家のない、旅人だった君へ。 事務所の動画配信チャンネルには俺も参加している。そこでいつものメンバーとゲーム配信をしていたら、『実家のような安心感』というコメントをもらったことがある。きっと賑やかな家なんだろう。
実家、というか。施設は子供が多いから、俺の実家と呼べる場所も騒がしい。でもアイドルになって、実家のような場所がもうひとつできた。円城寺さんの家だ。
円城寺さんの家は絵本の中に出てくる暖かな家の温度がする。俺には馴染みがないはずなのに、すっと入ってくるというか。縁がないと思っていたはずなのに、いざ巡り合うとずっとそこにいたかのような。
「さぁ、ゆっくりくつろいでくれ」
円城寺さんはいつもこう言う。俺たちが初めて家にきた日から、ずっと。
最初はどうしていいかわからなかったが、時間を重ねて正解が見えてきたような気がする。いや、正解なんてないってわかったってのが正しいか。きっと人の数だけ形があって、俺達の形はきれいに収まった。
円城寺さんが家事をしているときは俺はそれを手伝う。円城寺さんが編み物をし始めたり家計簿をつけ始めたら、俺はゲームをしたり台本を読んだりしてる。アイツはたいてい寝ていて、たまに思い出したように台本を読んだりテレビを見たり。で、テレビがついたら俺も円城寺さんもぼんやりとそれを見たりなんかしたりして、気がついたら過去の出演作やら他のみんなの仕事を見たりして勉強会が始まったりもする。で、気がついたら夕飯の時間になるから円城寺さんが夕飯を作る。俺は手伝う。アイツは手伝わないけど、茶碗だけは出して米をよそる。腹一杯になったらみんなで洗い物をする。円城寺さんが洗って、俺が拭く。アイツはこれだけはやると決めているのか、食器を片付ける。終わったらみんなでのんびりして、俺は家に帰る。たまに泊まる。アイツのことは知らないけれど、たまに三人で川の字になって眠る。こんな実家は俺にはないけど、『実家のような安心感』という単語はなかなか近いのではないかと思うのだ。
「さぁ、ゆっくりくつろいでくれ」
今日も円城寺さんが笑う。勝手知ったる円城寺さんの家で各々が自由にし始めた。が、どうもコイツの様子がおかしい。いつものように眠るでもなく、テレビをみるでもなく、俺と円城寺さんのほうをじっ、と見ているのだ。まるで、猫のように。
「……漣、どうした?」
円城寺さんが心配して声をかけても、ずっと黙ってる。
「なんだ? 腹でも痛いのか?」
俺が問いかけても、ずっと黙ってる。
コイツが何も言わないから俺たちも何もできない。ぴり、と緊張感が満ちていく。コイツはなんだか出会ったときのような目で、俺と円城寺さんを交互に見て、言った。
「……のかよ」
「ん?」
ようやく口を開いたコイツは、とても不安そうな、全然似合わない声を出した。半分以上聞き取れなかった小さな声を拾い上げるように円城寺さんが笑った。
「……本当にくつろいでいいのかよ…………」
「は?」
なに言ってんだコイツ。オマエいつもこれ以上ないくらいくつろいでるだろ。俺の数倍早い時期から、俺の数倍はのびのびとくつろいでいる。円城寺さんもびっくりしている。コイツはいつもくつろいでいなかったと言っているのだ。
「いつもくつろげてなかったか。いいんだぞ、たくさんくつろいでくれ」
これ以上どうくつろぐつもりだろう。円城寺さんは許したが、俺はちょっと身構える。そもそもコイツはくつろいでいる時間になにをするつもりなんだ。寝たりテレビを見たりするのはくつろぐことにならなかったのか。
「……くつろぐからな?」
念を押す言葉。円城寺さんがもちろんだと微笑む。コイツはあろうことか俺にも意見を伺うような視線を向けてきた。俺の話なんてひとつも聞かないコイツがだ。びっくりして少し反応が遅れたが、コイツの表情が曇る前に「好きにしろ」と返した。
「…………くつろぐからな」
宣告のように呟いて、コイツはいきなり服を脱ぎだした。オマエもしかして裸族なのか? 服を着ていたからくつろげなかったのだろうか。円城寺さんは少しびっくりしたようだが、「暑かったか?」と問いかけていた。
暑い時期ではない。涼しくて心地よい気温だ。そう感じていた空気が一瞬のうちに、どろりと湿った。
「……え?」
吐息のような疑問を俺と円城寺さんが同時に吐き出した。じと、と湿度が増したような感覚に被さるように『無臭』としか形容できない気配が鼻腔に雪崩込んできた。
なにかがおかしい。そう認識する前に、目の前の空間が歪んだ。
べり、と。ミルフィーユの層が剥がれるみたいに真相が捲られていく。上半身が裸になったコイツは胎児のように丸まり、おでこを床につけた。無防備に晒された肩甲骨のあたりから、茶色く枯れた老婆の手のようなものが生えていた。
「……っ」
息を呑んだのは俺か円城寺さんか。得体のしれないものに晒されて、俺たちの意識は限りなく共有されていただろう。老婆の手が押し上げた皮膚はぼこぼこと盛り上がって、着色料まみれのケーキみたいな鮮やかなピンク色が覗いていた。過度な集中は小さな音を拾う。コイツの顔のあたりには、見慣れた黄金色の瞳がふたつ転がっていた。
オマエ、と口にできなかった。代わりに悲鳴をあげることもなかった。アイツの下半身は真っ白な蛇のようになり、先の方にパンツとズボンが引っかかっている。妙なところが現実的で、なんだか笑えるような気すらしてくる。
頭を抱えていた白い腕に亀裂が走り、その隙間から無数の目が覗いた。その目はたっぷりのはちみつと同じ色だったが、この見たことのない存在が牙崎漣なのだという証明には少しばかり足りない。
がば、と身を起こしたコイツの胸から腹にかけて、きれいに筋肉がついていたからだがバックリと避けて、肋骨が丸見えだった。その肋骨の中にはみっつ、小さな頭蓋骨が入っていてカタカタと嗤っていた。
「……ビビったかよ」
いつものコイツの声にノイズをごちゃごちゃに混ぜたような音。それに惹かれるように顔を見たが、そこには目も鼻もない。ただ、縦に一本切れ目が入っていて、そこにはギザギザとした歯が並んでいる。ここが口なのだろうか。声は確かにコイツのものだったけれど、定期的に『ギッ、ギッ、ギッ』という音が聞こえてくる。
コイツはそれきりなにも言わなかった。腕にびっしりとついたたくさんの目が、一斉に逸らされる。顔がないから表情は読めないが、なんとなくしょんぼりとしているような気がする。そう思った瞬間。俺と円城寺さんは同時に笑ってしまった。
「なんだ、これを気にしてたのか?」
「あ?」
「いや、だってオマエがこんなしょげてるの……なんか笑えるな」
「はぁ!? こっちはてめぇらがビビらねえように……!」
「いやー、驚いたぞ! でもそうだな、漣がこんなに隠し事をして……こんな感じに打ち明けてくれたほうが驚いたというか……」
きっとこの様子をビデオとかで後日見せられたら、俺達の反応ってかなりおかしいんじゃないかって言うんだと思う。だって目の前には見たこともない、ゲームでもなかなかでてこないようなインパクトのあるやつがいて、きっと俺はこれがコイツじゃなかったら『バケモノ』って呼んでいたんだと思う。でも、これはコイツなんだよな。夢かもしれないけど、それでもこれはコイツなんだ。
コイツが、ずっと俺たちに遠慮してたというか、隠し事をしていたというか、あれだけ自分勝手に振る舞っているように見えていたのにくつろいでなかった事実とか、なんだかそういうことのほうが笑えてしまうのだ。いや、ビックリはしたんだけどさ。円城寺さんがいたのもよかったのかもしれない。今日が秋晴れの、涼しくて過ごしやすい日なのがよかったのかもしれない。今日は晩御飯が終わったら柿を食べようって約束しているのがよかったのかもしれない。まぁつまり、コイツが今日、これを打ち明けてくれてよかったんだ。
「くつろぐとそうなるのか?」
「ってことは、こっちが本来の姿なのか」
「そーだけどぉ……なんなんだよオマエら……変なの」
ぷしー、とマヌケな音がなって、頭がしおしおとしおれてくちゃくちゃのビニール袋みたいになってしまった。これはどういう感情なんだろう。
「なんだー漣。照れてるのか?」
照れてるのか? 会話の流れとしてはありえるが、コイツは照れると萎むのか。老婆の手がいきなり伸びて、円城寺さんの肩をぺちりと叩いた。本当に照れているのかもしれない。
萎んだ頭は空気が入るみたいにゆっくりと膨れていき、一度「ぱん!」と弾けていつもどおりのコイツの顔になった。首の上はいつもどおりなのに首から下はまだよくわからないモンスターみたいなので、ちょっと違和感がある。
「オマエ、どっちかにしろよ」
「うるせーな。言われなくてもくつろぐし。一回萎びたらこうするもんなんだよ」
「そういうものなのか」
「そーだよ。オレ様はくつろぐからな!」
変化は見せたくないのだろうか。もう一度おでこを床につけて隠すようにしたコイツが頭を戻したとき、そこに顔はなかった。ギッ、ギッ、という音は数度したら止んだ。口を閉じると静かになるようだ。
「……いや、ビックリしたな」
円城寺さんの呟きに、コイツの腕に生えた目が一斉に向けられる。
「打ち明けてくれてありがとうな。うちではいつだって、くつろいでいいんだ」
目線がこちらを向く。
「好きにしろ。俺だって勝手にゲームしたりしてるんだ。オマエだけやりたいことをしないのは、違うだろ」
そう言って俺はカバンからゲーム機を取り出した。流石に普段どおりに集中できるかはわからないが、見慣れないコイツがいるだけだ。じきに慣れるだろう。
「…………いつもこうじゃない」
小さな子どもが言い訳をするように、ポツリと無数の歯が覗く。ギッ、ギッ、という音。
「たまに……こうやって日に当てたり……たまにでいい。外よりここのが楽だ」
「そうか。うん。確かに外だと気を使うよな」
円城寺さんが手を伸ばして、アイツの頭──のような部分を撫でた。
「熱っ!」
「円城寺さん!?」
「バカ! 気をつけろ!」
熱いのか。円城寺さんはちょっと驚いたようだったが、お風呂のお湯がちょっと熱かったくらいだと笑った。火傷はしていないようでよかった。
「えっと……オマエ、なんか注意したほうがいいこととか、あるのか?」
「ん……口になんか入れたら返ってこない。手とか絶対入れんなよ」
「……気をつける」
注意事項はこれだけのようだ。なんだかおかしいコイツと、それを受け入れるおかしな俺たち。夕飯までは時間があるから、いつもどおりゆっくりとしよう。
円城寺さんが笑う。
「じゃあ、いつもどおりゆっくりくつろいでくれ」
円城寺さんはあみぐるみをしている。俺はゲームをしている。アイツはひなたで眠っている。いや、たまに腕にくっついてる目がギョロギョロと動いたり、うっすら開いた虚ろから「ギッ、ギッ、」って音は聞こえてくるんだけど。まぁこうなるのは『たまに』らしいし、別にいい。俺だってゲームに熱中したら「よっしゃ」とか言うし。
実家のような安心感。俺の新しい居場所。俺の大切な空間。
コイツが同じような安心感を得ているのなら、きっとそれが一番いい。夕飯の柿を楽しみにしながら、俺たちはいつもどおりにゆっくりとくつろぐのだ。