祝福 味覚がなくなった。ポップコーンの味がしない。
大事件といえば大事件だが、シアタールームのスクリーンにはずっと観たかった映画が流れ始めてしまっている。口の中でモサモサとした食感だけを主張しているポップコーンのことはしばらく忘れて映画を観て、この異常事態については後で考えようだなんて悠長なことを思っていた。
観終わった頃にはポップコーンのことは頭の片隅にポツンとある程度で、カラカラの喉を潤すために飲み干したコーラが甘いことに安心してその日は眠りについた。
そこで、変な夢を見た。
どこまでも広くどこまでも白い空間で、向こう側に手が届かないほど細長いテーブルに腰掛けている。クロスは潔癖なまでに白く、生活を否定しているようだ。
対面には一人の少年が座っていた。姿は認識できないが『いる』のがわかる。視覚情報はないが存在している。翡翠の瞳をした、赤い髪の少年がそこにいる。
髪が長いな、と思った。少し幼いが中学時代の己のようだと思った。その瞬間に少年が言った。
「ごめんなさい……どうしてもポップコーンを食べてみたくて」
少年はポップコーンを食べていた。ひどく申し訳なさそうに、ひとつひとつを口にしている。そのどうしようもない侘しさに胸を打たれ、たいした問題ではないと安心させるように口を開く。
「構わない」
「……本当?」
「ああ。嘘はつかない」
俺の手元には何もなかった。でも、何もかもがあるのがわかる。見えないがきっとチュロスも、ステーキも、アイスクリームも、果物もある。認識に直接作用しているというのだろうか──夢というのはなんでもありだと知ってはいたが、こういう夢は初めてだ。いま、適当に伸ばした手が林檎に触れた。
「……りんごが好き?」
「そうだな」
「かわいいから? おいしいから?」
「味が好きだからだ。……食べてみるか?」
「いいの?」
林檎を手渡すために立ち上がろうとしたが、身体がうまく動かない。どうしても立ち上がることができなかったので、少し行儀が悪いが仕方ないと転がそうとした林檎はいつのまにか消えていた。
「じゃあ、今度もらってもいい?」
返事をためらう理由はなかった。
「ああ」
夢が終わる。
不思議と目覚めは悪くなかった。
朝食に出てきた林檎の味がしないこと以外は何も変わらない朝だった。
***
チョコレートといえば冬においしいものが出回るイメージがあるが今は春だ。生チョコレートの類は諦めて、この時期に出回る果物をコーティングしたものを選ぶのはどうだろう。しかし食べたいものはチョコレートだと言っていたので純粋なチョコレートがいい気がしてくる。このあたりに専門店はあるだろうか。それとも、通販で取り寄せるか。
チョコレートといえば催事の印象が強く、その時期の美味しいチョコレートというのはうまくイメージが湧かない。それでも俺はチョコレートを食べたことがあって、少年は食べたことがない。俺はあの少年にチョコレートを食べさせてやりたかった。
短くも長くもない日を過ごしてわかったことがある。ルールと、確証のないことだ。
理解したルールのひとつ。
最初が例外だっただけで突然味覚を失うことはない。味覚を失う時にはルールがある。
味を失うものは、少年が食べてみたいと言い、俺がそれを許可したものだ。……厳密には俺は頼みを断ったことがないため、許可をしない場合はどうなるのかはわからない。
ふたつめ。
味覚を失うのは一度につき一つの食べ物に限る。それはおそらく少年がひとつ以上のものを一度に求めないからだ。
一度につき、というのは、あれから俺は何回か味覚を失っているからそう表現する他ない。きっと彼がたくさんのものを望んだら、俺はそれを一度に失うのだろう。
もうひとつ。
味がしないというのは一度だけで、今ではポップコーンも林檎もちゃんと味がする。
きっとその一度だけ譲っているのだろう。あのテーブルで、あの少年に。
俺が食べて味がしなかったものを少年は食べることができるんだ。
俺はたまにあの白い空間で少年に会って少し会話をする。とはいえ少年はあまり話が得意なタイプではないらしく、俺も寡黙な方だから会話は弾まない。それでも俺が他愛もない話をするだけで少年は楽しそうにしている。特に学校の話を少年は好んだ。
彼に名前はないがこの空間には俺と少年しかいないので問題はなかった。俺が「なぁ、」と言えば彼は嬉しそうに笑って「なぁに?」と言う。名前がないのは不便でなかったし、彼は名前を与えてはいけない存在なのだとどこか朧げに感じていた。
「俺たちの見た目は似ているな」
白く広い空間で少年が頷く。赤い髪がさらりと揺れた。
「お前は……中学生の頃の俺にそっくりだ」
「そうだと思う。二度目に死んだのが、その頃だから」
そうか、と口にした。知らずとも気がついていたことだから、特に自分の表情が動いたとは思わない。少年は何を考えているかわからない様子で、なんだかぼんやりと口にした。
「あなたが知ってくれたから今度こそ死ねたと思ったんだ。でも……ダメだったみたいだね」
「そうか」
確証はないが、わかる。きっとこの少年は生まれてこなかった俺の弟なんだろう。
薄気味悪いとは思わなかった。俺が弟のためにしてやれることがあるというのは悪くないように思えた。何一つ与えられなかった弟に、弟が受け取るはずのものだった全てを享受した俺が何かを差し出すのは当然だと感じていた。
昨日の夢で弟が望んだ食べ物はチョコレートだった。弟のワガママを叶えてやることが己の慰みになっているとは思わないが、なっていないかと言われるとわからない。ただ、夢でしか会うことのない弟には人並みの情がある。
味覚を譲るのは一度きりのようだし美味しいものを食べさせてやりたい。弟はそれしか食べられないのだから。
そんなことを考えながらチョコレートの通販サイトを見ていたら秀と百々人が来た。レッスンまでは時間があったので一度事務所で合流することになっていたのだ。
「二人ともお疲れ様」
「お疲れさまです」
「おつかれさま。えーしんくん早いね」
挨拶をしたあと他愛ない話を少しした。そうだ、二人に美味しいチョコレートについて聞いてみようか。そう思った矢先に百々人がカバンの中から菓子を取り出した。
「これ食べる? 友達がおいしいって言ってたんだ」
差し出されたのは安っぽいチョコレート菓子だった。
「あ……いや、大丈夫だ」
「そう? わかった。しゅーくんは食べる?」
反射的に断ってしまった。別に市販の菓子が不味いとは言わないが、なんとなく相応しくないように思う。かといって俺は弟の望みの、その深い部分を知らない。
チョコレート菓子を断っておいてチョコレート菓子の話をするわけにもいかない。スマホをポケットにしまい、秀と百々人がチョコレート菓子を食べる様子を見ていた。
帰りにデパートに寄ってチョコレートを買った。キラキラとした、惑星をモチーフにしたチョコレートが箱の中にたった三つだけ収まっている。
コーヒーを用意して滑らかな赤い光沢を纏ったチョコレートをつまむ。テーブルは狭く、向かいには誰も座っていない。ここには俺以外の誰もいない。
口に含んだチョコレートからは何の味もせず、ドロリとした油分が舌にまとわりつく。少し舌に残る違和感を流し込むようにコーヒーを啜れば苦味が口いっぱいに広がった。
ひとつ、ふたつと味のしないチョコレートを齧る。味覚がなくなるのは何度目なのかを考える。
これが正しいことなのかがわからなくなってきた。きっと考えなくてはいけないことなのに、油膜の張った舌の上のようで踏み込みたくない。
***
怒らせた、と思った。というよりも「怒ってます」と言われてしまった。現状を鑑みるに、叱られてると言ってもいい。
怒られる……叱れられるというのはいつぶりだろうか、と考えてから自分にはあまり怒られた経験がなかったと気がつく。両親は俺を叱ることがなかったし、祖父母を含む誰彼からもそこまで叱られた覚えはない。祖父母が亡くなってからは全くと言えるほどなくて……いや、祖母はあまり俺を叱ることがなくて、いつも心配をしてくれていた。本当に、周りの人間は俺のことを叱ってこなかった。
俺の目の前には秀と百々人がいて、不機嫌というよりはなにやら辛そうな顔をしている。二人はただ俺に「自分自身を蔑ろにするのをやめてほしい」という趣旨のことを言っているのだが、それがいまいちピンとこなくてうまく会話が成立しない。
俺は自分自身を蔑ろにしているつもりはなく最適解を選んでいるだけだ。今日だってそれが正しいと思ったから、空腹そうな二人に食べようとしていた雪見だいふくをひとつずつやろうかと提案した。そうしたら、なぜか怒られた。
「雪見だいふくをやるのがそんなに間違ったこととは思えないんだが……」
「だから……そうだけど、そうじゃないんだよ……」
「要領を得ないな。それにお前たちも俺が腹をすかしていたら雪見だいふくを渡すだろう」
きっと二人は同じことをする。ならば俺が同じことをしたとて問題はないと返せば、秀が何かに納得したように声をあげた。
「それです! それをもらった鋭心先輩はどう思いますか?」
「嬉しいが……ああそうか。確かに、受け取るのは気が引けるかもしれない」
「そうです。いや、一回や二回ならいいんですよ」
「うん。でもね、えーしんくんは毎回そうしちゃうでしょ?」
毎回と言われても意識して数えたことはない。反論しようかと思ったが根拠もないので黙っていると、静かに秀が言った。
「嬉しくないわけじゃないんです。でも……俺たちだって鋭心先輩においしいものを食べてほしいです」
「……お前たちの言いたいことはわかった」
言いたいことはわかった、という言い方は少々卑怯なのかもしれないが、否定もできず肯定はしたくないのだから仕方がない。
自分に置き換えてみろと言われてみれば俺が間違っていたというのは理解できた。だが俺と秀や百々人は別人で、俺自身にそれが適用されるのかと考えるとしっくりこない。俺は多くを、弟の分までもを享受して生きてきた人間なのだから、他人に与えることを良しとすべきだと考えている。それなのに秀は言う。
「鋭心先輩のものは鋭心先輩のものなんだから」
やはり、言葉がうまく飲み込めない。
そうではなかったはずのものがある。弟が受け取るはずだった愛がある。言う必要はないから黙っていたが、なにかがズレている気がしてならない。
秀と百々人の言いたいことはわかるし、二人から見たら俺は自分自身を蔑ろにしているんだろう。結果だけ見ればそうなのだから、気には留めておくべきだ。
秀が言った。
「……嬉しい気持ちも本当です。なんだか……うまく言えなくてすみません」
百々人が言った。
「アイス、溶けちゃったね」
***
雪見だいふく事件から二週間ほど経った。あれを事件と呼べるのかはわからないが、あの一件以来振る舞いについて考えることが増えた。
とはいえ日常は変わらない。俺は学生としての本分を全うし、アイドル活動に務め、数日おきに弟と会話をする。弟はカレーとシチューを食べてその違いを不思議に思ったり、映画館のホットドッグを食べてその味の雑な濃さに驚いていた。
「映画館といえばあとはコーラだが、飲んでみるか?」
自分そっくりの顔と瞳は鏡を通さないと途端に見慣れないものになる。弟はその若草色の双眸を一度歪めた後、おずおずと口にした。
「……飲みたい、かも」
「そうか。なら次はそれを」
与えることが間違っているのであれば、これは間違った行為なのかもしれない。頻度の問題ならいいのだろうか。弟が際限なく求めてきたら、俺はそれを拒絶できるのか。
できる、のだと思う。だが確証はない。何者にも恥じない行動を心がけているというのに、こんなに自分自身が覚束無いのは初めてだ。
「映画館で飲むべきか? そうでないなら明日にでも、」
「ねぇ、……どうしてあなたはこんなに良くしてくれるの?」
疑問の形をしているが、その響きはとても物悲しく悲痛さすら感じさせた。俺は安心させるように口を開く。
「別になんの問題もないからだ」
「そう……」
俺はお前の兄だからとは言わなかった。生まれてこなかった弟に言うべき言葉ではないし、弟へ感じる俺の負い目など話す必要がない。
弟はなんだか泣きそうな顔をしていた。なんとなしに、怒っている秀や困っている百々人に似ていると思った。
「問題が生じたら伝える。その時は納得してほしい」
「……うん、わかった」
夢の終わりは自分自身で決められないが、それにしたって今日は急に意識が落ちた。「ありがとう」だか「ごめんなさい」だか、弟が何かを言った気がするがわからない。弟の声が聞こえるのは俺だけなのに、なんだかひどく申し訳がない。
結局コーラは映画館で飲むべきか聞くのを忘れた。しかしこの先のスケジュールを考えると映画館に行ける日は遠そうなので、缶のコーラを飲むことにする。代わりと言ってはなんだが、なるべく冷えた美味しいコーラを飲んでやろう。
異常気象、とまではいかないがもう五月も終わりが見えてきた頃なのに暑い。こんな暑い日に飲むコーラは美味いだろうと思うと弟に美味しいものを飲ませてやれるという喜びを感じるのにその影に薄暗い感情が潜んでいるようでならない。卑しく、浅ましい。十八年を生きてなおこの先の未来がある人間が、何を惜しむ必要があるのだろう。
ふと、思う。これは惜しいという感情ではない気がする。
正体が掴めない感情とは関係なしに五月らしからぬ気温にうっすらと汗が滲む。衣替え、という言葉を思い浮かべたと同時に首筋に冷たいものが触れた。
「ひっ、」
「あはは。びっくりした?」
「百々人……それに秀も」
偶然一緒になったんです、と秀は言った。その手には缶コーラが握られていて、缶には水滴がうっすらとついている。
「さっき買ったんだ。はい、えーしんくんの分」
百々人は両手に持った缶コーラの片方を俺に差し出してきた。ちょうどいい、と受け取ろうとした瞬間、胸がどうしようもなく騒いだ。
「ありがとう。……これは、あとで頂く」
百々人は何も不審がってはいないのに、言い訳のように言葉を続けた。
「炭酸の気分ではないんだ。……あとで必ず飲む」
百々人は俺の言葉にただ「うん、」と言い、あとは三人で他愛のない話をした。握った缶に熱が移って、指先が冷たくて気持ちいい。
コーラを飲まなかったのは、それが俺のためのものだからだ。
百々人が俺にくれた、俺のための、俺だけのもの。
鋭心先輩のものは鋭心先輩のものなんだから、という言葉はいつだって俺の胸にあった。これを弟にあげるのは間違いのはずだ。
間違いだとわかることはしない。それだけで良いはずなのに胸騒ぎがして仕方がなかった。ざわざわと、胃の奥で育ったもやのようなものが喉に絡まってどうしようもない。
「そういえばえーしんくんそろそろ誕生日だね」
ハッと、意識が呼び戻される。二人はニコニコと笑っていた。
「俺たちケーキ作りますから、放課後はお菓子禁止ですよ」
「うん。まっすぐに事務所に来てね」
思ったより歩いていたようで、事務所はもう目と鼻の先だった。徐々に生ぬるくなっていくコーラをハンカチで包み、カバンにしまいながら問う。
「サプライズはやめたのか?」
「やめたわけじゃないけど……ほら、お腹いっぱいにされちゃうと困るから」
「ケーキの味がお楽しみってことで。せっかくの誕生日にすれ違うのもなんですしね」
「東雲さんに手伝ってもらうんだ。期待してていいよ」
わいわいと会話していたらもうたまこやの前だった。馴染みの看板を見るとなんだか腹が減ってくる。今日はレッスンもないし台本の読み合わせでもしながら軽く何かを食べようと言えば、二人は楽しそうに笑う。
百々人がコーラを飲み干した。水滴で指先が濡れていた。
帰り道にコーラを一本買った。見分けがつくように、ペットボトルのものを買った。
缶とペットボトルで味が違うと言うのは数回聞いたことがあるけれど、その根拠は聞いたことがない。そういえば、その話は決まって『缶のほうがおいしい』という結論に至る。それなのに俺は見分けをつけるためという理由でペットボトルのコーラを買った。
お手伝いさんも帰った後の自宅には誰もいない。リビングの電気をつけるたびに、この光に対して人数があまりにも少ないように感じてしまう。部屋が明るく、広い。台所の電気はつけず、百々人にもらった缶コーラを冷蔵庫に入れた。
椅子に座る。ペットボトルのコーラを取り出す。蓋を開ける時、大袈裟な音が響いた。
コップに出したりはせずにそのままコーラを飲んだ。ぴりぴりとして、弾けるような感覚はあるのに味はしない。俺は相変わらずひとりで、ここは白い夢のように静かだ。
弟が望んだものを食べた日には必ず夢を見たし、そこで出会う弟は決まって礼を言ってきた。
しかし今日はなんの夢も見なかった。弟の夢も、楽しい夢も、悪夢も見ずに目が覚める。
時間は午前四時半。起きるにはあまりにも中途半端な時間だが、うっすらと日が差して生活が始まろうとしている。
誰もいないリビングに行った。ここに人はいないが、家には人間の気配がする。目の前に人間がいないことには変わりないのにその違いはなんなんだろう。
冷蔵庫から百々人にもらったコーラを取り出して、一気に飲み干した。パチパチとしていて、水ほどうまく飲み込めなくて、起き抜けに飲むには甘ったるい。
飲み慣れたコーラの味だった。それなのに、味がするだけで涙が出るほどに胸が苦しい。滲む涙は炭酸の刺激とは無関係だとわかっていた。それなのに、なぜこんなにも胸が締め付けられるのかがわからない。
「……弟は悪くない」
本心だ。あの子はいつだって、どこか申し訳なさそうにしていた。
「……秀と百々人なら俺のことも悪くないと言うんだろうな」
誰も悪くないことがわかる、というのは本当にどうしようもない。俺はいつだって悪がいたほうが迷うことがなかった。
どうしようもないことだけがわかる。それ以外はわからない。やたらと口の中が甘い。
***
弟がコーラの味を知ってからしばらくが経った。弟には出会った時よりもハッキリと侘しさや遠慮がこびりついて、拭えない。
弟はあの日から何も望んでいないが夢の頻度は変わることがなく、俺は今日も弟と話をする。お互いに沈黙を選ぶ時間が長くなったように思う。なんとなしに聞けないことがある。あのコーラは美味しかったのだろうか。
「ねぇ、あの……」
「どうした?」
おずおずと、の見本のように俯きながら弟が俺を呼んだ。なんだか泣きそうな顔をしているから頭を撫でてやりたいのだが、俺は初めて弟にあった日からずっと、この椅子から立ち上がることができていない。
「……ケーキが食べてみたい」
「ケーキか」
ふと、秀と百々人の顔が浮かぶ。彼らは俺のためにケーキを作ると言っていた。
一度、大きく息を吐いた。確かめるように口にする。はぐらかすつもりがなかったといえば、きっと嘘になる。
「……ケーキには多くの種類がある。イチゴが乗ったもの、チョコがかかったもの、それと、」
「誕生日ケーキが食べてみたい」
ドクリと心臓が跳ねた。何もこの子はどうしようもない悪辣からこんなことを言っているわけではない。そう信じられるほどの時間を俺と弟はすごしている。
ただ、誕生日ケーキを譲れと言われて咄嗟に返事ができなかった。俺は明日、秀と百々人から特別な、世界でたった一つのケーキをもらう。
冷えたコーラが喉を伝う感覚を思い出す。弟のために何かをしてやりたい気持ちは本当なのに、胸がつかえて言葉がうまくでてこない。
「……考えさせてくれ」
たった一言、こう答えるのにたっぷりとした時間をかけた。弟は一度なにかを言いかけて、それを振り切るように返してくる。
「うん。……どっちでも、いいから」
あなたが決めて、と少年は言った。返事をするまえに夢が終わった。
夜更かしもしていないのに寝坊をした。朝食を抜けば問題のない時間だったからよいものの、気が弛んでいる……いや、思ったよりも弟への返事に脳のリソースを割いているのかもしれない。思って、少しだけ笑う。脳のリソースだなんて、いかにも秀が言いそうだ。
朝食を抜いたからか、普段と同じ量の昼食を食べても物足りなさを感じていた。満腹にはなるなと百々人が言っていたのでちょうどいいだろう。ケーキが楽しみなのに後めたさがぴったりと付き纏っているように思う。
それでも決めたからには全うしなければならない。
登校中、授業中、昼食の時だってずっと考えていた。弟のことを考えて、秀と百々人のことを考えて──ようやく、向き合う決心がついた。
俺は、俺自身のことを考えなければならない。
自分自身を蔑ろにしているつもりがないというのは変わらない。
それでも、俺の幸せを心の底から願う人がいる。俺が少しだけ自分を優先することで安堵する人がいる。
その愛に俺は応えたい。
俺の幸いはもう、俺が幸せにしたい人と無関係でいられないんだ。
「すまない。誕生日ケーキはやれない」
想像する。色とりどりの、果物のたくさん乗ったケーキだ。
秀や百々人がいなかったらどんなケーキでも弟にやっていた。それでも、俺の世界にはもう秀と百々人がいる。
「あれは俺の、俺だけのためのものだから」
そういえば、弟の願いを断ったのは初めてだった。
届いたのだろうか。思って、一人で納得する。あの子は俺を害するような存在ではない。そう信じている。
事務所の一角が飾り付けられていた。折り紙で作られたガーランドと風船は俺たちのユニットカラーで統一されており、二人が俺との関係を大切にしてくれているのがわかる。
「えーしんくんおつかれさまー」
「こっちきてください。ケーキありますよ」
テーブルの上には手を思い切り広げたくらいの大きさのケーキがあった。高さは辞書よりも高くて、真っ白なクリームが綺麗に塗られている。ケーキの上のネームプレートは大量のフルーツの上でバランスを取っていて、乗り切らなかったフルーツが皿の上いっぱいに溢れていた。
「じゃーん。えーしんくんデラックスだよ」
「鋭心先輩スペシャルと迷ったんですよね。まぁ味は一緒だからいいかなって」
半ば取り押さえられるように着席させられる。秀がコーヒーを淹れてくると離席したので、少しの間百々人と話していた。
「本当にすごいな。ケーキと同じくらいフルーツが乗っている」
「でしょ? ケーキの部分は東雲さんに習ったからおいしいし、果物は天道さんお墨付きの製菓店の果物なんだ。おいしいものしか乗ってないから絶対においしいよ」
コメディ映画に出てくる料理下手なキャラクターのように二人の指先が絆創膏まみれになっているわけではない。それでも二人が苦労をしてこれを作ってくれたというのは一目見ればすぐにわかった。
「フルーツの時期とか知らなかったから、調べてて楽しかったよ」
「そうか。確かに旬のフルーツがたくさん乗っているな」
「お待たせしました。コーヒーできましたよ」
秀が戻ってきて俺にコーヒーを差し出してきた。そうして俺と百々人をぎゅう、と押してソファーに無理やり収まった。このソファーは二人掛けだろうに。
「また抜けなくなったらどうするんだ……」
「余裕あるから大丈夫ですよ。俺も鋭心先輩が食べるの隣で見たいんで」
「僕も見たい。食べて食べて」
二人が楽しそうに俺を見る。本当に嬉しそうで、しあわせそうで、裏切られることなど考えていない。
きっと、俺の選択は正しかった。
「いただきます」
まずはケーキから食べようと、フルーツをかき分けてスポンジをフォークでそっと一口取った。ふわふわとしたスポンジをしっかりとくっついているクリームごと口に入れれば、バニラの甘い香りがした。
美味しい。それだけのことが、こんなにも嬉しく、物悲しい。
「どう……」
「かな……?」
さっきまでの活気はどこへやら、不安こそなさそうだが緊張は隠しきれない様子で二人が呟く。次はケーキとイチゴを一緒に口に入れて咀嚼した。甘くまろやかなクリームがイチゴの酸味を包み、それでいて引き立てている。スポンジはふわふわでフルーツの食感を邪魔していない。甘すぎず淡白すぎず、果物の酸味とあまみが華やかなとてもおいしい美味しいケーキだった。加えて、これは二人が作ってくれたものなんだ。そう思うと美味しさも増す気がする。
これが俺のものなんだ。誰にも分け与えることのできない、俺だけのもの。俺だけが大事に抱えて、手放してはいけないもの。
「……おいしい」
「よかったー!」
「まぁ俺たちが作りましたからね。東雲さんにも習ったし、」
わっ、と緊張から解き放たれた二人が堰を切ったように喋りだす。果物はどこで買っただとか、スポンジをふわふわにするためにどれだけメレンゲを泡立てたのかだとか、飾り付けは百々人がデザインを担当したのだとか、そういうことを得意げに、幸せそうに話してくれる。俺のために何かが出来たことを心の底から喜んでくれている。
「……ありがとう」
俺のものは誰かのためにならなんでも手放す覚悟があった。だが、手放してはいけないものがあるとようやく知った。
弟への気持ちだってちゃんとある。それでも、ふたつの願いが同時に叶わないならば、俺は選ばなければいけない。
「本当においしい……ありがとう……」
秀と百々人の幸せは俺の幸せに紐づいている。それは幸福なのにどうしようもなく苦しくて、これで良いのかという自問自答は当分止むことはないんだろう。
ただ、大切にしたいものは見失ってはいけない。選んだからには守らねばならない。
「……えーしんくん泣いてる?」
「え? あ、ほんとだ」
百々人に言われて初めて気がついたが、どうやら俺の目からは涙がでているらしい。
戸惑いと、しあわせと、迷いが心臓でないまぜになってこぼれてしまったのだろうか。
「レアだ……」
「ほんとだ……」
「ハンカチを渡したりしないのか、お前たち……」
ポケットからハンカチを取り出して頬を拭う。もとより泣いたつもりもないし、嗚咽などもなかったからこれでいつも通りだ。それでも、きっと俺が泣いたことを二人はずっと忘れないんだろう。
「俺は幸せ者だな」
もう一口ケーキを食べる。グレープフルーツを剥くのは手間がかかっただろうに。
それでも二人は笑う。
「当たり前です。俺たちと一緒なんだから」
「そうだよ。……いつもずーっとは無理でもさ、できるだけ三人で笑ってたいよね」
「……そうだな」
ケーキを一口ずつ二人にやった。
与えられて、与えるというのはきっとこういうことなんだろう。
***
夢を見た。きっと最後の夢になるという予感があった。
白い空間だ。ただ広くて、人の気配がない空間。きっと、寂しかったんだろう。
「ごめんなさい。困らせた」
弟の声がする。弟はいつも通りに座っていたが、なにやら存在が朧げになったような印象を受けた。
「いや。……俺自身についてを考える、良い機会になった」
「許してくれるの?」
「初めから怒ってなどいない。今まで譲ってたのも、今日だけは譲らなかったのも、全て俺の意思だ」
弟は目に見えて安心したように息を吐いた。そして、それきり黙ってしまった。
言ってしまえば一つの繋がりが千切れる。それでも、決めたことだ。
「……謝るのは適切ではないから謝らない。その上で言う。……もう、お前に何かをやることはない」
「うん」
弟は少しだけ残念そうだったが、それ以上に涼やかな声をしていた。俺は深く息を吸い込んで、話し出す。
「正直……わからないんだ。お前のためにならないからやめる。秀と百々人の気持ちを無視できないからやめる。……俺がもう何も譲りたくないからやめる。全部本当のようだし、全部自分の気持ちではないように思える」
「うん」
「ただ、これからの俺は俺に与えられたものを大切にしようと思う。世界が与えたものを等しく……これは本心だ」
「うん」
弟はゆっくりと頷きながら俺の話を聞いていた。俺が話し終えて少しの沈黙が流れたが、それをかき分けるように遠慮がちに聞いてくる。
「……嫌いになった?」
「急にどうした。弟に甘えられて嫌がる兄などいないだろう」
「だって、」
「俺はお前に甘えられて、楽しかったよ」
「……ありがとう」
弟は寂しそうに、幸せそうに微笑んだ。
「あなたの幸せを願ってる」
「ああ」
単純なことなのかもしれない。俺が誰かの幸せを望むように、俺の幸せを誰かが望む。
だとしたら俺は幸せ者だ。俺が幸せを望む人に、幸せを望まれているんだから。
「大丈夫だ。どうやら秀と百々人がいれば、俺は俺自身に甘くなれるらしい」
「うん」
「いつか……誰のためでもなく、自分の幸せを望む日がくるのかもしれない」
未来に確約はない。だが、未来にも秀や百々人、プロデューサーや事務所の仲間がいてくれる。
「……望まないことを選ぶのかもしれない。それでも、選んだ道は全うするつもりだ」
「……どんな道を選んでもあなたなら大丈夫」
弟は困ったように、祝福するように笑う。
「応援してる」
「ああ」
瞬間、ぽーんとピアノの音が鳴った。
どういうことだろうと驚いて弟を見れば、弟もビックリした様子で固まっている。何かが変わっているんだろうか。徐々に、変わって、終わるんだろう。
きっと最後だ。言わなければいけない。
「ケーキを買ってきたんだ。これは誕生日ケーキじゃない。お前を弔うために食べる」
「うん。お別れだね」
「ああ。……俺はお前に会えてよかった」
さよなら、とどちらかが口にした。夢が終わる。
目が覚めても視界は真っ暗だった。スマホをつけてみれば、眠りについてから10分も経っていない。
冷蔵庫にはケーキが入っている。コンビニでうまいことドーム状になっているプラスチックにたったふたつがポツリと入っているのが可愛らしいと、これを見かけるたびに思う。
専門店のケーキというのも考えたが俺はこのケーキが嫌いではなかった。これを二つ買って秀と百々人とプロデューサーと分けた日のことを思い出していた。俺は弟と何かを分け合いたかった。
ケーキを取り出してひとつずつ皿に出す。たったひとつのイチゴが乗ったケーキがふたつ、じっとこちらを見ているようだ。
「お前に、安らかな眠りがありますように」
片方のケーキをフォークで割って口にする。ケーキは味がせず、スポンジがカサカサとしていて、クリームがべっとりとしている。
「……やはり専門店のケーキのほうがよかったか?」
味がしないとはいえ品質はわかる。間違えてしまったかとぼんやり考えているうちにケーキをひとつ食べ終えてしまった。残しておくわけにもいかないから、もうひとつに手をつける。
「ん……なんだ、これも悪くないな」
口にしたケーキはチープな味がした。安っぽくて少しカサカサしたスポンジ、子供が好みそうな甘さのクリーム、薄いイチゴ。こういうものをこっそりと買ってきて、夕飯の後に親に内緒で弟と分け合う未来もあったのだろうか。
歯を磨いて眠る。
朝がきて目が覚める。一日が始まる。
もう味覚を失うことはなかった。
あの夢を見ることも、弟に会うこともなかった。