星の欠片を探しに行こう 合鍵ってどうやって渡すのが正解だったんだろう。
漣っちの表情は覚えてない。自分の手の震えが鍵をチャリチャリと鳴らしたことだけは覚えている。
受け取ってもらった合鍵は一回も使われていない。
*
高校を卒業したら一人暮らしをしようってのはずっと前から決めていた。先に卒業した先輩たちはずっと実家にいたからオレが一番乗りだ。大学は行こうか迷って、結局専門学校に通うことにした。ハヤトっちの作る曲を、もっともっと上手に歌いたかったから。
一人暮らしだけど、周りからはやんわりと反対されていた。新生活の始まりと本格的に忙しくなる仕事、その上に経験したことのない一人暮らしが重なることは大変だと、いろんな人が口にした。それでもオレは一人暮らしがしたかった。
理由はいくつかあるけど、きっと人が聞いたらバカみたいなことが大部分だ。オレは自分の家に友だちとか先輩とかを呼んでみたかった。別に実家にいたって人は呼べるけど、そこはオレが住んでるだけでオレの家じゃない。厳密に言えば、オレは家に漣っちを呼びたかった。だって漣っちは家族の気配がするところには決して寄り付こうとしないから。言われたわけじゃないけど、オレはわかってた。オレが一人で暮らし始めたって漣っちがくる保証なんてないけど、甘い期待はオレの背中を押すには充分すぎた。どのみち仕事で生活リズムがあわなくなるなら実家を出たって問題ない。ダメだったら戻ってこいって言ってもらえたし、帰る場所があるならチャレンジあるのみだ。
だけど。
「牙崎さんに合鍵を渡したのか」
麗っちはちょくちょくオレんちに遊びに来てくれる。漣っちとは大違いだ。漣っちは引っ張ってこないとこない。
「……でも、一回も使ってもらえないんすよ……」
合鍵は使われることがない。勝手にドアノブが回ったりしない。家に帰って、漣っちが寝ていることなんてありやしない。
渡し方──言い方が悪かったんだろうか。そうまで考えるが、あんだけテンパってたもんだから、セリフなんて覚えてない。ただ、オレのことだから本心は全部伝えてるはずだ。
漣っちのことが好きってこと以外は。
オレは漣っちが好き。二十歳になった漣っちがお酒を飲んで笑ってたのを見た時から好き。きっともっと前から好きだったんだろうけどそれはマグカップに少しずつ注いだ甘いジュースみたいなもので、その液体がマグカップから溢れた瞬間が、真っ赤になって柔らかく笑う漣っちを見たときだったんだと思ってる。
別に下心があって鍵を預けたわけじゃない。ただ、漣っちにまだ家がないって知ってたから。ここまでくるとなんで部屋を借りないのかはほぼミステリーの域なんだけど、漣っちは相変わらずふらふらしてる。寮に部屋があるっていうのは知ってるけど、ほぼ物置だという情報もゲット済みだ。だから寮はダメだった。一人暮らしがよかった。
オレのこと、好きになってくれなくてもいい。ただ、雨の日にオレの家にいてほしかった。夏の暑い日にクーラーの効いた部屋にいてほしかった。冬の寒い日に暖かいところにいてほしかった。別にどこにいたって漣っちが幸せならいいんだけど、オレから見えるところに漣っちがいたらオレはきっと安心する。そういうちょっとした自己中心的な感情がどんどんオレの胸の中で膨れて、できることが増えるたびに漣っちにしてあげたいことが山積みになった。漣っちはそういうの、なくても平気で生きていける人なのに。
「……脈なしにもほどがあるっす」
麗っちはオレの秘めたる恋心を知っている、たった一人の友人だ。麗っちは大事な友だちで、大好きだ。オレがこんな気持ちを自覚するまではいっつも三人で遊んでた。でも自覚してしまったら打ち明けるしかない。オレはもう、麗っちと漣っちをおんなじには想えない。
「牙崎さんは伊瀬谷のことが嫌いではない」
オレの淹れた安っぽい紅茶を飲みながら麗っちは断言する。麗っちはかわいい顔のまま身長が伸びて男前が増した。麗っちが言うと本当にそのとおりだと思える安心感が、静かな声色には宿ってる。
「……根拠……」
それでも信じられないときがある。オレがベコベコに凹んでる、今みたいなとき。だって漣っちはオレに対して塩対応だ。オレというか、オレたちに対して。
「私が見ててそう思う。無責任に聞こえるかと思うが……牙崎さんは伊瀬谷が好きだ」
漣っち、オレに塩っすけど。真っ白なローテーブルに突っ伏したままふてくされれば、麗っちはそれにも丁寧に答えてくれる。
「それはある種の甘えだと思う。伊瀬谷なら自分を嫌いやしないという、信頼に似た傲慢な感情だ。伊瀬谷の笑顔はそう思わせる力がある」
「麗っち……」
「ただ……恋愛感情ではないと思う。私が伊瀬谷にもつ感情と同じようなものだろう」
「そうっすよね……」
麗っちが持ってきてくれたおいしいクッキーがオレの指先で潰されて砂粒のような欠片を落とす。でも、漣っちがオレに恋愛感情を持ってなくても、こっちは一向に構わないのだ。
「……別に、恋愛感情じゃなくってもいいんすけど」
さくり、ほろほろと口の中でクッキーが解けていく。麗っちはオレの気持ちを整理するように問いかけてきた。
「伊瀬谷はどうなりたいんだ?」
「……特別になりたい……いや、そういうんじゃなくて……頼りにされたい? 心配したくない……うーん、どれもしっくりこないっすね……」
難しいな、と麗っちは口元に手を当てて考え出した。それはそうだろう。まずは漣っちに望むことをハッキリさせなければ。
「いや、シンプルなんすよ。オレは雨の日とか雪の日とか……漣っちが心配な時があって、そういう時に家に居てくれたらよくて……」
最後はほとんど独り言みたいになってしまう。だってオレが望むことなんてこれくらいだ。そして、それを漣っちが望んでいないことが明白だから困っている。
「……ごめんね麗っち。最近こんな話ばっかで」
「いや、伊瀬谷の力になれるなら嬉しい」
だが大した助力もできずにすまないと麗っちは表情を曇らせる。話せる相手がいるだけで万々歳なのだと伝えれば、出会ったときよりもずっと柔らかくなった笑顔が向けられた。俺もそれに応えるように笑顔で返す。
「よし! お悩み相談は終わりっす! 今度どこ行くか決めるっすよ」
「……そうだな。牙崎さんはロケで海に行くと言っていたから……山か?」
「川はどうっすかね。似て非なるものって感じで……バーベキューしたいっす! バーベキューなら誰か誘うとか……」
もう慣れたもので、漣っち不在でガンガンことが進んでいく。こういうときオレだって漣っちに甘えてるんだと思う。それが信頼って呼べるなら、オレは漣っちに信頼されている。あんまり多くを望んだら、きっとバチが当たってしまうだろう。
*
腕だけを伸ばしてベッドから落下していたスマホを手に取る。未読数十件。オレを心配している人の、想いの数だ。
風邪を引いた。結構重症。実家から救援がくるくらい酷かったオレの病状は真夜中になってようやく少し落ち着いた。それでも喉は焼けたように痛いし、肺は軋んで関節はギシギシ言ってる。一人暮らしをするときにプロデューサーちゃんに言われた言葉を思い出す。「一人は病気になったとき、めちゃくちゃしんどいよ」
みんなは来れない。来たって追い返す。だってみんなアイドルだから、風邪なんて引いたらラジオを一本休んでしまったオレみたいに仕事に穴をあけてしまう。ラジオには麗っちと漣っちが代打で向かってくれているはずだ。理由は簡単で、二人がくれば絶対にウケるから。オレたちの友情は時として、エンターテインメントと成り消費される。良し悪しの問題ではなく、現実はそうなのだ。
未読は一つ開いたところで力尽きた。ゼリーなら食べれるかもしれないけど、それはやればできるってレベルだからなにも食べたくない。ベッドサイドに置いてあった二リットルの清涼飲料水はなくなっている。冷蔵庫が果てしなく遠い。
ガチャ、
ふいに音が聞こえた。背筋がゾッと凍る。え、だって、ドアノブが鳴く音がした。こんな時間に家族はこない。もしかして、鍵を閉め忘れて帰っちゃったとかだったらどうしよう。不審者という言葉が浮かぶ。健康な状態だって絶対に勝てないのに、ぐったりしてたらもう確実に無理。明日の朝刊の見出しは『アイドル伊瀬谷四季、不審者に殺害される』で決まりだ。困るどころの騒ぎじゃない。
足音はない。それが余計に怖い。隣の人が間違えてドアノブを回しただけかもしれない。きっと今頃あわなかった鍵を不思議そうに眺めて、オレんちの表札に気がついて自分の家に帰るはずだ。そうだと信じたい。
そうであることを願いながらオレは目を閉じた。最悪泥棒でも、オレが寝てたら金目のものだけとって帰ってくれるかもしれない。泥棒がきたら寝てやり過ごすのが正解ってテレビで見た気もする。クマと一緒だ。ああ、でもクマ相手に寝たふりってすると食べられちゃうんだっけ。
ぐるぐると思考が溢れて、それだけで気が付かれそうだ。心臓の音だってきっと聞こえてしまうってくらいにうるさくなっていく。頼むから帰って。お願い、お願いだから。
不意に額に感触があった。
「ギャー! お、お願いだから命だけは……あれ?」
「んだよ……声だせんじゃねーか」
目を疑った。頬をつねる。爪を立てて、力の限り。
「…………漣っち?」
血が出るくらい思い切りつねったもんだから、そりゃもう痛くて。つけっぱなしだった豆電球にぼやりと照らされた漣っちは白さが際立って亡霊みたいだった。
「……飴。オマエのバンドのやつに聞いた。これはらーめん屋が言ってたデコ冷やすやつ。下僕の言ってた飲みもん。オカッパの言ってたゼリー。それと、」
がざがざと音が鳴って、漣っちがビニール袋を下げてることに気がついた。そっから青い猫みたく、ぽんぽんとお見舞いグッズが取り出される。
中身がなくなってくしゃくしゃになったビニール袋はひらひらと手放された。自由になった漣っちの右手がオレの額に伸びてくる。
「…………チビが言ってた。風邪のときこうされると落ち着くって」
漣っちの手は体温が高くて生ぬるい。漣っちに触れるたび、漣っちの体温の高さをちぐはぐだと思ったり、ぴったりだと思ったりしてた。その手が今、オレに伸びている。どうしようもなく嬉しいのに、どうしようもなく引っかかってしまう。
「……漣っちは?」
「は?」
「……漣っちからの、おみまい」
バカなことを言ってる。ここに来てくれたこと自体が最高のおみやげなんだ。だから、漣っちにいつもみたく言ってほしかった。オレ様の存在がなによりの褒美だろって。それなのに、
「……見舞いなんてされたことねーんだ。わかるかよ」
夜中だからだろうか。月が見えないからだろうか。漣っちはそんなことを呟いて、オレの目を見ている。
「……なんで来たんすか」
「なんでって……」
オレの言葉でたじろぐ漣っちって、もっと楽しい時に見るものだと思ってた。からかったり、ふざけたり、甘えたりしてみせる時に、うんざりしたようにオレをあしらう漣っちが浮かべる表情だったはずだ。
口を開く前にわかってしまった。オレは今から漣っちに八つ当たりをする。
「プロデューサーちゃんの話聞いてなかったんすか? 風邪が感染ったら仕事に穴あいちゃうじゃないっすか」
「オレ様が風邪なんかに負けるわけねーだろ」
漣っちの声は小さい。きっと、オレが疲れないようにしてるだけで、漣っちが萎縮してるわけじゃない。
オレの怒りは通じないんだ。
「こんなの嬉しくないっすよ。ねえ、ハヤトっち達だってなんで止めなかったんすか。こんな、こんなのじゃなくて、」
オレの涙腺がこんなに緩んでいるのは風邪で参ってるからだろう。オレは嗚咽すらなく、ぽたぽたと泣いていた。
「こんなことに合鍵を使ってほしくなんてなかったっす」
なんて言えば通じたんだろう。オレは雨の日とか、雪の日とか、寒い日とか、暑い日とか、そういう時に使ってほしかったんだ。漣っちが困ったとき、漣っちが不便なとき、漣っちが弱った時に頼ってほしかった。
「……渡されたモンをどう使おうが勝手だろ」
不機嫌そうな声だ。でも、困惑も混じっている。漣っちに八つ当たりするのは初めてだ。こういうときに漣っちはキレ返したりしないんだ。漣っちのことをまた一つ知った。
「合鍵は漣っちが困った時に使うものなんすよ。ねえ、なんで、なんでそういう時にこなくて、オレがこうなっちゃった時に使うんすか?」
迷惑をかけるために渡したわけじゃない。弱いところはこれ以上見せたくない。それなのに漣っちが弱さをさらけ出すことを望んでいる。勝手なオレに漣っちは呆れたように吐き捨てた。
「……もう来なけりゃ満足かよ。合鍵だって、返して」
「違う! ……違うんすよ……どうしてわかってくれないんすか……」
忘れてた喉のつかえが一気に押し寄せて、オレは嗚咽混じりにワガママを言う。漣っちに望んでることを漣っちは望んでいない。それでも諦めきれない。
「漣っちは一人でも平気なんすよ」
当然だ、と漣っちは言う。
「知ってるんすよ。漣っちは一人だ。みんなと一緒に居ても、決定的なところで一人なの、わかってるんすよ。でも、それでもオレを頼って。オレに甘えて。オレを必要として、」
額に触れていた手を取った。一瞬逃げかけた指先がオレの両手に収まった。
「……オレと二人になって」
三人でもいい。麗っちと三人。なんならタケルっちだって道流っちだっていてもいい。プロデューサーちゃんもいれて、みんなで。
でも、ワガママを言うなら二人がいい。
「ずっとじゃなくていいっす。一日のうちのちょっとでいいから。季節の中の一日でいいから。一人をやめて、オレと二人になって」
二人っきりになれる場所を、こうやって用意したから。
手渡した合鍵は俺の心臓の一部で、感情の欠片で、とびっきりの友情で、ジェットコースターみたいな恋で、切なすぎる愛なんだって、わかって。
沈黙は短くなんてなかった。それが友愛なのか妥協なのかは未だにわからない。
「……クーラーあるんだろうな、この家」
「え……?」
「夏、暑い日にきてやる。二人っきりとかはわかんねえ……いいだろこれで」
溶けそうに暑い日、入道雲に急かされて駆け込んでくる漣っちを考える。道流っちの家じゃなくて、事務所じゃなくて、物置になった寮でもなくて、オレの家にくる漣っちを。
「……アイス用意しとくっす。ねえ、オレんち、こたつもあるっすよ」
「じゃあ、冬もきてやる。冬は鍋だ」
「……何鍋が好きっすか?」
「肉入ってたらなんでもいい」
手が離れ、頭をくしゃくしゃと撫でる。もう寝ろ、って声が降ってくる。
それでも、最後に。
「冷凍庫に冷凍のたいやきがあるっすよ。いつ来ても」
オレのいじらしい恋心だ。オレは漣っちが扉を開ける日を、ずっとずっと待っていた。
「じゃあ……気が向いたらきてやるよ」
今までで一番やさしい漣っちの声を聞いたらとたんに眠気が襲ってきた。オレがすとんと眠りに落ちるまで、漣っちはずっとそばにいてくれた。
*
「きてやったぞ」
「なんで今なんすか!?」
それはもう殆ど悲鳴だった。オレは積み上げられた課題の山に囲まれて唸っている真っ最中だったからだ。
「お、ちゃんとアイスもたいやきもあるじゃねーか」
「自由に食べていいっすからね! って! だからなんで今なんすか……今はお構いできないっすよ……」
狙ったかのようなタイミングだ。よりによって一番忙しい時にやってくるとは。オレの望み通りに合鍵は使われたが、なんで今なんすか。これじゃあ漣っちと遊べない。二人っきりが台無しだ。もう課題とか放っちゃおうかな。
「別に何しててもかまわねーよ。オレ様も好きにするしな」
そう言って漣っちはアイスを食べながらテレビをつける。オレは机からぺりぺりと剥がれてみせたけど、速攻で漣っちに戻される。
「鬼教官だ……」
「勉強は邪魔しちゃいけねーんだろ。いいからとっととやれ」
漣っちは硲っちに勉強の大切さを教わって以来、オレが勉強をサボってるとこうやって机に向かわせる。今くらい、今日この瞬間の記念すべき日くらいは見逃してくれたっていいのに。
「……じゃあ漣っち、勉強するからご褒美ちょうだい」
ダメ元だ。漣っちは笑う。いつか望んだセリフを口にする。
「バァーカ。オレ様の存在がなによりの褒美だろ」
って。ようはそういうことなのだ。