靴がなければ歩けない 撮影があった。
選ばれた人間の共通点は所属事務所だけだったから同じ現場に集められた秀と漣の間にも共通点はない。お互いに天才を自称しているが、本人達はその言葉の本質が違っていることを理解していた。
撮影現場は廃校だが、まるで明日にでも授業が始まりそうな雰囲気だった。机、椅子、たくさんの本。ただここには通う生徒がいないだけで、本来の学校とはなにも変わらない。そうやって、本来の学校をからっぽにした空間が、この撮影施設だった。
撮影のための場所だから、本来の学校にはない部屋もある。例えば今アイドルたちが収められている衣装部屋なんかがそれだ。撮影のため、アイドルは各々自分勝手に制服やら、学帽やら、スニーカーやら、ヘッドフォンやら──目的がわからないメイド服まで、学校に関係があるものもないものも一緒くたに陳列された棚から思い思いの道具を手にとっては身につけ、壁に立てかけられた鏡を見ている。
今日の撮影はこうやって好きな服や道具を持って、学校をうろついてスナップ写真を撮るというものだった。学生服を着た輝が「やっぱり子供っぽい顔してるかな」と雨彦に声をかけていた。
秀はしばらくヘッドフォンのメーカーを見ていたが、なにも持とうとしない漣に気がついて手を止めた。何もなくてもいいんだろうけど、せっかくプロデューサーと呼ばれる男が用意した道具だ。使うにこしたことはないと思い、棚からスニーカーを見繕って漣に近づく。
「漣、なにか使わないの?」
「アァ? なにかってなんだよ」
秀は漣の事をよく知らない。だから、だけど、怯む道理もない。秀は逡巡の後、手に持ってたスニーカーを漣に手渡した。
「これ、似合うんじゃないかな。履いてみなよ」
漣はスニーカーを受け取って足を入れようとしたが、靴紐がしっかりと結ばれていてうまく履けない。四苦八苦している漣を見て、秀は思い至る。聞いたことがある。漣は驚くほどにものを知らない。
履けない、のだろう。きっとこういう機能性を無視した見た目重視の重たい靴を履いたことがないんだ。秀は一度だけ漣の名前を呼んで、そばにあった椅子へと腕を引く。
「座って。履かせるよ」
「……好きにしろよ」
秀は漣の足下に膝をついて靴紐をしゅるしゅると解く。漣が靴下をはいていないことに気がついて靴下を探しに行こうかと思ったが、漣は気にせずにさっさと履かせろと気怠げに、せっかちに呟いた。
靴を履かせて紐を結ぶ。いつも偉そうに、貢げだの奉仕しろだのとプロデューサーやユニットメンバーにうるさい男は驚くほど静かに、じっと身を固めている。寸分も動かない足はマネキンのようで、筋肉のしっかりとついた足は白い。
「……はい、できた。うん、似合ってる」
秀は自分の見立てが間違っていなかったことに満足して笑う。漣は例のひとつも言うことなく、一度だけ秀と目を合わせて立ち去ってしまった。
***
教室、体育館、プール、音楽室。いろいろな場所に、いろいろな人間がいる。
贅沢なことに、ひとりひとりに撮影スタッフがついていた。秀は制服以外で学校に立ち入ったことがなかったから私服で教室にいるのは変な感じだった。あまりにも撮影に向いていない私服を着てきた人間は衣装を管理する人間の手によって着替えされられていたが、秀の私服は合格点をもらえたようで着替えさせられることなくここにいる。
秀は持ち込んだ私物のヘッドホンで両耳を塞いで音楽室のピアノにもたれかかったり、衣装部屋にあった冬用のコートを着てプールサイドに棒立ちになってみたりした。撮影者はそのセンスを褒めながら数枚シャッターを切っては秀に確認を求め、納得がいったら、あるいはそこで撮れるものはもうないと判断したら次の場所へと歩き出す。
そういえば図書室にはまだ立ち寄っていない。本がたくさんあって目的が明確なあそこは人気スポットだと思い、後回しにしていたのだ。衣装部屋にコートを返して、代わりに目についたいくつかのサイコロを手に図書室へと向かう。
図書室には思ったより人がいなかった。ひとりだけが図書室にいた。
低学年の生徒が取りやすいように低く設計された本棚に腰掛けて、漣が足をぶらぶらと揺らしていた。写真を撮ることもしていない漣についたスタッフに聞くと、写真を撮ったのにここから動こうとしないから困っているらしい。話している途中、漣が威嚇するように声を出したのでスタッフはどこかへ行ってしまった。きっとプロデューサーに確認を取りにいくんだ。あるいは注意をしてもらうために呼んでくるのかもしれない──秀はそう結論づけて、漣へと近づく。
「漣は写真撮らないの?」
「うるせー……オレ様に指図すんじゃねーよ」
まるで休日に目覚めたら夕方だったときのように漣が文句を口にする。常日頃から自分を最強大天才だと豪語する男に対してそれなりの感情を持っていることを、秀はここで自覚する。それは口に出来るほど好意的な感情ではなかった。
漣はなにかを許されている。それだけならまだしも、そんな態度のままプロデューサーの要望に応え、成果を出す。だって『最強大天才』だから。
秀は自分の事を天才だと自負しているが、それは好き勝手に振る舞う免罪符ではないことを知っている。痛感して、悔いている。そうして、大切な親友を傷つけたことを思い出す。かと言って、理由も聞かずに他人に説教するのも嫌だった。
「漣はなんで撮影しないの?」
「……どーでもいいだろ」
「……なんか、嫌なことでもあるの?」
子供の癇癪に近いと秀は思っていた。彼は対話が必ず正論に辿り着き、双方が納得できる結論をもたらすと勘違いしていたのかもしれない。
「……このクツ、重くて動きにくいんだよ」
ここまでは来たけど、もう動きたくない。漣はそう言った。
俺のせいじゃん。秀は息を詰まらせる。ふたりを取り巻く本のにおいが肺に満ちて臓器から古びていきそうな感覚だ。加害者に、なったような気分だった。
「……脱げばいいじゃん」
秀は言う。だって、漣はいつだって自由にしているじゃないか。それなのに、なんで。
人を傷つけたと感じたとき、秀の胸はざわざわと苦しそうに呻く。例えそれがこんなに浅い繋がりの人間でも、傷つけてしまったらと思うと足が竦んだ。
「……紐、解くよ。だから足を出して」
もしかしたら、履かせたときのように構造がわからないのかもしれない。この生き物は、自分が当たり前にこなしていることが出来ないのかもしれない。自分の当然で振り回し、傷つけた存在を思い出して、秀はたまらず視線を落とした。
さげた視線の先に、漣の足を捕らえているスニーカーが差し出される。秀が指先で引いた靴紐はあっという間に解けて、呆れるほど容易い力でスニーカーは秀の手に収まった。
これでこの人間は自由だ。安堵した秀に、紙やすりのようなざらざらとした声が落ちる。
「オレ様のクツ」
「え?」
「取ってこい」
「言い方……まぁいいや、少し待ってて」
言葉遣いを漣に説くくらいなら猫に説法を説くほうが有益だ。そう判断した秀は衣装部屋に戻る。スニーカーを元の棚に戻す。椅子の脇に寄せておいた平べったくて軽い靴を取る。
図書室に戻っても漣はじっとしていた。似合わないけど、なんだか納得してしまう。
「おまたせ」
靴を手渡せば漣はそれを履いた。床に置いた靴に足をいれるとき、そこにはなんの障害もなかった。
「……漣は裸足になっても、動き回るんだと思ってた」
解いた形跡もなかったスニーカーの靴紐を思い出す。きっと漣は解き方を知らなかった。それでも、スニーカーを脱ごうとした形跡は、確かに存在しなかった。
「……靴脱いだら、歩くのはダメだろ」
「……そうなんだ」
「……別に! 気分じゃねーだけだし」
秀が知ることはないが、それは漣に染みついた癖だった。漣は靴を脱いだら外を歩いてはいけないと思っている。頭では問題ないとわかっていても、それをする気にはならないのだ。
漣は幼少期、旅をしていた。師であり父であった男に手を引かれ、いろいろな場所を旅していた。
落ち着きのない子供だった。多くの家庭よりは放任主義だった父親にも漣にうろついてほしくないときがあった。そういうとき、父親は漣を適当な場所に座らせて、その小さな靴を脱がせてこう言った。
『靴がないと怪我をするから、歩き回るなよ』
そうして、父は小さな靴に漣の自由を押し込めて、靴を持ち去りどこかに消えてしまうのだ。
漣は靴を脱ぐと父の言葉を思い出す。背中を見送るしかなかった日々が浮かんではあぶくのようにはじけていく。せっかく解放された足を行儀悪く本棚に乗せ、漣はごろりと寝転んだ。
「寝る」
「ちょっと、せっかく靴だって取ってきたんだから……ほら、起きて他の場所にも行きなよ」
「うるせぇ」
取り付く島もない。プロデューサーに連絡しようとスマホを開いた瞬間に、スタッフがプロデューサーを連れて戻ってきた。
入れ替わるように秀は図書室を出る。漣がどんな写真を撮ったのか、現像されるまで彼は知らない。