捕食 今日の喧嘩は明らかに変だ。
真島吾朗のみぞおちに拳をめり込ませ、吹っ飛んだ身体を見ながら、桐生一馬は思った。
迷惑極まりないストーカーの兄貴分は、いつもの通り強い。だが、何かが違うと、桐生の野生の勘のようなものが囁いてくる。
「兄さ……」
「まだや……終わってへんで! 桐生ちゃん!」
身体のバネを使い、軽やかにバク転して立ち上がった真島は地面を蹴って桐生に向かってきた。
「うぉっ!?」
「ヒャハッ!」
ドスを突きつける真島とその右手首を掴む桐生の力が拮抗する。その時桐生の鼻を掠めたのは、またあの『匂い』だった。
桐生は一瞬だけ力を抜いてドスを顔の横に突き刺して真島の力を逃がす。真島がしまった、と思った時には壁に背中を打ち付けられていた。
「兄さん、イイ匂いがする……」
「は、ぁ!? 何言うて」
真島はヒュッと息を呑む。桐生が己の首筋に鼻を埋めるようにして密着し、まるで犬のようにクンクンを鼻を鳴らしている。
「おまっ……何しとる!」
「すげぇイイ匂いだ……腹が減る」
「離れや! 飯食いたいなら飯屋行け!」
「あんたが良い、あんたを喰いたい」
「おいっ! 俺は飯やないぞ!」
柄にもなく何の悪ふざけだ、と真島が本気で怒鳴ろうとした時、桐生は顔をこちらに戻した。
ギラギラと光るその目は、捕食者のそれであった。
それを見た瞬間、真島の背筋をゾワゾワッと電流のようなものが駆け抜ける。そしてそれは下半身をダイレクトに刺激した。
この感覚に真島は戸惑った。性的な快感に間違いなかったからだ。だが、これはおかしい。確かに桐生との喧嘩は興奮するし、喧嘩の後にヌきたくなることはしょっちゅうあったのは否定しない。
しかし、今のはそれとは明らかに異なる種類の快感であった。言うならば、胎の中が疼く、という類の。
ジュン、と濡れた己のカラダに、真島はマズいと思った。Ωであることを桐生に知られたくない。Ωの性を恥に思うわけではない。桐生はαで自分はΩ、それが何だ。それを言い訳にして喧嘩に勝った負けたがあってはならない。
だがもう遅かった。桐生は本能で、真島を獲物として欲している。
「兄さん、あんた……Ωだったの、か」
桐生の目は興奮に充血し、まるで今にも涎を垂らさんばかりに荒い息を繰り返している。全身から力が抜けて疼き始めている真島の方が遥かにツラい状況のはずなのに、桐生の方が余程悲惨で、可哀想だと、真島は思った。
そして何よりも、『あの桐生一馬が、本能から俺を欲しがっている』という事実が堪らなくゾクゾクする。
「……そうや、俺はΩや。んで、お前はαやな」
「…………」
「そんなに俺を喰いたいか?」
「……違う、俺はあんたをそんな風には」
「αがΩを喰おうとするんは本能や。しゃあない」
「違う、ちが……」
理性と本能の狭間で必死に正気を保とうとする桐生の壮絶な表情に、真島の胎がキュンと甘く疼く。αの本能に抗うことは並大抵の人間に出来ることではない。それなのに桐生は耐え抜こうとしている。それは自分のために? それとも、俺のため?
いっそ、本能に身を任せてしまえばいいのに。そうしたら楽になるのに。桐生がそうすることを望んでいる真島が、いた。
「無理せんでええ」
「俺は……あんたを」
「喰ってええよ、桐生ちゃん」
「ダメ、だ、そんなこ、と……」
「俺がええ言うとるんや。喰え」
「……止められねぇぞ」
ボソッと言った桐生の声は、この世のものとは思えないほどの闇を秘めていた。そして真島はそれを、望むところだと思った。この男と共にどこまでも堕ちてやる。
「ヒヒッ! 俺を満足させてみろや」
直後、桐生の犬歯が首筋に刺さる。真島は捕食者の頭を掻き抱いた。