まだ花束は作れない 事務所までの道に、生き急ぐように咲いた紫陽花を見た。仲間はまだ雨を待っているというのに、たったひとりで咲いていた。
花に疎いわけではないが、特段詳しいわけでもない。健忘症のように咲いた紫陽花の理由もわからぬまま、事務所の扉を開けて挨拶を投げかける。プロデューサーは外出だとホワイトボードにあったはずだが、この時間なら北村がいるはずだ。
「あ、雨彦さん。おはようございますー」
「よう北村。なんだ、具合でも悪いのか?」
北村はテーブルに突っ伏して手元を見ていた。視線の先を眺めてみれば、お世辞にも華やかとは言えない一輪の花がある。
「それは……貧乏草か」
「そうだよー。摘んだら貧乏になっちゃうっていうやつー」
そう言いながら北村は、明らかに人の手でちぎられたであろう花をくるくると弄ぶ。この花は縁起が悪いだけで汚れはひとつもないけれど、北村が持っているだけでなんだか違和感がある。
「それはどうしたんだ?」
「摘んだんですよー」
貧乏になっちゃうー。そう言って北村はふにゃりと笑った。そうして一拍後には、憂いを滲ませて口にする。
「でも、摘んじゃったー」
そう言って、北村はこちらを見た。俺が北村の言葉を待っていたら、その視線をまた手元の花に戻してしまった。聞かれれば答える。聞かれなければ応えない。そういうことだろう。
「なんでまた、そんな縁起の悪い花を摘んだんだ?」
もう一度、北村が俺をみる。寂しそうに笑って、つまらなさそうに口にした。
「僕ねー、雨彦さんに花を贈りたいんだー」
聞かなきゃよかったわけじゃあないが、聞いてよかったのかと思わないわけでもない。「父の日か何かか?」と茶化してもよかったが、俺にはなにも言えなかった。北村が俺への感情を持て余しているのではないかと自惚れる程度には、俺だって北村に感情を向けている。ただ、その感情が花をもらうことで満たされるかと言えば答えは否だ。俺は年齢が一回り近く違う人間に向ける情の種類くらいは弁えている。
「でも、花って花言葉があるから……」
間延びのしない、消え入るような言葉だった。ふっと浮き上がった沈黙に被せるように、いつものような声色が響く。
「贈りたい言葉を、気持ちを、勘違いされたくないんだー」
上書きされちゃ、たまらない。北村は一度目を伏せた。次に覗いた赤い双眸はいつものように挑戦的だ。
「……伝えたい言葉は、口で伝えたいからねー」
花には詳しくない。だからどんな花をもらったって、お前さんからの言葉がなければなにもわからない。
そう言えばよかった。それなのに、どうしてこんなことを言ったんだろう。
「北村は、俺になにを伝えてくれるんだ?」
情の形を間違っちゃならない。分別のない大人になる気はない。それに俺は、北村に贈る花のひとつも持っていないのに。
「……伝えたいこと、今はないんだー」
それなのに、どうしてこんなに肩透かしを食らった気分になったんだろう。
「でも、どうしてだろうねー。僕は雨彦さん、あなたに花を贈りたいって思ったんだー……」
北村が手をあげる。摘み取られて死に向かうだけの花がゆらゆらと揺れる。
「知ってるー? 貧乏草って、花言葉がないらしいよー」
「そうなのか?」
「そうみたいー。すごいよねー、苔にすら花言葉はあるのにー」
北村はからだを起こして、背筋を伸ばして、俺と向き合う。
「だからね、これならただ……純粋に、花だけを贈れるな……って思ったんだー」
赤い果実のような瞳だ。ちら、と花を見て、ふら、と俺を見て、曖昧に笑う。
「……でもこれ、ちょっと見た目が貧相だよねー。贈り物、意味に捕らわれ地味な花。本末転倒……とは、ちょっと違うかー」
そう言って、北村は花を引っ込めてしまった。俺はからっぽの両手を持て余さないように二の句を継ぐ。
「……まぁ、貧乏草だしな」
「うん。だから、これは贈れないねー」
そう言って北村はゴミ箱の方へ視線を向けた。勝手に摘んで、貶して、捨てるだなんて悪い男だ。でも、北村のそういう瞬間は嫌いじゃない。少しだけ子供じみているからだ。そんな、たったそれだけが、歪んで愛しさに変換されてしまう。
「……贈ってくれないのか。そりゃ残念だ」
そんな花、捨てておしまいでよかったはずだ。それなら、拾い上げたのはなぜだろう。
「……貧乏草だよー?」
「言葉が欲しいんだ。見つけたら贈ってくれ……その言葉に相応しい花と一緒にな」
俺は笑ったはずだった。北村は応えるように不敵に笑った。弧を描いた唇が言葉を紡ぐ。
「なら、とりあえずこれは雨彦さんにあげるねー」
そう言って北村はみすぼらしい花を俺に差し出した。俺はそれを恭しく受け取って口にする。
「ありがとな」
礼に俺からも花を贈ると言いかけてやめた。北村に贈る言葉も相応しい花も、何一つ思い浮かばなかったからどうしようもない。
「……礼に、落雁でも買ってこようか」
「……あなたから貰えるなら、なんでもいいよ」
北村らしからぬ声色だった。俺の思う北村が出すような声ではなかった。
「……ねえ知ってるー? お菓子にも言葉があるんだってー。……落雁にも、言葉があるのかなー?」
誤解させないでね。北村はそう呟くと、何事もなかったかのように課題をテーブルいっぱいに広げ始めた。俺は可能な限りこの花を傷つけずに持ち帰る方法を探す。言葉を持たないこの花を、ただ愛おしいと思っていた。