三話 ほおずき ゴーン、ゴーン。不意に、フィルターを介したかのように鈍く不明瞭な鐘の音が聞こえてきた。ヴァイスは一瞬だけ思考を巡らせて、その音が六時の到来を告げるものだと気付いた。
それを合図としたように、するりとディアンの小指が離れていく。その刺激に伴って、ヴァイスは先のやり取りを忘れたかのような無の色を映したディアンの顔を見た。
「六時か、飯時だな。お前も一緒に行くか?」
一緒に行く、とは寮に付属している食堂に、である。ヴァイスたちが住む寮は、つまり人工亜人たちが住む寮ということになるが、その正式名称は国立対異形人工亜人専用寮という、とんでもなく長ったらしい名称だ。
そんな寮は異界のためとは言え、国が人工亜人専用に建てた施設。もちろん、生活するために必要な機能は一通り揃っている。食堂もその一つだ。ヴァイスたちは基本的に、その食堂で日々の活動エネルギー源である食事を摂っていた。
「……僕は、まだいいや。先に行ってて」
ヴァイスは、そう言ってディアンに微笑みかける。ディアンは若干首を傾げた後に、分かったとだけ言って部屋を出ていった。
途端に、生命の減った部屋は温度が下がる。
元より体温の高いディアンが残した、あの契りの痕を焼き写すような熱。それを孕んだ自身の小指を、ヴァイスはもう片方の手で包んだ。
あんな約束をさせてしまった。
約束という言葉で取り繕われた、中身はただの禁忌にも近い身勝手。それをディアンにも背負わせてしまったことに対して、ヴァイスはまだ後ろめたさを拭えないでいた。
だからと言って、いつまでも悔やんでいられるほどの余裕も持ち合わせていない。
「決めたなら、ちゃんと覚悟しなきゃ……」
ディアンの——兄の優しさと覚悟を、無碍にしないように。
カチコチと意識の外から鳴り響いてくる秒針の音。それと共に、ヴァイスは両手を額に当てた。
ぐぅ。
シリアスな雰囲気を崩すように間抜けな音が鳴り響く。自分自身で驚いたヴァイスは、口をぽかんと開けてフリーズした。それから、その小さな両手を腹のあたりへと移動させる。
「お腹、減った……」
腹が鳴った音が引き金になって思い出したみたく、ヴァイスはそうつぶやいた。
ふと、時計を見る。ディアンが去ってからさほど時間も経っていない。まだいいや、と言った手前こんな早くに食堂へ向かうのもどうなんだ、とヴァイスは思った。
お腹をさすりながら考え込む。秒針が一周して、ヴァイスは右手で握り拳を作った。
「ご飯にしよう!」
ヴァイス一人しかいない空間に、憂鬱を晴らすような大声が響いた。
開放されっぱなしの両開きドアの真横。ざらりとした質感の白菫を纏った壁に手をついて、ヴァイスはドアの向こうを覗き見る。
ちょうど夕飯時の食堂は人口密度が高かった。人の姿が多い中、ヴァイスは誰かを探すようにキョロキョロと視線を動かしたり、ほんの少しだけ背伸びをして食堂の空間を見渡す。
「あ、いた」
目当ての人物は、それほど苦労せずに見つけることができた。食堂の天井に設置された魔力灯の光を受けたその髪は、淡いネオンライトに照らされたように濃紺を浮かべている。そしてそれとは真逆な印象の、真っ赤な瞳を持つ少年、ディアンだ。
ディアンは、食堂のスペースの一角で黙々と食事を進めている。目を凝らして手元を見れば、食事はまだまだ残っているらしく、今すぐに食べ終わるような気配もなかった。
「さりげなく取って食べる……いや、バレるよなぁ……この髪だし」
少し長めに伸びた前髪をひと束取って、ヴァイスはつぶやく。どんな物質よりも透明度の高く、雪に包まれたような空気感のこの白髪は人に紛れても瞬時に見つけられてしまうような、そんなヴァイスのチャームポイント。そう言えば聞こえはいいが、悪目立ちはするもので。
困ったな。ぷくりと頬を膨らませて、ヴァイスはそんなことを思った。
「はぁ、もういっか。食べると決めたら僕はやる男だぞ……」
投げやりみたく、ヴァイスは意味のわからない文言を吐き出した。いつまでも食事を我慢できるほどの我慢強さも、ヴァイスは持ち合わせていないのだ。
「こんなところで何してるんです?」
「うおわっ?!」
いきなり声をかけられたことに驚いて、ヴァイスは肩をビクつかせる。勢いそのままに壁にぶつかりそうになったが、衝突まで残り一ミリと言ったところで耐えた。
ヴァイスは顔を強張らせたまま、ギギギと錆びついた機械みたいにぎこちなく首を回して声の主を捉えた。
「ス、スティル……」
「こんばんは、お兄様。お昼ぶりですね」
スティルと呼ばれたその少年は、流水の如く淑やかに顔を傾げる。その動きに伴って動く、少年自身の声色を反映させたかのような柔らかなオフホワイトの髪がヴァイスの視線を引いた。
その頂点で重力に反した毛束二つ分を捉えて、それからスティルの顔を見る。静謐な新緑色と目が合えば、垂れがちなその目は緩い弧を描きながら優しげな笑みを浮かべた。特徴的な左目の泣きぼくろも、それにつられてその綺麗な形を歪ませる。
「そうだね、お疲れ様……」
「お疲れ様です。……それで? こそこそ何をしていらしたんですか」
お兄様、と最後に付け足した。
スティルは、ただ一人だけのヴァイスと同い年の人工亜人の少年だ。彼はとある日を境にして、ヴァイスのことを「お兄様」と呼び始めた。
お兄様。既に聞き慣れてはいるが、未だ納得のいかないその呼称にヴァイスは僅かに眉を寄せる。自分よりも早い誕生日の、自分よりも大人びたスティル。そんな彼に「お兄様」などと呼ばれるのは、なんとも不思議なものなのだ。
そういえばスティルは、ヴァイスに憧れと尊敬の念を抱いているからお兄様とお呼びしたい、なんて言っていたな。
ヴァイスは数年前のことを思い起こしながら、先程の質問に答えようとする。
「えぇー、ちょっと……まぁ、うん」
が、適当な言い訳が思いつかない。
そもそも、事細かに説明などすればまた“あのこと”をペラペラと口走ってしまうことになる訳で。かと言って、それを避けようと諸々を省いて「ディアンと鉢合わせるのが気まずい」と言うのも違和感でしかない。ヴァイスとディアンは、周囲からは仲の良い兄弟として見られているのだ。
「……食堂に入りにくい理由でも?」
「いや、別に……そういうわけでも、なくもない……けど」
「どっちです……」
はぁ、と溜息を吐かれた。
手強いな、と同い年ながらにヴァイスは思う。
両手の人差し指を突き合わせながら、ヴァイスは口を噤んだ。きっとディアンら年上組相手なら、ここまで苦戦はしなかっただろう。些か相手が悪すぎる。
「まぁ、言いたくないなら良いですよ。それよりお兄様、ここで足踏みしていると言うことは、夕食はまだ済んでいないんですね?」
スティルが聞いてくる。
意外にあっさりと見逃してくれたことにヴァイスはほっと胸を撫で下ろしながら、うんと答える。一拍置いて、スティルは何やら考え込むような仕草をしてみせた。意図が読み取れずに、ヴァイスはさらりと白絹を揺らして首を傾げる。
数秒思案したかと思えば唐突に肩を掴まれて、ちょうど直角に方向を変えられた。
「えっ、ちょ、なに?!」
「私がなんとかします。お兄様は、そうですね……テラスにでも向かっておいてください」
言葉の真意も分からぬままに、背中をとんとんと押される。ヴァイスはえぇ〜、と声をあげながらも、従うこと以外に自分ができることはないと思い出し、その足でテラスへと向かった。
肩越しにスティルを見やれば、これまた美麗な笑みを浮かべながらひらひらと舞うように手を振っていた。
淡く映ったマジックアワー。意識しなくとも脳裏に焼きついてしまいそうな綺麗な空を目にしながら、ヴァイスは寮のテラスにいた。
アイアン製のテーブルセット。ヴァイス自身の髪色とは違い、いかにも人工的な白を纏ったそれに腰掛ける。光の加減で色が変化する金緑石のように、空が反射しフューシャに変貌した瞳で考えを巡らせた。
スティルは一体、何をどうするつもりであんなセリフを吐いたのか。
先程のヴァイスの態度は、誰がみてもあからさまな挙動不審だった。食堂の入り口でこそこそとし、理由を聞かれればはぐらかす。改めて思い返すと、自分の行動があまりにも怪しくて、ヴァイスは静かに嘆いた。
そんなヴァイスにも恐らく気遣うような素振りを見せ、行動を起こしてくれるスティル。他意があるのかそうでないのか。普段からお兄様と呼んで慕ってくれる彼だからこそ、純粋な尊敬からくるものだと思いたかったが、今のヴァイスはそんな気にもなれなかった。
「……これで二度目」
気を遣われるのは。
その言葉は、ゆっくりと薄香の唇に飲み込まれた。
ガチャ、と無機質な音を立てて、室内へと繋がっている扉が開く。パッと振り向けば、開いた扉の先にはスティルが立っていて。声をかけようとしたヴァイスの口は、一瞬にして閉ざされてしまった。
「え、それ」
スティルは両手にトレーを持っていた。漂う香りが先立って、それが食堂で提供されている料理だと主張してくる。浅い皿に盛り付けられた魚料理が、遅れて視界に入ってきた。
いまだに困惑するヴァイスに、宥めるような微笑みが向けられる。コツコツ、と硬く滑らかな靴音を響かせて、スティルはテーブルのそばへと寄った。そうしてコト、と控えめな音を立ててトレーをテーブルに置く。
二人分の食事が大きくはない面積のテーブルを占領する。目の前の空いていた椅子には、スティルが座った。
「わざわざ、持ってきてくれたの?」
「えぇ、まぁ。だってお兄様、あのままならずーっとお腹を空かせた状態で、入り口のそばで右往左往していたでしょう?」
くすくす、と上品に笑う。背丈も年齢も変わらないはずなのに、何故だか年上から穏やかに叱咤されている気分になった。
「そ、そんなことは……でも、ありがとう。僕のためだけに、こんな手間かけさせちゃって」
「いえ。たまには二人だけで食事を摂るのも良いものですから。……それに、お兄様のお役に立てることは私の何よりの光栄なので」
目を伏せて、落ち着きのある声で言う。ゆっくりと瞼が開いたかと思えば目を合わされて、再び美麗な笑みを浮かべた。
むず痒いな、とヴァイスは思う。まだまだ幼く、保護者の庇護下にあるような少年——もといスティル。そんな彼が、大人と遜色ないような所作をしてみせる。そして、そんな彼より幼稚で未熟な自分のことを尊敬してくれている。
食堂から離れたテラスに、二人分の食事を持ってくる手間も惜しまないほどに。
「……うん……?」
「? 何か?」
深刻そうな思案をして、不意にヴァイスはとあることに気づく。名探偵を気取ったようにして顎に手を置き、それからスティルの方を見た。
「僕、もしかして甘やかされてる……」
奇妙なものでも見るような視線をスティルに送る。困惑を分かりやすく表す寄った眉の距離を一層近づければ、スティルは緩い動きで腕を組んだ。
「おや、今更気付くんですね」
「ええー!」
まさか当たっているとも思わなくて、ヴァイスはガタッと騒がしい音を鳴らし立ち上がる。カチャン、と器の擦れる耳障りな音が響いた。
「ほらほら、お行儀が悪いですよ。料理も冷めてしまいますから、早く食べましょう」
何事もなかったように、ね、と綿のような声で言われる。あからさまに、けれどごく自然にはぐらかされた話題を、ヴァイスは口を引き結んで嚥下した。
「……いただきまぁす」
はむ、と一口含んだ。夜の空気にさらされた料理は、それでも確かに美味しかった。
すっかりと料理を平らげられた皿。それとは真逆に満腹感を抱くお腹を撫でながら、ヴァイスは幸福を含んだ声色でご馳走様でした、と言う。
向かいに座るスティルは、まだ食事中だ。まるで芸術品のように美しく食事を摂るスティルを、ヴァイスは頬杖をついて眺めた。
「……見られていると食べにくいです」
困ったような表情を浮かべ、口元に手を添えながらスティルは言う。それに対してヴァイスは、えへへと無邪気に笑ってみせた。
「スティル、意外に食べるのゆっくりだよな〜って。その代わり、めちゃくちゃ丁寧」
人差し指を振って、褒めるような調子で声を放つ。
食器の持ち方や扱い方は、いつかチラッと見た作法の本そっくり。そして立てる音は最小限。かと言って上品すぎず、無駄な動きも一切ない洗練された動き。
自分には到底無理な芸当だ、とヴァイスは心の隅で思った。緩慢な動きで手を元の位置に戻して、それから寒気を超えて芽吹いた花みたく笑う。冷たい表面の中にじわりと滲む、暖かな感情。
スティルは、そんなヴァイスの顔を見て驚いたように眉を上げた。
「まぁ、意識してはいますから。……それから、お兄様に押し付けられた分も私は食べましたからね。そのせいもありますよ」
笑いを含み、揶揄うようにそう言た。ヴァイスは思わず表情を崩して、うっと声をあげる。
料理の中に混ざっていた、ヴァイスの嫌いな食材。それを何食わぬ顔でスティルの皿に混ぜていったのだ。それをなんとも思っていないようにスティルが食すから、味を占めて苦手なものはどんどんと押し付けていった。
その結果が完食時間の差として出ているのだと、スティルはそう伝えようとしているのだろう。ヴァイスは気まずく思って、ゆらゆらと視線を泳がす。
「……さーて、食器片付けてこようかなぁ」
「ちょっとお兄様、逃げないでくださいよ」
はぐらかすみたいに言えば、スティルは呆れたように吐き出した。
しばらくの沈黙の後、二人は顔を見合わせて。それからぷっと同時に吹き出した。
二人が片付けを終える頃には七時をとっくにすぎていて、さてどうしようかと思案する。
「スティル、この後予定ある? なかったら、ちょっと体術の練習付き合ってよ」
「遠慮しておきます。やることがあるので」
食い気味に拒否されて、ヴァイスはがっくりと項垂れた。えー、とぐずるような声をあげる。スティル、と再び声をかけるも、左右に一度ずつ首を振られるだけだった。そんなスティルに、ヴァイスはぷく、と頬を膨らませる。
ヴァイスがここまで食い下がるのは、練習の誘いを断られたのがこれで初めてではないからだった。昔から、魔法やら何やらの練習の誘いをかけても、スティルは用があるだのなんだのと理由をつけて避けるばかり。
最後に一緒に練習できたのはいつだったか。いや、もしかしたら一度だけのことだったから、最後も何もないのではないのか。
ヴァイスはそんなことを思いながら、もどかしさを示すように体を左右に揺らした。
「お前はいつになったら僕の誘いを受けてくれるんだよ」
「さぁ、いつでしょうね」
にっこりと、真意の図れぬ笑みを浮かべる。それを見てヴァイスは顔を引き攣らせた。
「うわ、その顔めちゃくちゃノワールみたい。怖いよ」
「あの人と一緒にしないでくださーい」
ノワール本人がこの場にいないのを良いことに、失礼極まりないやり取りを交わす。きっと今頃、何も知らないノワールはくしゃみを一つしたことであろう。
並んで踏み締める、柔い綿の絨毯。一つ一つの話題を消化するうちに、いつの間にかスティルの部屋に着いていた。
「お見送りされる形になってしまいましたね」
アンティークな扉のドアノブに手をかけて、スティルはヴァイスの方を見た。困惑なのか嬉しさなのか、よく分からない表情を浮かべたスティルの肩を、ヴァイスはポンと優しく叩く。
「まぁまぁ、たまには良いでしょ。……それじゃスティル、またね。あまり夜更かししちゃダメだよ」
綿菓子みたくふわふわと甘い声質で言葉を紡ぐ。肩に触れた方の手を自分に寄せて、控えめに左右に振った。
「それはお兄様の方でしょう? 生活習慣、整えてくださいね。……それでは、また明日」
ラムネ色のシーグラスを透かしたような声色で、スティルも返す。耳に痛いその言葉には曖昧にはーい、とだけ返事をして、扉の奥へと消えていくスティルの姿を最後まで焼き付けた。
パチリと瞬きをして、それからくるりと振り返る。揺れる白雪が片目の視界を狭めた。
今日も何気ない一日が過ぎると思っていた。その考えは驚くほど唐突に打ち砕かれてしまったが。この先、大層な目標を掲げて生きていくのだろうか? それとも、交わした約束は波にさらわれる砂のように溶けていき、変わらず平穏な生活を続けるのだろうか。
あれだけ言っておいて幼いヴァイスは、先のことなんて到底読めるわけもなかった。それでもと間違いだけは起こさないように、自分が信じたい道を進むように、確かな足取りで一歩ずつ床を歩いていく。
ふと廊下の灯りを見上げる。鬼灯みたいなそれは、自室へと帰るヴァイスを案ずるように、深く淡く輝いていた。