確かに好きだった(郁玲) 泉は手の届かないところにいる。昔も……今だって。
だから心を通じ合わせることなど、とうの昔に諦めていた。
* * *
新進気鋭の写真家であるイッセー・ニコ。紆余曲折を経てプレオープンしたギャラリーでは、話の流れから撮影会が開かれることになった。
「花札の絵柄になぞらえた世界観とは、思い付きにしてはできすぎた話だねえ」
服部さんの呟きを聞き流しつつも、泉を呼び出すべくスマホを手に取る。俺は早々に『芒に月』のモチーフとして撮られることが決まったものの、彼の熟考の末隣に女性を写したいという話になったのだ。
お人好しらしく呼び出しを二つ返事で受けた泉は一時間ほどで到着し、挨拶もそこそこに早速着替えへと引っ張り出されている。
「郁人さんそわそわしちゃってるー」
「うるさい、子鹿との戯れはどうした」
「撮影なら終わったもーん」
可愛を適当にあしらいながら泉を待つ時間は思いの外短かった。衣装と女性の着付けスタッフの手配を済ませていたとあって、準備は手早く終わったらしい。更衣室からはスタッフに導かれるように和装姿の泉が現れる。
平々凡々なあんぽんたんは、遠目から見てもわかるほどの別人に変わっていた。イッセー・ニコやスタッフと話していて顔はよく見えないが、長い髪は頭の下辺りで纏められていて白いうなじが晒されている。蓬色の着物を上品に着付けられた泉は早くも、イッセー・ニコの世界観にすんなりと馴染んでいた。それでも落ち着かない様子で袂を凝視したりきょろきょろと辺りを見回す仕草で辛うじて、イッセー・ニコの世界に迷い込んだあんぽんたんなのだとわかり、どこかで安堵した自分もいるのだからおかしい。
見慣れない姿を一瞥した後は慌ただしく撮影へと突入した。が。
早乙女さんの隣には女性が必要、と言い置いたのはどこの誰だ。イッセー・ニコじゃなかったのか。毒づきたくなる本心を辛うじて表情に出さないようにと努力しながらも、シャッターを切る音を聞いている。
俺の視覚からはほとんど泉の顔が見えない。どうやら今は、見えない過去の女性の幻影を追い求めながら盃を傾ける図を撮りたいらしい。まったく趣味の悪いことだと口にはせず、苛立つ想いだけを持て余している。ショートストーリーの如くいくつかの場面を切り取りたいのだと言っていたはずだが、先ほどからあいつと顔を合わせるどころか、隣に並び立つ様子すらもない。話が違う。くそ、こんなことなら着替え終わってすぐに観察すべきだった。恥に負けた数刻前の己が憎い。
「では泉さんは、少し早乙女さんを振り返ってみてください」
「こう、ですか?」
数メートル先からちらりとこちらへ首を回す泉は、思っていたよりも素に近く地味な化粧だった。とはいえプロの技術が集約されているだけあり、雰囲気はいつもの泉とはまるで異なっている。普段の泉は落ち着きがないハムスターだが、今目の前にいるのは……上手い例えが見つからない。ただ、光沢のない口元の紅が艶めかしく、少しとっつきやすい日本人形くらいには見えないこともない、と思う。見えたのは、顔全体の三分の一程度と口元だけ。一部分だけ見てもそう感じるということは、正面切って向き合えば……
「うーん、それだとちょっと顔が見えすぎるかな」
いや待て。見えすぎて良いだろ、まったく。実際の俺ならまどろっこしいことはせず、どやしたり頬を挟み込んだりしてででもこちらを向かせてやるっていうのに。
正直なところ今、イッセー・ニコに思うことはただ一つ。あんぽんたんをそれらしく着飾らせたなら、顔くらい見せろ。だがギャラリーを訪れた当初の目的が目的なだけに、彼には迂闊に喧嘩を売ることができない。
「もう少し隠れた方が映えるかな。早乙女さんから見えるか見えないかぎりぎりのところで、視線だけを向けるような……そうそう! このまま何枚か撮らせてください」
だから顔を!
見せやがれこのレトロ写真オタク
と考えた瞬間視界の端で、可愛がぷっと吹き出した。おまけに小さく肩まで震わせ、近くにいた面々が不思議そうにしている気配まで感じる。くそ、その喧嘩は後で買ってやる。ひとまず今は俺にまで顔面電光掲示板がうつっちゃたまったもんじゃないと、慌てて表情を引き締めるにとどめた……まったくどいつもこいつも。
次笑ったら来週の出張土産はやらないことにしようと固く決意する横で、イッセー・ニコは相変わらず、ひたすらにシャッターを切り続けている。
「早乙女さん、今度は盃を置いてその場に立ち上がってください。泉さんを向いたままで」
「はい」
やっとか。黙って従う中イッセー・ニコは、言われた通り盃を傍らに置いて立ち上がるまでの動作を連写で撮り続けていた。いっそレトロ爆撮マシーンに格上げしてやろうか。
そんなことを考えていたからだろう。一言、二言、ポージングの指示を聞き逃していていたらしい。
「……でお願いしたいのですが。大丈夫ですか? 早乙女さん」
「ああ、すみません。随分多く撮るのだなと、驚いたもので」
「いえいえ、これでも抑えてはいるんですよ。普段は一カットを数時間かけて撮影しているので、いくら撮っても足りないくらいで」
これで抑えているだと? ふざけたことをいう。表情に出さないように努めながらも内心、罵倒したくなる心情がとどまる気配もない。
「でもこちらのわがままでお付き合い頂いていますから。お疲れであればいったん休憩を挟みますか?」
「いえ、大丈夫……」
断るつもりでふと視線をやると、泉のうなじが僅かに赤くなっていることに気がつく。よく見れば強い照明に当てられてうっすら汗をかいているようにも見えて、今更ながら俺自身もうだるような暑さを自覚した。
「……大丈夫かと思いましたが、疲れていないうちに休憩を挟んだ方が却って短く済むかもしれませんね。五分ほど外の空気を吸っても構いませんか?」
「わかりました。でしたら先に、朝霧さんの撮影準備も進めておこうかな」
「はは。ニコ先生は本当に撮影がお好きなんですね」
このままでは不本意ながら取り繕えていたかどうか怪しかった。ただ、今はそれよりも。
では少しだけ外しますね。イッセー・ニコに愛想よく声を掛けつつ、俺は迷うことなく泉に近づいた。
(続く?)
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確かに好きだった。だが伝えたかった想いは結局、届いてなどいなかった。
それだけのことだ。
なのに、伝わらなくても良い真意だけがしっかりと届いてしまうなど馬鹿げている。
* * *
「おい、ニコ先生やスタッフに差し入れするぞ。ギャラリーの近くに自販機のスペースがある」
「えっ」
耳元で声を潜めれば、泉ははっとした間抜け面でこちらを振り返った。
間近でやっと見た顔にはやはり、どことなく火照りが感じられる。泉が本来持つ血色を敢えて塗りつぶす化粧のようだったが、泉の小さな耳たぶは近づいただけでわかるほど熱い。呼び出した電話口の声はうっとおしいくらいに元気だったから、原因は風邪の類ではないはずだ。
「ぽやぽやするなよ、荷物持ち」
「……なるほど、パシリ要員」
「パシリなんかよりも待遇は良い。飲み物代は俺が持つんだからな」
言いつつ、いつもより少し弱い力で手を引く。他人がうろちょろしていること・スタジオ内の篭った熱で参っている可能性があることを考慮した結果だ。どのみち慣れない和服で動きづらいと気づいたのは、作品の合間を縫ってギャラリーを出て、到着した自販機の前だった。
「よし。ニコ先生はホットのカフェオレだから買うのは最後だ。他スタッフの分はお茶でも買っておけば良いだろ」
「そんなことまで聞き出したんですか」
「普段から好んで飲むらしい。可愛からの事前情報だ」
「あっ! さおペディア!」
「はあ?」
泉は咄嗟に口を抑えたが、聞き逃すはずもない。あいつはいつの間にそんな話を横流ししたんだ。
「ろくに有益な情報の編集もできず余計なことばかりいう奴にとろとろピーチを買ってやる義理はない」
「ちょっどうして私が飲みたかったものが」
「見てりゃわかる。あいつもあいつだ、余計なこと吹き込みやがって」
まったく……ぼやきながらも指先は勝手に、とろとろピーチのボタンへと向かった。泉に甘いわけじゃない。作れる貸しは積極的に作るに越したことはない。ただそれだけのことだ。しかしとろとろピーチ、この三百五十ミリ程度の容量で百五十円だと? ぼったくりにもほどがあるだろ。
ぼやきつつも、ガコンと派手な音を立てて転がり落ちてきた小さなペットボトルを差し出す。
「ほら、一口飲め。そこに座って今すぐ飲め」
「え? 今……ですか」
近くのベンチを指し示せば、泉は不思議そうに口答えをしてきた。
「全部飲みきれとまでは言ってないからな。ちょっとは涼しくなるだろ」
「……あ」
もしかして。と続きかけた言葉を制するように、再び自販機に向き直る。
小銭入れの中身を適当に機械へ連続投入しながら俺は、伝わらなくて良かった行動の真意を悟られたことについて考えた。
確かに好きだった。だがあの時伝えたかった想いは結局、届いてほしい人に届いてなどいなかった。
それなのに今、伝わらなくても良い想いだけがしっかりと届いてしまっている現状は一体なんだ。
「早乙女さん、私がのぼせそうになってるって気づいてくれたんですね」
「俺が暑くてやってられなかっただけだ」
早口で返答しながら自販機のボタンを連打する。ガコン。ガタガタン。押し続けるボタンの上では、お茶のパッケージに描かれたパンダがまぬけ面でこちらを見つめている。
「あっちょっと! 取り出し口詰まっちゃいますよ」
泉は慌ててとろとろピーチをベンチに置き、自販機に駆け寄る。連打するボタンが反応しなくなり、くそ、と呟きながら屈んだのは同時。
取り出し口に四~五本は転がり落ちているペットボトル。
回収しようと伸ばした手は、意図せず泉の手と重なっていた。
「……!」
思いがけない状況に数刻、時が止まったような心地を覚える。まぬけパンダのパッケージを握り込むつもりだった俺の手は何故、柔らかな手ごたえを感じているのか。いや答えは火を見るよりも明らかだが、こいつはよりによってどうしてそれを掴むんだ。他にも回収すべきペットボトルはいくつもあるだろう。
客観的に見れば奇妙な光景だ。和服の男女が自販機に屈み、いくつもあるペットボトルの中から同じものを掴み、至近距離で互いに顔を見合わせている。見ようによっては、恋人同士に……見えなくもない、のかもしれない。
けれど実際は仕事を通してであった赤の他人で、たまたま泉が俺の近くにあるペットボトルを掴み、勢いのまま伸ばした俺の手が重なった。ただそれだけだ。断じてやましいことなどない。
この手を離したくないと感じるのは、俺の都合でしかない。
「……真似するな。そっち側にも茶はある」
視線を外し、振り切るように手も外す。
「あっ……そうですね、すみません」
泉は我に返ったように、自分側に転がり落ちていたペットボトルを数本回収してとろとろピーチのところへと戻っていった。
どうかしている。ペットボトルを回収してもなお、泉の手の感触が掌中に残っている。間近で見る泉は物欲しそうにこちらを見つめていて。泉のうなじはまだほんのりと赤みを帯びていて。
(期待させるなよ。泉の癖に)
初恋らしき何かはとうに終わっていたはずだった。過去の美しい思い出だったはずなのに。
再会したのに肝心なことは忘れていて。激ニブでぽやぽやしているくせに、ここまで連れ出した本当の理由を正しく悟って。
何とも思っていないくせに、気を持たせるような言動をする。
確かに好きだった。だがもしかすると……いや、もしかしなくとも。
今抱いている厄介な感情は俺の中で息づいたまま、現在進行形で続いているものだろう。
(今更期待させておいてこの先何もなかったら、末代まで呪ってやるからな)
生憎と執念深さには誰よりも自信がある。だから必ずや、あいつの手を取ってみせてやる。偶然や口実なんかにはもう頼らないから覚悟していろ。
密かな決意を胸に俺は、少々買いすぎたペットボトルを抱えながら泉の元と戻った。
確かに好きだ。だがまだ泉にも、誰にも教えてやらない。
俺はもう、指を咥えて見送るだけの子どもじゃない。あいつを二度と失わないためにも、迅速かつ早急に策を練らなければ。今も昔も敵は多く、躊躇っている暇などない。
泉を過去形にするなどもうたくさんだ。