言の葉ただ、純粋に綺麗だと思ったんだ。
俺は、ことあるごとにアイツの髪を綺麗だと思う。
それは例えば差し込む朝日を反射してきらめいている時だとか、動くアイツに合わせてたなびく様子だとか、俺の指をすり抜けていく様や手触りだとか、シーツの海に揺蕩う緩やかな曲線だとか、真っ白な背中を流れる音だとか、うなじから枝垂れ桜のように影を落とす様子だとか、そういったものを幸福な気持ちで美しいと感じていた。
常々ではないが、時折思い返したように心にじわりと広がるその好意を口に出したのは初めてだった。ベッドサイドに腰掛けるアイツの背中をさらさらと流れ、薄暗い照明のオレンジを吸収してぼやりと輝いている銀の髪。気がついたらその髪を指で梳いて、伝えると言うよりは呟くように想いを口にしていた。
「綺麗な髪だな」
あまり深く考えずに口にした言葉。それをアイツは抱き合うには少し足りないくらいの距離で聞いたはずだ。ぴくり、とアイツの肩が少しだけ揺れて、はぁ、だとかああ、だとか、よくわからない言葉がアイツの口から漏れた。
照明は薄暗く、振り向かないアイツの表情はわからなかった。だけど、こんなのは振り向かないのが答えのようなもんだ。一拍置いて、俺も何を言っているんだと顔に血が集まるのがわかる。
忘れてくれ、そう投げかける前にアイツが口にした。
「……これ、好きなのか?」
振り向かないアイツの表情はわからない。目線も合わせずに俺は答える。
「……ああ」
本当のことだ。だけど、俺が好きなのはアイツの髪だけじゃない。伝えたことはないけれど、伝わっていると信じている。いや、甘えている。きっと、お互いに。
それで、おしまいのはずだった。
ただ、綺麗だと思ったんだ。綺麗なだけじゃないこの世界で、綺麗なだけじゃない俺達の関係の中で、ふつ、と溢れた綺麗なだけの感情。それだけだったはずだった。
***
どうして。様々な感情があぶくみたいにふつふつと湧き上がる中、真っ先に浮かんだのは疑問だった。
アイツが部屋にきた。珍しいとも言えるし、いつも通りだとも言える。ただ、明らかに異変があった。その異変に俺は混乱して、アイツを迎え入れるために開けたドアの前で茫然と立ち尽くしてしまった。
アイツの長かった髪が、肩より短くバッサリと切られていた。
どうして、誰が、疑問が浮かぶ。昨日、指先に絡めて綺麗だと伝えたアイツの髪。それが手品みたいになくなっている。
絶句している俺を見て不思議そうな顔をしているアイツが何かを差し出してきた。やる。そう告げる声色は不機嫌そうにも、どこか楽しそうにも聞こえた。
アイツが受け取れ、と言外に告げている。寂しくなった肩のあたりから離せなかった目をようやく手元に向けると、そこには赤い紐で括られた銀色の毛の束があった。
「……なんだよ、喜べよ」
「え……あ、何で」
「キレイだって言ってただろーが」
アイツはそう言って、俺が反射と惰性で差し出した手にそれを握らせる。それは確かに、昨日キレイだと言った銀色の、アイツの髪の毛だった。
「せーぜー大事にすんだな」
用件は済んだのだろう。そう言って立ち去るアイツの後ろ姿にはあるべきものが欠けていて、俺は少しだけ呼吸の仕方を忘れていた。
***
レッカの部屋のドアを叩く。二度、三度。反応のないドアを気長に叩き続けると、ようやく面倒そうに仰々しく扉が開く。
「あ?なんか用かよ」
「……別に…………」
「ふん」
入れよ、とも伝えずにアイツは背中を向ける。扉を閉じないのがわかりにくい受け入れのサインだ。俺は後ろ手に扉をしめて、アイツの背を追うように部屋に入る。俺の部屋と全く同じ狭苦しい間取りの、殺風景な俺の部屋よりももっともっと物のない部屋。当然椅子などもないので、アイツはベッドに腰掛ける。俺もそのすぐ横に座る。不自然に近い距離にも、アイツは何も言わなかった。
少しの間、お互いに無言だった。俺達がお互いのドアを叩くときは、だいたいが、まぁ、そういう気分の時だったから。
入口で追い返されなかったと言うことは、レッカも多少気分ではあるのだろう。手を伸ばして後頭部を撫でると、少しだけ気分が良さそうに目を細めた。弧を描いた目から、蜂蜜色の目がこちらを見ている。どちらからともなく、唇が触れ合った。
啄むような口づけは性急に深いものへと変わっていく。それでも意識の半分くらいは後頭部を撫でる手のほうにあった。頭のまるまるとした部分から首筋へと手をおろすと、そこにあったはずの髪がない。指先は首筋におりて、肩を伝って、背中へ。
思う。深く口づける時に頭をなでて、その髪を梳いて髪紐を解くのが好きだった。今更、気がつく。あの髪は、いったいどれくらいかけて伸びた髪なんだろう。そんなことをぼんやりと思う。
軽い舌先の痛みに意識が引き戻される。舌を噛まれた。目を開けば、不満げな目と視線がかち合った。視線をそらさずに唇を離す。唾液が銀の糸のように互いの唇を伝う。背中から離れた手でそれを拭う。アイツの舌が、同じようにそれを舐めとるのが見える。
「余計なこと考えてんだろ」
馬鹿馬鹿しい、と吐き捨てられる。確かに、行為に及ぶにはこれは余計なことかのかもしれない。でも、思わずにはいられないのだ。俺は先ほどから抱えている憂鬱を吐露する。
「伸ばしてたんだろ、髪」
「……なんで」
「エンドーさんに聞いた」
「チッ」
露骨な舌打ちに、それが真実だったことを知る。俺の知らなかったこと。
エンドーさんにそれを聞いたのは本当に先ほどだ。夕食の時の、何気ない会話。
レッカが髪を切ったことはすぐに多くの人間に知れ渡っていた。ただでさえ、目立つやつだ。例に漏れずエンドーさんにもその事は知れ渡っていた。
もったいないなぁ、そうエンドーさんは笑っていた。
「伸ばしてるって、言ってたのにな」
そう笑っていた。俺の知らないこと。
「伸ばしてたんだろ」
もう一度、口にする。責めるつもりなんてなかったけど、非難がましい口調になってしまった。苛立ちとか、憤りとか、そういうんじゃない。ただ俺は今、少しだけ自惚れていて、あんな、あんな些細な俺の一言で伸ばしていた髪を切ってしまったコイツが、愛おしくて、危うくて、切なくて、不安だった。
どうやったら、この気持ちが伝わるんだろう。俺自身でさえ整理ができない、喉のところでつっかえた、この気持ちを。
「……髪、いらねーならそう言えよ」
「別に、そうは言ってない」
「文句があんなら……」
「だから、文句とかじゃなくて」
もどかしい。なんだか会話が噛み合わない。少しの間逸らしていた目をもう一度レッカに向ければ、距離を詰められては唇をペロリと舐められる。途中まで出掛かってた言葉がペロリと飲み込まれてしまったみたいだ。レッカの手が俺の肩に触れる、その先を知っている身体の芯がぽっと熱くなる。
なんだか、俺達はいつもそんなやりとりをしてる気がする。つっかえた言葉が形になるまえに乱雑なキスで飲み込まれて、そのままカラダを繋げて曖昧に、バラバラになる。そうやって、いくつの言葉を失ってきたんだろう。
別に、それだって悪いことではないんだろう。それが俺達の最適解なのかもしれない。だけど、俺はいつも熱に溶かしてしまうコイツの言葉が聞きたかった。
「……俺が綺麗だって言ったから、切ったのか」
「自惚れんなバァーカ」
「自惚れんなってほうが無理があんだろ」
肩に触れた手を取って、握る。そうしてまっすぐにレッカの目を見た。
触れた手がじんわりと熱い。なんだか、こういう触れ合いをすっ飛ばして俺達って繋がっちゃったんだなぁ、なんてしみじみ思う。耐えられなくなったレッカが視線を外した。正直、こっちも耐えきれなかったから助かった。
そうやって、しばらく手を握りあってた。視線はふらふらとしてたけど、たまにパチリとかち合って、見つめたり、逸らしたり。指先がお互いに絡み合って、逃げて。
なんだか長い時間、そうやっていた気がする。シーツに視線を落としていたレッカが口を開いた。
「髪には力が宿るって」
「うん?」
「御守り代わり?なんか、誰かが言ってたから。別にほっときゃいいだけだし、だからテキトーに伸ばしてたんだよ」
時間をかけて、いつもだったら伝えずにいた言葉が少しずつ形になっていく。
「でも別にオレ様にはそんなもん、必要ねーから、だからオマエにやろうって。それだけ」
「御守り代わりに?」
「……そーだよ」
満足かよ、と言いたげな表情が朱に染まる。ぎゅうっ、と指先に力がこもっている。
「俺のこと、心配してくれたのか」
「……オマエは弱っちいからな」
「……ありがとう」
売り言葉に買い言葉でもよかったけど、そんな言葉は繋いだ手の熱でとけた。形にするのは下手だけど、これだけは口にしようと思って、珍しく礼を言った。
でも、やっぱりこの感情を言葉にすることができない。愛しくて、不安で、でもそれだけじゃない。胸をかき乱すこの感情を表す言葉を俺は知らない。わかることは、コイツのことがどうしようもないくらい、好きってことだけ。
「嬉しかった。髪っつーか、オマエがオレのためになんかしてくれたこと。けど、ビックリした。いきなり切るから」
「髪なんざまた伸びるだろ」
「好きだったんだよ」
びく、と逃げようとする手をキツく握りしめる。ずっと伝えずにいたことを、ようやく口にする。
「オマエの髪だけじゃない。オマエのことが、好きなんだ」
まっすぐ、目を見つめて伝える。
今まで、言わなくても伝わると思っていたこと。伝わっているだろうと甘えていたことを声に出して。
「…………今更だろ」
するり、逃げ出した手。シーツにおちる視線。柔らかな照明に浮かぶ表情。すべてが愛おしい。
「……オレ様は言わねーからな」
「好きにしろ。俺が言いたくて言っただけだ」
「てか、髪の話じゃなかったのかよ」
「だから、髪とオマエが好きって」
「何度も言わなくていい!」
ギャーギャーと開く口をぱくりと塞ぐ。そのまま息も言葉も飲み込んで、やっぱり俺たちにはこっちがあってるって思ったりして。シーツに沈むコイツの髪が短いのを見て、全てを言葉に出来るわけじゃないとガッカリしてみたり。
変わったり、変わらなかったり。でも今日は何度も好きって伝えようと思う。そのたびに視線を逸らすコイツを想像して少し愉快になる。
そうして、いつかコイツの口から好きって聞ける日がきたら。その時をずっと待っている。