あの子がほしい 最近、妙な視線を感じる。
確か小学校でのロケを終えたあたりからだ。あの仕事は楽しかった。子どもたちと追いかけっこをして、肝試しをして、一緒にカレーを食べた。そんな楽しい時間の直後からこの憂鬱だ。少し残念な気持ちになってしまう。
例えば仕事の帰り道。例えばレッスンに向かう途中。ロードワーク中にだって視線は感じていた。ヤバいなって思ったのは、最近は家でも視線を感じること。俺がいるところ全部に見ず知らずの視線があるのだ。
それでも俺は呑気に構えていた。というか、家まで視線がついてきたらお手上げだ。どうしようもない。ある種の諦めと、そのへんのやつになら勝てるという慢心があった。むしろこの視線が熱狂的なファンだった時のほうが問題だって思ってた。だって、殴るわけにもいかないし。いや、強盗とかだって殴っちゃダメなんだけど。
「……おい」
事務所への道。真横のコイツに問いかける。たいやきを頬張ったコイツが応える。
「んだよ」
「なんか、変な……こう……なんか感じないか?」
「あー、見られてんな」
やっぱりだ。コイツでさえわかるんだからこれはもう気のせいでは済まない。このままつけられていたら事務所の場所がバレて、いろんな人に迷惑がかかる。
「遠回りしてまくか。オマエは事務所にいけよ」
「あ? 意味ねえよ。おら、行くぞ」
意味がないっていうのはなんだろう。ああ、そういえばプレゼントとかが届くのは事務所だから事務所の場所ってのは調べたらわかるもんなのかもしれない。
「プロデューサーに相談するべきか……」
「だから、意味ねえって」
アイツは一回だけ後ろを見た。さっきまでたいやきが入ってた袋をくしゃくしゃにまるめてポケットに突っ込んで俺の手を掴む。俺はコイツに引っ張られて、事務所へと歩いていった
*
事務所にプロデューサーはいなかった。アイツはどっかに行った。円城寺さんはまだきていなかった。
「よう大河。なんだ、つかれてるな」
「葛之葉さん」
やってきたのはアイツでもプロデューサーでも円城寺さんでもなく、葛之葉さんだった。掃除の途中だったんだろう。ふさふさのはたきを持っている。
「……俺、そんなに疲れてるように見えるか?」
「ああ……いや、気づくやつなら気づくって程度だ」
「そうか……それならいい」
葛之葉さんとはあまり喋ったことがないけれど、確かに葛之葉さんは物事をよく見ている印象がある。だから俺の憂鬱にも気がついたんだろう。誰の目から見ても疲れているのは問題だが、きっと隠し通せてる。いや、そもそもげんなりしているだけで疲れてるってのはちょっと違うと思ったけれど、訂正するほどの違いじゃない。
「おい掃除屋! オレ様を置いてくんじゃねえ!」
相変わらずのデカい声だ。騒音の主は葛之葉さんの影に俺を見つけて、ちょっと驚いてみせた。なに驚いてんだよ。オマエと一緒にここまで来たんだろうが。
「ああ、別に問題ないさ。牙崎の言ったとおりだし、やり方もわかったろ?」
「……言ったとおり?」
「お前さんがつかれてるってことだ。ま、ここにいれば問題ないさ」
頑張れよ。そう言い残して葛之葉さんはどこかに行った。コイツは向かいのソファに転がり、数秒後には眠っていた。
*
男道ラーメンでたらふく食った帰り道。コイツが俺の家までついてきた。コイツが家に来るのは別に珍しいことじゃない。でも、理由はそれなりに気になるもので。
「……なんで」
コイツは少ない言葉で俺を理解する。いや、理解しているように見える。
「チビがつかれてるから」
なんだか、気を使われているらしい。普段なら気にするなと言いたいところなのだが、
「それに……いるだろ」
「……やっぱりいるよな……」
そう。視線を感じるのだ。男道ラーメンから、ずっと。
この騒動に人を巻き込みたくない。でも、コイツは例外、みたいな気持ちがどっかにある。それに今まで実害は出てないし、きっと大丈夫。誰もいなくていいけれど誰かがいたらいいなって思ってたからちょうどよかった。迷惑をかけていい人間なんてコイツ以外にいない。適任だ。
*
「チビ、つかれてんぞ」
「……理由、わからないか?」
晩飯は食ったから交互に風呂に入って、のんびりテレビを見てたんだ。それでも俺はちょっとげんなりした。やっぱり誰かに見られてる。
「……見られてんな」
コイツはテレビじゃなくて、ぼんやりと部屋のすみっこを見ていた。俺はテレビを見ながら、それなりに警戒する。カーテンは閉めているのに気配がある。見られているという確信があった。
カーテンを開けようか。いっそ、出会ってしまいたい。正体さえわかればスッキリする。わからないことってのは、怖い。
「うっぜえな」
「カーテン、開けるか? そんで、警察に引っ張って……」
「カーテンもなにも、そこにいんだろ」
会話の間、コイツはずっと部屋の隅を見ている。なんというか、猫がへんなとこを見ているようなアレに似てる。目を逸らさず、猫が虚空に鳴き声をあげた。
「諦めろ」
それきり、俺の六畳一間は沈黙に支配される。視線を感じない代わりに、確かに何かの存在を意識した。
すっと、コイツが近寄ってくる。その仕草も猫に似ていた。
「話、あわせろよ」
コイツの口から出てきたと思えないほど小さな声。戸惑っていると、コイツの腕が俺の背中に回った。抱きしめられている。何が起きているのか、よくわからない。
コイツは俺を見ていない。相変わらずなにもないところを見ながら、威圧するような声で喉を震わせた。
「もう、オレ様のもんだから」
は? という言葉を飲み込むのに労力を使ってしまったから表情まで話をあわせられたかはわからない。話をあわせると、俺はコイツのものになるようだ。意味がわからない。そもそも、コイツは誰に向かって言ってんだ?
今度の沈黙は長くなかった。勝ち誇るようにニヤリと笑ったコイツは偉そうに宣言する。
「チビだって、オレ様がいればいいんだよ」
そうだろ、と俺に向けられた声は優しかった。そうだって咄嗟に返せなかったのは、どうしても必要な人の顔を忘れたことがないからだ。
たった二人の兄弟だ。アイツらがいないと、ダメだ。それに、円城寺さんもプロデューサー、みんなが俺には必要だ。もちろん、きっと、コイツのことだって。
必要に、なってしまった。
俺にはずっと求めてるものがあって、失えないものも増えた。それでも、嘘でも、言わなくてはいけないんだろう。
「……俺だって、コイツがいればいい。コイツは俺のモンだから」
コイツだけじゃダメだ。だから、嘘だ。でも、コイツが俺のものなら。それは願望だ。
体温が混ざり合うくらい抱きしめあっていた。ふと、気配が消える。
「……ったく。変なもん連れてきやがって」
「……えっと、つまり」
「小学校のやつじゃねーの?」
小学校。肝試し。七不思議。
気をつけろよ、と努力ではどうにもならないことを求められる。努力なら得意なのに。
「どうやって気をつけろってんだよ……」
「あ? チビには気合が足りねえんだよ」
つまり最初からコイツには見えていたんだ。きっと言わなかったのは、俺が何も言わなかったからだろう。あの日の問いかけがなかったらコイツは未だに事態の深刻さに気づかず、俺は精神を摩耗させていたに違いない。
「……よく祓い方がわかったな」
「掃除屋に聞いたんだよ……ま、追っ払ったのはオレ様だがな! オレ様に感謝しやがれ! くはは!」
なんで葛之葉さんが出てくるのかはわからないが、俺をこの視線から開放するためにコイツが動いてくれたことは事実のようだ。今度チャーシューでもやろうと思うが今までに奪われてきた味玉やチャーシューを考えると、別にいいかって思えてしまう。まあ、今度たいやきを買ってやろう。
悩みのタネが消えたから、これでぐっすり眠れそうだ。コイツはやりとげた顔をしてベッドに転がっている。俺も眠ろう。
功労者にまくらは譲ってやった。タオルケットははんぶんこだけど。
*
「……いや、オマエよくあんなことが言えたな……」
眠っていた。はずだった。しかしぼんやりと暗闇に身を委ねていると、先ほどまでの不可思議な出来事をどうしたって思い出す。そうすると、必然的に抱きしめあった体温だとか、今から考えるとすごい内容のセリフとかを思い出してしまう。
返答はなくたってよかった。いつもどおり眠っていてくれてよかった。それなのに、暗闇からは声がする。
「あ? 別に、チビはオレ様のモンだろーが」
オマエ、寝てないのかと問いかける。コイツ曰く、どうやら今日はまた変なものがこないかを見張ってくれているらしい。
「……別にいいけど。オマエ、自分がなに言ったのかわかってんのか」
「あ?」
あのあと、否定がないのがよくなかった。これは演技だと、言ってくれないのが悪い。いや、俺だって演技だって言ってないけど。
「……あれだと、俺はオマエのモンだし、俺もオマエのモンなんだが」
俺がこの言葉を否定できないのは、なんでなんだろう。
「……はぁ!? べ、別に……そういうんじゃねえし!」
俺があの言葉を否定しないのは、なんでなんだろう。
「とっとと寝ろ! バァーカ」
会話が打ち切られたから、否定されなかった言葉が勝手に動き回って肺をかき回す。コイツはあのとき、どんな気持ちであんなことを言ったんだろう。俺はどうなんだろう。あの言葉を口にしたときの、俺の気持ち。
でも、考えてしまったら止められない。俺にはすべてが嘘だと思えないんだ。コイツの言葉も、俺の願望も。
気づいてしまった。コイツのことが、ほしいだなんて。