薔薇の棘も知らず 朝と夜は涼しくなったが、まだ暑い。少しばかり手心を見せた日差しは凶悪さこそ身を潜めたが、夏は終わらないと言いたげな光を惜しげもなく降らせて目の前で揺れる銀のしっぽをきらめかせた。
そんな季節でもスーツを脱がない男が今日は作業着を着ている。エリートが農夫の真似事をしているのは少しばかり愉快だが、コイツと二人きりで歩いているものだからおれの機嫌はよろしくない。そして、その不機嫌を表に出せないことは、どんなに窮屈なスーツを着込むことよりも息苦しかった。だから、おれは毎日息が詰まっているんだ。
しかしジーパンの似合わない男だ。半袖だって似合わない。要塞みたいな、バリケードみたいな、そういう服装ばかり見てきたから、どうにもこうにも無防備に見えてしょうがない。神経質そうな色白の肌はラフな格好に溶け込むこともなく、頼りなく陽の光に晒されていた。あっという間に真っ赤になりそうなもんなのに、それははまだ透き通った白さ以外の表情を見せたことがない。肌の色さえ、気に入らない。
まだ早い時間だ。季節の匂いは知らないが、風の色とパンの焼ける匂いはわかる。大通りから外れ、とりとめのない会話に飽きた頃にたどり着いたのは小さな庭だった。なにもないが、バラだけがちらほらと咲いている。
「なんだここは……バラ園か?」
植物園の存在は知ってるが、実際に踏み入れたのは初めてだ。そんなことをぼんやりと考えていたら、レナートは言う。
「バラ園ならもっとバラが咲いているだろう。ここはバラ園じゃない」
だったらはじめからそう言えばいい。コイツのこういう、後出しで正しさを持ち出してくるところが嫌いだった。コイツの正しさを肯定も否定もできない、己の無知を引き出される瞬間が嫌いだった。おれはバラ園を知らないから、コイツが適当を抜かしてても気がつくことができないんだ。
「そーかい。じゃあ、おれをわざわざ引っ張ってきたココはいったいなんなんだ?」
見回してみても印象は変わらない。植物が生えた、小さな庭だ。小洒落た鉄の柵で区切られた一角はそこかしこにバラが生えていて、物置になりきれない粗末な箱がある。隅っこにはよくわからない石が置いてあった。まるで、墓石のような。
「墓だ。僕たちみたいな存在は葬式もあげられない。行き場の無い死体をここにまとめて埋めている」
マジで墓石なのかよ。しかし、しみったれた場所だ。ただ、きれいなだけの場所だ。
「普段は手入れをよそに頼んでいるんだがな……たまに、こうやって僕も手入れしている」
そう言って、レナートは隅っこに佇んでいた小さな物置からバケツを取り出した。少し、嫌な予感がする。
「水を汲みに行こう」
一人で行け。
だが人当たりの良い人間を演じているおれはレナートを見送ることもできず、どうでもいい話をするために歩き出した。本当は水を汲みになんて行きたくなかった。いや、本当はこんなところにだって来たくなかった。
「秋にはきれいな薔薇が咲く。赤い薔薇はもちろん、オレンジも咲くんだ」
レナートはお喋りだった。別に誰がお喋りでも構わないけれど、コイツがお喋りなのは腹が立つ。おれはいったい、コイツが何をすれば好きになれるんだろうか。好きになる意味も、理由も、ないけれど。
「そうか。咲いたらイグニスの談話室に飾ったらどうだ?」
花なんてどうでもいい。でも、テオは喜ぶかもしれない。少し考えて、すぐに打ち消した。おれたちスラム育ちには、バラのありがたみなんてわからない。
「それはいい考えだな」
「だろ? 何事も分かち合うべきだ。レナートはそこのところがうまくない」
「たとえば?」
「仕事を抱えすぎだ」
「心配してくれるのか? ありがとう」
レナートは顔色一つ変えないで礼を言う。なにが心配だ。思い違いも大概にしろ。こんなの、ただの嫌味だ。おれたちスラム育ちを信用せず、仕事を抱え込もうとするオマエへの嫌味以外の何物でもない。
ちゃぷちゃぷと水を揺らしながら戻り、水をやった。足りるのかと聞けば、手入れはよそに頼んでいるから大丈夫だと返される。そういえばそんなことを言っていた。ということは、この水やりにはパフォーマンス以外の意味はない。完全に、コイツの自己満足につきあわされただけだった。おれの心は損なわれたので、損害賠償を請求してその金でテオと肉が食いたい。
レナートが倉庫未満のボロ箱にバケツをしまいに行く。おれはなんのためにここまで来たんだ。ものすごい虚無感と共にレナートを見やれば、その手には剪定バサミがあった。
「つきあわせて悪いな」
「まったくだよ」
笑いながら答えた。本心だが、ニュアンスはだいぶ異なる。言葉に乗せず、拳に感情を乗せられたらどれほどいいか。
「もう少し付き合ってくれないか?」
お誘いなんて無碍にして、帰ってやろうか。それでもおれがコイツから離れない理由は、なんとか会話の節々から情報やら弱みやらが得られないかという感情ひとつだ。おれはどうしても、レナートから離れられない。
ただそれだけなのに、レナートはバカみたいな勘違いをしている。おれを、『特別』だと思い始めている。
「……バカなやつ」
「……ん?」
「バカなやつだな。ここまで来て、付き合わないわけないだろう?」
レナートはおれの言葉を聞き逃したりしない。だから、いつだってこの手の中には言い訳がある。本心をうっかり口にしても、俺の心を覆い隠せる薄暗い色をしたボロ布が。
「ありがとう。……こういうのは素人がやるよりも頼んでしまったほうがいいんだろうが。それでも、このバラは僕が剪定すると決めている」
レナートはバラの前で座り込んだ。自然と見下ろす形になる。なんにもわかっていない背中と銀色の髪。だんだん、日差しが強くなって、きっと、この首は真っ赤になってしまうだろう。
コイツが無防備だと心が乱れる。ハラハラして、ドキドキして、どうしようもなく暴力的な感情が顔を出す。それを抑えるために呼吸を飲み込まないとならないから、どうしたって息が苦しいんだ。
視線を動かす。そうだ、おれは切り花でないバラを初めて見た。それでも、レナートのうなじの白さが、おれの意識をバラから遠ざける。
ぱちん、バラの首が落ちる。目の前に、真っ白な首がある。
「ミハイル」
ドキリ、心臓が跳ねた。おれはなにもしてないってのに。
「ここの存在は僕とおまえしか知らない」
ただ、心が乱れたのは本当だから。
「……なんでだ?」
ダニーにも、あの理系にも、リーダーにだって、教えてやればいいのに。そう笑った。それなのに、レナートは最初に漏れた疑問にだけ答えを返した。
「強いから」
ぱちん、またバラが分断される音が聞こえた。
「ダニーだって強い」
つながったままの、白い首。くっついた頭がふるふると左右に揺れた。
「それでも、おまえに教えたかった。死体を埋めるのはここだ。水を汲むのはあっち。ハサミは箱の中。忘れてくれて構わない。ただ……」
「……ただ?」
早く、早く、正しさを振りかざしてほしい。おれでは確認できない、不明瞭な正解を。
「……僕だって、たまには合理的ではないこともする。理系とは違うんだ」
「……なんだそりゃ」
それなのに残されたのはあやふやな返答なだけだった。それでも、何をやったって腹が立つと思っていたエリートの言動があまりにもらしくないから、笑ってしまう。笑ったからって、ムカつかないわけじゃないんだけれど。
「帰ろう。これ以上居たら日差しが本格的に強くなる」
「そうだな。朝はマシだが、昼はまだ暑い」
別に、何も変わらないんだ。ただ、うなじの白さを知っただけ。この無防備な生き物を殺すことなんて、他愛もないことだと気がついただけ。
「なあ、時間もちょうどいい。クーラーの効いた飯屋でなにか食ってこうぜ」
「それはいいな。これも僕らだけの秘密だ」
別に帰ったってよかったけど、せっかくだからもう少し居てやろう。情報やら弱みを得るために、だ。
コイツに向ける感情なんて、この程度で充分だから。バラのうなじ。剪定バサミ。白い首。暴力的な感情が今は身を潜めていて、気分は悪くなかった。