あながち悪くない「バカらし」
甘酒を飲みながら漣は呟く。その声のトーンは呆れを通り越して、侮蔑の色が滲んでいる。
タケルはその言葉を諌めようとした。少しばかり感情が喧嘩腰になっていたから、否定したかったと言っていい。ざわめきの中でその言葉を聞いていたのはタケルと道流だけだったけど、きっとその言葉で傷つく人間がいるとタケルは感じていたからだ。
初詣は人ばかりで駆け出しのアイドルが三人揃って歩いていても誰も気がつくことはない。三人は配られていた甘酒を飲みながら歩いていた。そこかしこで甘酒の匂いと冬の匂いがする、雪のない、星のきれいな夜だった。
がらごろと、鈴が鳴る。道流の手によって、それに倣うタケルの手によって、神様を振り向かせるように鈴が鳴る。おい、という声に急かされてなお、漣の手は鈴を揺すろうとしない。漣はこの場から離れたかったが、すっかりお見通しの二人に両側をガッチリと固められていた。道流が言う。「なあ、何がそんなに嫌なんだ?」
嫌とかじゃねえ。バカらしい。やる意味がないんだ。漣は溢した。
「神頼みなんてバカらしいんだよ。オレ様は神がいようがいまいが、頂点取ってやるっての」
その言葉はタケルの心を揺らした。そうじゃない、と言いかけて、うまい言葉が見つからなかった。違う、違うんだ。俺だって神頼みをしているわけじゃない。だけど、ではこれは何だと聞かれると何も言うことができないのだ。
タケルの言語化できない気持ちを汲み取ったのか、漣の頑なさを解こうとしたのか、道流がニコリと笑っていった。
「こういうのはな、神さまに頼むわけじゃない。ずっと見守っていてくれる神さまに、誓いを立てるんだ」
その言葉を聞いてタケルはなんだか安心をした。これは見えない存在に縋るわけでも、まして運命なんてものを信じそうになったとき、薄ら暗い感情を向けてしまいそうになる存在を許す場でもなかったんだ、と。
漣は鈴を鳴らさなかった。一言大声を出して、するりと道流のわきを通り抜けて雑踏に消えた。二人はそれを追うことはしない。本気で逃げられたら、自分たちの力では彼を捕まえることなどできない。
「せーぜー、勝手にそっから見てろ!」
タケルは漣の最後のセリフを覚えている。
*
「円城寺さん」
「ん? どうした、タケル」
神さまのお城から遠ざかるに連れて人がまばらになっていく。離れて、離れて、二人が分かれる十字路には誰も居ない。
「俺、頂点取るから。三人で、絶対」
タケルは今この場にいない人間のことも口にした。どんなに言い争いが多く、どんなに衝突が多く、どんなに競い合う相手でも、目指す場所は一緒だとお互いが誰よりわかってる。
すっ、とタケルが拳を差し出す。道流はそれを見ている。
「円城寺さんは俺の……俺たちのことをずっと見ててくれるから。だから、円城寺さんにも、誓い」
「……そうか。じゃあ、自分もタケルに誓うよ。自分たち三人……いや、プロデューサーと四人で、必ず頂点を取ろうな」
タケルの拳に道流のそれがぶつかる。「漣がいたらよかったな」と道流は言った。タケルは肯定したくなかった。否定など、できるわけもなかった。
*
「チビ、約束とか誓いとか、好きだろ」
唐突に投げかけられた言葉にタケルは反応できなかった。季節はアイドルになってから六度目の冬で、仕事は劇的に増えて、変装なしでは出歩けなくなって、二人は二回だけキスをした。好きだとか、愛だとか、なんにもわからないままで、何度もこの狭い部屋で触れ合った。
「なんだよ、突然」
タケルは誓いとか約束とか、そういうものに対する好き嫌いをここで初めて考えた。好き、ではない。嫌い、でもない。ただ、幼少期に得た約束は暗闇での光だった。あの日、十字路で捧げた誓いは道標だ。約束が人を救うことを知っている。
悪感情はない。約束をしようと言われれば、よほどのことでない限りは断らないだろう。でも、それを『好き』と言えるだろうか。考え込んだタケルの唇に、ふいに漣のそれが触れた。それが三度目のキスだった。
「……何してんだよ」
唇の温度を拭い去って、視線で黄金色の月を射抜く。だが、漣が怖気づくことはない。
「こういうことされるの、嫌じゃねえんだろ」
「別に。勝手にしろって思うだけだ」
一度目の口づけはタケルから。二度目の口づけは漣から。三度目の口づけは今、漣から。挨拶でもなく、親愛を示すわけでもなく、まして情欲を煽るためでもない、肉体的接触。
「じゃあこれが『チカイのキス』だったら?」
「は?」
思考はクエッションに埋め尽くされる。バカ面、と漣が揶揄する表情はたしかに呆けていて、開いた口は動かない。
「……あー、ばからし」
仕掛けたくせに全部投げ出して漣はごろりと転がった。テレビからは無作為に集められた男女が言い争い、騙し合い、罵り合い、などなど。こういったものに約束は簡単に否定される。好きとか嫌いとかではなかったけれど、それがタケルには少しだけ辛い。
誓いのキス。結婚という約束。
少しだけ羨ましい気もする。だって、結婚って約束をしたら、もうひとりぼっちにはならないんじゃないかって気がしてる。現実はそんなに甘くないけど、例え一度でも『永遠に貴方といたい』と言われたら。
三度目のキスが誓いのキスだったら何が変わるんだろう。タケルは漣が自分から離れていくところを初めて想像した。それくらい、この存在は自分のそばにいると思いこんでいた。
愛しいとか、手放したくないとか、触れたいとか。こんなことを考えるのに、まだ好きとか嫌いとかになれない。そんな曖昧な存在、そのさらさらとした銀の髪をそっと撫でる。柔らかくまっすぐな髪の毛はタケルのそれとは違う。こんなにも細い、床に落ちていたらゴミとして処理されるような存在ひとつとっても、二人はどこまでも他人だった。
漣は触れた瞬間にぴくりと肩を震わせたけれど、タケルの好きにさせていた。タケルは四度目の口づけをするために、少し強引に漣を振り向かせる。
「チビは何を誓った?」
「え?」
「神ってやつに」
色素の薄い唇は、触れ合う前に言葉を溢す。タケルはとっさに答えることができず、目をぱちぱちと動かした。
「…………頂点、とるって」
十二分に息を吸ってタケルは答えた。本当は離れている妹弟のことも見つけると神に宣言したが、それを言うには説明しなければいけないことが多すぎたので彼は口をつぐむ。
「じゃあ、オレ様に何を誓う?」
「……はぁ?」
オマエは神じゃないだろ。タケルの言葉に漣は全く同じセリフを返した。オレ様に、なにを誓う、と。
返せるものは何もなかった。けれども、何もないだなんてどうしても言えなかった。への字に閉じた唇に、五度目のキスが与えられた。
漣は何も言わない。これが誓いのキスだったら、とも言わなかった。タケルはぼんやりと口づけの意味を考える。約束のことを考える。
誓えることってのは何なんだろう。愛も、瞳も、誓えやしない。
「……誓いのくちづけができるなら」
もう二度と、ひとりぼっちにならなくていいなら。
「俺からもう一度キスがしたい。ずっと一緒にいたい。でも、ダメだ。なんだか、オマエを利用してるみたいじゃないか。俺、たまにわかんなくなる。俺はもうひとりぼっちは嫌で、でも本当に一緒にいたい人はもう決まってるんだ……決まってなきゃ、ダメなんだ」
「……バカらし」
あの日、神様を見放した時と同じように漣は呟いた。
「約束が大好きなくせに」
タケルには心当たりがある。今まで自分を支えてきた約束を裏切れない。
「…………できない約束はしない。一生一緒とか、そういうの」
だから、くちづけはできない。かろうじて、それだけを口にした。
「バァーカ」
四度目のくちづけは痛みを伴った。キスと言うには乱暴に噛み付いて、漣は言う。
「チビはオレ様がぶっ倒す」
それまでずっと一緒だと。
「せいぜい頑張れよ。チビが負けなきゃ、ずっと一緒だ。簡単だろ?」
だからそのダセえツラをなんとかしろ。そう言って漣はもう一度くちびるを重ねた。優しいキスだった。
「誓ってやるから」
誓いのキスは何の味もしなかった。テレビ画面では騙された女が首を吊っていた。