プールに行こう「塩素の匂いがするね」
夏って感じ。そう続けるつもりだったけど、一瞬だけ停滞した空気に僕は口を噤んだ。性格──というよりも癖だろう。どうしても他人の顔色をうかがってしまう僕は、確かに雷斗くんの心が濁ってしまったことを感じ取った。
聞くべきか。会話を打ち切るべきか。「プールは嫌い?」と、たった一言でも聞ければいいのに。それでも、誰かの心に踏み込むのはとてもこわい。僕の声を遮るように、プールからは子供たちがハシャぐ声が聞こえてきていた。
知りたいけど、やっぱりやめよう。そう考えて会話を変える。
「……ねぇ、暑いからアイス買って帰らない? 僕はみかんの……」
瞬間、雷斗くんは射抜くような視線で僕を捉えて、言った。
「言葉、引っ込めんな。うぜぇ」
「あっ……」
そうだった。僕は人の顔色を伺うのがうまいけど、雷斗くんは同じくらい敏感に躊躇いとか、孤独とか、そういう心の弱い部分を見抜いてくる。息が詰まってしまった僕の目の前で、雷斗くんが大きくため息をついた。
「……別に怒ってねぇよ。堂々としてろってだけだ。俺はなに言われても気にしねぇ」
それって俺には何でも言えって言ってるようなものなのに、きっと雷斗くんにその自覚はない。そういうところが好きで、嫌いだ。僕は息と言葉を吐く。
「……プールは嫌い?」
雷斗くんは悲しそうとかじゃなくて、明日の夕飯を考えている時のような顔をした。数秒の沈黙を挟んで彼は言う。
「入ったことねぇ」
「え?」
「プール。入ったことねぇ」
雷斗くんは歩調を変えないからずっと僕の隣にいる。視線をやれば、金色の瞳が見えた。前を向いていた瞳が一瞬だけ僕を捉える、その瞳が「知りたいか?」と問いかけてくるように思えてしまった。
「……どうして」
聞くことを許されているだなんて、都合のいい錯覚かもしれない。それでも手の届く場所に、彼の孤独がある気がしてしまったから僕は言葉を紡ぐ。
「なんかあれこれ言われたが……青天霹靂のせいだろ」
「あ……」
「水は電気をよく通すからな。んなもんプールに放り込みたくねぇだろ」
実際に雷斗くんと一緒に入るのは怖い、嫌だと泣いた子もいたと彼は言った。そんな子供時代を過ごして、中学にあがってもそのままで。高校には行く気もなかったと言うのは前にも聞いたっけ。
「……じゃあさ、今度一緒に行こうよ」
「え?」
雷斗くんは一瞬だけ目をぱちくりとさせて、ほとんど反射のように口を開いた。
「俺は……っ」
そう言った瞬間、気がついたように黙る。彼が言葉を探してるから、僕は言う。
「……僕はキミが青天霹靂を持っていても、プールに誘ったよ」
雷斗くんは自分が無能力者になったことを口にはしない。きっとそれは彼のプライドのためで、雷斗くんが能力を失ったことを気に病んでる僕のためだ。
「行こうよ、プール」
楽しいよ。涼しいよ。気持ちいいよ。彼が取りこぼしたものを拾う手助けができるのなら、それは僕の心を慰める。自分勝手なお願いを僕は続ける。雷斗くんはそれを黙って聞いている。
「市営のプールに行ってもいいけど……学園のプールって一般開放してたっけな……」
行こうよ、ともう一度言った。雷斗くんはなんだか観念したように言う。
「……濡れんの、慣れねぇ」
「そうなの? ごめん……それじゃあプールは嫌だよね」
一瞬で申し訳なくなって、恥ずかしくなる。単純に濡れるのが嫌なだけならプールになんて行くわけがない。謝る声は小さくなってしまった。
「ごめんね……」
「……別に嫌じゃねぇよ。慣れねぇって言ってるだけだ」
「え? ……嫌じゃないの?」
「慣れねぇんだよ……それだけだ」
そういえば雨の日に雷斗くんを見ることはあまりない。水は雷斗くんにとって、拒絶の記憶と結びついているんだろう。やはり気にしてないように見えてもトラウマに近いものがあるのかもしれない。そう思った僕に雷斗くんが言う。
「……別にオマエが思ってるようなもんじゃねぇ」
珍しく歯切れの悪い雷斗くんの声。雷斗くんは一度だけ視線を地面に落として、小さく口を動かした。
「……ぇ」
「え?」
雷斗くんはもう一度小さく口を動かした。聞き取れなかったけれど、聞き返していいんだろうか。僕が困っていると、雷斗くんは焦れったそうに声を荒げた。
「……泳げねぇって言ってんだ!」
「あ……そっか、そうだよね」
考えてみたら当たり前の話だ。だってプールも──きっと、海にも入ったことがないんだもの。
「……笑いたきゃ笑え」
「笑っていいんだ」
「好きにしろ」
「笑わないよ。……ねぇ、泳ぎ方を教えるよ。だから、ね?」
僕は笑いながらねだる。雷斗くんは一言、「人があんまりいないとこなら」と呟いて歩を早める。
彼の小さな声をきっかけに、僕の世界に蝉時雨が戻ってくる。夏が来たんだと、強く思った。