とはいえ、やはり美味しいものは美味しい。満足のいく味にもう一口と食して。チラリと目線を上にずらせば、幸せを噛み締めたような笑みを浮かべた姉の顔が視界に入る。
自分の料理によってその笑顔が生み出されているのだと、そう思うと氷里は歓喜した。嬉しさのあまり緩みそうになる口元を隠すようにして、オムライスを口に運ぶ。今日のオムライスはなんだか特別美味しいように感じた。
「ごちそうさまでした」
控えめにそう呟く。満腹になったお腹をさすりながら、既に食べ終えて食器を洗っている姉の元へと向かった。
「氷里、食器」
「自分でやるから、大丈夫」
「そう?」
短いやり取りを終えた後に、僅かに食物の名残を残した食器を水で流す。
「氷里、高校にはもう慣れた?」
不意に姉がそう聞いてきた。突然の質問に、氷里の反応は一瞬遅れる。うーん、と唸ってから姉の顔を見る。
「まぁ、それなりに」
はにかみ笑いを含みながらそう言えば、氷里と同じ色を写した瞳が穏やかに揺らぐ。氷里はほんの少しのむず痒さを感じた。
「今、テスト期間なんだっけ。良い点取れそう?」
鈴のように、ハリを残しつつも柔和な姉の声色が響く。
「まぁ……頑張れば、かな」
食器を洗うざらついた音に混じった、氷里の声。その後の少しの沈黙を、追い立てるような流水音が飾り立てた。そっか、と小さく一つ。言葉をこぼした姉の、ほんの少しの息遣いが、まるで自分がしたみたく間近で聞こえた。
「氷里は、何に悩んでいるんだろう」
無意識のうちに落ちたような声。ヒュッと息を吸い込むような音が、自身の喉元から聞こえた。食器を洗っていたはずの手の動きは止まっていて、微かに震えたと思えば縋るようにスポンジを握った。まるで病人のように力をなくした左手は、それでも騒がしい音を立てまいとどうにか食器を留めている。
食器に視線を落としていた氷里は、俯いたままだった。動揺を取り込んだ湖水の瞳を隠すように、一度だけ瞼を伏せる。数秒にも満たない静けさの後に、氷里はふっと光を求めるように顔を上げる。姉に見せるその顔は、至って穏やかな“弟”の顔だった。
「急にどうしたの、お姉ちゃん。悩み、って……今はテスト勉強が忙しいくらいで、特に何もないよ」
儚げな笑みを貼り付けて、特に質問されたわけでもないようなことに捲し立てて答えていく。カチャ、と姉が食器を水切りかごに置いた音が、疑問を促すように脳漿を揺らした。
「……いつも氷里がするその笑顔の裏に、何か……うぅん、なんて言うんだろ。抱えきれない何かを隠しているような……いやっ、厨二病みたいなアレとかじゃなくて!」
身振り手振りを加え、焦ったように姉は言った。閉じきれていないその感情を、まさか姉に勘付かれそうになっているとは思わなくて。氷里は困ったように笑った。
「考えすぎだよ、お姉ちゃん。本当に、なんでもないから」
自分自身にも言い聞かせるようにして。凪いだ水面みたく、極めて冷静に吐き出されたその言葉は、姉の表情を僅かに歪ませる。そっか、と一言。先程よりも自信を欠いたような声を出して、急足でリビングに戻っていった。
あぁやってしまった、と氷里は思った。完璧に繕えていなかったことも、姉に素っ気ない態度をとってしまったことも——本当の自分を、怯えて封じ込めてしまったことも。
やはり自分は臆病なままだ。いつまでも変わることができないまま、己自身も周りも傷つけていく。そうして、過ぎた後で後悔する。手についた水滴が罪を責めるため纏わり付いているような、そんな気がして。乱雑に、徹底的にタオルで手を拭いた。
少し赤みを帯びた手を、氷里は力無く握った。変わることができない自分。けれど変化していくことばかりが正しいわけでもないと、氷里はそう思っていた。だからこそ、この八方塞がりな状況に身を置いたまま、縛られたみたく身動きができないままの自分であるしかないのだ。
気まずさを残しながらも、氷里は自室へ戻ろうとした。一回だけ肩越しに姉を見て、けれどかける言葉も見つからなくて。階段の手すりに少し触れてから、その足を持ち上げようとした。
「氷里」
不意に聞こえた一言に、氷里の動きはピタリと止まる。足を元の位置へと戻して、中途半端な角度で振り返れば、その正面に姉が立っていた。
「何? お姉ちゃん」
ポカン顔を作り、疑問一色で塗り固めた声を発した。何かを言い淀むように動かされる唇。氷里は瞬きをしてから、首を傾げる。アパタイトの煌めきが交わったと同時に、姉は意を決したような顔をした。
「お姉ちゃん、ずっと氷里の味方よ。……悩みも不満も言えないような、情けないお姉ちゃんかもだけど……それでも、貴方の幸せをずっと願っているからね」
右手を優しく掬われた。両手で包まれて、その温かさがじわりと滲んだ。薄く光ったアジュールブルーに優しく照らされて、氷里は目を見開く。
数秒して、するりと姉の手は離れていった。自身の手と、姉の大きな瞳を交互に見つめる。先程の慈愛を含んだ雰囲気を少しも感じさせないように、姉はにっこりと微笑んだ。いつも通りのそれを見て、氷里はハッとした。
「高校生活、楽しんで」
応援するようなジェスチャーをされて、姉は先に階段を上っていった。今更過ぎたその言葉を、氷里は静かに抱きしめた。