キムチ以外。 花園百々人にはかわいいところがある。
くぅ、と鳴った音に百々人くんが困ったように笑う。時計を見れば午後三時。育ち盛りはお腹が減る時間だろう。
事務所は平素を鑑みれば、ビックリするほど静かだった。賢くんはあと少しでくるとして、ここにいるのは百々人くんと、いつの間にかソファで眠っていた漣くんだけだ。
学校帰りの子供たちで賑わう平日に比べ、休日は静かなものだった。それでも百々人くんはその静寂を好んでたびたび閑散とした事務所に訪れる。最初は事務仕事を手伝うつもりだった彼も、私の言葉に自分のやるべき仕事を見つけたようだ。のんびりと休んで、たびたび私と一緒に仕事をする。休むこと、それすなわち仕事のうち、だ。
「……ぴぃちゃん」
「はい」
「忘れて」
「はい」
思春期の子供の自尊心をむやみに傷つけてはいけない。私のお腹がすいたという体で百々人くんを食事に誘えば、困ったように眉をしかめられた。年頃の子は難しい。
仕事にしますか。そう言ってカバンから財布だけを取り出して上着を羽織る。百々人くんは素直に台本をかばんにいれて立ち上がった。ご丁寧に、財布まで持って。
「いいよ。さすがに私に出させて」
「でも……」
「休日出勤手当ですよ」
牛丼でいいかな。そう問えば百々人くんより先に声がする。寝起きとは思えない声量のそれに振り向けば、そこには目覚めた王様がいた。
「オレ様も食う」
漣くんは目覚めるなりそう言って、ちら、と百々人くんを見て眉をしかめる。そうして、つまらなそうにソファにごろりと寝直した。
「キムチ以外」
「はい」
私の返事を聞いているのかいないのか、彼はすぐに寝息を立て始めた。私は百々人くんと共に牛丼屋に向かう。百々人くんは、なんだか少しだけ元気がない。
「あ、このアイス。道流さんが好きなんですよ」
牛丼屋までの道すがら、コンビニのポスターには新作アイスの宣伝が踊っていた。百々人くんはそれを一瞥して、小さく「そうなんだ」と呟き、また目を伏せてしまった。
元気がない。なぜだか聞くのは簡単だ。でも、きっとそれは返事がしにくいことで、百々人くんは本心を明かすことなく困るだけだろう。
言えるまで待つことができることだ。そう思い直して話を変える。
「百々人くんは何にする?」
「えっ……っと、ネギ塩レモン」
「そんなのあるんだ」
「期間限定なんだって。食べてみたくて」
「じゃあ、私もそれにしようかな」
日差しは穏やかだが秋はまだ遠い。秋に辿り着くまでの夏ではない時間は、この年になっても表し方がわからない。
目的地まであと少しだ。少しだけ落ちたペースに被さるように、百々人くんがぽつりと漏らす。
「キムチ以外」
「ん?」
「キムチ以外で通じるの、なんかいいな」
花園百々人にはかわいいところがある。私は思わず笑ってしまった。これは思春期相手にはよくなかった。少しだけむくれた百々人くんに、私は笑う。
「これはね、誰にもわかるんです。百々人くんだって教えたらすぐにわかります」
「……そんなこと、ないと思う」
「わかりますよ」
お店に着いたら種明かしをします。そう言って、私はもう少しだけ歩調を緩める。
「でも、わかるのはそれくらいです。一人の人間を理解するのには、多分一生あっても足りません」
ましてや、49人。百々人くんが続けた言葉に私は頷く。
「でも、わかる範囲でいいと思います。少しずつわかっていければいい」
私たちは始まったばかりだから、ゆっくりと過ごす時間があればいい。こうやって、牛丼なんて買いに行きながら。
「百々人くんの食べたい物はまだわからないから……またこうやって一緒に買い物しましょうね」
「……うん!」
歩調を戻して私たちは歩く。種明かしまで、あと二分。
「……確かに、これは僕でもわかるね」
テイクアウトの牛丼を見て、百々人くんは唖然とする。ノーマル、チーズ、青ネギ、おろしポン酢、高菜めんたい、山かけ、オクラ。そして期間限定ネギ塩レモン。
「漣くんが『キムチ以外』って言ったら、『キムチ以外全部買ってこい』ってことなんですよ」
漣くんはたくさん食べますから。そう笑えば、百々人くんは一言「覚えたよ」と微笑んだ。