まよなかごっこ 朝がこない国があるらしい。夜にならない日のさかさまだ。表があれば裏があるように、たいていのものにはさかさまがあるんだろう。
朝がこない国は真っ暗なんだろう。きっと寒くて、静かで、透明だ。なんとなしに、悪いものではない気がしている。そこではきっとアイドルでいられないだろうから、行きたいとは思わないけれど。
朝がこない国はずっと夜だということだ。夜について考える。当たり前に思考に居座る、恋人のような獣について考える。
「なんだこれ」
「カーテンだ」
「見りゃわかる」
コイツは新調したカーテンを数回揺らして、どうでもよさそうに呟いた。いままでぶらさげていたぺらぺらのカーテンとは違って、このカーテンは太陽の光を少しだって通さない。カーテンを閉じたら真っ暗になって、昼間でも電気をつけないとならないだろう。
てっきりそれきり興味は失せるものだと思ったが、コイツはなにかが気になるようでカーテンをめくったり触ったりしている。ゆらゆらとドレスの裾が揺れるような動きにあわせて、太陽の光が猫じゃらしのようにちらちらと揺れた。外はきっと眩しいだろうに、俺の家はいま真っ暗だ。
「夜みてぇ」
コイツはカーテンをつけたばかりの俺が思ったことをそのまま呟いて、ごろんと横になってしまった。床で寝るのはどうかと思うが、コイツに「外で寝るより全然いいだろ」と言われてからは、そういうものだと思っている。円城寺さんはコイツがどこで寝てもいいように部屋をきれいにしているけれど、俺にそこまでする義理はない。外よりはマシだ。
いまカーテンをあけたらコイツは眩しいと言って起きるのだろうか。起きないと思う。日差しがあったほうが暖かくて眠くなるかもしれない。どのみち眠るつもりのコイツの頬をぺちぺちと叩く。不満げな声が聞こえるけど、暗くて表情はよく見えない。
「んだよ」
「せっかく夜にしたんだ」
「はぁ?」
「一緒にすごそう。起きててほしい」
コイツは「はぁ?」と「へぇ」の中間みたいな声を出した。表情は見えないけどわかる。コイツはマヌケ面をずいっと近づけて、俺の唇をぺろりと舐めて偉そうな顔をした。どうやら、お許しは頂ける程度には乗り気らしい。でも、今日はそうじゃない。
「そういうことはしない」
「……アァ? じゃあなにがしてーんだよ」
「いつも、だいたい夜はセックスするか寝るかだろ?」
そう、俺たちの夜はセックスか睡眠で消費される。別に悪くはないんだけど、ちょっと他のことがしたくなった。朝がこない国の話を聞いて、真っ先にコイツを思い浮かべて、過ごしたことのない夜を考えた。使い果たすには長い夜を作って、コイツと一緒に過ごそう、って。
「ほら、月もある。夜だ」
懐中電灯をつけて天井に向ける。ぽっかりと、脈絡もなく満月が現れる。コイツは笑うことも喜ぶこともせず、もう一度寝転んでしまった。
「おい……寝るなよ」
「寝ねーよ。寝っ転がってるだけだ」
「それ、オマエ絶対寝るだろ……」
すっと手を伸ばしたら髪に触れた。コイツが不機嫌になる前に手を引っ込めて、もう一度、今度は頬があるだろうって位置に手を伸ばす。目も慣れてきた。ぼやりと見える頬に手が触れる。肌の白が妙に目についた。
するりと、蛇のように、温度もなく近寄った指が俺の手首を辿る、腕を這う。あのはちみつを閉じ込めたみたいな宝石で俺を捕らえられない代わりだと言うように、形を確認するように体温が移っていく。
俺もコイツもなにも言わない。カタ、と懐中電灯が倒れて月が消えた。背中の方を向いた光が遠くなる。夜が、深くなる。
頬に触れた手を滑らせて首筋に触れた。脈と呼吸はおだやかで、ただ、静かな暗闇のなかにいる。首筋から肩をたどって胸に手のひらが触れたけど、特にムラっときたりしなかった。コイツも俺とおんなじみたいで、のんびりと俺の二の腕を触っている。
「変な夜だな」
それはいま俺たちの間に流れる夜の話だろうか。コイツが今まで越えてきた夜の話だろうか。うまく言葉にできなくて、ただひとつ、「ああ、」と息を吐き出した。
「星の見えない夜はひさしぶりだ」
独り言のようにコイツが言う。俺はそれに短い返事をしながらずっとコイツに触れていた。腰に触れた手を取られて、薄く呼吸している胸に引き倒される。重なり合って、それでもつながることなんて考えずに、俺はコイツの胸に耳を押し当てる。コイツから生まれたなんて思えないくらい静かな音がする、うっすらと上下している暖かな胸。まどろんでいるあいだ、コイツは俺の髪を撫でたり背中を擦ったりしていた。コイツだっていやらしい触り方くらいわかってるけど、これはチャンプにするような愛情表現なんだろう。それが人間に──俺に向けられるだなんて珍しい。このぬくもりを俺はどれくらい覚えていられるんだろう。燃え上がるような指先や、途方も無い時間がこの時間を薄めてしまうんだろうか。
作り上げた夜は長い。足を絡めても、頬が触れ合っても、額を押し当てても終わらない。セックスをする気にはなれなかった。長い夜も明日にはおしまいなんだ。だって明日はレッスンがあって、雑誌の取材があって、きっとみんなとゲームだってやるだろうし、台本だって読まないといけない。ここは朝のこない国じゃない。だから、いまは電気をつける気分にならなかった。いままで拾い損ねてきた夜は、足りない夜はこの暗闇にある。
もぞ、とからだの下でコイツが動いた。腕を伸ばして、懐中電灯の明かりを消した。俺たちが求めているのは、月明かりじゃなくて暗闇だった。
びゃくや、と脳内で呟く。滑らかな布のような響きだ。びゃくやは聞いたことがある。夜のこない日だ。だから、いまはびゃくやの反対だ。名前があったはずだけど、忘れてしまったのはなんでだろう。
辿ることもせず、手を投げ出してコイツの指先を求める。俺たちの手がお互いを探して、指先が絡まった。広大な宇宙で自分を見つけるための、たったひとつの手がかりみたいに。
「寝るなよ」
たったひとりにしないでほしい。
「指図すんじゃねぇ」
さっき寝ないって言ったくせに。
でも仕方ないし、姿は見えないけどここにいるし、当たり前みたいにあったかいし。それでいいかな。
そんなことを思ってたんだ。そんな、静かな夜だったんだ。
「チビが寝てんじゃねーかよ」
目が覚めたら眩しくて昼かと思った。カーテンが開いてなかったら勘違いしていたかもしれないけど、開け放たれた窓の向こうには穏やかに燃えるような夕焼けが広がっている。どれくらい眠っていたんだろう。わかることは、夜が終わったんだってことだけ。
「……悪い」
ぼんやりした頭でとりあえず謝ったら、コイツは別に、みたいな言葉をぐにゃぐにゃと返してきた。別に怒ってないだろうに、文句を言った手前こういう態度を取るしかないようだ。なんというか、いつものコイツだ。損してるというか、わかりにくいというか。
「おら、行くぞ」
そう言って立ち上がったコイツはもう身支度を整えていて、俺に上着を投げつける。ちゃんと準備する時間は与えてもらえないらしい。
「どこに」
わかっていても、念の為。
「ラーメン食いに」
きっと今日は打倒虎牙道盛りじゃなくて円城寺さんのところだろう。俺は上着を羽織って玄関を開ける。
茜色の空が眩しい。きっと帰り道には星が見える夜が来る。作り物じゃない、いつもどおりの夜が。