六話 苦戦 歩を進めるたびに、暖かな空気が頬を撫でていく。朝との寒暖差にうんざりとしながら、けれどヴァイスにとってはその暖かさが何よりも気持ちの良いもので。ぽかぽかとした空気に自ら当たりに行くようにして足を動かした。
「お昼寝にはちょうどいい気温だね」
「今日はそんなことしてる暇、なさそうだけどな」
柔らかにつぶやかれたその言葉は、ディアンの硬質な声色によって否定された。瞬時にと言った風に、ヴァイスはぶすくれてみせる。
「冗談だもん」
「そーだな」
拗ねたようにそう言えば、笑い混じりに返された。
昨日と変わらぬ場所での見回り。効率重視で二手に分かれよう、ということになり、何故かディアンがヴァイスをご指名したことにより二人は行動を共にしていた。
その時に、何が何でもコンビの座を譲ろうとしなかったノワールと、頑ななディアンとの間で一悶着あったのは、また別の話。とにかく、ディアンにしては珍しいルービックキューブの如く詰めっ詰めの理詰めにノワールが屈し、その結果今の状況ができているという始末なのだ。
それからは特に会話もなく、草原を歩いていった。昨日のこともあり、ヴァイスはディアンと二人きりの状況が少し気まずく感じられた。いつもより距離をとって後ろを歩く。と言っても、ヴァイスの歩く速度は通常と変わりない。ディアンの歩幅が少しだけ広くなっているのだ。ヴァイス自身はその変化に気付かずに、ただ彼の様子を伺うようにしながらついていった。
ふとそんな中、二人は異様な物体を目にした。異形だ。巨大な爬虫類のような躯体にいくつもの瞳をくっ付けて、威嚇でもするようにその虹彩を輝かせている。頭部周辺には鋭利な先端を持つ無数の棘が生えており、針山地獄を思わせる様だ。思わず総毛立ってしまうようなその見た目に敵意を示すようにして、ヴァイスは武器を顕現させた。
「今日一発目の獲物だな。しくるんじゃねえぞ」
そう言ったディアンの寸歩先に火柱が出現した。返事をするのも叶わずに、ヴァイスは「熱っ」と声を漏らす。左手で庇うようにしながらその様子を観察していれば、大気に吸い込まれるようにして消えていった炎の中から、ディアンの背丈以上もある大剣が出現した。簡素なデザインの中に光る紅の装飾が目を引くそれは、ディアンの専用武器だ。
相変わらずのサイズに圧倒されていれば、ガシャっと重い音を響かせながらディアンはそれを軽々と持ち上げた。彼の馬鹿力加減も、相変わらずのようだ。なんてことを考えながら、先程は発することさえできなかった返事をした。おう、と小さめにひとつだけ。
「キシャアアアアアア!!」
耳をつんざくような異形の鳴き声を皮切りに、戦闘は始まった。相手の爬虫類型異形は、そのサイズの割にちょこまかと素早く動いた。ディアンとヴァイスの攻撃を難なくかわしていき、二人は苦戦を強いられる。
「ディアン! こいつ、魔法使って攻撃した方が良いかも!」
異形との交戦を続けながら、その合間を縫うように呼びかける。
「魔法だな! わかった!」
ディアンはそう言って異形の攻撃を弾き返したのちに、再度炎を巻き上がらせながらその大剣を消滅させた。抜群の運動神経と磨かれた体術で異形の攻撃を交わしつつ、右手を大きく前に突き出す。
「烈波爆炎撃!」
言霊は熱く燃え広がって、ハーフ手袋越しに放たれた爆炎は容赦なく異形に襲いかかる。
それでもなお、異形は炎に飲まれながらしぶとく抵抗した。傷を負いながらも紅の渦から這い出てくる。けれどその先にいるのは、バックアップの準備を済ませ今か今かと迎撃の時を待つヴァイス。得意げな笑みを浮かべ、抱擁でも受け入れるかのように両手を広げた。
「籠鳥——氷壊——」
氷のように冷たく吐き出されたその言葉は、誘うように魔法を発動させる。両手の隙間から出現した球形の氷。それは形を歪に変化させながら、ヴァイスの方向へと逃げてきた異形を包むように広がっていく。背後にまで氷塊が及んだその直後、ヴァイスは遠隔で異形を握り潰すみたいに手をパンっと勢い良く組んだ。瞬間、檻のように自らを形作っていた氷はヴァイスの動きと連動するように異形を押し潰し、あたりの冷ややかな空気を鮮血で染め上げた。
ヴァイスはしてやったり、とでも言うようにドヤ顔を作ってみせた。やったね、とディアンに声をかけようとして、彼の方を向く。けれどそこにあったのは同じような笑みではなく、何かとんでもないものを目にしたかのような焦りの顔。その視線はヴァイスと、そしてヴァイスが倒したはずの異形に向かっていた。
氷塊に貫かれて生命活動を終えたと思われたその異形は、最後の足掻きを示すみたく頭部周辺に生えていた棘を、まるで弾丸の如く周囲に放出させた。
なぜ。どうして。倒せたと思っていたのに。情報のまとまらない頭で考えを巡らせて、そして防御姿勢を取ろうとした。間に合わない、咄嗟に理解できたのはそれだけだった。
「ぐっ……!」
そんな一瞬の隙に、まるでその攻撃を予期していたかのようにディアンが庇い立つ。そしてヴァイスの身代わりになるように攻撃を受けたディアンは、大きくよろけた。必死に手を伸ばして受け止めれば、棘の刺さった左腕から流れ出した血が手についた。
「ディアン!」
それさえも気にせずにヴァイスはその名を呼ぶ。慌てふためきながら、けれど自分にできることが何もないヴァイスはそれ以上のことができない。どうしよう、と一人オロオロとしていれば怪我をした割に苦痛をさほど顔に出さないままディアンはおい、と声をかけてきた。
「そんな心配すんな、見た目ほど酷くねえから」
宥めるようにそう言いながら、何の躊躇いもなしに自身の腕に刺さっている棘を引き抜いた。肉を裂く生々しい音と抑えを失ったように更に流れ出した血、そして痛みを我慢するように僅かに聞こえた呻き声に胸が痛む。心配しない方が無理だ。言外に伝えるようにもう一度ディアン、と名を呼べば、呆れたような顔を向けながらその顔にはあまり似合わないコールのジェスチャーをしてみせた。
「大丈夫だっつってんだろ。それよりノワールたちに一応連絡しておけ、端末あるだろ」
「え、あ……わかった……」
些事で片付けるつもりなのか、たったそれだけ言ってディアンは異形の残骸処理を始めようとしている。この場合、傷の一つも負っていない健康体のヴァイスが処理をすべきであることは明らかなのだが、恐らくそれを言っても意味がないだろう。彼自身の眉間の皺みたく頑固な性格に煩わしさを感じながらも、ヴァイスはノワールに連絡を入れる。コールボタンを押して二秒もたたずに応答された。
『ヴァイス、どうしたの? 何かあった?』
「いや、ちょっと……異形と交戦して討伐したは良いんだけど、ディアンが負傷しちゃって」
驚きの応答速度に少し狼狽えながら要件を話した。少しの沈黙の後に、わかった、と聞こえてくる。
『僕たちの方は今のところ何もないから、とりあえずそっちに向かうよ。……ヴァイス、君は無事だよね?』
「え? うん……」
『そう、なら良かった。それじゃあまたね』
またね、小さくそう返せばプツリと通話が終わる。ヴァイスはほんの少しの憤りと、またか、という呆れを抱いた。負傷したのはディアンだと言うのに、そちらには心配の色を見せない。かと思えば声色からして無事の一点でしかないヴァイスには安否を気遣うような言葉を投げかける。
ノワールは昔からそうだった。他人だけではなく身内にも触発されて生む感情がない割に、ヴァイスに対してはその性質を毛色も感じさせないような対応をするのだ。確かに、生まれてからまず初めに会った同種族はノワールであるし、反転した見た目や戦闘服からもとりわけニコイチとして扱われてはいた。ならば相棒に対する情は格別、とでも言えば聞こえはいいものだが、こういう時くらいそういった括りをなくして欲しいとも思わないわけではない。
今この瞬間もその考えを強めて、ノワールの声の名残を生む端末を困ったように見つめる。そうしていれば、ディアンから不意に名前を呼ばれた。
「なんか変なことでも言われたのか? それか、文句か」
ヴァイスと違って顔も声の色も変えないままに、ディアンはそう問いかけてきた。文句か、と言うのはディアンが負傷したことについてのお小言でも想像しているのだろう。身内の中で唯一年上であるからか、ノワールはディアンに対して少し生意気なところがある。それをディアン自身も自覚している上での質問だ。そのことを踏まえた情報を飲み込みつつ、ディアンの隣にしゃがんだ。
「別に、違うよ。ただ、僕が無事かどうかを聞かれて」
作業を手伝いながら、いじけた子供みたいにそう言った。鼻で笑うような声が隣から聞こえてくる。
「想定内だろ、そのくらい。あいつはそういうやつだ」
恨みや怒りを込めるわけでもなく、淡々と事実だけを声に乗せる。彼のそんな態度は、興味がないようにも、当たり前のことだと受け入れてる上での諦念を浮かべているようにも見えた。
右手だけを使ってどうにかこうにか作業を進めるディアンを目にしながら、ヴァイスは薄い口を開く。
「なんで僕のこと庇ったの?」
無色透明な声色でそう聞けば、ディアンはピタリとその手を止めた。ゆらりとこちらに顔を向け、恐ろしく静謐な眼差しでヴァイスを見据える。普段は見ないようなその表情。物珍しさから、ヴァイスは目を見開いた。
「お前に怪我を負わせたくない」
低く、それでいて柔らかなトーンで返す。心配を露わにするその言葉に心が揺らぐ。
「ディアン——」
「それで怒られるの俺だからな。それは避けたい」
台無しだ。彼の優しさに触れたと思ったのも束の間、まさかの私情である。この場合どんな理由でも、ヴァイスを庇う以上私情であることは変わりなさそうだがそれにしてもだ。怒られるのを避けるために体を張るとは、ディアンも中々にズレがある。
「上げて落とすとかひどーい」
「期待したお前が悪い」
バッサリと切り捨てられながらも、ヴァイスはその顔に笑みを浮かべていた。ああ言っておきながらも、ディアンの言葉が純粋な心配からくるものだと思えて仕方がなかったから。けれどそれを揶揄ったところであしらわれるか、しらを切られるかのどっちかであることも知っている。だから胸に留めておくのだ。密密に、大切に。
寮の三階に設置されているフリースペース。その一角でヴァイスたち四人は予定されていた勉強会を事務仕事のタスクへとシフトさせ、各々利き手を酷使させていた。サインと言うだけあってデジタルで済ませるわけにもいかず、何十枚にも及びそうな紙の山にひたすら自分の名前を記入する作業を続けていく。
「ディアーン、腕は大丈夫か〜……」
地味すぎる流れ作業に飽き飽きとしながら、ヴァイスはそう聞いた。斜向かいに座るディアンは、おうと低く唸る。
「怪我したのは左腕だからな……別に、支障ねえよ」
ディアンはあの後、駆けつけたスティルに応急処置を施され、帰還してからは人工亜人の治療施設にてしっかりとした治療——と言ってもただの同種による回復魔法だが——を受けたため、現在は全快に近い状態だ。魔法というのはすごいものだな、とヴァイスは改めて感心しながらもそれでも罪悪感は拭いきれないでいた。
行き詰まったように頭を抱えて、その陰からチラリとディアンを見る。彼の表情からはその心理は読み解けない。ヴァイスと同じように事務仕事に辟易としているのか、少し退屈そうに口をへの字にしているだけ。つまらないと主張するように、だらけた姿勢で作業を続けている。けれどそんな彼の体を支えているのは、文字を記入しているのと同じ右手だった。空いているはずの左手は、ぶらんと垂れてそのまま机に隠されている。表情に出すほどの痛みはないが、体重をかけるとなるとそうともいかないのだろう。そんな仮説を勝手に立てて、自分を庇った時の彼の焦ったような顔を思い浮かべながら償うようにペンを進めた。
「……ん? ここ……、これ見てください」
不意に、ひたすら真面目に筆記を続けていたスティルがそう発言する。それにつられて、ヴァイスたち三人は身を乗り出して彼の手元を覗いた。ペンで指し示された紙面の一部。墨色を写し出したようなそのフォントは罫線を連なって、その先頭に一つのワードを携えていた。
「チーム名?」
訝しむようなディアンの声が聞こえてくる。チーム名。ヴァイスは頭の中で彼の言葉を反芻させた。そうするうちに宙を彷徨っていた視線を、再び書類の方へと戻す。そこには、『任務の割り当て、表彰、その他事務的な仕事に関する手続きを円滑に行うため、結成されたチームには名称をつけるものとする』と記されていた。
前半の諸々は置いておいて、つまりはチーム名をつけろとのこと。面倒くさい雰囲気を感じ取り、ヴァイスは無意識のうちにえー、と声を漏らしていた。
「急にそんなこと言われてもね」
先程まで一言も声を発さずに作業を続けていたノワールが、その手を止めないままにそう吐き捨てた。確かに、言われてそう簡単に浮かぶものでもないだろう。それにおそらくだが、解散も再編成もできないこのチームなら、なおのこと名前は慎重に付けなければならない。皆が同じことを憂いたのか、四人分の唸り声が静かに漏れた。
「なんかいい案ない?」
ヴァイスがノワールたち三人に向かってそう聞いた。それぞれが考えるような仕草をしてみせる。
数十秒の沈黙の後にとうとうノワールが作業を止め、スティルがペンを投げ出し、ディアンが頭を抱えてしまった。行き詰まりである。実際質問を投げかけたヴァイス自身も、自分で案が浮かばなかったために三人に話を振ったのだ。けれどその結果がこの画なら、それはもうどうしようもないと言うしかない。
この状況に陥って、ヴァイスはようやく書類提出の期限が単純作業にしては長めに設定されている理由を理解した。チーム名決めのことを考慮されてのことなのだ。あぁ、と納得するように声を漏らす。それからまた紙面へと向き合った。
「……期限はまだありますし、チーム名のことは保留にしましょうか」
現状を見かねたのか、スティルがそう言う。年上二人はその言葉に納得したように姿勢を崩し、ヴァイスもまた、難題を一時逃れた開放感から机に貼り付けるようにしてべったりと体を預けた。
そうして本日の事務作業は終了となり、ヴァイスたちは各々個室へと帰っていった。