最小の宇宙 先日、世界に新たな言語が誕生した。その名も『牙崎言語』である。名の通り、アイツのためだけに作られた言葉だ。
『牙崎くんが日本語を喋ってるの、違和感あるよねー』
そう言ったのは自他共に認める変人だった。この変人は世界的に有名なクリエイターで、アイツを指名して曲を作りたいとオファーをくれたのだ。
『だから……牙崎くんのための言語、作っちゃいました!』
彼のこだわり、あるいは思いつきにより、世界には新たな言語が誕生した。牙崎言語。それはA4の紙に束ねられて俺の手元にもやってきた。どうやら数日間、アイツはこの言語しか話せないらしい。
「すごいよね。一から言葉を作っちゃうなんて」
プロデューサーは感心したように呟く。すべての言葉が網羅されているわけではないが、これで日常会話は賄えるらしいから驚きだ。発音はわからないが、とりあえず一通り目を通す。ふと、気がついたことがある。
「……ありがとうとか、ごめんなさいとか、そういうのはないんだな」
どんな単語が必要かわからないから、中学でやるような英単語を探したつもりだ。まぁ、アイツはありがとうもごめんなさいも言わない。それは俺の当然だが、不在は望みがもたらしたものらしい。
「先方が言ってたよ。『牙崎くんにはありがとうもごめんなさいも言ってほしくない』んだ、って」
なんだそれは。思うやいなや、プロデューサーは「究極の言葉狩りだ」と口にした。
「まぁ、いいんじゃないか。アイツはどうせこんなこと言わない」
そう、アイツはこんなことを言わない。アイツが口にしないことはたくさんある。思っているのかいないのか、口にしないからわからない。きっと思ってるはずだって、俺は望んでいるけれど。
アイツはこうやって塞がれた小さな世界でも、自分勝手にのびのびと生きるのだ。だから、俺の気にすることじゃない。
この言語には「好き」も「愛している」もないけれど、アイツはどうせ不自由しない。だから、それはどうでもいいことのはずなんだ。