それは影に似ている。 プロデューサーはいつも新幹線に乗るとアイスクリームを食べる。必ず食べるもんだから、相当好きなんだろう。
自分だけじゃない。俺と円城寺さんにはバニラ味、アイツにはチョコ味のアイスクリームをいつだって手渡してくれる。実を言うと、たまにはチョコ味が食べたい日もあるんだけど、それでも俺は黙って薄い真珠色をしたアイスクリームを受け取っている。プロデューサーにはこういうところがあった。なんて言葉で表せばいいのかがわからない、決して賢くはないところが。
新幹線はあまり揺れないから、気がつくととんでもなく遠くに運ばれていたりする。いまだって相当な距離を走ってきた。北へ、北へ、北へ。外だってきっと寒い。それでも新幹線の車内は暖かいから、俺はアイスクリームを買った。プロデューサーもいない、アイツもいない、円城寺さんもいない車内で、チョコ味のアイスクリームをひとつだけ買った。
もう少し遅い時期だったら、雪を見ながらアイスクリームを食べていたのかもしれない。でも空はずっと晴れている。
ぐっ、とアイスクリームにスプーンをいれるが、びくともしない。いつもながら、このアイスクリームは硬いんだ。そういえば、プロデューサーはこのアイスが硬ければ硬いほど喜んでいた。プロデューサーはときどき変なことで大喜びするんだ。アイツは硬いアイスが嫌いだった。いつだってじれったそうにスプーンを握りしめていた。
硬いアイスクリーム。全然違うのに土を掘り返す感触。けやきの木。
ぼんやりと思い返している。この旅の目的を何度も何度も考える。俺がいまから向かう、小さな施設のことをイメージする。
おぼろげな記憶に、けやきの木。途方も無い大きさをしている木は、成長した俺から見たらどれくらいの大きさなんだろう。あまり経験はないんだけど、撮影で入った小学校にあった机や椅子を見たときの感覚が、きっと襲ってくるんだと思う。記憶よりも小さくて頼りなくて、いたたまれないというか、申し訳ないというか。
アイスクリームを食べたら、なぜだか無性に腹が減った。人間っておかしなところがある。中途半端に食べると余計に腹が減るんだ。我慢は得意だ。でも、得意なだけだ。またワゴンが来たらなにかを買おう。
なんだか、こういうところが少しだけアイツに似てきている。いいことなのか悪いことなのかはわからない。
軽く食べられるようなお菓子とかを持ってきたらよかったんだろうか。俺が持っているのは財布とスマホ、手土産の東京銘菓と、一通の手紙。
一番軽いはずの手紙はずっしりと、無遠慮な顔で感情にのしかかっている。捨ててしまいたい。けど、これは俺の手にしている一つの可能性だった。大逆転の望める奥の手で、姑息な裏技で、縋ることのできる一本の藁で、認めたくない心の弱さだった。
ああ、本当に捨ててしまいたい。
アナウンスが入る。弁当を食べる時間はなさそうだ。なんだか、戻ってきただけなのに、ずいぶんと遠くまできたような気がする。そんな流行歌みたいな感慨。距離はどうだろう。でも、バラエティの台本すら読み終わらない短い時間。
駅に降り、バス停に向かう。そういえば、バスの本数が少ないことを忘れていた。昼飯を食べる余裕はありそうだ。
***
新幹線に乗る三日前。思えば、行動は迅速だった。
普段と変わらない事務所のざわめきの中心にはプロデューサーと四季さんが居た。四季さんがプロデューサーにお菓子の缶をくれとねだっている。お菓子じゃなくて、缶。
聞こえてきた話によると、ユニットのみんなとタイムカプセルを作りたいらしい。もふもふえんのみんなが作っていて、自分もやりたくなった、と。旬さんが呆れていた。それでも、反対したりはしていなかった。
「で、いつ開けるつもりなんだ?」
春名さんが笑う。
「年バラバラじゃん。二十歳になった記念、とかだと、オレあと二年だし」
「四季くんの成人にあわせてもいいですが。アイドルとしての節目とかもいいと思いますよ」
「んー。じゃあ、オリコンチャートで一位をとった記念とか?」
「それ、ハルナっちが二十歳になるより早く開けることになるっすよ」
「おっ、言うねえ」
「……じゃあ……ミリオンヒット……とか……」
それならいつか叶うね。そうプロデューサーが笑う。その手には真っ青な缶。それを見て、思い出したことがある。
ビー玉。どんぐり。手紙。ブリキの缶。けやきの木。
ゲームの電源を落とす。スマホを手に取る。俺はその場で新幹線のチケットを取って、生まれ育った施設に連絡を入れた。三日後に、戻ると。
***
バスに揺られてローカル線へ。数駅揺られてもう一度バスへ。徐々に減っていく建物と人間を無視して、バスに揺られてそれなりの時間を過ごす。そうやって、俺は育った施設へと戻ってきた。
けやきの木は想像よりも縮んでいない。でも俺がすごした施設はずいぶんと頼りなく感じられた。そんな小さな庭を、小さな子どもたちが走り回っている。
先生は元気だった。俺の活躍を見ていると言った。俺は発売したばかりのシングルとかじゃなくて、東京銘菓を差し出した。何人子供が増えていたって全員に行き渡る量。余るくらいでちょうどよかった。
積もる思い出話を俺は遮った。目的があってここにきたこと。明日からまた仕事があること。あと数時間もしないうちに帰らなければならないこと。それを残念だと思っていること。また時間を見つけて戻ってくること。
「シャベルかなにかを借りれないか?」
先生が倉庫から引っ張り出してきた、サビだらけのシャベルを手にけやきの木の下に向かう。小さな子どもが数人、「カイがいる!」と声を上げた。
「いまは任務の途中なんだ。危ないから、離れていてくれるか?」
集まっていた子供たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。俺は遠巻きな視線を無視して、けやきの木の下にシャベルを突き立てた。
ポケットには、一通の手紙。
ざく、ざく、土が引き剥がされていく。小さいころに一生懸命埋めた宝物は一瞬で出てきてしまった。おかしいな。あれだけ苦労して埋めたはずなのに。記憶を掘り起こす暇もない。
鈍色をしたお菓子の缶。四季さんとおんなじだ。俺はあいつらと三人で、タイムカプセルを埋めたんだ。
宝物を用意して、施設の子供達には大人気だったお菓子の缶を順番待ちして手に入れて、けやきの木の下は掘らないように、みんなに言ってくれと先生に頼み込んだっけ。
大事に埋めた、未来の俺たちに向けた手紙。あと、なんだっけな。ビー玉、セミの抜け殻、折り紙の勲章、プレゼントについていたリボン。どれも入れた気がするし、どれも違うような気がしてくる。
「……兄ちゃん、嘘吐きだな。ごめん」
べっとりとついた土を払いながら缶に手をかける。俺はいま、約束を破ろうとしている。
──本当は約束したんだ。みんながおとなになったら、三人揃って開けようね、って。
だからこれは裏切りなんだ。こんな缶、簡単に開いてしまう。二人はいないのに。俺はいま、一人ぼっちなのに。
手が震える。たったひとり、細い藁に縋るように。
結局捨てることの出来なかった手紙。それには俺の連絡先と、事務所の電話番号と、それと、たった一行のメッセージ。
『俺に会ってもいいって思ってたら、連絡をくれ』
もしも二人が大人になったとき、そこに俺がいなくても、俺のことを思い出してくれたら。
決意をしてここに来たはずなんだ。それでも、指先は動かない。
だって、これから俺が約束を破るように、あいつらが約束を破らないとこの手紙が読まれることなんてないから。
二人が俺を、俺達の約束を忘れて、笑いながら、思い出の木の下で、そこに俺の席はなくて。
「…………ぅ」
悲しみじゃなくて、吐き気が堪えきれなかった。悲しみなら抑えられたはずだったのに、心じゃなくてからだが悲鳴をあげている。記憶はきっと全身に刻みついている。心臓が動くたびに、からだじゅうに記憶が巡る。
『おっきくなったら、わたしたちなにしてるのかな』
けやきの木の下。覚えてる。約束だって、あの日の言葉だって。
『おれはねー。仮面ライダーになってる!』
『じゃあわたしはプリキュアになってる!』
無邪気に願ってた。疑ったことなんてなかった。
『おにいちゃんは? なにになりたい? なにしてると思う?』
未来はわからなくても、信じるということもせず。
『兄ちゃんはわかんないな……でも、』
ただ、当たり前だった。
『なにしてるかはわかる。俺たち三人は、ずっと一緒にいる。だろ?』
俺の言葉に頷いた、あいつらの笑顔を覚えてる。
穴に缶を戻す。ふらふらと立ち上がる。自分のものではないようなからだを動かして、缶を埋め直す。
約束は、破れなかった。
きっとそれは正しいことなのに、俺は苦しかった。正しい行いがしたかったわけじゃない。二人が約束を破るなんて、信じたくなかっただけなんだ。
シャベルを返して、水を一杯もらう。喉を伝う冷たさは脳みそまでクリアにはしてくれない。なんだか、ずっと悪夢の中にいるみたいだった。
先生にはなんて言ったんだろう。気がついたら新幹線に乗っていた。手元には財布とスマホ、そして一通の手紙。
「……すいません。アイスの……チョコひとつ」
手渡されたアイス。カチコチのアイスにスプーンが通らないことがなんだか他人事みたいに悲しくて、俺はようやく泣くことができた。他人事だから妙に冷静で、人がこないように隣の席のきっぷも買った。俺は無性に悲しくて、感情がすり替わって、アイスが食べられないことを理由にぽたぽたと泣いた。そのうち理由すらなくなって、アイスが溶けてぐにゃぐにゃになったってずっと泣いていた。
どうやって家まで帰ったんだろ。よく覚えてない。でも、手紙を捨てたことだけは覚えてる。溶けたアイスと一緒に、べしょべしょのぐしゃぐしゃにしてゴミ箱にいれたんだ。
人間は生活ってやめられないんだな。俺は気がついたらいつもの時間に目を覚ましていて、ロードワークをこなして仕事に行った。円城寺さん、プロデューサー、アイツ。誰も、何も特別なことは言ってこなかった。
***
何日ぶりかのオフがきて『生活』がパタリと途絶えた。昼過ぎに起きて、ぼんやりと後悔する。何に対してなのかはよくわからないけれど、なんだかとても『正しくない』と思ってしまうのだ。
晴れてるんだからいまから走ってもいい。取り戻せるはずなんだ。それでもただぼんやりとしていた。何も食べず、ゲームをするでもなく、かといって眠り直すわけでもなく、気がついたら日はとっぷりと暮れていた。
仕事があったときはちゃんと生活ができてたんだけどな。手紙だってちゃんと捨てたんだけどな。みんな、なにも言ってなかった。ちゃんと、うまく、やってたのに。
ようやく立ち上がって水を一杯飲む。それだけしかしていないのに、無性に腹が減ってきた。たったひとりだったから、少し誰かに会いたかった。ずっとひとりだったくせに、初めて、誰かにそばにいてほしいと願った。
円城寺さんに会いたい。隼人さんたちに会いたい。プロデューサーに会いたい。
あいつらに、会いたい。
なにか、とんでもないものを振り切るようにして外に出た。北国育ちの俺にとってなんてことないはずの寒さが背筋を震わせる。俺は顔をあげられない。星が出ているのかなんてわからない。
こういうときにどうしたらいいか、みんなはちゃんと教えてくれた。泣いてたっていいから「会いたいんだ」って電話して、いまどこにいるのかを伝えればいいんだ。
いま、俺の家から一番近いコンビニにいるんだ。いま、東京にいるんだ。いま、315プロってところにいるんだ。伝えたいけど、俺が知ってるのは仲間の連絡先だけなんだ。兄ちゃんはさ、お前たちの連絡先がわかんないんだよ。
どろどろのチョコレートアイスにまみれた手紙を思い出す。何が正しかったんだろう。俺はいま、何が食べたいんだろう。
ふらふら彷徨って、フライドチキンを買った。でっかいバーレルを三つ。まるでパーティの買い出しだ。俺はいま、ひとりなのに。俺ひとりじゃこんなに食べ切れないのに。今日はなんにもない日なのに。
「………………バカみてぇ」
ひとりごとはあっけなく空に飲まれていく。指先は冷たくて、驚くほど冷静に端末を叩く。
『チキンがあるから、食いたかったらこい』
円城寺さんならきっと優しくしてくれる。隼人さんなら親身になってくれる。プロデューサーならきっと、一緒に泣いてくれるだろう。それでも、いま、俺の隣にいるのはアイツじゃないとダメだった。俺はきっと、なにかを曝け出して変わってしまうのが怖かった。俺が変わるなら、アイツも道連れだ。なんだか、これだけは正しいことのような気がしている。
アイツのためにチキンを抱えているわけじゃない。別にアイツが来なくたってよかった。俺は飽きるまでチキンを食べて、余ったチキンを冷蔵庫で冷やして、翌朝あたためて食べるんだ。そうなったっていい。それでいい。それでも。
明日なら、アイツ以外にメッセージを送れるんだろうか。わかんないな。
アパートの階段をのぼる音がやたらと響く、だなんて思っていたんだ。アイツのことなんて半分以上考えていなかったから、玄関前に座り込んだ銀髪を見て驚いた。
「……早すぎるだろ」
「うるせぇ。たまたま近くにいたんだよ」
どうでもいいからチキンをよこせとコイツは言う。目も声も食い意地も、何もかもがいつもどおりだった。
飲み物を買ってくればよかったと、後悔したがもう遅い。俺の家、なんにもないんだ。ダメ元でコイツに飲み物を買ってくるように言えば、コイツはあっさりと俺に背を向ける。
機嫌を損ねたのだろうか。コイツはこのまま帰ってしまうのだろうか。なんだか、ひどく悲しくなった。
「なあ、おい、」
「なに飲むんだよ」
「……は?」
「あ? チビが買ってこいって言ったんだろうが」
「だから、なにが?」
「飲み物だろ! ……テキトーに買ってくる。文句言うんじゃねーぞ」
目の前のコイツはイライラしていて、そのイライラに自分自身で気づいてバツの悪そうな顔をした。そうして、俺に背を向ける。
「……戻ってこなかったら」
声をあげた。ちらりと、アイツが振り返る。
「全部食っちまうからな!」
「……いいから待ってろ」
呆れたようにアイツは言った。俺はなんだか、泣いてしまいそうだった。
***
コイツはアホみたいな量の飲み物を買ってきた。緑茶、麦茶、烏龍茶、ジャスミン茶、コーラ、オレンジジュース。牛乳まで。コンビニにある飲み物ありったけ。ぼんやり、思った。「ああ、コイツは俺を甘やかしたいのかもしれない」
ふたりしてチキンを食べる。お互いに無言だったけれど、それはいつものことだった。コイツはいつもうるさいけれど、勝負事以外で俺に話しかけてくることはあまりない。俺が疲れてるときとか、俺が凹んでるときとか、ようは俺が勝負なんてできる状態じゃないときのコイツは驚くほど静かなんだ。
コイツはたまに俺のほうをちらりと見て、コップが空になっていたら適当な飲み物を注いでくれる。俺は麦茶を一口飲んで、少しだけ新幹線のバニラアイスを思い出す。いま飲みたいものってきっとあるはずなのに、コイツが選んだ飲み物が一番正解のような気がしてる。
お互いに手元においたバーレルから手品のようにチキンを取り出して黙々と食べる。コップはずっと空にならない。骨が積み重なって、沈黙が積み重なって、時間が積み重なっていく。夜にどれほど潜ったのだろう。雨音のない夜にコイツが家にいるのは、なんだか不思議な気分だった。
昼まで寝ていたから全然眠くない。コイツはどうなんだろう。いまは何時なんだろう。
スマホに手を伸ばして時間を確認する。ぼんやり考える。コイツがスマホを見るなんてのは奇跡で、地球のどこにいたっておかしくないやつがすぐに俺の家に着いたっていうのは、きっとそういうことなんだろう。スマホを片手に近所をうろうろするコイツの姿は、うまく想像ができなかった。
「……おい」
「んだよ」
コイツは心配をしてくれたはずなんだ。だけど、認めるのは嫌だった。コイツの優しさを否定したいわけじゃない。ただ、俺の弱さを見抜かれたことを思い知りたくなかっただけだ。
「……なんか俺、変だったか?」
みんな、なにも言ってなかったのに。口にしなかったけど、わからないほどコイツはバカじゃない。
「知るかよ。オレ様は肉があるから来ただけだし……でも」
コイツは俺を心配していないという。照れ隠しなのか、俺のプライドを守ってくれたのか、わからない。
「らーめん屋とか下僕とかギター野郎とか、チビの心配するやつはいっぱいいるだろ」
だから、と続く言葉はなかった。事実がひとつ提示されただけで、俺は何も求められていない。コイツが俺に求めることはたったひとつ。じゃあ俺はコイツに何を求めるんだろう。
会いたいな、って思ってたけど。会って、何をしてほしかったんだろう。
横にいたコイツが寝転ぶ。チキンを食べ終わったんだろう。俺のを分けてやろうとバーレルに手を突っ込めば、俺のチキンも残ってなかった。飲み物を注いでやろうにも、コイツのコップは手の届くところにはない。
なにかをしてやりたいと思ったのに。
できることはしたい。やれるだけのことをしたい。誰に対してだっけ。でもきっと、全部俺のために、だ。
こんなのひどいよな。思いつかなきゃよかった。やれることをしないのは不誠実だ。でも、あの缶を開けることは裏切りだ。いまの俺は弱ってるから肯定がほしくて、同調がほしくて、優しさがほしい。それなのに円城寺さんも隼人さんもプロデューサーもここにはいなくて、冷たいフローリングに銀の髪がさらさらと流れ落ちている。
「なあ、」
「……んだよ」
寝てたならそれでもよかったけど、俺はコイツが寝ないってわかってた。いまのコイツは、俺をひとりぼっちにはしない。
「俺さ、約束を守ったんだよ。チャンスを逃すことになったけど、俺は約束を守ったんだ」
事実だけを口にした。まだ俺は、コイツに全部を曝け出すことはできない。そのくせ、言葉を求めている。
「……で?」
「褒めてくれよ」
こんなのは手の込んだ自傷行為だ。コイツは俺を褒めないだろう。仮に褒められたって俺はきっと傷つく。どっちにせよ勝手に傷ついてみせて、その傷を連れ合いにして立ち上がるんだろう。
「なんで関係ねぇオレ様がチビを褒めんだよ」
だから、がっかりすることもわかってた。
「……別にいいだろ」
減るもんじゃないんだ。響きは自暴自棄ではなかっただろうか。コイツは上半身を起こして、俺の目をじっと見つめる。
蛍光灯が邪魔だ。人工の薄ら白い光に沈みそうなふたつの月。
「……約束したやつに褒めてもらえ」
ズキ、って。こんな痛みは求めていなかったし、予想もしていなかった。
約束を守ったら「えらかったね」だろ。関係ないオマエが褒めたっていいじゃないか。ぐっと飲み込んだ言葉にかぶさるように、特徴的にざらついた声が遠く聞こえる。
「自分とした約束なら誇れ。それで終わりだろ」
自分で守った約束だけど、自分とした約束なんかじゃない。約束したやつなんてここにはいない。ふたりはここにはいない。オマエしかいない。
俺はなんでオマエを呼んだんだろうな。
きっと、一瞬のことだ。悲しみが滲む前に、憤りが口を吐く前に。何かを求めてしまう前に。
気配もなく、コイツの骨ばった手のひらが俺の頭をなでる。突然のことに飛び退きそうになるが、それよりも触れ合ったところから広がる暖かさに心を委ねたい気持ちが勝った。
優しいというよりは、臆病な手。視線は俺の膝に落ちていて目が合わない。しばらく俺はチャンプみたいに撫でられていた。ふ、とコイツが顔を上げるから視線が絡む。
「……なんで」
沈黙が落ちる前に、俺のほうから口にした。
「…………言葉だけじゃ足りないだろ」
たいした言葉もくれなかったくせに。言うつもりもなかった言葉に返すように、コイツの唇が動く。
「チビのほしい言葉なんて持ってねぇんだよ。だいたい、『えらい』だとか『すごい』だとか、そうじゃねえだろ」
「……じゃあ、なんなんだよ」
コイツはたまに、俺の持っていない答えを持っている。それがほしい。でも、少し怖い。
「『ありがとう』はオレ様が言っても意味ねぇだろ」
すとんと言葉が肺に落ちる。「ありがとう」って、俺は言ってほしかったんだろうか。コイツの答えは必ず正解ってわけじゃない。それでも、妙に納得してしまうから不思議だ。
「……ありがとうは言われる資格がない」
だって、俺が約束を守ったのは怖かったからだ。俺の目的が果たされたときは、ふたりが約束を破ったときだ。そんな未来を受け入れるのが怖かった。すべてのチャンスをつかもうとしなかった。正しいか間違いかはわからない。ただ俺は怯えていた。
「それをオレ様に言うんじゃねーよ」
だから、それを言いたい相手がここにいないんだよ! 俺の頭を撫でる手を骨が折れるほどの力で掴んで、そう怒鳴り散らしてやりたかった。それをしなかったのは、どうしても、寒かったからだ。
こんなに近くにいたんだなぁ、って他人事みたいに思った。ふっと眠くなって、前のめりに倒れたらコイツの肩におでこがあたる。布の下にあたたかいからだがある。どくどくという音は、俺のこめかみを流れる血の音なんだろう。自分の音が邪魔でコイツの鼓動が聞こえない。血液が流れる音の向こう側に、コイツの呼吸がうっすらと聞こえてた。
まだコイツの手は俺の頭を撫でている。目を瞑って四肢の力を投げ出して、全部を預けてしまっても、ずっと。
だれも、なにも言わない。ふたりぼっちなのかひとりぼっちなのかわからない。夜にわかったことがある。コイツは寄り添い方が影に似ている。
俺の影が俺のことを裏切らないように、きっとコイツの優しさも俺のことを裏切らないんだろう。きっと、傷つけてくることもある。でも、この温度は俺の手を離さないと、無条件に信じていたい。
言っちまおうか。俺はチャンスをひとつ捨てたんだって。妹のことも弟のことも打ち明けて、タイムカプセルの話をして、約束を語って。でもきっと、そういうことじゃないんだよな。
「……きっと、約束は守っても破っても後悔してた」
「ふーん」
コイツは約束は破るなとか言わない。コイツって約束とかするのかな。コイツは最強であることを己に誓っていると思っていたけど、最近はそうじゃない気もしてる。コイツは最強を、己に課している。
「ってか、後悔とか早すぎんだよ。やることやってから言え」
「……俺は約束を守ったことを後悔してるんだ。でも、約束を破っても後悔してた」
「そんなことでいちいち悩んでんじゃねえよ。頂点立ってから全部考えろ。後悔もそんときだ」
「……はは。オマエ、俺が弱ってるといつもそれだな」
「嫌なら上を見てろ」
「……嫌じゃないって言ったら?」
「言うんじゃねーぞ。うぜぇから」
顔は見えないけど、きっと本当にうざったそうな顔をしてるんだろうな。俺はなんだか笑えてくる。宙ぶらりんだった手のひらをコイツの背中に回して少しだけ力を込めたら、コイツのからだがこわばった。それでも、コイツは俺に触れることをやめたりしない。そっと、俺の背中にもてのひらが触れる。
「……いつかさ、オマエのことも甘やかしてやりたい」
「オレ様はチビのことなんざ甘やかしてねーぞ」
「……そうだな」
嘘つき。でも、真実なのかもしれない。コイツには甘やかしてる自覚がないんだろう。コイツは日々のトレーニングをトレーニングだと思ってないから、いつだって最強の自分にはトレーニングは不要だと言う。だから、こうやって俺のことをうんと甘やかしたって、甘やかしたとは思わないんだろう。
「……チビが甘ったれだと、オレ様が迷惑なんだよ」
そうかよ。でもいつも迷惑かけられてるのは俺なんだから、たまにはいいだろ。
コイツは俺を離したりしないから、俺からそっとからだを離す。それだけで俺たちはあっさりと、たったふたりからひとりとひとりになってしまう。
コイツはくぁ、とあくびをしてまた床に寝転んでしまった。こんな夜くらい、俺の布団で眠ればいいのに。
それでも、これがコイツで、俺たちなんだろう。一瞬俺も床で寝ようかと思ったが、そういうことじゃないんだろう。
「……あ、歯をみがけよ」
「あー……あー」
のそりとコイツが立ち上がるから、俺も一緒に洗面所に移動する。こんな夜だっていつもどおりに歯をみがいて、いつもどおりにふたりバラバラに寝て、きっと明日はいつもどおりに早起きをして、ロードワークに出かけるんだ。こんな夜の優しさは幻みたいに掴めなくなって、影のように一生俺のそばを離れないんだ。
***
円城寺さんに「約束を守ったんだ」って言ったら、「えらいぞ」って言って大きな手のひらで撫でてくれた。
隼人さんに「少し落ち込むことがあったんだ」って言ったら、「そっか」って言ってずっとそばにいてくれた。
プロデューサーに「今度新幹線に乗ったらチョコレート味のアイスが食べたい」って言ったら、「わかった」って言ったあとに「元気になったね」って笑ってくれた。今度はきっと、プロデューサーはずっとチョコレートアイスを買って俺に手渡す。そういう人だ。
俺はアイツだけが必要なわけじゃない。大好きな人はたくさんいる。それでもきっと、またアイツのことを呼んでしまう夜が来るんだろう。
「……不思議なんだよな」
「ん? どうしたの? タケル」
「あ、隼人さん。なんでもないんだ」
横に並んでるときはあんなに眩しいのに、夜更けに口を噤んだアイツは優しい影に似ている。