或る写真家のアイツの写真集が出ると決まったのが数ヶ月前の話だ。なんでも、とても有名な写真家から直々に話があったらしい。
アイツはどちらかと言うまでもなく、動いている自分に自信があるのだろう。写真と聞いて少し眉間にシワを寄せたが、断ることはしなかった。ただ一言、「ん」とだけプロデューサーに告げて、またダンスレッスンに戻っていった。そのやりとりを俺はスポーツドリンクを飲みながら眺めていた。円城寺さんは自分のことみたいに嬉しそうにしてた。スポーツドリンクを飲みきった瞬間、休憩が終わった。詳しい話は後でしますね。そう言ってプロデューサーはどこかへ行ってしまった。
***
写真の撮影は順調だったのだろう。トラブルがあったと言う話は聞かなかった。まぁ、俺は部外者だから、知らないだけで何かあったのかもしれないけど。
ただ、ことあるごとにアイツが、写真家を変わったやつだと評するのが気になると言えば気になった。オマエ以上に変わってる人間がいるもんか。そう思ったが口には出さなかった。少しだけ気になって、一度だけプロデューサーに聞いてみたが、曖昧に微笑まれただけだった。
「まぁ、変な噂の絶えない人だからね」
でも、腕は確かだよ。そう言って笑う。
納得のできる答えではなかった。アイツが噂に左右されて人を評価するとは思えない。不服そうにしている俺にプロデューサーは言った。
「……北斗が昔、写真を撮ってもらったことがあるんだって。話、聞いてみたら?」
この事務所にくる、もっともっと前のことだから、参考になるかはわからないけど。
「少なくとも、ネットの根も葉もない噂よりはいい話が聞けると思うよ」
釘をさされたような気がした。
***
機会は早々にやってきた。朝のジョギングを終えたついでに事務所に顔を出すと、そこにはジュピターの面々がいた。冬馬さんと翔太さんが何やら騒いでいて、それを北斗さんが笑いながら見ている。しばらく見ていたら北斗さんがこちらを向いた。目が合った。
「何か用かな?ずいぶん熱烈に見つめていたけれど」
「あ、ああ。すまない。聞きたいことがあって」
事実、あの写真家の話が聞いてみたかった。気になっていたのはアイツのことなのか、写真家のことなのか。それは自分でもよくわからない。
──って写真家、知ってるか?
俺が名前を口に出すと、懐かしそうに北斗さんは目を細めた。
「ああ、彼のこと?モデル時代にね、写真を撮ってもらったことがあるよ」
そう言って、思いついたように白い歯を覗かせる。
「彼の噂、知ってる?」
「……知らない」
「死体愛好家って噂」
へぁ?みたいな、マヌケな声が出た。それを聞いて北斗さんが声を殺して笑う。
「噂だけどね。でも、彼はそれを聞いても否定しないんじゃないかな」
肯定もしないだろうけど。そう言って北斗さんは写真家のことを話し始めた。
「あの人はなんて言うのかな、変わった人って一言で表してもいいんだけど、それは少し勿体ない気がするなあ。彼の写真の……いや、彼の人生のテーマは『生と死』だと思う。彼は何も言わないけど、きっと、彼の周りの人間はみんな思ってる。俺だってそう。
俺の写真を撮ったとき、きっと彼の中のテーマは『死』だったんだろうね。言われた訳じゃないけど、彼の写真を見たらわかる。なんだろうなぁ、そんなつもりはなかったけど、俺からはどうしようもなく、そんな気配がしてたのかもね。あの頃の俺のどうにもならない気持ちを見抜かれたような気がして、実を言うと内心は穏やかじゃなかったな。
何枚も、自分が物言わぬ死体になったような写真を撮られた。あのとき、俺は確かに彼に殺されていたんだ。川沿いで、日の傾いた校舎で、広げられたビードロの上で、何枚も彼は写真を撮った。完成した写真の中で俺は涼やかに微笑んでみせたりしていたけど、そこには拭いがたい死の匂いがこびりついていたよ。
そうやって退廃的な写真を撮ったあとに一枚だけ、彼は俺がテニスをする写真を撮ったんだ。彼はいつもそうなんだって。生か死か、どちらかに極端に傾いた写真を撮ったあとに、真逆の写真を少しだけ撮る。その写真を見たときは正直安心したよ。それまでの写真ったら、美しいけど生命の気配が全くしないんだもの。呼吸をしながら、自分の死体を眺めている気分だった。
俺は彼のことを一生忘れないと思うよ。殺されたのは、生まれて初めてだから」
北斗さんがそう締めくくる。俺は少しの相づちしか打てなかった。
『せいとし』
生は生命の生だろう。死は、死。
今の北斗さんから死のイメージは欠片も浮かばないが、昔は違ったのだろうか。それとも、その写真家にかかれば誰もが逃れられぬ死を引きずりだされるのだろうか。望まぬ、最悪の、誰にでもつきまとうIFを。
「撮られるの?」
北斗さんが問いかけてくる。
「俺じゃない、けど」
「ふうん」
しばらく沈黙が続いた。北斗さんはそれを会話が終わった合図だと思ったのだろう。
「変わった人だけど、腕は確かだよ。そして、とんでもない芸術家だ」
そう言って北斗さんは冬馬さんと翔太さんの方へと向かっていった。
***
北斗さんとの会話からしばらくした頃だ。俺が円城寺さんのラーメンを食べていると、アイツがプロデューサーを連れて男道ラーメンにやってきた。俺はその時食べていたチャーシューを飲み込んで、一言、おつかれさま、と言った。プロデューサーに、だ。
アイツは写真集の撮影を終えたあとだった。今日が最終日だとプロデューサーが言っていたから知っている。
「らーめん屋!らーめん超大盛り!チャーシュー山盛りでな!」
アイツは挨拶もそこそこにそう宣言すると俺の隣に座った。少し遅れてプロデューサーがその横に座って円城寺さんにラーメンを頼んだ。
「いやー、変わった人だとは思ってたけど、本当に変わってたよ」
「アンタが言うってことは相当なんだろうな。撮影、カンヅメしたんだろ」
「そうなんだよ。そん時なんだけどね、食事制限があって……」
プロデューサーが苦笑しながらそう言うと、アイツの顔が露骨に不機嫌になった。
「食事制限?オマエ、太ったのか?」
「誰が太るかよ!」
「いや、なんか、──さんのこだわりらしくてね」
曰わく、最後の写真と撮る前日と当日……つまり、昨日と今日。アイツは粘土のような携帯食しか食べさせて貰えなかったらしい。不機嫌の理由はこれか。食欲と睡眠欲で動いてるような男だ。これは確かに、堪えたのだろう。
「意味わかんねぇ、あのオッサン」
「まぁまぁ、おかげかはわからないけど、いい写真が撮れたじゃない」
「何食ってたっていい写真くらい撮られてたし!」
一体、どんな理由でそんなことになったのか。いや、どんな写真を撮るためにそんなことをしたのか。少しだけわかる気がした。『生と死』。多分、最後の一枚は死のイメージだったのではないか。そんな考えが浮かぶ。
「それより前はいっぱい美味しいもの食べさせてもらったでしょ?」
ああ、でも。桃しか食べさせてもらえない日もあったっけ。そう言ってプロデューサーが笑うから、アイツはまた微妙な顔をした。
「んー……まぁ、あの生焼けの肉とか、白い貝とかは悪くなかったけどな」
「生焼けの肉!?」
円城寺さんが、見過ごせないと言うように悲鳴のような声をあげる。
「ローストビーフのことだから、大丈夫だよ。あと、牡蠣ね。他にもいっぱい。おいしそうだったなー」
「うまいもんが食えたならよかっただろ」
「うまかったけど、あのオッサンがじーっと見てくるから、食いづらかった」
「いいじゃない。それをずっと眺めてたこっちの気持ちにもなってよ」
「え?師匠達は食べれなかったんすか?」
「うん、漣だけ」
そう言ってプロデューサーがラーメンをすする。当のアイツはチャーシューに夢中になっている。
「生命の写真を撮るには、生命を口にしないといけないんだって。──さん、言ってた。他にも色々言ってたよ」
面白い人だよね、とプロデューサーは笑う。
俺はと言えば、粘膜のような蜜で覆われた桃の果肉だとか、ローストビーフのあの生々しいピンクが肉汁でぬらりと光る様子や、牡蠣の殻の虹色のような光と内臓のような身をイメージして、少しだけ食欲が失せる気がした。──さん曰わく生命の象徴であるかのようなそれは、どちらかと言えば性的なイメージを俺の脳裏に植え付けた。
「で、あの写真を撮るために、あの粘土みてーな飯かよ……」
うんざりしたようにコイツが言う。いい写真は撮れたのだろうか。粘土のような携帯食みたいな、無機質なコイツ。ローストビーフや牡蠣とは真逆の、生命とかけ離れた写真。
写真家は生命の宿らないコイツを撮ってみたかったのだろうか。それは少し無茶なんじゃないかと思う。生命力が服を着て歩いているような男だ。真横でラーメンを啜る姿を見て、そんなことを思った。
***
写真集が完成した日も、俺たちは男道ラーメンにいた。
客がいなくなって店を閉めたあとの店内で、写真集を捲る音がぱらぱらと響く。
写真集は素晴らしかった。悔しいけどそう思った矢先に得意げな様子でアイツが声をかけてくるから、写真家の腕だろう、と答えれば案の定喧嘩になった。事実、写真家の腕には舌を巻いた。ただ、コイツじゃなければこんな写真は撮れなかったと思う。
”彼のテーマは『生と死』だと思う”
北斗さんの言葉を思い出す。そして、コイツのそれは明らかに『生』に梶を切って撮られた写真だと、1枚目から理解できた。
海辺、砂浜、波打ち際で水を蹴り上げるコイツのつま先から頭のてっぺん、髪の毛の先までが生命に満ちあふれていた。飛び跳ねた飛沫が溢れてしまった命のようにキラキラと輝いていて、コイツの周りを宝石のように囲っている。贅沢にちらした光の中で、コイツは一等輝いていた。
「よく撮れてるなぁ。漣、すごいじゃないか」
「あたりめーだろ!」
円城寺さんの声でハッと我に返る。悔しいけど、見とれていた。
2枚目、3枚目、ぱらぱらと捲られるページ。どれもこれもが生命の、命のイメージに満ちていた。写真家が、何を撮りたかったかハッキリとわかるような写真だ。向こうから話があったというのも頷ける。きっと彼は『生』が撮りたかった。それなら、コイツはうってつけだっただろう。
ぱらぱらとページが進む。あーだこーだといいながら捲る。1枚目みたいな躍動感のある写真が多かったが、ただ佇んでいるような写真もそれなりにあった。日の光の中で、幸せそうに眠る写真も。それでもテーマは、生命は失われておらず、棒立ちであらぬ方向を向いている写真にも、柔らかな吐息が聞こえてきそうな寝顔にすら、大げさすぎるほどの『生』が宿っていた。紙面をなぞる指先が、熱くなるんじゃないかって思うほど。大袈裟に言えば、太陽みたいだった。
悪くない時間だった。写真集もそろそろ終わるころ、突然モノクロのページが現れた。ハッと息を飲んだ。
どこだろうか、校舎にしては……というより、人が過ごすにしては物がなさすぎる、殺風景な部屋の床にコイツは横たわり、丸まって目を閉じていた。
眠っているとは思えなかった。死んでる。そう思った。その写真は1枚で明確な死のイメージを俺に叩きつけてきた。眠ってる写真は今までにもあったのに、この写真はそれとは明確に違っていた。
円城寺さんも息を飲むのが伝わってくる。アイツはその写真を眺めながら言った。
「これを撮るためにオレ様は2日間、変なモサモサしたのしか食えなかったんだ」
さっきまでの写真では髪の一本一本まで宿っていたような生命の気配がまるで感じられない。髪は輝きはそのままに床に伏している。モノクロの世界で白すぎる肌が白すぎる床に溶け込みそうになっている。伏せられた目は白銀のまつげに覆われていて、唇は何か塗っているのだろうか、毒を盛られたみたいに血色が悪い。指先に意思はなく、つま先はきっとどこにも行けない。
人形のようだ。きっと、コイツによく似た人形を作ったと言われれば俺はそれを簡単に信じただろう。肌は陶器のようで、白さの下に血の色を感じない。普段、ライブ後に上気したコイツの肌と、その透ける肌のしたの血の色が、いつかイメージしたローストビーフの赤さに重なった。
「『自分が生きていないと思って』ってずーっと言われたんだよ」
コイツが言う。北斗さんの言葉を思い出す。
”彼はいつもそうなんだって。生か死か、どちらかに極端に傾いた写真を撮ったあとに、真逆の写真を少しだけ撮る”
「死んでるみてーだな」
俺が(そして多分円城寺さんも)あまりにタブー視して言えなかった言葉をコイツはなんなく口にした。自分の死体を見てる気分と言うのはどんな気分なのだろう。
コイツの手が伸びて、ページを捲る。
次のページは、それまで見ていたものと寸分違わぬように見えた。ただ、1ページ前とは違ってコイツの目が開いていて、モノクロな世界の世界の中で唯一色を宿している。満月のような、蜂蜜のような、猫の目のような。金色の目。
目を開いた写真の中のコイツは、それでもどうしても死の雰囲気が拭えなかった。目を開けたことで生き返ったように見えてもいいはずなのに、何故か誰かが勝手に死体の目をこじあけたように見えてしまっている。そのせいだろうか、自分がそれをしたわけではないのに背徳感が胸に広がる。まるで死体を暴いて、辱めたような。コイツの目はどこも見ていなくて、それなのに目があったような錯覚に陥る。背筋が粟立って、少しだけ怖い、と思った。
ぱら、と。コイツがページを捲る。写真集はそれで終わりだった。しばらく、誰もなにも言わなかった。
「何というか……すごい人だな」
「あ!?アイツがすげーんじゃなくて、オレ様がすげーんだよ!」
「漣ももちろんすごいぞ。ただ、この写真は誰にでも撮れるもんじゃないだろうなぁ」
そう言って円城寺さんは深く息を吐き出した。俺も少し息の仕方を忘れた気がして、意識して大きく息を吸い込んだ。
死が恐ろしいと、ぼんやり思った。誰にでも訪れる最悪の未来。それを間近に突きつけられた気がした。自分の死を考えて、周りにいる人たちの死を考えて、離れてるアイツらのことが頭をよぎったから、意識してその考えを頭から追い出した。そんなこと、考えたくなかった。気分が少しだけ落ち込んだ。
「……よし、店閉め切る前にラーメンでも食べるか?」
円城寺さんがそう笑い、俺たちが同意する。よし、と円城寺さんが立ち上がる。
しばらくして、店にスープの匂いが満ちた。骨と肉と脂の、命の匂い。そういえばアイツは他に何を食べたんだろう。少しだけ気になった。