星屑ダイアローグ 今日、夏が終わったことを知った。僕が着てるのは半袖だし、ぴぃちゃんがくれた差し入れはアイスだったし、晩ご飯はそうめんが食べたかったけど、それでも今日という日は夏の死骸みたいなものだったようだ。
空が、少しだけ高い、気がする。遠くまで塗りつぶされたような夜空だから、気がするだけ。見上げた星空には夏の大三角が見当たらず、僕は暇潰しの道具をひとつ失った。たったみっつしか数えるものがなくたって、それで数時間はのんびりとするつもりだったから。
星は脆い光を放っている。弱々しくて、砕けたクッキーみたいだ。数え切れないほど遠くに光った星を見ながら、僕はこのまえ食べた新発売のクッキーを思い出す。思えばそういうところに秋の足跡があったのかもしれない。そろそろきっと、さつまいものお菓子がでるだろう。
この公園にはそこらへんに街灯があって暗闇は潜めない。期待はしていたが、思ったより明るく、かといって酔っ払いや不良の気配もなく、とても治安が良い。これなら、彼が寝泊まりしているというのも納得だ。
くるりと見渡しても、キザキくんの姿はない。僕は彼に好きとか、嫌いとか、愛とか、憎悪とか、尊敬とか、軽蔑とか、そういうのを抱くほどの関係性はないんだけど、それでもなにかひとつの感情をあげろと言われれば、僕は彼が苦手だった。
まず第一印象が最悪だったのがいけない。僕がぴぃちゃんと話をしていたときに突然割り込まれたのがきっかけなんだけど、それだけなら僕だってそこまで彼のことは苦手にならなかったと思う。タイミングとか、優先順位とか、急ぎの仕事とか、あるし。でも彼はぴぃちゃんのことを『下僕』って呼ぶ。それだけで、きっと僕は彼のことを好きになれない。
それでも僕は何度か彼の姿を探す。なぜなら僕は、この公園が彼の『縄張り』だと聞いているからだ。それはそのまま、僕がここにいる理由でもある。
僕は、家に帰りたくなかった。
別に、帰ったって酷いことをされるとか、そういうことはない。それどころか僕は要らない子なのに未だに衣食住が守られている。冷蔵庫には食べ物がある日のほうが多いし、自由に使っていい洗濯機だってある。スイッチをいれれば電気がつくし、インターネットも使い放題だ。大人は子供が成人するまで面倒を見るのが義務なんだっけ。でも、それに従って不要な存在にライフラインを残してくれるんだ。お母さんは、優しい。
だから僕が帰りたくないっていうのは、純然たるわがままだった。最近の僕は、お母さんが家にいても、いなくても苦しい。家にいると、なんで僕は存在しているんだろうって思う。星を見ようとベランダに出ても、足下に広がる遠い遠い地面への距離が気になって仕方が無くて、急に死という概念が僕の喉元に突きつけられて、怖ろしくて腰が抜ける。急いで部屋に戻って、布団を被って眠る。たぶん、そういうのに疲れちゃったんだと思う。
それでもいきなり野宿とは我ながら思い切ったけど、この犯行は、例えば年齢を偽装してファミレスやカラオケに立てこもるよりも難易度が低い気がしてた。そしてそれは、キザキくんのせいだ。
キザキくんが、この公園で寝泊まりしてるって、聞いたから。
ぴぃちゃんが一度キザキくんを探していたときに、一緒に探すのを手伝ったことがある。別に寝泊まりのことは聞いていなかったけど、その時にキザキくんは僕がいま座っているベンチで、のびのびと大口をあけて眠っていたのだ。
不思議な人だな、と思う。神秘と台風を煮込んで、そこに呆れを足したソースを恐ろしさにかける、みたいな。つまりは何にもわからないんだけど、うるさくて怖いなぁって思う。そのくせ彼は一人でいるときやどうでもよさそうにしているときはうんと静かなのだ。二面性って言うのかな。いや、シンプルに人を選んでるだけの気がしてる。
そんなキザキくんに、直接聞いたのだ。何でも無い日に、ぴぃちゃんが探してない彼を追いかけて、この公園で。
「ねぇ……いつもここで寝てるの?」
「ハァ? テメーに関係ねぇだろ」
そうだね、って言わず、それでも、って言った。僕の全てに興味のなさそうな目は、ちょっと嫌だった。
「……ここはオレ様のナワバリで、地球がオレ様の住所だ。オレ様がどこで寝ててもオレ様の勝手だろ」
今思い返してもすごいセリフだと思う。終わりかけた会話を引き延ばして、僕は本当に聞きたかったことを聞く。
「ここ、安全なの?」
「アァ?」
「悪い人とか、警察とか、こないのかなって」
思えばこの時から、なにもかも投げ出したい夜に縋れるような場所を探していたのかもしれない。それでも、怖い思いはしたくなかった。都合のいい場所が欲しかった。
キザキくんは変わらずにムスッとしていて、ため息交じりに口にする。
「オレ様は最強大天才だから、関係ねぇよ」
「最強大天才……?」
「オマエじゃ無理」
彼はしょっちゅう口にしている単語に僕への悪口を付け足して、そのまま僕を無視して眠ってしまった。そのあとはもう何をしても起きなくて、まぁ何をしても起きない彼が平然と眠っていても問題のない公園なのだという事実を得て僕は帰宅したのを覚えている。ようは、野宿の目処がついたわけだ。
そして、今に至る。秋の空なのに、気温は夏だった。布団代わりになると思っていたパーカーは羽織っていると少し暑くて、いまは膝にかけてある。
そうやって、のんびりと夜の空を見ている。都会は空が狭いってよく歌われているけれど、そんなに狭いのかなぁ。僕からしたら空はいつでも広大で、落ちていくなら地面よりも空がいい。
晩ご飯はさっき食べた。さっきコンビニで買ったコーラは半分まで減っているうえにとっくにぬるくなってるし、炭酸も抜けている。今思えばもう一本くらい飲み物が欲しかったけど、十七歳の僕はそろそろコンビニに入るにも度胸がいる時間帯だ。
ちらりとスマホを見れば夜の十時半だ。これってもう僕が出歩いたらいけない時間帯なんだっけ。そんなことを考えながら、またのんびりと星を見る。
穏やかだった。ここにお母さんがいないのは当たり前で、それがこんなにも心安まることだなんて、知ってしまった。
とんでもない親不孝をしている気分になっていた僕の肩を、誰かが思いきり掴む。突然のことに悲鳴もあげられず、動くこともできずに僕は固まってしまった。
「おい」
だから、声だけで誰かなんてわからなかった。そのときの僕は、ふらりと現れた不審者に殺されちゃうのかな、なんて考えて、それがとても怖いんだってことを思い知る。
「おい、オマエ」
グッと力が込められて、むりやり後ろを向かされる。そこにいたのはキザキくんだった。
「え、キザキくん、な……んで?」
見慣れない銀の髪。星の光よりも強い金色の瞳。口をひらくたびに、特徴的なざらざらとした声が僕の耳に届く。
「オマエ、なんでここにいンだよ」
キザキくんは不機嫌そうにも、いつも通りにも見える。というか、彼はユニットメンバーといるとき以外は常に不機嫌だ。だから、これは普通。
「……ここ、安全そうだから……今日はここにいようと思って……」
語尾がしぼんでしまう。いまは正論を聞きたくなかった。そう考えると、出会ったのがキザキくんでよかったのかもしれない。少なくとも、今はマユミくんにだけは会いたくない。
「どこが安全なんだよ。オレ様の気配にも気づかねぇザコのくせに」
肩を掴んでいた指先が少しだけ動いて、首筋に触れる。反射的に、殺されるって思った。同僚に抱くにはあまりにも無礼な感想だ。でも、それくらい彼の目は冷たかった。
「……離して」
返答もせずに訴える。「でも」も「だって」も口にしなかった。僕の言葉を受けて指先が素直に離れていく。彼は正論をひとつも言わず、ここはオレ様のナワバリだと言い放った。
「縄張りなのはわかってるよ……ねぇ、ここにいさせて」
別にこの公園は彼の物ではないけれど、そこを論点にしていたら永遠に会話が平行線になる気がして、僕はおねがいをすることにした。
「おねがい」
理由は言いたくなかった。でも折れる気はない。なんなら、彼が寝静まったあとにきたっていい。もう一回言うと、正論は聞きたくなかった。彼は、そんなこと言わないと思っていた。
「帰れ。オマエ、家あんだろ」
ああ、聞きたくない聞きたくない。そんなの、言わないで。家のないキミに言うには冷たい言葉が、喉の奥から吐き気と一緒にせりあがってきた。
「……あるから、なんだっていうの?」
ほんと、家があるからなんなんだろう。僕だって帰りたくなる家があるなら帰りたいはずなんだ。でも家にはお母さんがいて、たまにしかいなくて、トロフィーと賞状が無意味に転がってて、冷蔵庫になんにもない日だってあって、ちょっとでも油断すると洗濯物は山積みになって、ベランダからは夜空なんて見れなくて、ただ足下にぽっかりとした死の影がある。
キザキくんは何も言わない。言葉には言葉を返すっていう原始的なルールすら、この目の前の人間には組み込まれていないみたいだ。ただ猫によく似た瞳で僕を射貫いてくるから、僕は視線から逃れるために足下に視線を移す。
キザキくんは何が不満なんだろう。キザキくんはどうすれば怒らないんだろう。こんな、苦手だとしか思えない人間相手でもご機嫌伺いをしている自分に自虐的な笑みが浮かびそうになるから、僕は唇をぎゅっと噛んだ。沈黙には、耐えられなかった。
「……そうだね。帰るよ」
帰りたくない。でもこの人から離れたい。逃げたい。逃げたい。
返事を待たずにカバンを手にして立ち去ろうとした。それでも僕はたった数歩で腕を掴まれてしまう。
「……なぁに? これじゃ、帰れないよ」
「帰らねぇだろ、オマエ」
「……帰るよ」
「嘘吐くんじゃねぇ」
なにその決めつけ。でも本当に嘘だから何も言えない。公園からは離れるつもりだったけど、家に帰る気は毛頭なかった。なんなら一晩中歩いていたってよかったから、とにかくここから離れたくて、彼の手を思い切り振り払った。
全力で逃げた。一等賞は取れないけれど僕はそれなりに足が速い。学校のなかなら、陸上部でかなりの好成績を収めてるような人しか僕には追いつけない。
だから振り切って全力で逃げた。んだけど、彼がちょっと呆気にとられているうちに引き離した距離はあっという間に詰められてしまう。僕は息切れして足も折れそうなのにキザキくんはケロッとしていて、なんというか、人間味が薄いなぁだなんて失礼なことを考えた。怪談にでてくる妖怪みたいだ。
「……なんなの?」
勘弁して、って感情を思い切りのせて威嚇したが彼は何処吹く風だ。じっとこちらを見て、つまらなそうに、僕がなにか言うのを待っている。
このまま一晩中睨み合うことになったらどうしよう。別にそれでもよかった。彼が言う解決策より、よっぽどよかった。
「下僕に電話すっから、待ってろ」
「……え?」
彼はポケットからスマホを取り出したが、電話のかけかたがわからないようで不思議そうにスマホを眺めている。僕は彼の言っていることをようやく理解して、彼の手元からスマホを思い切り叩き落とした。
「アァ?」
スマホを拾いもせず彼は息を吐く。その牙が見える前に、なんとか声を絞り出す。
「……ぴぃちゃんには言わないで。おねがい」
泣いちゃいそうになったけど、無意味だからぐっと堪えた。無意味、というか、ここで泣いたらもうダメだっていう危機感があった。泣いてしまったら、望む場所にはいられない。
「なんでだよ」
彼の声は普段通りのトーンだ。つまり、不機嫌ってこと。
「……ぴぃちゃんに、心配、かけたくない」
「下僕は心配して家用意すんのが仕事だろ」
「ぴぃちゃんのことを下僕って言うのはやめて!」
やめてよ。ぴぃちゃんのこと下僕って呼ばないで。ぴぃちゃんが心配してくれることを、ぴぃちゃんの仕事って、言わないで。
口に出来たのはたったひとつだったけど、それに対しての返答は「オレ様の勝手だろ」だから、いよいよもってこの男には情がない。話も通じない。ぴぃちゃんに心配かけたくないけど、いま望みがひとつ叶うなら、ぴぃちゃんに抱きついて思いっきり泣きたかった。
泣かないように俯いた。キザキくんはいなくなる気配がなかったけど、ひとつだけため息を吐いたのがわかる。
「家、あんだろ」
「……ある」
あるから、なんなの。
「帰らねぇのかよ」
「帰りたく、ないの」
言ってるじゃん。帰りたくないって。あれ、そういうば僕、そんなこと誰にも言ってない。
帰りたくないって、そんなこと、初めて誰かに言ったんだ。
「……下僕には?」
「……知られたくない。ねぇ、キミの縄張りにいさせて」
もう一度おねがいをしてみる。さっきと違って、僕は彼に「帰りたくない」と告げている。だからだろうか、彼は僕の腕を引く。
「うわっ……あの、なぁに?」
「にくまん」
「え?」
「コンビニ行く」
そのままズルズルと僕は引き摺られて行く。なんなんだろう。もしかしたら僕はこれからカツアゲにあうのかもしれない。
でも、さっきよりこわくなかった。にくまんくらいで縄張りにいられるなら安い物だし。いていいのかって返事は、まだもらっていないけど。
結論から言うと、彼に肉まんを貢ぐ機会は与えられなかった。
彼はまっすぐに入店すると突き当たりまで進み、おにぎりの棚からあるだけのおにぎりを確保する。それをレジにおいて一度離れ、今度は飲み物を数本持ってきた。それらも全部レジに乗せて、ホットスナックの保温容器を指さして、「これ全部」とだけ口にした。
店員さんは慣れているのだろうか、何も言わないで淡々とレジの処理をしている。奥からバイトの人が出て、忙しそうに肉まんや唐揚げを袋詰めし始めた。
手ぶらだったキザキくんはポケットからくしゃくしゃの万札を取り出してレジに置く。明朗会計の後、彼は小銭を全て募金箱に入れてお札だけを乱雑にポケットへとねじこんで、買い物袋を受け取った。
ちょっとお腹は減っていたが、僕には買い物をする時間も残った肉まんもない。視線だけでついてくるように促された僕は大人しくついていった。何かが変わったと信じていたかったから、その足が公園に向いていても何も言わずにその銀の尾を追った。
キザキくんはベンチに座ると肉まんを食べ始める。手持ち無沙汰になって隣に座れば、キザキくんはおにぎりを取り出して、僕にずいっと差し出してきた。
「へ?」
「やる」
「えっ……あ、ありがとう……」
この人については詳しくないけど、食い意地が張っていることは知っている。一回この人、ぴぃちゃんが事務所のみんなにって持ってきてくれたお土産を全部食べちゃったこと、あるし。だから、どうしてそんなことをされるのか、不思議でたまらなかった。
さっき走ったからか、緊張していたからか、少しお腹がすいていた。それと同時に気がつく。僕はいま、さほど緊張していない。
僕がおにぎりを前に固まっていたからだろうか。キザキくんは少し僕を見つめたあとに、おにぎりをみっつ取り出してまた僕に差し出す。
「……そんなには、食べないかな」
「やるわけねぇだろ。それ食わないならこっちから味選べ」
どうやら僕がもらったおにぎりの具に不満があると勘違いしたらしい。それを聞いて、僕はキザキくんの前で、初めて口を開けて笑った。
「アァ? 何笑ってやがる」
「ううん、ごめん。キザキくんって優しいのか怖いのか、わかんないね」
「オレ様が優しいわけねーだろ」
優しいと思う。でも、怖いとも思う。それはコインの裏と表みたいな関係じゃなくて、夕暮れのグラデーションみたいに混ざり合ったものなんだろう。記載通りの番号に従ってあけたおにぎりを頬張ったら、なんか悲しい気持ちが食欲に上書きされてしまった。
僕はきっと、ツナマヨのおにぎりを食べるたびにキザキくんのことを思い出すんだろうな、っていう、そういう予感。
おにぎりを食べ終えるころには、もう彼は買ってきた食べ物をあらかた食べてしまっていた。お茶を一本取り出して、それも僕に渡してくれる。僕は飲みかけのコーラを取り出さず、冷えているお茶で喉を潤した。
ありがとう。って言った。そうしたら、なんの返事ももらえずに、ただ手を出すように言われてしまう。素直に出した手に、彼はひとつの鍵を乗せてきた。
「……鍵?」
合い鍵だろうか。ちょっと展開が読めない。いきなりのことに戸惑う僕に、キザキくんは言う。
「男子寮の部屋、オレ様使ってねぇから使え」
そこなら安全だから。そうと言わなかったけど、そういうことなんだろう。やっぱり優しいんだと思う。でも、キザキくんのこういうとこは好きになれない。
「……それ、キザキくんがぴぃちゃんにもらったものでしょう?」
「だからなんだよ」
「そういうのを軽々しくあげるとこ、嫌い」
あーあ、言っちゃった。でも少しだけ縮まった距離に油断して、気がつけば口から嫌いって言葉が出てた。多分いまの僕はみっつくらいキザキくんのいいところが言えるけど、このたったひとつの嫌いなところがどうしても大きすぎて、いやになるなぁ。
「それは、ぴぃちゃんがキミのために用意したものだよ」
それはキミの物。家のないキミにぴぃちゃんが用意した物。居場所は欲しいけど、他人の居場所を奪うのは酷く怖い。
「だから、そういうこと、しないで」
キザキくんはきっと謝らないって思ってたけど、案の定だ。それでも怒りもせず、悲しみもせず、簡単に鍵を引っ込めて言った。
「下僕に新しいの用意させろ」
「また下僕って言う……」
「下僕は下僕だろ」
ああ、また平行線に入りそうだ。これは話したって無駄なことだから、僕が嫌な思いを続けるしかないんだろう。
「……ぴぃちゃんに迷惑はかけられないよ」
だって、僕にはちゃんと家があるんだもん。家があって、布団がある。そこがどんなに苦しい場所でも、こんなことで甘えるのは嫌だった。嫌われちゃうかもしれないこと、したくなかった。
「野宿されるほうが迷惑だろ」
「うっ……それはそう、かもしれないけど……」
キミが言わないでいてくれればいいだけの話だよ。そう言っても彼は反応らしい反応をせずに黙っている。それでも僕は少しずつ彼に対しての耐性が付いてきたから、その沈黙をやりすごす。彼の沈黙は威圧ではなく、何かを考えているか、待っているときのものだと思うから。
体感で、五分、十分。ぼんやりとしていたら彼がいきなり立ち上がる。
「えっ……行っちゃうの?」
「ハァ? どこにだよ」
「どこって……わからないけど……」
「ベンチに二人も寝れねぇだろ」
だからオレ様はこっちで寝ると言って、彼は隣のベンチに移動する。僕には二人分の──眠るのだとしたら一人分の空間が残されて、それってつまりそういうことだ。
「寝て、いいの?」
「帰るのヤなんだろ」
「うん……」
そっと横になったベンチは硬かった。パーカーを枕代わりにして転がれば、育ち盛りの僕の足は乗り切らずに地面に触れる。靴を履いたまま寝るのが変な感じで、しばらく広がる星空を意識することはできなかった。
「……キザキくん、いつもベンチで寝てるの?」
「なんでテメェにそんなこと教えねぇといけねーんだよ」
「コミュニケーションだよ。怒らないで」
「怒ってねぇよ」
また沈黙だ。でも律儀な彼はぽつりと、地球が住所だとさっき聞いた言葉を口にした。だから、どこでも寝るし、どこに居たってそれが居場所なのだと。
どこもかしこも居場所なんて、ずいぶん贅沢で不安定な話だ。地球全部が住所って言うのは、僕からしたら、どこにも住んでないのとおんなじに思えて仕方なかった。
スマホをつければ終電のなくなる時間だった。これで、本格的に僕は帰れない。なんだか急に開放感があって、気分が少し高揚してしまう。きっと彼が一緒に遊んでくれるなら、夜の公園で遊んでいたかもしれない。それでもキザキくんは絶対に僕とは遊んでくれないから、これは想像上の出来事だ。本当は、ひとりでも遊んでしまえるほどに幼ければよかったのに。
充電が不安だからスマホはしまう。星を見る。相変わらず脆い光だけど、誰かと共有するぶんには事足りる。
「ねぇ、キザキくん」
「アァ?」
キザキくんのデフォルトは、喧嘩腰なのだと理解した。
「星、きれいだね」
「星なんてたんなる目印だろ」
「目印?」
「星見りゃ方角がわかんだろ」
珍しい着眼点だと思う。やっぱり彼はよくわからない。
それでも、特に彼のことを知りたいとは思わなかった。なんだか、それは遊園地のマスコットの着ぐるみを脱がすような感じがするのだ。たとえば僕とキザキくんがもっともっと仲良くなれたなら、きっと僕はキザキくんの着ぐるみの下を見てみたくなる。でもいまは、『牙崎漣』というキャラクターを見て、怖がったり、驚いたり、わくわくしたりしていたい。
「キザキくん」
名前を呼んでみる。キ、って発音すると、口が歪んで笑顔みたいになる。
「うるせぇ」
それっきり、名前を呼んでも返事はなかった。やることもなくて、星を見て、気がついたら僕は呆気なく眠っていた。
カーテンを隔てない朝日はこんなにも暴力的なのか。室内ではそうそう味わえない絶対的な光量に僕は目を覚ます。
僕はベンチに寝転がっていて、ここは家ではなくて公園だ。一晩経って、眠って、いまさら怖くなって僕は隣のベンチを見る。
そこにはキザキくんが当たり前にいた。ベンチに座って、つまらなそうに僕を見ている。僕と目が合ったら、彼はくぁ、と大きなあくびをひとつこぼした。
「……起きてたの?」
「別に」
起きてたのかなって、無条件に思い込んだ。僕の中のキザキくんは少しでも時間があれば寝てしまうし、寝たら絶対に起きない。もしかしたら、縄張りに僕みたいな弱っちい生き物が紛れ込んだから、見張っていてくれたのかもしれない。我ながらずいぶん好意的な解釈だけど、当たってるような気がしてる。そう思えるくらい、あの夜は僕らを変えた。
いや、変わったのは僕だけかもしれない。キザキくんはきっと、変わらない。
「オマエ、」
「なぁに?」
「やっぱこの鍵持ってろ」
乱雑に放り投げられた鍵を慌ててキャッチする。鈍色のそれは朝日を前にしてもきらめいたりはしない。やっぱり腹は立ったけど、昨日よりは穏やかな気持ちで彼に向き合うことができた。
「縄張りにいられると、迷惑?」
「ザコがうろついてたら気が散るんだよ」
「だからって、ぴぃちゃんがくれたものを渡しちゃうんだ」
「もうオレ様のもんなんだから、オレ様がどうしょうが勝手だろ」
はい、また平行線。この感情はなんなんだろう。羨ましい、のかな。ぴぃちゃんからもらったものをこんなに簡単に手放せるところとか、そもそもぴぃちゃんにいろいろもらっているところとか。
そんな思案に、沈黙に、漂ったのはキザキくんの特徴的な声だった。
「……じゃあ、貸す」
「え?」
「らーめん屋のラーメンか商店街のたいやき。やってねぇ時間ならコンビニのなんかテキトーに。それで貸してやるよ」
ずいぶんと安い宿だ。でも、それくらいなら折衷案としては悪くない。そもそも夜に高校生がうろうろしてたらいけないし、僕がここにいて彼が迷惑を被ることは事実なんだから。
「……じゃあ、家に帰りたくなかったら言うね」
キザキくんはきっと一生僕が帰りたくない理由を聞いてこないし、知らないくせに家に帰れとも言わないんだろう。ただ、キザキくんが横にいるときに見た星空はきれいだった。修学旅行みたいで、わくわくした。あの夜が否定されるのはいやだったけど、彼はまるで神様の作り物みたいに都合が良い。
「星が見たけりゃここで寝ろ。オレ様の許しを得てからだけどな」
「……また、一緒に星を見てくれる?」
「オマエひとりで勝手に見てろ」
そう言ってキザキくんは会話を打ち切ってしまった。またじっと僕を見ているけど、僕は特に気にせずに、炭酸の抜けきったぬるいコーラを飲んだ。
おなかが減っていた。キザキくんにまたコンビニに行くかと問い掛ければキザキくんは早朝でもやっている牛丼屋に連れて行ってくれたから、大きい牛丼にチーズとたまごをのせて食べた。僕が食べ終わるころにはキザキくんの目の前にはカラのどんぶりが五つもあって、彼は僕のぶんもまとめてしわくちゃのお札を出した。
帰り際、事務所への道を示される。
「もう事務所あいてっから」
そう言って彼は公園に向かってしまった。その手はもう僕の腕を掴まない。
「いいの? 僕、素直に事務所に行かないかもよ。ふらふらして、キザキくんの縄張りで遊んじゃうかも」
「バァーカ。まっすぐ帰れ!」
「え?」
「事務所に! とっとと帰れよ!」
そう言って彼はぐんぐん遠ざかっていく。なんだろうな、彼にとってはどうでもいいことなんだろうけど、僕は嬉しくて仕方が無い。
地球が住所ってのも面白いなぁって思う。でも、僕だって事務所に帰るのだと思えば、それは特別に幸せなことだと思えた。