アンビバレンスの見本 (郁玲・ひかる目線)　まるで、郁人さんの為にあるような言葉だと思う。

　ブロイラーが用語を作り出し、フロイトが精神分析理論に組み入れたとされるそれは、対象人物に向けて相反する感情を抱くことを指している。

　＊　＊　＊

　とんでもなく乱暴な口調と悪口の応酬。
　理路整然となじりながら、テーブルの下、足先は対象人物のヒールにさりげなく触れている。
　眉間に皺を寄せてつく、これ見よがしのため息。そして。

「休憩を入れてやるから消費に付き合え」
「え……っと？」
　ああ。あのシュークリーム。朝から並んで買ったって話してた、期間限定フレーバーの。

　立ち上がった郁人さんがこちらを一瞥したので、僕もさりげなくパソコンのモニターに視線を戻した。〝対象人物〟との仕事の話が終わるまでは、こちらに火の粉が降りかかることはないと踏んでいる。

「……ひかるくん、ごめんね」
「え？」
「レポートの邪魔になっていないかなって」
「どうして、そう思うの？」
「うるさくしてしまっているでしょう。私が……あまりにも、理解が遅くて」
「うるさいのは郁人さんの方だもん、気にしないよ」
　いつものことでしょ？ 聞き返すと、対象人物……もとい、玲さんは困ったような笑みを向けてくれた。

　大丈夫だよ、本当に。僕は心の中で呟く。だって今もレポートのために、間接的な情報収集をしている最中なんだから。


　＊　＊　＊　


　相反する感情。
　喜びと怒り。楽しみと悲しみ。高揚感と絶望感。一般的には同時に味わうことのできない二つの感情についてはひとまず、真逆の感情と表現しても差し支えないだろう。

　けれども、愛と憎しみは？


　＊　＊　＊　


「今ね。アンビバレンスについてレポートをまとめているんだ」
「……また、難しそうな用語を」
「ふふ。玲さんはね、気にしなくて良いんだよ。本当に」
「え？」

　玲さんは、いよいよ訳が分からない、とばかりに首を傾げている。きっと、郁人さんと難しい仕事の話をしていなければ、掘り下げて聞かれていたのかもしれないけれど。


　その言葉を聞いた時、僕は観察対象として真っ先に郁人さんを選ぶことにした。
　これほどまでにアンビバレンスを体現している人物を、僕は他に知らない。物覚えが悪いだなんてもっともらしい理由をつけて、玲さんを威嚇していて。そのくせ身体の向きや距離感は。視線の向け方は。にらみつけているつもりでも、そのひとつひとつを拾い上げれば。わかりやすさが過ぎて、気を抜いたら笑い出しちゃいそうなくらいに。


　憎みたくなるほど、玲さんを愛している。
　そんなの、傍から見てたらばればれだ。

　郁人さんの拗れた愛情表現は一体、どこへ向かっていくのだろう。見ていて清々しいほどに真っすぐで、誰よりも一途な人だってわかるのに。僕らが理解したって、肝心の本人に伝わらなきゃ意味なんかないのに。

　玲さんは分かりやすいようでいて、突拍子のない発言や予想の範疇を超えた行動を取ることもある、読みきれない人。郁人さんの気持ちにも、気づいているような、いないような。郁人さんの曲がりくねった一挙一動を、楽しんでいるような、たまに怯えてもいるような……憎からずは、思っているのかもしれないけれど。

　相反する二人の未来はどうなっていくんだろう。本当に、わからない。
　正直なところ、レポートなんか関係なく、観察のしがいがある組み合わせだなって思う。


　僕なら、好きなものは素直に好きって言っちゃうのにな。相手の気持ちが知りたいなら、まずはこちらから伝えなくちゃ始まらない。
　でもきっと、郁人さんに伝えたところで怒るか、鼻で笑われるかのどちらかなんだろうな。可愛は何も分かっちゃいないって。
　
　
　
　僕は郁人さんの拗れ方を、尊敬すると同時に軽蔑してもいる。
　
　
　この気持ちだって立派なアンビバレンスだ。