Is romantic a fake1
もともと情に近いものはあった。愛情とも、友情ともつかない気持ちが。
僕はチームのメンバーが好きだ。キールは気が合わないだけで嫌いではない。ミハイルとだって仲良くやれていると思いこんでいた。ユーリーだって大切なメンバーだし、リーダーのことは自分がその立場になって改めて尊敬の念を抱いている。当然、ダニーのことだって大切だ。みんなが好きだ。でも、ダニーだけが特別になった。
なぜだろう、と思う。当然だと気づく。必然が手のひらにある。たくさんの理由があって、僕はそのうちのいくつかだけを知っている。
僕はダニーと組むことが多かった。守られることが、多かった。
どうしたって僕の身体能力には限界があって、僕の命には責任がある。状況によっては僕の代わりに危険を引き受ける人間が必要で、そこに僕の意志が介入する余地はない。そして、その役目を背負うのは大抵がダニーだった。
ダニーに対して、気持ちがある。顔だとか、声だとか、笑顔だとか。そういうのはこの気持ちが生まれて初めて愛しいと思った些細なことだ。ダニーが特別になった日、そのすべてをいとも簡単に好きになった。自分のものにしたいわけじゃない。でも、自分のものになる未来を少しだけ考えてしまうような、紅茶に溶かしてしまいたくなるような、舌に残る気持ちを持て余して息をしている。
恩だとか、後ろめたさだとか、過ごした時間の長さとか。ああ、吊り橋効果というものも聞いたことがある。この胸中に渦巻くものが、それくらい簡単なものならいい。アドレナリンの働きで、少し心が揺れただけだったらいいのに。脳内麻薬が切れるまで、愛想笑いで逃れ続けていられたら。それなのに。
僕と世界が変わった瞬間に確信がある。青い髪をたなびかせて僕に向けられた銃口を遮った背中。その腕から散った血がパッと舞ったときにダニーは特別な存在になった。それは彼の命が僕に捧げられていたと勘違いするには充分な光景だった。彼の心は見えないまま、命の欠片が、その残滓が目に焼き付いた。彼が誰とも違う存在になった日は、きっと単純すぎて理解が及ばない。僕にとってその血液は、ともすれば粘膜を重ねる行為よりも意味があった。あんなの、ただダニーは職務を果たしたにすぎないのに。
僕は恋を知らないわけではない。ただ、これを恋と呼ぶにはあまりにも身勝手だと、僕の足は竦んでいた。
2
ミハイルが死んでから僕の部屋にダニーがやってくる頻度が増した。理由は簡単、僕が誘うからだ。
仕事に支障を出していない。とはいえ、ミハイルが死んでからダニーは明らかに憔悴していた。僕から見ても、キールから見ても、まだ過ごした時間の浅いユーリーから見てもダニーはつらそうだった。一度、ふと振り向いたときに誰かの名前を呼びかけたところを見た。その視線の先に望んだ人がいなくて泣きそうな顔をしたダニーの悲しみを、僕はずっと覚えている。
酒を飲まないかと声をかけたのだ。酒がダニーを慰めることを期待していたわけじゃない。僕がダニーと一緒にいたかっただけだ。ダニーが少しでも笑ってくれたらと身勝手な望みを押し付けていた。まるで弱さにつけこむようだと自嘲しながら、それでも僕の力でダニーの気持ちが楽になればと願っていた。
僕は酒に強い。ダニーは強くはない。だから、でも、僕たちは酒が好きだ。僕は単純に味が好きで、ダニーはふわふわするから好きだと言っていた。誰かと飲むのが好きだ、そうダニーが目を細めたとき、ダニーの横には僕とミハイルがいたのに。そうだ、ミハイルも酒が好きだったんだ。いつ死ぬかわからない世界で三人で酒を飲む時間は幸せだった。いつ、誰が死んだっておかしくなかった。でもこんな終わりなんて、考えもしなかったじゃないか。
空席を無視して僕らは飲んだ。ダニーは面白い酔い方をするわけじゃない。ただ、笑顔が少し幼くなる。ダニーは海のような瞳を細めて「酔ってきた」と笑う。そういえばミハイルは意地でも「酔った」とは言わなかった。そんな些細な思い出話すら、僕は口にすることができない。僕がミハイルのことをなにも言えなかったのは臆病だったからだけど、ダニーが彼のことを口にしなかったのには理由があった。そのワケを知ったのは少し後になってからだ。
僕の記憶力は良い。異変に気がついた日はしとしとと小雨の声がやまない静かな夜だった。僕の部屋で二人きり、僕が選んだソファに腰掛け、僕の気に入っている酒を飲んで、僕に向けて笑うダニーはいつもどおりに見えた。
ダニーはミハイルの話をしない。仕事で必要なとき以外は、意識して言動の外にミハイルを追いやっているように見える。僕の部屋でくらいはそんなことをしなくてもいい。ミハイルのことを嘆いていいんだ。そう思っていた。
ダニーの、この言葉を聞くまでは。
「このチョコレートおいしいな。……ミハイルのぶん、もらってもいいか?」
「……え?」
この日はウイスキーを飲んでいた。カラコロとグラスに揺れる氷を浮かべた琥珀色の液体は、遠い東の国で作られたのだと聞いている。よいウイスキーを手に入れたから、ほろ苦いスイートチョコレートを街で有名な店から買ってきたんだ。ダニーは甘いものが好きだから、きっと喜ぶと思って。
そのダニーがチョコレートをつまみながらそう言った。ミハイルにもこれを食べさせてやりたいと。
僕の表情から、僕の感情を読み取ったつもりなんだろう。ダニーは思い至ったように、てんで見当違いのことを言う。
「ああ……ミハイルはああ見えてチョコレートが好きなんだ。こういう甘みの強くないチョコレートは特に。意外だろ?」
まるでミハイルが生きているような口ぶりだった。ミハイルは死んだ。仕事柄、また彼が裏切り者であることが理由で、墓を建ててやることすらできなかったというのに。
「……ミハイルに、やるのか」
言葉を振り絞るのに少しだけ時間がかかった。
ダニーはもう一度、僕の感情を取り違える。
「……ダメか? ああ、でも、おれのためにレナートが用意してくれたものだもんな」
「違う!」
別に、ミハイルに何をやったっていい。ミハイルがこの場所にいたっていいんだ。裏切ったことが許せずとも、それでも同じ場所にいられたら。僕に怒られて、キールに呆れられて、ユーリーに怖がられたって、ダニーのことを悲しませないでいてくれるなら、なんだっていいのに。
それなのに、ミハイルはもう、いないんだ。
「……違う。ダニー、違うんだ……」
記憶に障害が出ている。ダニーの記憶か、はたまた僕か。僕が狂っているのだとしたらどれだけ幸福なのだろう。扉を開けて、僕らはチョコレートを持ってミハイルの部屋に向かう。ミハイルは少し驚きながら迎え入れてくれて、「おい、よくも仲間外れにしてくれたな」と怒るふりをして笑う。そんなミハイルをなだめながら三人で飲み直すんだ。
でも、現実は違うんだ。僕は僕を疑えない。だから言い出す言葉は望み通りにはいかないんだ。それなのに。
「……じゃあ、いまから届けてやるか。きっと、喜ぶ」
それでも、ダニーを否定することができなかった。ダニーはパッと笑って立ち上がる。
「三人で飲みなおそう。……キールとユーリーは呼んだほうがいいか?」
ユーリーのことをダニーは覚えていた。ミハイルの死と入れ替わりにイグニスの一員となった彼のことを。
不思議だ。ダニーの中ではユーリーの存在とミハイルの死が同時に成立している。水の中で燃えるロウソクのようなあまりにも危ういゆらめきは、紺碧の瞳に陽炎のような熱を灯していた。
「……あんまり大勢で飲むこともないんじゃないか?」
「そうだな。おれはレナートとミハイルの三人で飲みたい」
決まりだ。僕たちは部屋を出る。ダニーは部屋を出た瞬間、不思議そうに呟いた。
「……え? なんだ……このチョコレート」
扉を開けて、部屋から一歩、踏み出しただけだった。ダニーは今までの経緯すべてを忘れたように、手元のチョコレートを眺めて呟いた。
「チョコレート? なんで……酔ってるのかな、おれ。なぁ、レナート」
へんなことしたら止めてくれよ。困ったように、照れたようにダニーは口にする。僕は確信に触れられず、嘘を吐いた。
「いや……これを夜食にすると言ったのはお前だ。変なことはしていない。だが、相当酔っているようだな」
うまく笑えなかった。交渉担当の肩書が聞いて呆れる。それでも酔ったダニーは僕の表情と言葉をひとつも疑わず、こくりと頷いて微笑む。しかし、その笑みには明らかに困惑が滲んでいた。
「そうか……サンキュ。でもこれだけ酔ってたら飲み直すのは無理かな……欲しいと言っておいて悪いけど、返す。レナートはまだ飲むんだろう?」
チョコレートは溶けていない。この甘ったるいお菓子がどろどろに溶けて、甘い香りでこれが夢だと教えてくれればいいのに。
「……そうだな。飲み直す。ダニー、お前は眠れ」
「そうする。今日はありがとう」
また飲もう。背を向けたダニーに告げる。ちゃんと笑ったのに。笑えたのに。
「……なんだか、ミハイルが死んでからずっと、おれはレナートに甘やかされてる気がするよ。……ありがとう」
背中越しの言葉。ダニーはミハイルの死を理解していた。
一人になった部屋は、どこか冬の匂いがする。先程までのやりとりが冷たくなって、さながら死体のようだった。
手にとったチョコレートは先程と変わらずに甘くなめらかに溶けていく。それを流し込んだウイスキーが僕を酩酊させてくれないことを、この日はじめて恨んだんだ。
3
分析、解析。キールの得意分野だろう。でも僕はキールだけではなく、この異常事態を誰にも相談できなかった。
あのあと何度かダニーと飲んだ。僕の部屋でも飲んだしイグニスの談話室でも飲んだ。それだけで、いくつかわかったことがある。
まずひとつ。ダニーは僕の部屋でだけミハイルの死を忘れる。
酒が入っているかどうかは無関係だった。飲む前だろうが飲んだあとだろうが、僕の部屋でミハイルのことを話題にすると、まるでミハイルが生きているかのような言葉が返ってくる。談話室ではそんなことはなかった。条件は僕の部屋、それだけだろう。
ふたつ。ミハイルが健在だった頃まで記憶が退行しているわけではない。ダニーの中ではユーリーの記憶も存在している。その日の任務もしっかりと覚えているのだ。ただ、そこにミハイルの記憶が足されている。起きているのは記憶の退行ではなく、改ざんだ。
みっつ。ミハイルに関する記憶は都合のよいように形を変える。会話内容に齟齬が生まれた場合、ダニーはその場その場の整合性を取ろうとミハイルの行動や心情を作り上げていく。そして、都合が悪ければ僕たちとの記憶ですら歪めてみせた。
僕にはこれが不幸なことなのか、わからなかった。
ダニーは部屋でならミハイルの死を忘れて笑っていられる。部屋を出れば理由なんて忘れてしまう、刹那の安らぎだ。それを壊していいとはどうしても思えない。ダニーは酒を飲んだ。飲まない日もあった。ゆったりと、僕と笑いあった。
ダニーと二人ですごす時間が増えていくことは後ろ暗い喜びになって僕の胸に吹き荒れる。まるで春の嵐だった。僕の前でダニーは笑う。こんなことを続けていてダニーの脳に影響はないのか。ダニーを騙してやいないか。僕のエゴなのではないか。どんどん、僕の脳が鳴らす警鐘は煤のように鈍っていく。
「レナートと二人で居ると気分が落ち着く。なんでかよくわからないけど、安心する」
部屋の外で言われた言葉だ。僕の部屋に来ることはつらくないか。そう聞いたときに、ダニーがひだまりのような笑顔を見せた。
「きっと、おれはレナートのことが好きなんだな」
それは僕を突き落とすのに充分すぎる言葉だった。そんな勘違いをさせてくれたら、どれだけよかったんだろう。
ダニー。それは違うんだ。僕と一緒にいるからじゃない。僕の部屋がもたらす不思議な力が君を救って、濁らせている。
「……今夜も、行っていいか?」
断らないと。それなのに言葉がひとつも出てこない。喉が詰まって、鼻の奥がツンとした。ああ、僕は泣きそうなんだ。でもそれはダニー、お前に感じる後ろめたさだとか、息苦しさだとか、好きだとかいう感情の全部がないまぜになって、僕の肺を勝手に毒で満たしているんだ。だから、お前のせいじゃない。それなのに。
「……わるい。おれ、レナートに甘えてばっかりだ」
あのときチョコレートを手にして途方にくれていた夜と同じことを呟いて、悲しそうにダニーは眉をさげた。
「違う……!」
僕は他人の体温が苦手だ。それなのに僕はなんのためらいもなくダニーのことを抱きしめていた。肩に頭を置いて、泣きそうな表情を夜の海から隠すように。
「……レナート?」
「……絶対に勘違いしないでくれ、ダニー。僕はお前のためなら、できることなんだってしてやりたい」
特別だと言えなかった。それでも伝わったのだろうか。僕は困惑するダニーにもうひとつ、告げる。
「甘えてくれ」
嘘はない。ようやく目の奥から涙がひいて、僕はダニーのからだを開放する。見つめ合った瞳は穏やかで、ずっと朝焼けを待つ夜のようだ。
「……やっぱり、おれはレナートのことが好きだと思う」
それじゃあ、夜に。
遠ざかっていく背中にすがりつきたかった。その胸に爪を突き立てて、叫びたかった。
感情のまま、ただ謝りたかった。お前に秘密があること。お前に感情があること。
お前とは違う、好きがあること。
4
「レナートが好きだ」
名前の知らない花が蕾から美しさを広げてから少し。風の色が変わった頃、ダニーがそう言った。
「……ありがとう。僕もダニーのことは好きだ」
その言葉に他意がないことはわかっている。でも、ダニーの声色は僕が勘違いするには充分すぎた。勝手に期待して勝手に失望する、滑稽なルーティン。わかっていても心は揺れる。ダニーの声に、指に、瞳に、唇に。
「……きっと、おれの『好き』はレナートの言う『好き』とは違う」
「こっちのセリフだ。ほら、遊んでないで行くぞ」
「任務のあとなら聞いてくれるか?」
ダニーが強い力で僕の腕を掴む。小動物の首くらいなら折れそうな力に思わず声が漏れた。それでも、腕よりも心のほうがずっと痛い。
「そうだな。任務前にする話じゃないだろう。……なんでこのタイミングで?」
「いつ死ぬかわからないから」
ミハイルみたいに。
ダニーの瞳から星が消えて、冷たい夜が来る。まだ流れてもいない血の匂いがした。
「レナートが好きだ」
僕らは今日も生きていた。報告を終えて、夕食を終えて、キールやユーリーが部屋に帰るのにあわせて戻った僕の部屋の前で、追いかけてきたダニーがもういちど僕の腕を掴んだ。ぎし、と骨が悲鳴をあげる。
「……僕も好きだ」
でも、言葉の意味がきっと意味が違う。そう告げる前にダニーは距離を詰めて僕に手を伸ばした。とっさにその小柄なからだに手を伸ばして、接触を拒む。
「……吊り橋効果、そしてミハイルを失った穴をいま、たまたま僕が埋めているだけだ。僕はお前が好きだからお前に優しくする。ダニー、お前はその優しさを刷り込まれて、勘違いしている。……雛と同じだ」
騙したってよかった。心の傷につけこんだってよかった。それでも突き放したのは精一杯の誠意からだ。僕には秘密がある。これ以上抱えきれない。必死にその体温を手放した。
「それの何が問題なんだ?」
それなのに、ダニーの言葉はシンプルな疑問だった。否定も肯定もなく、僕に不思議そうな目を向けている。
「おれは悲しくて、レナートが優しくしてくれてうれしかった。いまレナートがおれを好きって聞いて、うれしかった。おれが悲しいことも、レナートが優しいことも、なんにも悪いことじゃない。だろ?」
あっけにとられるというのはこういうことかもしれない。なんだか、笑ってしまいたくなった。あの不思議な部屋さえなかったら、ミハイルの死さえなかったら、ハッピーエンドのはずなのに。
「レナートといるとき、おれは幸せなんだ。幸せで、胸が苦しい」
「……その苦しみは恋じゃない。……お前の傷だ」
ダニーが得た心の安らぎの、その正体を知っている。
「……飲もう。立ち話もなんだろう」
「おれは飲まない。あやふやにはしない」
「僕は飲む。帰るか入るか、勝手にしてくれ」
扉を開いた。ダニーが足を踏み入れた。
5
「レナートはおれのことが好きなんだろう?」
「……別に、好きじゃない」
「好きだって言ったり好きじゃないって言ったり……どっちが本当なんだ?」
どっちだっていいだろう。そう言って僕はウォッカをそのまま煽る。カッと喉が燃える感覚にあわせて瞳の奥がチカリと光る。生まれて初めて酒が回っている気がした。
「……ミハイルは僕のことが嫌いだろう」
「そんなことない。……なんでミハイルの話になるんだ。ミハイルがレナートを嫌っているなんて、どうしてそんなことを思うんだ?」
思うもなにも、僕は知っている。僕にぶつけられた言葉、その怨嗟も慟哭も知っているんだ。ダニーだって、この部屋から出てしまえばそんなセリフは言えないんだ。
「じゃあ、いまから報告にでも行くか? 僕たちは付き合いますって」
「つきあえるなら嬉しい。レナートはおれのこと、やっぱり好きなのか」
どうでもいいんだ。
言葉を飲み込んだ。僕はどうやら、だいぶ自暴自棄になっている。ダニーのことが好きなのに、大好きなのに、いまはもうなにもかもどうでもよかった。いや、どうでもよいとは少し違う。この危ういバランスを壊してしまいたいという、真っ青な炎が心臓を焼いていた。ダニーを巻き込んで、二人で灰になってしまいたかった。
「ミハイルに僕たちのことを話そう」
「……うん?」
「約束だ。……絶対に守れ」
「レナート、なにか変だ」
「ならやめるか?」
「やめない」
扉が開く。現実が待っている。ダニーが一歩を踏み出した。
「……ダニー。行き先は?」
きっと、僕は醜悪な顔で笑っていた。
「……あれ?」
迷子になった子供のような声。ちいさなダニーに帰る家なんてなかったはずなのに。
あんなにも、僕はダニーの帰る場所になりたいと願っていたのに。
「……なにを……どこに行こうとしてたんだっけ?」
くるりと振り向いて僕を見るその瞳には涙が滲んでいた。自分自身に裏切られてバラバラになった心が沈んでいく紺碧の海がふたつ、僕を捕らえて、縋っている。
壊れてしまえ。
「ミハイルのところに行くんだろう?」
「…………は?」
ミハイルが死んで疲れているんだ、とか。その気になればいくらでも取り繕えるのに。でも、もう、いやなんだ。
もう、好きって言葉に期待したくないんだ。ミハイルのことを忘れる安寧を、僕への気持ちとごちゃまぜにしないでくれ。
「……ミハイルにはもう会えない」
「そうだな。墓もない。死体も本部が引き取った。……なにもない」
「わかってるなら、そんな」
「だから忘れてしまえばいいと思ったのか?」
「……レナート、なにを言って」
「ミハイルの死を忘れたいんだろう?」
深層心理、とか。不可思議な事象に理由をつけたかっただけだ。なんなら、あれをダニーの嘘だと思いこむことだってできる。ダニーはそんなことするやつじゃないのに。そんなことを思うようなやつじゃないのに。
「……訂正してくれ、レナート」
「できない……殴りたければ殴れ。そういう目をしてるぞ、人殺し」
言葉で人は死ぬ。空気を震わせて、無抵抗な相手に手を汚すことなく暴力をふるった。殺したいのは自分自身だと言うのに。大切なのはこんな心じゃなくて、ダニーのはずなのに。
泣きたいほど、好きなのに。ああ、バラバラなのは僕の心だ。
「……エディ」
「……は?」
「ミハイルの名前だ」
唐突な情報に僕は自らの武器を取り落とす。ダニーは笑う。冷たく、なにもかも投げ出すみたいに。
「……おれだって怒る。エディの死を忘れたいわけなんてない。それはおれがちゃんと背負うものだ」
おやすみも言わずにダニーは歩き出した。そんなの、ひどい。ダニーが忘れたくないって言っているのに、なんで神様はあんなに不自然な魔法を僕の部屋にかけたんだろう。悪いのは僕でもダニーでもないのに、なんで僕は自分もダニーもボロボロに傷つけてやろうと思ったんだろう。
初めて溺れたと思ってた酒は乾ききって、脳みそがカラカラだった。
6
「もう怒ってない」
翌日、僕が好きだと言ったことがあるドライフルーツを持ってダニーが部屋を訪ねてきた。こんなくだらないことは忘れないのに。また、恨みがましい気持ちになる。
「謝ってもとの関係に戻れるなら謝る。ただ、なにを謝ればいいのかがわからない」
「それはそうだろう。ダニーは謝るようなことをしていないからな」
ドライフルーツを受け取らず、ドアの隙間からそう告げる。それを聞いたダニーは不思議そうな顔をした。
「……おれは悪くないのにレナートは怒ってたのか?」
「怒ってない……たんなる八つ当たりだ。ダニー、お前は被害者だ」
頭をなでて、チョコレートを与えたかった。抱きしめて頬をよせて、体温を分け合いたくて仕方がなかった。
きっと僕は自分が思っているよりも情緒が安定していない。壊してしまいたくなって、与えてしまいたくなって。次はどうなってしまうんだろう。いつか、ダニーのことを嫌いになってしまったり、するのだろうか。きっと楽になれる。でも、その崩落がなによりも恐ろしい。
「……軽蔑するか?」
「しない。人間は間違う。きっと俺だって間違ってるから……気にしないでくれ」
「では……嫌いになったか?」
「ならない」
よどみなく、僕のことを好きなままだと言う。また、憎悪に似た凶暴な感情が目を開けた。
「……ひとつ、答えてくれ」
「何個でも」
「ミハイル……エディの死を忘れてしまうとしたら、どうする?」
ダニーがムッとするのがわかったが、これは仮定の話だ。ダニーはひとつ息を吐いて、応じる。
「……忘れたくない。忘れたら思い出す」
「……そうか」
それならいいんだ。僕は部屋にダニーを招き入れる。ダニーはなにも知らず、なにも疑わず、一歩を踏み出した。
「ウイスキーにはドライフルーツもあうんだな」
「そうだな。だから僕はドライフルーツが好きだ」
「レナートはウイスキーが好きか」
「ダニーのことのほうが好きだ」
向かい合っていたソファを立ち上がり、ダニーの隣に腰掛ける。ダニーは酒で赤くなっていた頬をもう少しだけ染めて戸惑っていた。
「……なんで隣に、」
「お前も僕が好きだと言っていた」
「……前は信じてくれなかったのに」
「信じるために、お前を試す」
「え?」
このまえみたいな自暴自棄な気持ちがなかったと言えば嘘になるだろう。でも、今晩はそれ以上に希望に縋っていたかった。
「……ミハイルは死んだ」
「え? ……こういう仕事をしてるんだ。冗談でもそんなこと言わないでくれ」
「嘘じゃない。お前が忘れてる……この部屋に入るときだけ忘れるんだ」
キョトンとしたダニーの顔。それもそうだろう。僕だってそんなことを言われたら同じ顔をする。
「部屋に入ると忘れる……? レナートでもそんな冗談を言うんだな」
「冗談ならよかったんだが」
僕は懐からボイスレコーダーを取り出す。職業柄使い慣れたそれのボタンを押せば、僕とダニーの会話が流れ出す。
二言、三言。音が核心に辿り着く。
『ミハイルが生きていたらな……裏切りは重罪だ。生き残ったところで殺されていた……でも、死ぬことはなかったと思ってしまう』
僕の落ち着いた声。
『おれも、ミハイルに……エディに生きててほしかった』
ダニーの少しだけ悲しそうな、落ち着いた声。
「……これは?」
「今日の昼にした会話だ。聞いていたらわかるだろう?」
「いや……確かにおれの声だけど……これはキールとレナートの悪ふざけか?」
「なら、この前みたいに怒ればいい。悪趣味だと、今度こそ殴りかかってこい」
「だって……ミハイルは……」
ダニーの顔がどんどん青くなっていく。もしかしたら、この部屋は簡単に壊せてしまうような密室だったのかもしれない。
「ミハイルは死んだ」
もう一度、深く深くその心を突き刺す。これは優しさなのだろうか。八つ当たりなのだろうか。
「……悪い、本当にそうは思えない。だって、今日だってミハイルは生きてた。でもレナートが嘘を吐いてるとも思えない……どういうことだ?」
「だから言っただろう。この部屋に入るとお前はミハイルの死を忘れる。部屋の外に出ると思い出す。原因はわからない。でも、そういうものになってしまっている」
戸惑うダニーはなにも言えず、僕はこれ以上言うことはない。沈黙に満たされた部屋に、溶けた氷がグラスを叩く音が鳴る。
「……もう、こないほうがいい。そういうことか?」
おずおずとダニーが口を開いた。僕は柔らかくほほえみ、それを否定する。
「何度来たっていい。ダニーが楽な方でいいんだ。僕はお前が好きだから、なんだってしてやりたい……前にも言っただろう。嘘じゃないんだ。ただ、」
忘れるとか、忘れないとか、どうでもいいんだ。ただ、もう期待したくない。
「きっと忘れることがお前の安寧なんだと思う……お前が僕のことを好きだという気持ちが、この不可解な現象から生じたものだということだ。ダニー、お前はこの部屋に騙されている。お前は、僕のことを好きなんかじゃないんだよ」
もう、期待させないでくれ。そう懇願して、僕はダニーの肩に頭をあずける。なんだかひどくつかれてしまった。振り払われてもいいから、一瞬だけその体温がほしかった。
数分、時間が流れた。僕は離れ難かった。ダニーの顔はここからだとよく見えない。僕の頭にダニーの頬が触れる。
「……前にも言ったけど、これってダメなことなのか?」
「……ダメだろう。お前は騙されているんだから、僕がそこにつけこんだらいけない」
「……よくわからない」
体温が離れる。頬に新たな温度が灯る。ダニーの無骨な手のひらが、僕の頬に触れていた。
「エディのことは忘れたくない。それがエディの死でも」
「知っている」
「この部屋に騙されているって、レナートは言った」
「そうだ」
「……おれはこんな部屋がなくったって、レナートのことが好きだ」
真っ直ぐに僕を射抜く夜と海の深い青。なんで、こんなに実直な光がこの世界にあるんだろう。無根拠で、無責任で、抱きしめていたくなる光。
「レナートはどうしたらおれを信じてくれるんだ?」
「一度記憶喪失にでもなってくれれば」
「無茶を言うんだな……」
ダニーは本気で困っているようだった。きゅっとよせられた眉間のシワを、指先で伸ばしてやることにする。
「レナートはおれのことが好きなんだろう?」
僕に眉間のシワを伸ばされながら、ダニーが言う。
「だったら、ラッキーだと思えばいいじゃないか」
「……は?」
「レナートがおれの弱みにつけこんでるって言うなら、いくらだって弱いところを見せる。これを刷り込みだっていうなら、いくらだって刷り込まれていい。おれはレナートが好きなんだから、これくらいなんてことない。レナートだっておれを手に入れるためなら手段を選ばないでほしい。不思議な部屋だって手段のひとつにすればいい」
「……はあ?」
「おれが好きなんだろう?」
「いや……そうなんだが……」
交渉中はなんでもつかうのに、恋愛になるとできないのか。眉間のシワがなくなったダニーが楽しそうに口にした。
「レナートは大好きなおれが手に入ってうれしい。おれも大好きなレナートが手に入ってうれしい。だれも損しない」
「だから、お前が僕のことを好きだというのがそもそも間違っていて、」
「人間だから間違うことだってあるだろ。おれを諦めるほどデカい理由か?」
ダニーはもしかしたら、あまり長いスパンで物事を考えられないのかもしれない。
「……デカい理由に決まってるだろう! いまならまだ諦めもつく。でも、お前を手に入れて、幸せになって……その幸せが『勘違いでした。はい、さようなら』で終わってみろ! そんなの……耐えきれるわけないだろう!」
けほ、といきなり酷使した喉が悲鳴を上げる。自分の恐怖を真正面から口にした恐ろしさで、視界が滲んだ。
ああ、僕はただ、自分を守るためにダニーを哀れだと言い訳をして逃げていたんだ。
「……そうか。そうだよな。それなら怖いよな」
ごめん、と抱きしめられた。でもなぁ、って、困ったような声が聞こえる。
「でもやっぱり、おれのことを諦めてほしくない。好きなんだ。求めてほしい」
なんなんだ、この自己中心的な男は。そのあまりの身勝手さに、なんだか愉快にすらなってしまう。
「勝手なやつだな」
「恋をしてるからな」
「なんだそれは……はぁ、馬鹿らしい」
「バカだし、身勝手だ。信じるよ。ミハイルのことは悲しい。ミハイルが死んだことは一生背負う。でもそれとは別にレナートのことは好きだ。レナートがほしい。レナートに愛されたい。だから、おれのことを求めてほしい。どんな手段でも使って、おれのことを諦めないでいてほしい」
「本当に……お前、こんなやつだったか?」
呆れてしまったのに、涙がどんどん出てくる。こんなにも怖いのに、そんなことを言われたら求める気持ちが押さえられない。
「レナートもワガママを言っていい。それに怖いのはおれだって同じだ。おれだっていつ捨てられるかわからないんだ。だからおれだってどんな手段でも使う。おれだって、レナートに対して本気なんだ」
「……そうか。では、身勝手な臆病者同士……仲良くやろう」
「ありがとう」
からだを離して向かい合う。僕が瞳を閉じているというのに、ダニーは律儀に「キスしてもいいか?」と聞いてきた。
7
相変わらずダニーはここにくるとミハイルの死を忘れる。いや、知識としてはあるのだが、実感がないというのが現状か。事実、この部屋に踏み入れた彼の脳内ではミハイルは健在なのだ。
「ミハイル、おれたちが今度デートに行くって言ったら喜んでた」
「脳内ミハイルの基準が本性を出す前なんだよな……」
もうそういうものだと双方がわかっているから、たまにこうやってミハイルの話をしたりする。ダニーは控えようとしたが、僕は気にしない、ようにしている。旧友の話は気軽にできるほうがいいだろう。自由に話そうと、二人で決めた。
「ミハイル、言ってた。レナートのどこが好きなんだ、って」
「……なんて答えるんだ?」
積み重ねた二人の年月は当人しかわからないだろうが、これは言いそうだ。
「まず、一緒にいて落ち着く。頭がいいところもおれにないところだからいいなって思う。髪がさらさらできれいだ。目の色もおれは好きだ。二人きりになるとおれに甘いところも好き。それと、」
「待て待て、ちょっと待ってくれ」
失言だった。これでは僕の好きなところを聞きたいとねだったようなものじゃないか。さすがにこれは恥ずかしい。
「それと……命をかけていいと思うところ。おれバカだからよくわからないんだよな。命をかけて守ってたら、命をかけてもいいくらい好きになってた」
「……吊り橋効果」
「レナートはなかったか?」
あった。それはもう、とてもあった。
「……やはりこれは恋愛ではない……?」
「また難しいこと考えてるだろ」
ダニーが僕の眉間のシワを伸ばしていく。そのままその手は頬を撫で、後頭部へと回されて、硬い指先が優しく僕の髪を梳いた。
「恋だし、愛だと思う。おれはレナートと一緒にいたいし、キスしたい。それに……かわいいなって思った時、抱きたいって思うし」
「だっ、抱き?」
「セックス」
脳が一気に沸騰する。それはこんなふわふわした子犬みたいな童顔の男が口にするような単語ではない。僕は思い切りむせてしまった。
「せ、せっくすってお前……」
「ん? 別に人に言うことじゃないから言わないだけで、言うときは言う」
「いや、そもそも僕たちは男同士で」
「……ああ、知らないのか」
なにがだ。
「……おれはスラム育ちだから。……自分のからだを売ったりはしなかったけど、きっとレナートよりもやらしいことをたくさん知ってる」
にや、と悪い顔をするダニー。なるほど、これがスラムの笑みか。
「あんなの暴力にしか見えなかったけど、こういう気持ちにもなれるんだな。おれ、本当にやさしい気持ちで、レナートがほしい」
いつかくれよ、だなんて言うから返答に困ってしまう。いや、あげるぶんには問題ない。望むところだ。ただ、やりかたを調べさせてほしい。
「……ミハイルに恋人ができたって言いたかったな。しかもそれがレナートだなんて。……でも、ミハイルはもういないんだよな」
「僕を疑うか?」
「信じてるから、なおさら。ここにいると本当に実感がないんだ」
次はおれの部屋で過ごそうとダニーは言った。思いを交わしたあとはお互いの部屋を行き来しているから、ダニーの脳内ではミハイルが生きていたり、いなかったりする。いつか終わるかもしれないし、もしかしたら部屋の外でもミハイルの死を忘れてしまうかもしれない。相変わらず未来はどう転ぶかわからないから、僕はダニーの言う通り、必要以上に恐れることをやめることにした。
「……未来か……」
「また心配してるのか」
「どうやら僕は頭からぺろっと食べられてしまうみたいだからな」
「レナートが嫌なことはしない」
僕の忠犬はとても紳士的だ。ああ、でも。
「……嫌じゃないから困ってるんだ」
ダニーの頬が一瞬でポッと赤くなる。きっと、僕だって真っ赤になっているんだろう。
僕は瞳を閉じる。ダニーはあの日のように、「キスしてもいいか?」と聞いてきた。