旅路の果て 星を見て何かを思うことがなくなって十年近く経つ気がする。妹弟と見た星が一番記憶に新しくて、あとは星を見たという認識すらなく時折夜空を見上げることしかなかった。
だからこうやって星を見たのはひさしぶりだ。コイツが目を覚ますまでの──円城寺さんがこの公園に到着するまでの暇潰しみたいなもんだった。俺がコイツを起こすことができれば円城寺さんに手間をかけさせることもなかったのに、起きてる時は俺にしか興味がなさそうなコイツは寝ていたら俺を無視する。その身勝手さには腹が立つ。
整っているくせにバカ丸出しの寝顔から目を逸らして、地面じゃなくて空を見た。大きな星がひとつだけ瞬いていて、名前を知らなくても、隣に誰もいなくても、星はきれいなのだと初めて思う。星を強く意識した時、聞こえるはずのない声がした。
「ん……どっか、行くのか?」
視線をやれば、どうやっても起きるわけがないコイツがぼんやりとした目でこちらを見ていた。視線はとろんとしていて、端的に言えば寝ぼけている。関係ないと突っぱねることはできたはずなのに、その様子があまりにも子供のようだったから俺は声を返す。
「行かない」
ぼんやりと、コイツは口にする。
「なんで」
「……なんでって……理由がない」
そもそも、お前を迎えにきたんだ。お前が明日早いのに、円城寺さんの家に泊まらずに外でふらふらしてるから。
俺は別に言いたいことがないわけじゃない。でも俺は考えを言葉にして口に出すのが下手くそで、今考えたことを形にしようとした隙にコイツがもう一度口を開く。
「……星を見てたのに?」
「星?」
「星は行き先を決めるために見るもんだろ……」
親父が言ってた。コイツはそう言って目を閉じた。コイツはもう円城寺さんが来るまで目を覚まさなかったし、俺はずっと夜空を見てた。星は大きく輝いていたけれど、この光で行き先が決まるとは思えなかった。
***
事務所で行われたビンゴ大会の景品で人の頭くらいのプラネタリウムをもらった。電源をいれると、この細かく空いた穴から光が射して天井に星々が映るらしい。
まだ夜ではなかったけれど、夜は毎日やってくる。暗くなる前に解散したのだし真っ直ぐに帰ろう。そう思っていたらコイツと目があった。
「チビ、それなんだよ」
全く話を聞いていなかったコイツが言う。勝ち負けではないからビンゴ大会に興味を示さなかったコイツはさっきまでずっと寝ていたっけ。
「関係ないだろ」
「関係な……あ! さては食いもんだな!」
そう言ってついてくるコイツに「これは食べ物じゃない」と言わなかったのはなんでだろう。俺はコイツを引き連れて家に戻る。当たり前に上がり込んできたコイツが箱を開けようとするからそれを制した。
「おい、勝手に開けるな」
「うるせー。オレ様は腹が減ってんだよ」
それは食べ物じゃない。どうしたって俺はそれが言えなくて──いや、言いたくなくて、それでも嘘を吐く気はないから伝えたいことだけを伝える。
「……それは夜に開ける」
「なんでだよ」
「なんでもだ」
だってそれはプラネタリウムだから。やっぱり告げないまま、先に風呂に入るようにと促した。コイツが俺の家にくることは珍しいことだけれど、ありえないことじゃない。かといってコイツ専用のパジャマだとか、客用の布団なんかはこの家にはない。中途半端だ。コイツが来たって不愉快じゃないくせに、こうやって半ば騙すように家までの道のりで足取りを拒絶しなかったくせに、俺はコイツを懐にいれるのがどこか怖い。別にコイツを喰らいたいわけじゃないけれど、飲み込んだコイツに腹を食い破られるイメージが拭えない。物騒なことを考えていたら、シャワーの音が止んだ。
「水」
「髪が濡れたままうろつくな」
コイツは俺をこき使おうとしたくせに、俺が望む言葉を返さなかったら勝手に冷蔵庫を開ける。そうして勝手に俺の水をいつも通りに飲み干して、びしょびしょの髪のまま床に転がった。
「夜まで寝る」
「髪を乾かせ」
「別にいいだろ。布団には乗ってねぇ」
だからだ、と言えたらよかったのに。お前が髪を乾かせば別にベッドに寝かせてやったっていいんだ。それなのに、コイツは。なんだかひどく腹が立つ。
寝息を背に、コイツが開けたがっていた箱を開ける。まんまるくて黒い塊と、簡素な説明書が入っていた。
「……電池、いるのかよ」
俺は立ち上がって上着を羽織る。風呂に入る前でよかったと思いながら、財布を持ってコンビニまでの道を急いだ。なんだか、これをつけるのは今日でなければいけないと思ってた。
帰ってきてもコイツは寝てた。部屋はまたぼんやりと明るく、夕日に侵されてる。
電池のついでに買ってきた食い物を置いて風呂に入った。風呂からあがったって、髪を乾かしたって、見慣れた銀髪は硬い床の上を揺蕩っていた。
なんとなく、食べ物を冷蔵庫に隠す。パンなんかは固くなるんだろうけど別にいい。
「おい」
声をかけたけどコイツはやっぱり起きなくて、それが当たり前だ。無視してプラネタリウムに電池を入れて、部屋の電気を消してからスイッチを入れた。うっすらとした茜色を失って夜に染まりかけた部屋に星空が浮かぶ。きれいで、なんとなく虚しい。
薄暗い部屋の床に亡霊のような白さで浮かぶ男は生命が抜け落ちたようにくったりとしていた。普段は眠る時だって尊大でやかましいやつなのに、ときおりコイツにはそういう時がある。気を抜いているとかではなくて、『牙崎連』をやめてしまうときがコイツにはあった。
あの日のように、眠るコイツのそばで星を見ていた。偽物の星の中、一等輝く星は一番大きな穴から漏れただけのたんなる光だ。それでも、星を見ていたら、あの夜みたいにコイツは声をかけてくるんだろうか。
あと五分。五分経ってコイツが目を覚まさなかったらコイツを無視して飯を食おう。そう思った瞬間、潰れた猫の鳴き声みたいな音を出してコイツが目を覚ます。
「んぁ……ん? んだよこれ」
作り上げた星空を見てコイツが不思議そうな声を出す。
「プラネタリウムだ」
「ぷらねたりうむぅ?」
「星を映すんだ」
「ふーん……」
コイツは星を一瞥したが、すぐに興味が失せたようでプラネタリウムが入っていた箱を探す。そういえばコイツはあの箱に食い物が入っていると勘違いしてたっけ。「あ!」と声をあげるコイツが振り向いた時、なんだか笑いそうになった。
「チビ! てめぇ全部食いやがったな!」
「勝手に勘違いするな。その箱にはこれが入ってたんだ」
そう言って光を漏らす黒い塊を指差せば、コイツは訝しげな顔をしたあとに、すとんと感情を落としたような顔になって『牙崎連』をやめそうになる。
「星空、綺麗だろ」
だから、繋ぎ止める。
「別に。ってか、これどこの星だよ」
そうやって偽物の星を金色の瞳に映すコイツに冷蔵庫に隠した食い物を与えたってよかった。それなのに、俺はまったく別のことを口にする。
「どこの星だっていいだろ。ダメなのか?」
あの公園でのやりとりを思い出していた。きっとコイツにとって、星は愛したり、焦がれたり、見惚れたりするものじゃない。それでも、コイツの口からコイツが思っていることを聞きたかった。
「ダメってか、意味ねぇだろ」
こんなんじゃどこにも行けねぇ。コイツはそう言った。聞き間違いなんかじゃない。確かに、そう言ったんだ。
「オマエ、前にも言ってたな。星はどこかに行くためのものだって」
「はぁ? 言ってねぇし」
「言ったんだ。……オマエはどこかに行くときに星を見るのか?」
コイツは星を辿ってここに来たんだろうか。そんなお伽話みたいなことを考えながら問う。コイツは何も考えていないように、当たり前のように、息をするのと同じくらいの容易さで言う。
「星を見れば方角がわかんだろ。だから、どっか行くときは星を見るんじゃねぇのかよ」
「……そうか」
コイツには住所とか最寄り駅なんて概念はなくて、寒くなったら星に背いて歩けばいいくらいの感覚があるだけなんだろうか。それはなんだか似合いの気がしてきた。実際のコイツの活動範囲なんて、たかが知れてるのに。
コイツの行き先なんて寝床と、飯が食えるところと、アイドルでいられる場所。そして俺の目の前だけだ。そう俺が自惚れているのはコイツの行いのせいだから、ある種の自業自得がコイツにはある。
「……マジで、意味ねー……」
作られた星空から目を離さないまま、ぼんやりとコイツが呟く。
「これじゃどこにも行けないだろ」
「別にいいだろ。きれいなんだから」
そういって床に投げ出された手を押さえつけた。突然の接触に身を固くしたコイツを射止めるように視線で縫い付ける。
「どこにも行かなきゃいいだろ」
俺の家にいるんだからどこかに行くことなんて考えなくていい。口にはしなかったけれど、痕が残りそうなほど強く握った白い手から力が抜けていく様子は俺を満足させた。