なんてことない夜になんてことのない夜に
うまくいかない日ってのはある。きっと、誰にでも。
今日は行きがけにベッドの足に小指をぶつけた。変装用の帽子が木枯らしに吹き飛ばされて川に落ちた。仕事では納得の行く演技ができなくて撮影を長引かせてしまったし、気に入っている靴の紐は切れた。男道ラーメンは味玉が売り切れていたし、帰り道は猫にも会えない。
今日だけだ、わかってる。だけど、こんな日は何もかもうまくいかない気がしてしまう。そんなもんだから、寒いというそれだけの理由でうちにきた銀色の猫に、なんだか安心してしまった。なんか、それだけはいつもと変わらないことのようなことの気がしたから。
「ラーメン食いてぇ」
その言葉に振り向くと、コイツは一切の遠慮もなく、俺の服を着て我が家の安いベッドの上に転がっていた。風呂上がりの髪がぺしゃりとしている。せめて、今夜みたいに冷える冬の夜くらい、乾かせばいいのに。
「ラーメン食いてぇ」
二度目の言葉は先程と一切変わらない。コイツが一切譲らない時のサインだ。だけど、賛同はできなかった。時刻は夜の十一時。もうやることはなにもなくて、あとは寝るだけ。歯だってみがいてしまったあとだ。そもそも、ついさっきとまでは言わないが、夕飯はとうに食べているんだ。しかも、ラーメンを。
かと言って否定もしなかったのは、その言葉でなるはずのない腹の虫がくぅ、と鳴るような気がしたからだ。端的に言えば、ラーメンが食べたい、そんな気分になってしまった。早い話が、つられたのだ。
「……カップラーメンでも食うか」
なんとなしに背徳的な気分になり、少し小声で提案してみる。深夜、とまではいかないが、もう少しで日付も変わる。この時間のカップラーメンはなかなかに罪深い。アイドルとして、いや、アイドルではなくても。
「はァ? どうせならちゃんとしたの食いてぇ」
だが、コイツの提案はさらに上をいった。
「あそこならこの時間も開いてるだろ。あっちのほうの打倒・虎牙道盛りの」
「この時間にあれ食べるのか!?」
バカなんじゃないのか、と口にしかけてやめる。コイツはバカだ。改めて言うことでもない。
ただ、困ったことにきっと俺もバカになってきている。感化されているのだ。長い時間コイツと一緒にいた弊害だろうか。耳から流しこまれた誘惑に舌と脳がやられた。今、あの豚骨が食べたい。完全に、口があの分厚いチャーシューの気分になっている。
俺がその気になったことを見抜いたのだろうか、アイツが立ち上がる。心なしか上機嫌なアイツに少しイラッとした。こういうとき、アイツの察しが良いところが本当に嫌になる。いっそ、バカにしたような言葉を投げてくればいいのに。こういう時、コイツは口角をあげるだけだ。
「決まりだな」
にや、と笑いアイツが上着を羽織って玄関に向かう。なんとなく悔しい気持ちになりながら、俺もその背中を追う。羽織った上着は冷えていた。
まぁ、あの店には別のメニューだってある。塩ラーメンだってあるし、野菜たっぷりのタンメンもある。なにも、打倒・虎牙道盛りを食べなくたっていいんだ。
言い訳のように、心の中で何度も何度も呟いた。
「おい! やってねーじゃねーか!」
「オマエがここに行くって言ったんだろ!」
時刻、夜の十一時半よりちょっと前。
シャッターの閉まった店の前で俺たちは声を荒げていた。それを見守るぺらぺらの張り紙。
『火曜日・定休』
油断していた。迂闊だった。この店の定休日なんて、すっかり忘れていた。
ふ、と。思い出してしまう、今日一連の『ついてない』。何もかもうまくいかないこの日のトドメがこれだろうか。
「くっそ……おい、どーすんだよ!」
「オマエがそれを言うのか。ったく……」
ザッと脳内でめぼしいラーメン屋をリストアップしてみるが、心当たりがない。
「あっちのラーメン屋はどうだ?」
アイツが顔を向けた方角だけで、どのラーメン屋を指しているかわかってしまうことに内心動揺しながら、返す。
「何時が閉店かなんて覚えてない」
「じゃあ行ってみるか」
「覚えてないって言ってるだろ」
「だから、行きゃわかんだろ」
そう言って、人の返事も待たずにアイツはスタスタと歩きだしてしまう。
その店の閉店時間を調べようと取り出したスマートフォンの明かりを落として、俺もそのあとを追った。
「やってねーぞ」
「やってないな」
少し歩いてやってきた店も、電気が落ちて暗くなっていた。
「やってねーぞ」
じと、とこちらを見る、金色の目。怒りより、空腹が勝っているのだろうか。先程より静かな声。
「調べる前にオマエが歩き出したんだろ」
呆れながら返す。なんだか、歩いてますます腹が減ってしまった。
「……らーめん屋んち行くか」
「おい、円城寺さんに迷惑をかけるな」
「チビに言われる筋合いはねぇよ」
このままだと本当に円城寺さんに迷惑がかかりかねない。今、何時だと思ってるんだ。
なんとか、なんとか近場でやっていそうな店を必死に記憶から探す。
「あ、あのコンビニ」
「コンビニ? ラーメンって言ってんだろ」
「おでんあるだろ」
「ラーメンって言ってんだろ」
「わかってる。確か、おでんのスープにラーメンの麺を入れるやつ、なかったか?」
そうなのか? そう呟いたアイツが、コンビニに向けて歩きだすのを慌てて止める。さっきみたいなことはごめんだ。コイツが学ばない以上、俺がしっかりするしかない。
「ほら、おでんにラーメン……あれ?」
端末が表示した記事には、一年前の日付。
「……終わってるな」
「終わってんじゃねーかよ」
不満げな声。だけどそんなこと言われたって困る。もとはと言えばオマエの思いつきから始まったことだろう。わざわざ家を出なければ、コイツがカップラーメンで我慢していれば、こんなことにはならなかった。ついてない一日のついてない出来事が、こんなに更新されることもなかった。八つ当たりのように、そう思う。
それに、俺だって残念なんだ。俺だって、ここまできたならオマエとラーメンが食べたかった。
いや、違う。オマエは関係ない。ラーメンだ、ラーメンが食べたかった。
「……おでんじゃダメか?」
「……ん」
「家にはカップラーメンもあるし、袋麺もあるし」
「…………ん」
目は、もう不満を訴えてはいない。それでも返事を渋ったのは、単なる意地だろう。
「……しょーがねぇから、それで勘弁してやるよ」
しばらくして、コイツが呟く。次の瞬間には、コイツは家を出るときに見せたみたいな笑顔を浮かべた。ニヤ、と。
「決まりだ」
そう言って俺はコンビニに向かって歩き出した。コイツがそれに続く。そう思った。
だが実際は、コンビニの方に歩き出した俺の手を取って、コイツがいきなり逆方向へと走り出した。思い切り引っ張られて、体が傾ぐ。
「お、おい! なんだよ、オマエ!」
「こっちだ! チビ!」
妙にキラキラとした声に、反論も抵抗も諦めた。こうなったらとことんだ。コイツの思いつきに最後まで付き合ってやる、そう思った。
「どーだ! チビ!」
「……嘘だろ」
走り出した方向にはなにもない。はずだった。
そこにあったのは屋台だった。ぶら下がっているオレンジ色の提灯、そこに記された『ラーメン・おでん』の文字。
「知ってたのか?」
「ああ? 知るわけねーだろ」
知ってたら最初から来てるし。そう言うコイツはまさか、嗅覚を頼りにここまできたのだろうか。そんな、犬のような芸当をしたと言うのか。どうしても気になって聞いてみたら、気配がした、と返された。まだ嗅覚のほうがよかった。ラーメンの気配ってなんなんだ。
コイツと肘がぶつかる並びなのも気にせずに座る。眼の前の視界がぼやり、おでんから立ち上る湯気で揺れている。
「……オマエら、親は」
店主が聞いてくる。それもそうか。忘れていたけど、この時間はふらふらと未成年が出歩いていい時間ではないのかもしれない。
「あァ? 親なんていねーよ」
「すまない、俺ももう親はいない」
俺たちの言葉をどう受け取ったのだろう。店主は仕方がないというように、注文は、と聞いてきた。
「ラーメンひとつ」
「オレ様はラーメン大盛り、チャーシュー特盛」
「やっぱり俺もラーメン大盛り。チャーシュー特盛で煮玉子二つ」
さっきまでこの時間のラーメンは罪深いとか思っていた俺は完全にどこかにいった。ほとんど反射のように張り合ってしまう。
「じゃあオレ様はラーメン特大盛りだ!」
「馬鹿野郎、うちには普通のラーメンしかねぇよ。足りなきゃもう一杯頼め」
表情一つ変えずに店主が言う。でも、怒っているわけではないと雰囲気でわかった。きっと、この人は優しい人だ。根拠なんて俺の心たったひとつなのに、そう思う。ぐらぐらと煮えている鍋にぽちゃりと麺が落ちるのを湯気越しに見守った。
待ってる間、おでんを食べるかと聞かれて、俺とコイツはどちらともなく首を振った。俺たち二人、今は笑えるくらいにラーメンが食べたくて仕方ないのだ。
「おまち」
とん、と。目の前に置かれたラーメンはシンプルな醤油ラーメンだった。メンマと、煮玉子と、薄っぺらいチャーシューが乗っている。
「……玉子はおでんのやつだから」
「そうなのか?」
「お前らが煮玉子って言ったんだろうが」
やっぱり、優しい人なんだろう。一言礼を言って割り箸を割った。麺をすくい上げれば湯気が一層立ち上がる。スープのいい匂いが食欲を刺激する。
ずっ、とすすった麺はすこし柔らかい。円城寺さんのところのラーメンより白っぽくて、うねうねしていてスープが絡む。メンマはふにゃっとしていて、味がついていた。玉子は言われた通り、おでんの味がする、レンゲなんてないから丼を持ち上げてスープを飲むと、いつも食べてるラーメンよりもチープな、それでもずっと優しい、シンプルな味がした。なんだか、こんな夜に食べるのにぴったりのラーメンなんじゃないか、そう思った。
横のコイツはラーメンに夢中だ。勝負だなんだと言い出さなかったあたり、よっぽど腹が減っていたんだろうか。それとも、別の理由があるのかもしれない。俺にはわからないことだけど。
夢中で食べて、同時におかわりをした。二玉めの麺が茹で上がるまでに、店主がおでんをサービスしてくれた。歪に割れたコイツの割り箸が、おでんの大根をスッと割った。
結局、こんな夜にラーメンを三玉も食べてしまった。罪悪感はあとから襲ってくるが、もう遅い。おまけしてもらったおでんもおいしかった。
帰り道、アイツは始終上機嫌だったし、俺だって気分がよかった。
「なんだか、うまくいくもんだな」
歩きまわって、歩きまわって、きっと今日はダメなんだなって思ってた。おおげさだけど、屋台を見つけた時に、奇跡って起こるんだ、なんて思ってしまった。それくらい、あのオレンジの灯りが嬉しかった。
「たりめーだ。オレ様がいるんだからなぁ!」
コイツは相変わらず偉そうなことを言っている。でも、満腹で、少し眠たいから、そんなもんかなって思ってしまった。いくらおいしいラーメンだって、それだけで今日という日の様々は帳消しにできないけれど、最後の最後、笑っているコイツを見てなんだか満足してしまった。逆転サヨナラホームラン。終わり良ければ全て良し。ラッキーアイテムは、銀色の猫。
なんだか、コイツが隣にいたら、本当にいろんなことがうまくいくような錯覚をしてしまう。それも悪くない。さっき俺の手を引いたコイツの手のひらの温度を、今だけでいいから信じていたかった。
スマホを見れば日付が新しくなっている。きっと、今日はいい日だ。なんてことのない夜に、俺はそんなことを思ったんだ。