満月に、薔薇一輪 見慣れた光景に溶け込んだ、見慣れた人間だ。来客用ではない、柔らかいソファに沈む銀色の髪と、寝息。
いつも通り事務所のソファで眠っていたコイツは、珍しく誰の干渉も受けずに目を覚ました。俺は台本から視線をあげてコイツを見る。春名さんが差し入れてくれたドーナツを渡さなければならないからだ。
ドーナツがある。そう言えば、寝ぼけながらぼんやりとこちらを見るはちみつ色の瞳。その瞳の奥に、なにか、違和感を抱く。
見慣れた瞳が見慣れないものを抱えている。満月のような瞳の奥に閉じ込められたように咲く、黄色い薔薇が見えた。
何重にも重なった花びらは瞳と色が似ていて、境界が曖昧だ。琥珀に埋まった虫のようなそれは何かを映しているだとか、そういうものではないだろう。どうにも現実感のないその花をじっと見ていたら、コイツは不思議そうに、不服そうに口をひらく。
「……んだよ」
変なの。って、コイツは俺に言わない。まぁ、そう言いたいんだろうってのはわかるから、なんにも問題はないんだけど。
「なんだって言われても……その目、どうしたんだ?」
「目ぇ?」
どうやら心当たりがないらしい。写真でも撮って見せてやろうかと動く前に、コイツは洗面所に向かっていった。
突拍子のない出来事だ。夢、もしくはドッキリのような。でも、もし本当だとしたら、これはどういうことだろう。
本人が何も気がついていないってことは、痛みがあったり見え方がおかしくなったりとか、そういうのはないんだろう。目の異常は、こわい。他人事のはずなのに、自分事のようだ。ふっと思い出して、はっと思い至って、ぞっとする。みたいな。
様子を見に行くべきだろうか。考えと同時にアイツは戻ってきた。なんというか、けっそりというか、うんざりというか、まぁ普段は見ない顔をしているもんだから、ちょっとだけ別人に見える。俺には滅多に見せない表情だから、そう思う。
「……目」
うまいこと言葉がでない。コイツは意図を汲み取ったんだかいないんだか、大きなため息をひとつ吐き出して呟いた。
「病気」
「……は?」
「この花が散ったら、オレ様は死ぬから」
この花、とコイツが指さした瞳に居座る薔薇。その花を改めて確認する前に、コイツはソファーに寝転がって目を閉じてしまう。
「なっ……どういうことだよ、オマエ、」
「だから言ってんだろ。死ぬんだよ」
それだけだ。そう言ってコイツは眠ってしまった。
きっと、俺ほどじゃないにせよ、コイツだって動揺してた。だってコイツはドーナツのことなんて忘れてしまって、いろんなものを投げ出すようにして眠ってしまったんだから。
「……死ぬ? コイツが?」
わけがわからない。だって今朝だって、一緒に走って男道ラーメンまで行ったじゃないか。そんでラーメン食って、事務所にきて、さっきまでこんなふうにのうのうと寝てたじゃないか。わからない、コイツはさっきまで、どんな目をしていたんだっけ。
コイツは嘘を吐かない。こんな嘘、絶対に吐かない。吐いちゃいけないだろ、こんな、こんなひどい嘘。
嘘だったらいい。いや、たんなる俺たちの見間違いだったら。確かめたいのにコイツは寝てる。きれいに、目を閉じて。
「……なんで、寝れんだよ」
いつもと同じだ。俺の声じゃ、コイツは目覚めない。
***
薫さんに聞いたけど、そんな病気は知らないって言ってた。
もしかしたらって思ってみのりさんにも聞いたけど、首を捻っていた。
円城寺さんにも聞いたけど、円城寺さんにも知らないことがあるって知っただけだった。
結局、誰もこんなバカげた話は知らなかった。ただアイツにとって、これは当たり前のことらしく、淡々と、事務所の全員がアイツの死期を知ることになった。
***
コイツが寝てる。俺のベッドで寝てる。死期を見せず、目を閉じて。
俺のベッドで眠るコイツってのは、なんだか不完全な気がして仕方がない。額縁が致命的にあってないっていうか、はみ出してるっていうか、いらないフィルターを一枚挟んでるっていうか。
こんなに大口を開けて寝てるのに、コイツは死ぬんだと思うと息が止まりそうになる。もう誰も探し出すことのできない場所に行ってしまうのが、死ぬってことなんだろうか。俺は身近な死を経験しないままここまでやってきてしまったから、これから確実にやってくる死に耐えきれるのかを、少しだけ考える。
「……無理かもな…………」
平気かもしれない。無理かもしれない。口から溢れたのは弱音だった。だって、コイツは当たり前に、ずっと俺から離れないんだって思ってたから。
ふと、思う。コイツって俺のなんなんだろう。俺はコイツをどう思っているんだろう。
別に好きとか、そういうんじゃないって思う。そんな気持ちが挟まる隙間もないくらい、当然の存在だったコイツが死ぬ。こっちに引っ越してきたときの、からっぽの部屋を思い出した。
「……おい」
コイツはズルい。ただ俺の声で起きてみせるだけで、それは奇跡のようにきらめいてみせる。
「……アァ?」
開いたはちみつ色の瞳。その瞳の内側の、憎たらしいほどにきれいな薔薇。
「……オマエ、死ぬんだろ?」
「チビだっていつか死ぬだろ。生きてりゃ全員死ぬ」
「そりゃ、そうだけど……」
目減りしていく命の針を突きつけられて、なんでコイツはこんなに平然としているんだろう。こうしているあいだにも、目の前で、この花びらが一枚ずつ散ってしまうんじゃないか。そう考えるだけで、心臓がズキズキして、すごく痛い。
「……なんでチビがそんな顔すんだよ」
「……そりゃ、するだろ……」
俺はコイツの言葉を待ったけど、コイツは俺の続きを見たいようだ。でも、もう、声はでない。なんでって言われたってわからないけど、口にはできなかったんだ。
友達じゃない。家族じゃない。仲間だって思ってるのは俺だけか? あとはなんだ? 地球でもひっくり返して、恋人にでもなっちまうか?
そんなの、笑ってしまう。でも、そんな可能性だってどっかにはあったはずなんだ。そういうのを全部、真っ黒に塗りつぶしてしまうのが、『死』っていうものなのかもしれない。
「なぁ、」
「アァ?」
「死なないでくれよ」
「…………まぁ、オレ様がいないとチビとらーめん屋だけじゃ頂点なんてとれっこねぇからな。オレ様がいなくなって困るってのも、」
「そうじゃねぇ! ……そうじゃ、ねぇだろ……」
いなくなったら、悲しいだろ。
絞り出すような声を出したらコイツは黙ってしまった。そりゃ、ワガママを言っているのはどうしたって俺だった。コイツは死にたくて死ぬんじゃない。そんな不幸を示すために、こんなにきれいな花を宿したわけじゃない。
「……別に、チビはオレ様のことなんて、どうでもいいだろ」
なんというか、諦めたような声だった。言い聞かすと言うにはあまりに無責任で、投げやりと言うには優しすぎる。
「……よくない。よくないって、いまさら言っても嘘みたいだけど……」
声が震えてしまう。忘れていたはずの涙が喉の奥からせり上がってきてどうしようもない。いつぶりだろう。俺は泣くんだなっていうのがわかった。
「オマエのことなんて、好きじゃないけど……いなくなったらって、考えたら、俺は、」
わかんないけど、もしかしたら、あと少しの未来で、俺はオマエのことが好きになってたかもしれない。
そういうの、伝えられたのは少しだけ泣いたあとだった。コイツは俺の涙をただじっと見ていて、俺の告白のような懺悔をただ聞いていた。
***
「懐かしいな」
そう言って、眠るコイツの顔を見る。おい、って呼んだら呆気なく奇跡は起きて、コイツは目を覚ます。
「……相変わらず、めちゃくちゃ残ってるな。花びら」
俺はもう37才で、コイツは38才だ。目減りする命はまだまだ続くのだと言わんばかりに、こいつの瞳の薔薇は咲き誇っている。俺が泣いたあの日から、一割も減ってないんじゃないか?
「だから、それはチビが勝手に勘違いしてたんだろ。散ったら死ぬって言っただけで、そんなにすぐ散って……死ぬわけねぇだろ」
オレ様を誰だと思ってやがる。そう言ってコイツは笑う。そうなんだよな。タイムリミットが目に見えるようになっただけで、別に余命半年とかそういう宣告じゃなかったわけだ。でも、こういうのって儚く散るのがセオリーだろ。なんというか、コイツらしいんだよな。こわいほどきれいな薔薇はいまでも健在で、チャンプの死を看取ってなお華々しい。
結局、あの騒動には俺の感情が引きずり出されただけだった。いや、あんなのは反則だろう。あんだけ心臓がドキドキしたら、きっと誰でもおかしくなってしまう。そう、俺は未来予知みたいに、コイツのことが好きになってしまったんだ。
「……長生きしてくれよ、ほんと」
後ろ暗い夢がある。もしも命が終わる日がくるのなら、俺はやっと見つけた妹と、弟と、その家族と、コイツに看取られて、死にたい。最後に見つめる瞳に、たった一輪の薔薇の花を見つけて死んでしまいたい。
言わないけど、たぶんバレている。コイツはあの日みたいに盛大なため息を吐いて、うんざりしたような声を出した。
「はぁー……。これが残り一枚になったときのチビのツラを考えるだけで、ウンザリするぜ……」
いっそ潰しちまうか。そう言って瞳に伸ばされた指を適当に掴む。
「そりゃ、オマエが見たことないくらいひどい顔をするに決まってんだろ」
だから長生きしてくれよ。
そう笑えばコイツは苦虫を噛み潰したような顔をする。俺はぼんやりと、死期を悟った猫はどこかに消えてしまうって話を思い出していた。