秘密の味 恋の歌にも時期がある。出会いの春。恋人達のクリスマス。甘い甘いバレンタイン。それと、別れの冬。
ホワイトデーに愛の歌がいまいち流行らないのはなんでだろう。街角に流れる恋の歌にふと視線をあげたら、チョコレートを持って不敵に笑うアマミネくんが大きなポスターになって貼り出されていた。得意げに、そのくせ人懐っこい笑顔で笑いながらチョコレートをもらうアマミネくんというものは、女子達が色めき立つには充分だ。世はバレンタイン。アイドルは大忙しだ。
去年、僕たちにバレンタインの仕事はなかった。それがぴぃちゃんの戦略なのかたんに仕事がなかっただけなのかはわからないけれど、ありがたいことに今年は僕にもアマミネくんにもマユミくんにもお仕事がある。みんなバラバラだったのは少し寂しかったけど、一緒に仕事をした同年代の子とも僕は仲良くなっていて、この事務所で過ごした月日の積み重ねを実感した。
マユミくんは大学生になって仕事が増えた。いや、僕が受験生になって仕事を減らしただけかもしれない。僕はどうしてもマユミくんと同じ大学に進学したかった。
勉強は記憶のトリガーだけど、一位を目指していたころより全然気が楽だ。そもそも僕が昔を思い出すきっかけっていうのは世界中どこにでも転がっているから、どうしたって僕はつまずいてしまう。痛いものは痛いけど、いまはひとりじゃないから大丈夫だと、安心してこの障害物だらけの世界を走って行ける。
僕はひとりじゃない。それはいろんな意味を孕んでいて、例えばこんなバレンタインにチョコレートをあげる相手がいる、みたいな意味も持っている。去年とは違ってドキドキした。今日は僕とマユミくんが付き合いだしてから初めてのバレンタインだ。
去年にも友チョコの交換はした。でも今回は本命チョコだ。デパートで買ったちょっといいチョコと僕が頑張って手作りしたチョコは、同じカバンにいれられて出番を待っている。
アマミネくんにあげるチョコ。ぴぃちゃんにあげるチョコ。マユミくんにあげるチョコ、ふたつ。甘ったるいカバンを肩にさげ、僕は事務所までの道を急いだ。
***
事務所では全体LINKで連絡があったとおり、Cafe Paradeのみんながチョコレートを配っていた。都合のつく人はみんなこのおいしいチョコをもらいに来ている。一応いない人の分もあるらしいが、先着順になるだろう。ぴぃちゃんやユニットメンバーの人達がどれだけ牙崎くんを見張っていられるかという話でもある。あの人、すぐに事務所にあるものを食べちゃうから。
そういえば去年マユミくんはレッスンが終わったら用事があると言ってすぐに帰ってしまったから、今年は一緒にいれてよかったと思う。僕らは事務所で待ち合わせをして、おいしいチョコとアマミネくんがいれたコーヒーを飲んで、友チョコを交換して、という素晴らしいスケジュールを組んでいた。そのあとはマユミくんとふたりっきりで映画を見ることになっているし、今日が最高の一日にならないはずがない。
「あ、マユミくん、おはよ。アマミネくんは?」
マユミくんは事務所の喧噪とは少し離れたところで椅子に座って台本を読んでいた。
「おはよう百々人。秀なら隼人たちと一緒にあそこでチョコを食べている」
視線をやれば、普段からよくゲームをしてるという集団が固まってチョコレートを食べていた。明らかに大河くんが牙崎くんに絡まれているけれどアマミネくんたちは慣れているみたいで、呆れたように、それでも楽しそうに笑っていた。
「マユミくん、チョコもらった?」
「あ……いや、もらっていない」
「そうなの?」
チョコレートはCafe Paradeのみんなが配ってるけど、確かテーブルにも置いてあったはずだ。
「僕もらってくるよ。いっぱいはダメだろうけど……何個くらい食べる?」
「いや、俺は、」
「あ、ふたりともおっはよー! ももひととえいしんはそういちろうのチョコもらった?」
マユミくんが何かを言いかけたとき、水嶋さんがやってきた。手には東雲さんが作ったであろう、きれいな細工が乗っかったチョコがたくさん並んだお盆を持っている。
「たくさんあるからね! はい、どーぞ!」
水島さんは僕らの手にきらきらとした光沢のチョコレートを二粒ずつ乗せて、人の輪の中に戻っていった。体温で溶ける前に、僕はチョコレートを口に含む。
「あ、これラズベリー、かな? ジャムみたいなのが入ってておいしい」
口に含んだチョコレートは滑らかに溶けていき、ラスベリーの甘酸っぱさがやさしい甘さと少しの苦さを華やかに彩りはじけていく。僕の「おいしい」という言葉を聞いて──気のせいじゃなければ、マユミくんは、ぐ、と吐き気を飲み込む顔をした。
「……マユミくん、具合悪い?」
「……いや、大丈夫だ。気にしなくていい」
マユミくんはチョコを手にしたまま硬直している。もしかしたら具合が悪くてチョコを食べる気分じゃないのかもしれない。代わりに食べようか、と聞く前に、東雲さんがやってきた。
「どうでしたか? 今年のチョコレートも自信作です」
「あ、すごくおいしかったです。去年もおいしかったけど、今年もおいしい」
物腰は柔らかに、でも東雲さんは自分の作ったものに関して謙遜はしない。自分自身の積み重ねに誇りを持っている、素敵な人だ。
「毎年最高のものを作りますよ。このままお店に出しても恥ずかしくない逸品です」
「……そうか、」
僕と東雲さんの会話を聞いていたマユミくんが、何かに気がついたように頭をあげる。その仕草を見て、マユミくんが僕と東雲さんが会話をしている間中、俯いていたんだと気がついた。
「店に出すチョコレート……商品……」
僕には聞こえた小さな声。東雲さんには聞こえなかったのか、聞こえないふりをしたのかはわからないけれど。
「……いただきます」
マユミくんがチョコレートを二粒同時に頬張った。たっぷり数秒動きを止めて、ゆっくりと咀嚼していく。それを僕はなにかの儀式を見守るような心地で眺めていた。
「ありがとうございます。おいしかったです」
ふと見たマユミくんの指先は震えていた。
***
マユミくんの家で見る映画のジャンルはいつも違うけれど今日はなんとなく恋愛映画を選んでしまった。恋人同士のバレンタインなら、それなりのムードを求めてしまうことを許してほしい。僕はまだまだ健全に不健全な男子高校生なのだから。
寄り添って触れあっていた肩の温度では足りなくて、僕はマユミくんにぴったりとくっついてぎゅっと抱きしめた。マユミくんが額にキスをくれるから、僕も頬にキスを返す。僕はほんの少しだけ背が伸びて、くちびるまでの距離が少しだけ埋まっていた。
しばらく触れるだけのキスをして、頬を撫であい、緩やかに抱き合った。このまま溶け合ってしまうのかもしれない。そう思って乗り出したとき、僕の足が蹴っ飛ばしたカバンから、チョコレートがぽろりと転がってきた。
「あ、そうだ……さっき友チョコは交換したけど、僕マユミくんに本命チョコがあるんだ」
「……そうなのか?」
「うん」
そう言ってチョコレートを取り出す。デパートのしっかりとした包装に比べて、手作りチョコの包装は安っぽい。一瞬だけ、作ってこない方がよかったと思ったがもう遅い。それにマユミくんは僕が好意を向けたら好意で返してくれると信じていた。
「これ……こっちがちゃんとしたやつで、これは僕が作ったやつ……一応味見はしたけど、デパートのやつのがおいしいんだ……けど……」
そっと、ふたつのチョコレートをマユミくんに差し出した。
「それでもいいならもらってほしいな」
照れてしまって目が合わせられなかったんだけど、数秒しても反応がなかった。不思議に思って見つめたマユミくんの視線は僕の膝を見るように落ちていて視線があわない。呼吸が少しだけ苦しそうで、顔が真っ青になっていた。
「……マユミくん?」
マユミくんがはじかれたように視線をあげる。なんだか不安げな視線が揺らいでいて胸が痛む。原因は、僕のこのチョコレートなんだろうか。
「あ、あのさ、手作りはマズいかもしれないから、やっぱりもらわないでいい……」
「違う。違うんだ百々人……」
僕が遠ざけようとしたチョコレートを掴んでマユミくんが言う。す、と一度、マユミくんが大きく呼吸をする。
「……不愉快な話かもしれない。だが理由が言いたい。聞いてくれるか?」
「……うん。ちゃんと聞くよ」
マユミくんの顔はこわばっていた。もう一度息を吸って、諦めたように吐いて、もう一度吸って、今度こそマユミくんは踏み出すように声を出す。
「……中学一年生のころ、先輩から手作りチョコレートをもらったんだ」
嗚咽を、あるいは吐き気を堪えるように息を整えながらマユミくんは言う。
「……いまから思えば、俺は遠巻きにされていたんだろうな。だからチョコレートをもらう機会もあまりなくて……その先輩に恋愛感情はなかったが、素直に嬉しいと思った」
手作りチョコレート、というものがここまでマユミくんを苛んでいるのだろうか。僕は声を出さずに、じっと聞いていた。
「その場でチョコレートを食べてくれと頼まれた。……食べたチョコレートに……髪の毛と、血……おそらく経血が入っていた」
「うぇ……」
言い終えたマユミくんが苦しそうに呻いて、吐き気を逃がすように「げほ、」と咽せた。僕も気持ちが悪くなって、呻くような声を出す。
「……それ以来、手作りのチョコレートがダメなんだ。あとはラズベリーのチョコ……あれは……思い出す……。百々人のことは信頼している。百々人は俺に変なものを食べさせたりしない……それでも、どうしても吐き気がして……」
ぐた、とマユミくんが僕にもたれかかってきた。支えて、背中をさする。後ろ手にチョコレートを遠ざけた。
「ごめんね。知らなかった……気持ち悪いよね。これは捨てるから、大丈夫」
見たこともない女の子への怒りよりも、マユミくんがかわいそうで仕方がなかった。去年のバレンタインデーですぐに帰ってしまった理由も、今日の事務所での振る舞いもようやく理解できた。東雲さんのチョコが食べれたのは、あれが『商品』だと思えたからだろうし、友チョコが平気だったのもそれが市販品だからだ。
僕はカバンに手作りチョコをしまおうとする。その手をマユミくんが掴んだ。
「……マユミくん?」
「……捨てないでくれ」
「あ、それだったら僕が食べるよ。とにかくこれは忘れていいから……」
「……いやだ」
苦虫を噛み潰したような顔に情と少しの欲を滲ませて、マユミくんが唇を開く。
「いやだ。百々人からの気持ちは全部欲しい」
そう言って、僕の手からチョコレートをパッと奪い、包み紙を少しだけ性急に解いていく。
「無理しないでいいんだよ? 僕、なんだってあげるから」
「いやだ」
「もー……マユミくんー」
マユミくんはたまに、驚くほどに強情だ。マユミくんは少しだけ拗ねるような顔をして、すぐに模範的な人間の顔に戻る。
「それに、克服はするべきだ。これからの仕事で手作りチョコが出てこないとも限らない」
「う……それはそうだけど」
マユミくんの、出会った頃よりも大人びた指が僕の作った不格好なチョコレートをつまむ。そうして──マユミくんはそれきり固まってしまった。
「……無理しないで」
「……無理くらい、する」
そうして、少しだけ時間が経った。それは数秒だか数十秒だか数分だかわからないけれど、僕の不安が積もるには充分すぎる時間だ。
「……百々人」
弱々しい、マユミくんの声。
「うん。無理しなくていいよ。それは僕が食べるから、」
「食べさせてくれ」
「……ええ?」
そう言ってマユミくんはチョコレートを僕の手に渡してきた。すっ、と目を閉じて、ひな鳥のように口を開く。
「……まずは、見なければいける気がする」
「……そうなの? やめといたほうがいい気が」
「一息にやってくれ」
「そんなトドメを待つようなセリフ言わないでよ」
マユミくんのまぶたがちらりと開いて、不安に揺らぐ若草色が顔を出す。僕を見つめて数秒、マユミくんはまた目を閉じて、べ、と軽く舌を出して無防備に口内を晒してしまった。
なんというか、本当に最悪なんだけど、本当に申し訳ないんだけど。
「……ちょっとよからぬ気持ちになる……」
「……そうなのか?」
「うー、やるよ、やります。無理だったらぺってしていいからね」
一応ティッシュをマユミくんの手に握らせて、僕はマユミくんの舌にチョコレートをのせた。
マユミくんが口を閉じるとき、マユミくんの喉から吐き気をせき止めるように喉が潰れる音がした。口を閉じても噛み砕けない様子を見るに、中に何かが入ってやしないかと怯えているんだろう。ぎゅっとつむった目尻が震えていて、泣くかも、と思った瞬間にマユミくんが大きく咽せた。
「おぇ……げほっ、ぁ……」
ティッシュに唾液まみれになったチョコレートが転がる。マユミくんは肩で息をしながら、それを忌々しげに睨んでいた。
「……もう一度」
「本当にやめよう? ね?」
「仕事がきてからでは遅い……付き合わせてすまない。だが、頼む」
仕事の話を持ち出されると少し弱い。アイドル活動に支障が出ることもそうだけれど、なによりこの辛すぎるエピソードを、マユミくんの傷を大衆の目に晒したくなかった。それは僕の感情が一番の理由なのだけど、その話を聞いて同じ事をする人間が現れかねないという危惧もあった。
「……わかった。じゃあ、細かくして……中身がもう入ってないよってわかるくらいから始めよう?」
僕はキレイに形を整えたチョコレートを指で砕く。爪の間に甘い泥が入り込んで、あっという間に指先がべっとりと汚れた。
「はい。……さっきは目を閉じてたけど、それだと余計怖いと思うんだ。だから、ちゃんと見て。ほら、なにも入ってないから」
僕は小指の爪くらい小さくしたチョコレートをそっと差し出す。チョコを支える指に、マユミくんの舌が触れた。
マユミくんは真剣なのに心臓がはねる自分を殴りたかった。ぬる、とした熱と赤い肉の質感はいとも簡単に性と紐付いて脳を焼く。そのままチョコを含むマユミくんの唇が僕の指先を愛撫した。
けほ、と一度咳き込んで、それでも苦しそうにマユミくんは小さな欠片を飲み込んだ。目には涙がたくさん溜まっていて、熱い息が荒れている。酸素を取り込むように大きく開いた口から飲み込みきれなかった唾液がこぼれて、マユミくんのスラックスに小さな染みを作った。
「……絶対に僕以外に頼まないでよ」
「百々人だから頼めるんだ。次を頼む」
「僕だってほんと……ちょっといけない気持ちになってるんだから……」
二度目の白状だ。胸の内に秘めている方が、これは毒になる。それなのに、ちゃんとマユミくんのために紳士であろうとする僕に、あろうことかマユミくんは言ってきた。
「それでもいい」
「……え?」
「これは甘いものだと……甘くておいしいものだと、教えてくれ」
上書きしてくれ。吐息と情欲をごたまぜにしたような甘い声を漏らしながら、マユミくんは僕の手を取った。
「マユミく、ん」
マユミくんがチョコレートもなにも持っていない僕の指先に舌を絡めた。指先をちゅ、と吸ってそのまま指の付け根までを舌で舐る。誘うように口内を晒して、鼻にかかった声を出す。
「んっ……」
「……甘い、もの……」
熱に浮かされたように僕はマユミくんの口内を蹂躙する。指先で上顎を撫でる。裏から歯列をなぞる。舌を弄ぶ。さっきみたいに、さっきとは明確に違う熱で、マユミくんの開ききった唇から唾液が垂れた。僕らが抱えたふしだらな秘密をそのまま閉じ込めたような瞳で、マユミくんは僕のことをずっと待っている。
「……こうしたら大丈夫かな? これならわかるよ、なんにも入ってないって」
僕は自分が作ったチョコレートを食べる。少しだけ口の中で溶かして、そのままマユミくんに深く口づけた。
口いっぱいに広がったチョコレートの甘みがじりじりと脳を焼いている。絡ませた舌にチョコレートの味を移して、ふたりで甘さに溺れるように混ざり合った。飲み込んだ呼吸は蜜のように重たくて目眩がする。もうなんだかお互いにバカになっちゃって、頭をつかんで無我夢中でキスをした。
もうチョコレートの味なんてしない。もう、僕はマユミくんしか感じられない。もつれた呼吸を取り戻すために離れたくせに、僕はどうしようもなくキミが欲しい。
「……もっと、いい?」
全部欲しいと言ったのはマユミくんなのに、僕がマユミくんの全部をぺろりと丸呑みにしようとしている。マユミくんは返事の代わりに、指先でつまみ上げたチョコレートを僕の口にそっと含ませた。