ワンダーランド 大変だ。どうやら俺は漫画の世界に迷い込んだ。
とんでもなくバカげていて、突拍子もないことだとわかっている。夢みたいな世界。でも夢にしてはちょっと長すぎなんだ。
ここは現実に限りなく近い。ただ一点だけがおかしくて、他におかしなところはない。妙にリアルで、でも夢としか思えない世界に俺はいる。流石に一週間もこの世界にいると現実がおかしくなってきたような気分になったので、俺は異世界に迷い込んだことにした。
今日も日が昇る。俺はロードワークに出かける。悩みの種が俺を追いかけてくる。
「おいチビ! 無視すんじゃねえ!」
振り向かなくても誰だかなんて一発でわかる。それでも俺は振り向く。すると、自分で呼んだくせにコイツは少し驚いてみせる。そのちょっとだけキョトンとした表情の横に、小さな『!』マークが浮かんだ。
比喩ではない。俺には空中に、本当にそのマークが見える。
まるで漫画だ。これがこの世界にどうしても馴染めない理由。唯一の異常。
何も世界の全てがこうなってしまったわけではない。ただコイツだけがこんなおかしなことになっている。
「……断る。勝手にやってろ」
そう言って、目線はあわさないようにして様子だけを盗み見る。日によって変わるのだが、今日は頬の横に『カチン』と書いてあった。これは、極稀にだが『シュン……』になったりする。表情はおんなじなのに、それだけでちょっと罪悪感が生まれてしまうから、やりにくいことこの上ない。本人が気がついてないから、なおさらだ。
意識して日常になった非日常を頭から追い出して走る。ジョギングのいいところってのは頭をからっぽにして走れることなのに、どうにもコイツのことがチラついて仕方ない。モヤモヤしたまま、俺は走る。コイツの声を無視して走る。
いつもの公園についた。五分もしたらまた来た道を戻るのだが、まずはコイツの相手だ。コイツの息はあがっているが、それは決してコイツの身体能力が俺に及ばないから、というわけではない。単純に、コイツが常に俺に対してギャンギャンと騒ぎながら俺と同じペースで走ってきたからだ。むしろ、息切れだけで済んでいるのはすごいと感心してしまう。
「……おい」
俺は優しい。コイツはバカだから飲み物を持ってない。ペットボトルを差し出すと、コイツは不機嫌そうにそれを受け取った。
そう、不機嫌そうに、だ。だがそれは表情の話。コイツの横には『ぱぁぁ……』という文字が浮かび、なにやらきらきらとした線がコイツを取り囲む。そのせいで、わかってしまうのだ。コイツ、実はすごく嬉しいんだ、って。まぁ、そのあとに『ドヤ!』という文字が見えて、コイツは当たり前のように水を飲み干すのだが。
コイツは単純なやつだからわかりやすいけど、わかりやすいこととわかってしまうことは違う。なんだか秘密を暴いてしまったようで、ドキドキする。感じる必要のない申し訳無さと、罪悪感と、感じるわけもない『少しかわいいかも』だなんて気持ち。どれもコイツに抱いたことのない感情で、俺はどうしていいかわからない。
コイツが飲み干したからっぽのペッドボトルを受け取って、俺はまた走り出す。近頃は公園にゴミ箱がなくて不便だな、だなんて思っていたら、コイツのそばにピコン、と電球が浮かんだ。なにか、企んでいる。
「おい! チビ!」
「断る」
また浮かぶ文字。『ムカッ』って。それを振り切るように走り出す。勝手にやってろ。俺は知らない。オマエの気持ちなんて。
「待て!」
追いかけてくる。きっと、いろんな感情をバラまいて追いかけてくるんだ。
平然を装ってペースを崩さず走る俺と、全力のアイツ。思い切り肩を掴まれて、俺は観念して後ろを向いた。
バチリと交わった視線。その瞳に浮かんだキラキラとした光。周囲に溢れる星の欠片。
なあ、俺はどうしたらいいんだ。
この世界が漫画の世界なら、とっととハッピーエンドにして俺を元の世界に返してほしい。
俺とコイツのハッピーエンドってのがなんなのかはわからないけど、決して二人でハッピーエンドを迎えることは不可能ではないはずだから。