桜と取り決め まんまるい頭と見やすい位置にあるつむじを見つめる。半歩先を歩く北村を視線で追うと、背中よりはつむじのほうが何倍も見やすくて愛らしい。北村が先に階段でも上れば視線は反転するか同じくらいになるのだろうが、北村の家にお邪魔するために使うのはエレベーターだ。結局、玄関の扉をくぐるまで俺は北村のつむじを見ながら歩いていた。
玄関の扉が閉まる。くる、と北村が振り向いたときも俺が意識して視線を下げなくては目線はあわない。そんな身長も年齢も離れた恋人を、俺は酷く好いていた。
「雨彦さんー」
名前を呼ばれるだけではわからない。声色はどうにもらしくない。
「……屈んでくださいー」
俺が言われたとおりに屈めば北村は近づいた唇に自らのそれを重ね合わせた。俺は北村のことを対等な存在だと思っているが、この瞬間だけは、俺にねだってみせないとキスのひとつもできない男が無性に愛おしい。それに俺は口づけを交わすためだけにあるような、この言葉が好きだった。
***
春の道を歩く。時折まばらに舞う桜の花びらを北村の頭に見つけたので、二度ほど取ってやった。桜の香りは捉えられるほどに濃くはないが、春の空気が肺に満ちていた。
事務所の扉を開けばプロデューサーが声をかけてくる。少しばかり留守番を頼まれてくれとのことだったので、二つ返事で引き受けた。些細な用事だから遅くはならないと言ったあと、丁寧な礼をしてプロデューサーはどこかに行った。
古論は相も変わらず海に潜ってからくるとのことだったから、しばらくは北村とふたりきりだろう。茶でも飲みながら待つか、と口を開きかけた瞬間に、北村がザクロのような色をした瞳をこちらに向けて投げかけてきた。
「ねー、雨彦さんー」
俺の返事を待たずに北村は続ける。
「屈んでもらえますかー?」
パッチリとした大きな瞳だ。ここがどこだかわかっていないわけはないだろうに、ふたりきりだという事実がそうさせるのか。
「ん、」
屈んで、軽く瞳を閉じる。唇への温度を待っていると、北村の手が髪に触れる感覚があった。
「見上げればー、春の欠片に届かぬ手ー。桜の花びら、ついてましたよー」
目を開ければ、そこには楽しそうに笑う北村がいる。その指先には薄い桃色をした花びらがあった。
「……キス、されると思ったー?」
試すような声ではなかった。ただ気になるから聞いただけ、なんだろう。
「……そう言ったらしてくれるのか?」
期待するようなことを言いながら、意図的に背筋を伸ばして北村の唇を遠ざける。北村は「いじわるなひと、」と笑いながら、少しだけ甘えるような視線で囁いた。
「そうですねー。せっかくふたりきりだから……」
一呼吸おいて、北村は同僚から恋人になって言う。
「だから……ねぇ、屈んでほしいなー」
北村の手が俺の頬に伸びてくる。俺は素直に屈んで、いつものように口づけを待った。