欲しがりな私の近況(トオル視点)(そよいと) もしかして……が「ああ、やっぱり」に変わったのは、長身で凄みすら感じるほどの美人に声をかけられたからだった。
「トオルちゃん!」
少し離れた距離からでもよく通る声。聞こえるやいなや、足元でマロがリードを振り回さんばかりの勢いで飛んでは跳ねて――とても七歳とは思えないはしゃぎ方だけれど――お祭り騒ぎになるのも無理もない。明るい色の長髪をなびかせ、ヒールを鳴らしながら大股で近づいてきた彼は、かつて「代行依頼」でお世話になったスタッフの一人なのだから。
「やだ、二人ともとっても元気そうじゃない!」
「おかげさまで」
都内から気軽に通える公園内のドッグランを利用した帰り道。自宅までの最短ルートは一瞬だけ、都会らしく有象無象の人々で賑わう交差点を通過する。代行依頼を終えた直後はこの人混みに紛れると足が竦んでしまいそうで、わざと迂回して帰宅していたものだ。
ほとぼりが冷めた今、平日かつ日が出ている時間帯は少しずつこの道を通ることにしている。七歳になり、世間的には老犬に足を踏み入れつつあるマロにとって、どうすれば負担が軽減されるのか……何にせよ最適解を模索する私に、文句も言わず付き合ってくれるマロ。
こうして今でも傍にいてくれる喜びを日々噛み締めているし、助けてくれたアポリアの面々には感謝しかない。
「ところでミカ姉さんは、どうしてここに……あ」
問いかけながら後方に視線を向けたところで、思わず頬が緩む。こちらに歩み寄ってきた二名の男女の片方に、見覚えがあったからだ。
「どもー」
大柄な体躯の新開さんが声をかけてくれて、一歩後ろでは緩くパーマをかけたセミショートの女性が会釈している。
「アタシたち、ちょうど一仕事終えてきたのよ。今は迎え待ち」
「それは、お疲れさまです」
おおよその事情を聞かせてくださる横で、マロはどうにもうずうずとした様子で新開さんと女性のいる方向を凝視していた。
通行人の迷惑にならないことを確認してから、リードを緩める。マロは一目散にそちらへと駆けていって……
「キャンッ!」
「!」
控えめに様子を伺っていた女性に向けてぶんぶんと尻尾を振っている。僅かに目を見開きながら、思わず屈んだ彼女の胸の中へ、マロは躊躇いなく飛びついた。
その光景に唐突にフラッシュバックするのは、血だらけになってもなお元気な姿で戻ってきたあの夜のマロ。予想もしなかった姿に思わず混乱して、程なくしてマロの無傷を知り。付着した血液の主の怪我の具合が心配で、有難さと申し訳なさに揺れたあの夜。
となると……彼女は。
「もしかして、あなたが」
緩めたリードを手繰るように歩みを進めると、彼女は屈んだ状態でこちらを見上げて「弥代と、申します」と告げた。やはり、噂に聞いていた恩人だ。
「初めましてですね! ずっとお礼を伝えたいと思っていたんです」
「そんな、むしろこちらのご挨拶が遅れて申し訳ありませ……わ!」
弥代さんが立ち上がった瞬間、腕の中のマロが相好を崩しながら彼女の首元の匂いを嗅いでいた。顔をなめられそうで驚いたのかもしれない。
マロが家族になってすぐの頃、人懐っこさからどんな相手にも顔をなめるくせがあったことを思い出す。お化粧をしている人たちにも遠慮がないので、試行錯誤をしながら止めさせたのだ。もしかしたら今も、親愛表現として弥代さんのつるりとした頬をなめるのを我慢しているのかもしれない。
「ごめんなさい。マロがこんなにはしゃぐとは思わなくて」
「とんでもないことです。むしろ、覚えてくださっていたなんて光栄の至りでしかないので」
弥代さんは微笑を湛えたままぺこりと頭を下げる。
「きっと、一生懸命に守ってくださったからマロも覚えていたんだと思います」
実際問題マロは、代行依頼の発端となった元カレ……ユウトのことを、同棲を始めた当初からどこか遠巻きに見ている節があった。ユウトが気まぐれに呼んだ時は近づいたり、一緒に過ごしたりすることもあったけれど……いま思えば、マロ自身からユウトへ近づいたことは。覚えている限り、一度たりともなかった。
ユウトをただただ好きだったあの頃は気がつかなかったけれど。マロは随分と前から、とっくにユウトの本性を見抜いていたのかもしれない。ユウトへのマロの態度で、気がつくべきだった。
「……本当に、その節はマロを助けてくれてありがとうございました」
「そんな。私は本当に何もしていなくて」
控えめな発言とは裏腹に、弥代さんが柔らかな眼差しでこちらの目を見つめていることに気づいて、俄かに心臓が跳ねる。その視線は、私のかつての後悔を見抜いているかのような、何か含みのある眼差しに思えてならなくて。
「……ですが、トオルさんがいま心穏やかに過ごしているのなら。微力ながらも力を尽くした甲斐があります」
そして物言わぬ気配はすうっと消えて、弥代さんはまた微笑を浮かべた。
* * *
私たち四人とマロは交差点を通り過ぎて、自宅への通り道を歩く。
自宅まで送っていただくなんて、さすがに申し訳がなさ過ぎて遠慮するつもりだったのだ。けれど、お三方のお迎えまでにはまだ猶予があった上に、マロが弥代さんにくっついたままなかなか離れる気配がなかったことも大きい。加えて弥代さんが「名残惜しいので……」と申し出てくださったことで、お言葉に甘えることにしたのだった。
今はリードを弥代さんに預けていて、ミカ姉さんと並んで住宅街の狭い道を歩いている。
「マロとお前、あの夜の逃避行で随分と仲良くなったもんだよな」
前方で、当たり前のように車道側を歩く新開さんが弥代さんにからかい混じりの言葉をかけている。弥代さんに向ける横顔は何とも微笑ましく、彼女を慈しんでいることがありありとわかる表情だと思えてならない。
「逃避行といいつつ途中で担がれましたが」
「それもあったな。ロマンの欠片もねえ」
「仮にロマンある逃避行をしても、先々のことが気になってそれどころではないかも」
「どうせ仕事放り出して逃げられるような性質じゃないだろ」
「それもそうか。うーん、ロマンの概念とは」
「要るか? んなもん」
マロを挟んで二人、軽快なやり取りがどこか心地好い。弥代さんは敬語にもかかわらず、会話の内容はフラットで、対等で、どこか根っこの部分でわかり合えているような感じがする。
「あの子ね。アポリアにきた当初よりも、ああやって笑うようになったのよ」
ミカ姉さんの方を見やると、こちらもまた温かな眼差しを向けているようだった。
「弥代さんが?」
「ええ衣都のこと……あ、待って。よく考えたら、戦もそうかもしれないわね」
けれどミカ姉さんのそれは、前方で言葉を交わす二人とは少しだけ違う。今のミカ姉さんは、静かに見守る目をしている。
「戦は基本、誰とでも友好的に接していて。犬猿の仲の人もいるにはいるけれど、見た目ゴリラのくせに気遣いが行き届いているの」
見た目ゴリラなんて私の立場からは到底、一生口にできそうにないな……と妙な感想が浮かんだけれど、本題はそこではないだろう。私は神妙な面持ちで黙って相槌を打つ。
「衣都も衣都で元から感情の機微に聡いというかね。人との線引きの仕方がとっても上手なのよ」
それは、何となくわかる気がした。先ほどの初対面の挨拶の時も感じた、あの独特な視線。おそらく彼女は日々、ああしてものを言わずに様々な事柄を見定めて、言動の取捨選択をしているのかもしれない。
「でね。二人ともこの頃、少しずつ言葉に遠慮がなくなってきているのよ」
「……遠慮、か」
「何というか、喧嘩する一歩手前の絶妙なラインで言葉遊びしている感じ」
確かに、時々見かけることがある。喧嘩が絶えないけれど、その分仲が良い関係の人たち。恋人同士でも友達でも言葉が強く、一触即発で見ているこちらがひやひやするような言い合いをしている。弥代さんと新開さんの物言いはまだマイルドな方だと思うけれど、ミカ姉さんがそんな風に評するくらいだ。日頃の二人の言動としては珍しい部類なのかもしれない。
いずれにしても、言葉を呑み込みがちな私には到底できない所業だ。
「……羨ましいな」
思わずこぼれた言葉に、自分でも驚きを禁じ得なかった。
ああ、そうか。
私もユウトへ、あんな風に本音を曝け出したかったのだ。気まぐれに愛の言葉を囁かれて、唇や身体を重ねて、合間に罵られて、嬲られもして。
最初はただただ、嘘偽りなく愛していた。それだけだったはずなのにいつしか、顔色を伺いながら、彼の機嫌を取るようになって。駄目な時にはサンドバックになって。かといって捨ててもくれなくて。
そして別れようとした途端に、私の心を的確にこわす行為を、あの人はしたのだ。
私もあんな風に、まっとうで、あたたかで、健全な愛を向け合いたかった。
相手を大切に想って。同じように、大切にされたかった。
ただ、それだけだった。
「トオルちゃんにだって、現れるわよ」
唐突に、ミカ姉さんは私の顔を覗き込んだ。それは遠くへ意識を飛ばした私を引き留めるみたいな強引さだった。そして相変わらず、間近に見るミカ姉さんの目鼻立ちもメイクも、何もかもがびっくりするほど美しい。
「それは、どうかな」
意識を引き戻されて、私は呟く。するとミカ姉さんは、真剣な眼差しでこちらを見据えて言う。
「もちろん気分じゃないなら、恋愛なんてお休みしちゃえば良いのよ。でもね」
美人が真顔になると、びっくりするほどの迫力も出るものらしい。
「トオルちゃんが望むなら。『欲しい』って思えるのなら。願って良いの」
私のために、真剣に、言葉を尽くしてくれるミカ姉さん。
「あの子たちだってそう思っているわ」
そしてつられて、再び前方の二人に目を向ける。こうして見ていると、何だかほんとうに「欲しがっても良い」と思えるのが不思議だ。
「あの子たち」と評する二人について、私は改めて想いを馳せる。このタイミングで、私はもう一つ二人のやり取りに気がついた。軽快なやり取りを続けながらも新開さんが、弥代さんの手を取りつつマロのリードを緩やかに奪っていく瞬間。
新開さんの当たり前のような所作と、恐縮しながらも受け入れる弥代さんを見て、私は。
やっぱり欲しいものはこれだった、と。
そう確信したのだ。