ミッドナイトシアター 発端は現在公開中の映画だ。友人と観に行ったんだけど、これがすっごく面白かった。映画を見た夜、興奮の醒めなかった僕は一緒に行った友人にではなくマユミくんにLINKをした。まずはこの映画を知っているかと聞いた。観たと言うからどうだったかを聞いた。面白かったと返ってきたので、僕もそうだと返して続ける。
『本当に面白かったんだ。いくらでも感想が言えそう』
だからよかったら明日、少しでいいから話を聞いてほしいな。
そういうメッセージを送るつもりだったんだけど、半分も打ち終わらないうちに通話をリクエストする通知音が鳴った。
「え? ええ?」
マユミくんが電話をしてくること自体は珍しくない。だけどそれは仕事の話か僕が落ち込んでいたりするときだ。あわあわとボタンを押せば、僕やアマミネくんだけがわかるくらいの僅かな高揚を覗かせながらマユミくんは言う。
『百々人、あの映画を観たのか』
「あ、うん。すごく面白かった」
『そうか。俺もあの映画はとても面白いと思ったんだ。百々人は好きなシーンはあるか?』
「え……あ、僕はあそこが好きだな。無音になるところ」
『ああ、あそこはとてもいいシーンだ。おそらく十秒にも満たない無音なのだろうか、時間が引き伸ばされた感覚がする。あれは映画館で体感することに意味があると言えるくらいに、他者に無音を妨げられない映画館という空間に意味があった。モノローグという心理描写を省いているはずなのに登場人物の感情や思いが伝わってくる。そういえば百々人、パンフレットは見たか?』
「あ……見てないんだ。売り切れちゃってて……」
『そうか。では次に会うときに持っていこう。そこに載っている監督インタビューを読むと、中盤に育ての親が主人公に言った言葉の重みが増す。そもそもあの言葉は……』
僕は悟る。マユミくん、めちゃくちゃテンション上がってる。
こうなったマユミくんは珍しいけれど、別に初めて見るものじゃない。最初こそ驚いたけれど、たまにしか見られない、なにかに夢中になっているマユミくんはかわいい。かわいいって言ったら語弊があるかも。なんというか、愛おしいって言葉がぴったりかもしれない。
こういうマユミくんを──いや、どんなマユミくんだってずっと見ていたいし、いろんな声を聞いていたい。明日は当たり前に学校があるけれど、マユミくんが言い出さないのをいいことに僕は寝ようって言い出さなかった。ゆっくりと相槌を打って、たまに自分の思ったことを言う。そんな素晴らしい時間を過ごしていたら、マユミくんが我に返ってしまった。
『っ、すまない。喋りすぎたな……』
「ううん、楽しいから……ずっと喋っていたいよ」
時計を見たけれど、まだ明日にはならない。「もう少し」と言う前に、マユミくんが「なら、あと少し」と言ってくれる。
『……そうだ。別に作品自体に繋がりはないが、その監督が作った作品で雰囲気の似ているものがある』
「そうなの?」
『ああ。今回の映画を絶賛している人間からも評価が高い。きっと気に入る』
「そうなんだ」
見たいなぁ、という僕の言葉を待たずにマユミくんは言う。
『よければ観に来るといい。うちにDVDがある』
「うん。じゃあお邪魔しようかな。マユミくんの都合のいい日って、」
スマホを使っているからスケジュールアプリが開けない。だけどレッスンの日はマユミくんと同じだし、予定は来週買い物に行くくらいしかない。
『ああ、それなんだが』
僕は結構暇だけど、マユミくんはどうなんだろう。日付は合わせられると思っていたけど、マユミくんの言葉は予想外のものだった。
『休日の前日……百々人が俺の家に泊まりにこれる日がいい。どうだろう』
『……お泊り?』
「ああ。それで……夜更かしがしたい。いいか?」
大丈夫、と僕は答える。なんだかドキドキした。二回だけマユミくんの家に泊まったことはあったけれど、そのどちらもが深いキスの記憶と結びついていたから。
***
恋人の家にお泊まりだなんて一大イベント、健全に青春をしている男子高校生をやってるんだから何も考えないほうがどうかしている。それなのに、僕の浮ついた期待を吹っ飛ばしてくれたのは、出迎えてくれたマユミくんのあまりにも無邪気な声だった。
「夜更かしの準備は出来ているか?」
シアタールームじゃなくてリビングに通されて出されたのはコーヒーだった。普段は紅茶かコーヒーか、ジュースもあるぞと勧められるのに、コーヒー。マユミくんの夜更かしにかける情熱は本物だ。
僕は学校帰りにまっすぐここにきたから、映画を見てから遅めの夕食かなぁ、だなんて思っていた。それこそマユミくんの屈託のない声を聞くまでは少しだけえっちなことも考えていたんだけど、どうやらそうではないらしい。
「夕飯まで少し時間があるな。先に風呂に入るか?」
「えっ、お風呂、?」
いや、やっぱりちょっと意識しちゃうけど。
「お風呂、うん。あー、晩ごはん何時くらいに食べようね?」
「そうだな。七時くらいかと思っていたが、遅いか?」
「うーん。それくらいならご飯のあとにお風呂、とか?」
時間をすり合わせていて思うんだけど、僕は今日の予定をあまり知らない。知っているのは映画を見ることと、マユミくんが夜更かしをしたがっていること。だけど、このふたつは分けて考えてはいけなかったらしい。
「そうだな。それなら九時くらいに食事と風呂が終わるとして……」
「そのあとに映画かな? 映画が終わったら夜更かし……ねぇ、夜更かしって何をするの?」
疑問がほとんど、あとはよからぬ期待が少し。そんな僕の言葉を受けてマユミくんは一瞬だけキョトンとした。メロンソーダの色をした目がぱっちりと開かれて、マユミくんって意外と目がおっきいよなぁって思う。そのあとはすぐにいつものように目をキリッとさせて、申し訳無さそうに言う。
「すまない。説明が足りなかった」
コーヒーをひとくち。マユミくんは続ける。
「俺は夜更かしをして映画を見たいんだ。あの映画は……きっと、真夜中に見るのが一番楽しい」
サンタクロースを待つ子供のように、マユミくんは楽しそうに笑った。
夕飯はどこかでテイクアウトしようと言ったけれど、お手伝いさんが作り置きをたくさん用意しておいてくれたらしい。冷蔵庫に並んだおかずを確認して、僕らは並んでお米を炊いた。
新婚みたいだ。僕が言えなかったことをマユミくんは言う。僕は「そうだね」も「違うよ」も言うことができない。そんな僕に何も言わないで、マユミくんは柔らかく微笑んでいた。
少なくとも僕らが新婚さんになったとしても絶対に作れないようなご飯をたくさん食べて、交代でお風呂に入る。なんだかいい香りのするシャンプーで髪がびっくりするほどさらさらになった。
「百々人」
マユミくんは意味もなく僕の名前を呼んで、乾かした髪にキスをひとつくれた。
夜更かしまでは時間があった。えっちなことが起こるならいまだけど、僕らは健全に、リビングで宿題や生徒会の仕事を終らせる。学生としての時間が終わったら、続いたのは恋人の時間じゃなくてアイドルとしての時間だった。喉を使いすぎないように、ゆったりと台本の読み合わせをする。日付が変わる少し前、マユミくんが嬉しそうに言った。
「百々人。そろそろ支度をしよう」
「支度? ああ、映画の」
「そうだ。映画と、夜更かしの支度だ」
僕はマユミくんに腕を引かれて台所に向かう。マユミくんが嬉しそうに、ポップコーンの種を取り出した。
事務所のパーティーで買うようなでっかいコーラとさっき作ったばかりの熱々ポップコーン。音が出るポテトチップスがないのはマユミくんっぽくて、気休めみたいにコーヒーが用意されていた。
シアタールームの机に所狭しと並べられた『夜更かし』のための様々を眺めていたら、マユミくんがDVDを持ってくる。見たことのないパッケージだったけれど、これがマユミくんの熱弁していた監督の過去作なんだろう。
「どんな映画なんだろう」
ホラー、アクション、ラブロマンス。僕が並べる前にマユミくんが硬い声で言う。
「百々人、それは」
「見てのお楽しみ、でしょう?」
マユミくんとアマミネくん。ふたりはアマミネくん曰く『ネタバレ否定派』と呼ばれるタイプらしい。僕は別にネタバレがあってもいいっていうか、知って面白そうなら見てみようかなって思うときすらあるほどにネタバレには寛容だ。だから、僕本人がネタバレを気にしないんだから言ってくれてもいいのに、否定派は聞くのも言うのも嫌らしい。マユミくんにうんとねだればきっと教えてくれるけど、大切な恋人を困らせてまで知りたいネタバレはいまのところない。
「……見たらわかるのかな。この映画を夜更かしして見る理由」
「ああ。……気に入ってくれるといいんだが」
「それ、わかるなぁ……自分が好きなものを紹介する時、ちょっとこわいよね」
僕の好きなものが否定されたらどうしよう。僕はきっと不安になってしまう。だからマユミくんが僕に映画を薦めてくれるとき、マユミくんは僕にないものを持っているなって思う。
「ああ。だが自分の好きなものを、自分の好きな人が好きになってくれたら嬉しい」
だから電話をしてしまったと、あの日のことを言い訳のように呟いたマユミくんはなんだか愛おしかった。ディスクをセットして戻ってきたマユミくんとソファーに沈み込んで、近づいた頬にくちづける。一瞬だけ目をパチクリとさせたマユミくんが僕の頬にキスを返す。見つめ返したマユミくんの前髪は下りていて、なんだかとても幼く見えた。
薄暗いシアタールームで夜の海を見た。もうすぐ終わる映画の、行き着いた先だった。
少しの眠気でもやのかかった頭に波風の音が響いて、触れるはずのない冷たい風が頬を撫でる。はぐれそうな心を繋ぎ止めるようにマユミくんの手が僕の手を握るのがわかったけれど、僕は意識をスクリーンから移せない。きっと、マユミくんもそうだろう。
僕らを取り囲む夜の静寂と散っているはずの星を強く意識した。僕らはいま、夜の中にいる。
「お……っもしろかったねぇ!」
「そうか。それならよかった」
映画は掛け値なしに面白かった。雰囲気はいま上映している作品に似ていたけれど、伝えたいテーマは別物だ。いい意味で似たような手法なのに、伝えたいメッセージが違うからか見え方が全然違った。物語を動かしていくのはファンタジー要素の強い要因なのに、彼らの生きている、動いている場所はどうしようもなく現在社会で──。
いろんなことを思ったけれど、どれもこれもうまく言えずにただ「おもしろかった」と繰り返す。そんな僕のことをマユミくんが楽しそうに見ていたことに気がついたのは、僕がコップに少し残っていたコーラを飲み干したときだった。
「ごめん……うまく言えなくて」
「いや、楽しんでもらえたことが伝わってきたからな。俺は嬉しい」
マユミくんが僕のコップにコーラを注いでくれる。こんな深夜に飲むコーラの味を知るのは初めてだ。
「……楽しかったか?」
「え? うん。うまく言えないけど……」
「その……俺が夜に見たいと言った意味が、伝わっていたらいいと思ったんだが……」
夜の海を思い出す。しじまに横たわる波音の、水の一滴までもが跳ねる音を全身で感じるような感覚を。その神経ひとつひとつが沈み込んでいたこの夜を。
「……そうだね。僕もこれを、夜に見れてよかったな」
シアタールームはいつだって真っ暗にできるし、どんな沈黙も生み出せる。それでもこの映画を、あの海を世界が寝静まった夜に見たことには確かな価値があった。うまく伝わるかな。僕は口にする。
「……きっと、マユミくんのくれたかったもの、ちゃんと受け取れてる」
「……そうか」
マユミくんはもたれかかるようにして僕を抱きしめる。いや、これもたれかかってるな。
規則正しい生活を続けていたであろうマユミくんはからだをぽかぽかにしながら眠そうな目をしていた。映画が終わって、集中が一気に切れたんだろう。僕はたまに夜更かしをすることもあるから平気だったけど、時計を見れば真夜中になってからしばらく時間が経っている。
「……寝よっか?」
「ああ……」
「ほら、寝ようね。ちゃんと立って……わ、」
ずる、とマユミくんが僕の膝に落っこちる。完全に眠ってはいないようだけど、起きているって呼べる状態じゃない。
「……まぁ、夜更かしの醍醐味なのかも」
そーっとマユミくんの下から抜け出して、ソファーにマユミくんを横たえる。勝手に持ってきていいのかわからないけれど、マユミくんの部屋から布団を持ってきてしまおう。
それとも、膝にかけていたブランケットだけのほうがそれっぽいかな。ブランケットをかけたマユミくんを見ながら、ぼんやりと冷え切ったポップコーンを口に入れる。
「……ふふ、風邪ひいちゃうよ」
あと五分。あと五分だけこの愛おしい人を見てから布団を取ってこよう。
前髪をそっとどけて額にキスをする。頭を撫でる。心音を聞く。僕だけのマユミくんを見つめたあと、目を閉じてあの海を思い出す。
きっと数十秒にも満たない時間だった。それでも、あの映画で体験したような、無限に引き伸ばされたと錯覚するような無音のなかに僕らはいた。永遠のことはわからないけど、それがこの人との間にあればいいと強く願う。
コップに残ったコーヒーをコーラで甘ったるくなった喉に流し込んで、僕はマユミくんの部屋に布団を取りに行くために立ち上がった。