Love Me Moreこの本の漣はネコチャンなので甘えたです。
普段の解釈を無視してただ猫になった漣を愛でたい気持ちだけで書きました。
全体的にイチャイチャしてます。
---------------
1
オレ様は猫である。名前は牙崎漣。
厳密には人間なんだが、全部が全部人間かと言われるとそれは違う。まぁ猫と呼ぶには人間すぎるんだけど。
そもそもオレ様は人間だと猫だのって枠には収まらないからどっちだろうが関係ない。最強大天才は最強大天才だ。半分だけ猫になれるってだけだ。
一応、これは秘密ってことになってる。最強大天才に隠し事なんてのはいらないが、親父が「このことは心から信頼できる人間以外には言うんじゃない」とか言うもんだから、まぁそのくらいなら聞いてやってもいいかと思ってるだけだ。別に言いたい相手もいないし、言いたいとも思わない。秘密ってか、『言ってないこと』とか『言う必要のないこと』ってのが正しいだろう。
誰にも言わないまま旅をして、クソ親父と別れて、チビやらーめん屋と出会って、アイドルになった。チビもらーめん屋も下僕も四季もオカッパも、いままで一緒にいた誰だってこのことを知らないけれど別になんにも不便はない。言う気はないし、意識してなろうと思わなきゃ猫にはならない体質だから、うっかりバレるというのもありえない。
猫になるもならないもオレ様の思い通りだ。そういえば「しっぽを出す」って言葉を聞いたときはオレ様みたいなやつがヘマをしたと思ったが、別に言葉通りの意味じゃないらしい。ま、オレ様は人前でしっぽなんて出したりしねぇけどな。
猫には『なっちまう』んじゃなくて『なれる』だけだ。別に一生猫にならなくったって特になにも起こりゃしないんだろう。それでもオレ様は定期的に猫になる。たまーに、ちょっとだけ。
今日は晴れていて気分がいい。こんな日はあそこに行くにかぎる。オレ様と覇王がお気に入りの、あの場所へ。
誰も知らない迷路みたいな路地裏を抜ければ、そこはぽっかりとひらけた空き地だ。オレ様を囲む覇王とそのへんの猫どもは好き勝手に毛づくろいをしたりオレ様を見たり、好き勝手なことをしてる。茶トラが一匹オレ様の足にすりついてきたからそっと退けて、息を一度、深く吐いた。
力を抜くんだかいれるんだか──なんて言ったらいいのかわからねぇけど、普段は絶対に使わないような考えもしないところに意識を集中させていく。そうすると、さっきまで当たり前にあったものが突然失われて、違和感と開放感が同時に全身を巡る。あるべきものがなくて、ないはずのものがある。
耳があったとこには何もないが、頭の上を触ればやっぱりちゃんと『ある』。鏡で見たわけじゃないから覇王のとおんなじかはわからねぇけど、手に触れるのはふわふわの猫耳だ。触れると人間の耳よりもむずかゆくって、反射的に耳はぴるぴると動いた。
首元を押さえればそこもふわふわ。腰から下がムズムズするからパンツに手を突っ込んでしっぽを引っ張り出したら少し落ち着いた。腹はなんだかふにゃふにゃになっちまう。オレ様は『これくらい』猫になれる。
まぁ、ほとんど人間。親父しかこうなったオレ様を見たことも触ったこともないが、誰が見ても猫より人間に近いと思うだろう。特に早く走れたりだとか、小さくなってどこまでも行けるだとか、そんなことはない。目だって多少は夜目が利くがさほど変わらねぇ。
それでもわざわざこの姿になるのは、この姿で浴びる太陽が気持ちいいからだ。本当にそれだけだ。
人間の時だって日を浴びりゃ気分はいいが、猫になってから浴びる太陽ってのはなんとも言えないよさがある。誰に言うわけでもないから『なんとも』としか言えなくても問題ないし、教えてやる義理もない。オレ様だけの特権だ。
適当な布を引いてその上にごろりと丸まれば、真上から差してくる太陽が心地よい。覇王がオレ様にくっついてきて、オレ様の耳をざりざりと舐めた。これもまた気持ちいい。人間のときにやられてもただくすぐったいだけなんだが、猫の耳ってのはいいもんだ。思わずうとうとしてしまう。
体温があがるんだろうか、それとも同じ猫になったからか。猫になったオレ様にはいつも以上に猫が寄ってくる。背中にもお腹にも足元にも猫がくっついて眠りだすから、オレ様たちはひとかたまりになって昼寝をする。触れたところがふかふかとあったかくて、太陽の匂いが漂ってくる。チビが見たら泣いて羨ましがるような、そこらへんのやつにはできない贅沢だ。最強大天才にふさわしい。
耳を舐めるのに飽きたんだろうか。覇王がオレ様の胸元に移動してきたから耳の後ろを撫でてやる。オレ様も耳を舐めてやるべきなんだろうか。中途半端に人間だとどう触れてやっていいか迷ってしまうが、覇王はオレ様の気も知らないでぐるぐると喉を鳴らしている。猫だからわかるんだが、これは気持ちがいいときの鳴き声だ。オレ様も猫のときは出すことがある。あれ、どういう仕組みで鳴ってんだろうな。意味がわかんなくても勝手に喉の奥から聞こえてくる、人間の時じゃぜってー鳴らねえ音だ。
日差しは少し暑いくらいだが、風が涼しくて気持ちいい。あちこちからゴロゴロという音が聞こえてきて、オレ様の喉も鳴ってしまう。覇王がすりよってきて、ほっぺたをくっつけて眠る。
こうやってオレ様はたまに猫になるのだ。
---------------
2
「ふたりは仲がいいねえ」
最初は意味がわかんなかった。こんなことを言うのはいつもの朝に公園でひなたぼっこしてるじいさんだけだったから、なにボケてんだって思ってた。仲がいいわけねぇだろ。ただオレ様は決着をつけてえだけだし、チビはオレ様のことなんて見ちゃいない。ただ、同じ空間にいるだけだ。並んでるオレ様たちを見て、じいさんが何を思おうが、オレ様たちは他人のままだ。
チビとオレ様を結びつけてるのはオレ様の行動一つで、オレ様が死んだってチビはなんにも困らない。オレ様が勝負を諦めただなんてバカみたいな勘違いをして終わりのはずだ。チビの頭の中にはなにかがずっとあるってのはわかってた。それが占める割合がデカすぎて、オレ様のことなんて三日も姿を見なかったら忘れちまうんだろう。オレ様だって、チビに飽きたらそれっきりだ。決着をつけるまで離れることはないけれど、ただ、それは『仲がいい』ってのとはちょっと違う。仲がいいやつなんていたことねぇから知らねぇが、ようは弱い奴らが馴れ合って、必要としあってるだけだ。
オレ様は誰のことも必要じゃないし、誰もオレ様を必要としない。それでよかった。
勝つか、勝つまで勝負するか。それしかないんだ。
「おまえたちは仲がいいなぁ!」
数ヶ月経ったって意味がわかんなかった。らーめん屋はたまにはいいことを言うやつだと思ってたから、この言葉にはガッカリしたのを覚えてる。
仲がいいってなんなんだ。ただ並んでラーメン食ってるだけだろ。そういやこの頃、初めてチビはオレ様の名前を知ったんだ。らーめん屋がどうしてもオレ様の名前を教えてくれって頼むから教えてやった、その場にたまたま居たってだけだけど。しかも名前を知ってもオレ様のことはずっと「オマエ」だ。そういえば、オレ様はチビの名前をいつ知ったんだっけ。
決着は相変わらずつかなくて、どうにもこうにも離れられない。別に勝てないわけじゃなくって。たんに勝ち越せないだけだ。
結びつきはみっつ。
決着、覇王、よく行く飯屋。それだけ。必要なものなんて、どこにもない。
「ふたりは仲がいいね」
下僕もまた、同じようなことを言ってきた。意味は相変わらずわからない。でも、なんだか気分が悪かった。どうでもよかった言葉がイヤだ。きっとオレ様が半分猫のときに言われたら、唸り声を出すか、毛を逆立てるかしていただろう。
「いいわけねえだろ」
反論をするようになった。勘違いが許せなくなってきた。チビだって前よりもっとムキになって違うと言ってるような気がする。ここに関してはチビと同じ気持ちだろう。オレ様たちは仲良くなんてなる必要はないんだ。
倒すべき相手との仲良しごっこなんていらない。いままでだって仲良くなんてしてないんだから、変わる必要なんてない。それでも、どんどん変わっていくことがある。やったことのないことをやったり、知らなかったことを知ったり。
チビには目的がある。
関係ないって言われてムカついた。バカなこと言ってたからどうしたらいいか教えてやった。最強なのはオレ様だから、隣にいてやってもいいって思ってた。そうすれば、チビの会いたいやつだってきっと会える。これは言わなかったけど、そうしてやることが正しいとさえ思ってた。
それを言った時のチビの目を覚えてる。チビのことなんて好きでもなんでもなかったけど、その目は一生忘れない。
あの目をオレ様は待ちわびていたんだろうか。それとも、心のどこかで恐れていたんだろうか。初めて見る、深い海の色。
別にオレ様がいなくても、勝手にコイツは上に行く。オレ様だってそうだ。らーめん屋はなんにも言わねぇ。
それでも最短ルートが交わって、三人とも同じ方向に歩き出したんだ。
「ふたりとも、仲がいいっすね!」
いまではいろんなやつが同じようなことを言う。一周してどうでもよくなった。否定はするが、なんだかげーにんがやる『オヤクソク』みたいな感じだ。実際、バラエティでも『オヤクソク』って言われたし。
仲良しってのは窮屈な型で、そこに最強大天才を押し込めるなんてのは理解できなかった。誰とも仲良くなくていい。でも他のやつはオレ様とチビやらーめん屋が仲がいいって言う。別にらーめん屋と仲がいいと勘違いされても、らーめん屋と勝負はしてないからどうでもいい。でも、オレ様はチビと勝負中なんだ。
仲良くなんてない。チビは倒すべき相手だ。
それなのに、二回目の総選挙が始まったときに四季は言った。
「漣っちと言えど、絶対負けないっすからね!」
四季は言ってた。オレ様と友達になりたいと。仲良くなりたいと。それなのに、仲良くなりたい相手に勝負を仕掛けてくる。
「オマエ、オレ様と勝負したいのか仲良くなりてぇのか、どっちなんだよ」
「え? 別に仲良くても勝負するっすよ。漣っちとタケルっちみたく」
ああ、だからみんなオレ様たちを仲がいいって言ってたのか。どうやらここから違ってた。
仲が良くっても、勝負したっていいんだ。
だんだんわからなくなってきた。好きじゃない。嫌いでもない。仲良くする理由はないが、仲良くしない理由がなくなった。
オレ様はチビとどうなりたいんだろう。
二日くらい考えて、やめた。
***
チビとはなるようになってる。
変わってく部分に関して、なにか心臓に関わるようなこと以外は考えないというのがオレ様があの二日間で唯一得た結論だ。変わったのはなんだろう。オレ様はたまにチビの家に行くようになった。チビが炊飯器を買った。覇王のメシがちょっといいやつになった。
あとは変わらないはずだ。勝負して、並んでラーメン食って、仕事して。でも少しそういう日が減ってきた。オレ様にはオレ様だけの仕事がくるようになっていた。
チビだって、らーめん屋だって、一人でやる仕事が増えた。事務所のやつらとやる仕事も同じくらい増えていってる。三人でいないわけじゃない。メシだってしょっちゅう一緒に食ってる。単純にそうじゃない時間が増えただけ。
隣にチビがいないのは不思議な気分だった。でも、そんな気持ちになってるのがオレ様だけだとしたら、なんかイヤだ。だからチビがぽつりと漏らした言葉に、らしくない言葉を返してしまった。
「早く年を取りたいな」
「あ?」
「大人になりたい。たまに思う。……オマエは俺より、ひとつ大人なんだよな」
その日は二人でぼんやりとテレビを見ていた。並んで座って、録画した番組を見ていたんだ。
生放送の音楽番組。よくわかんねぇけど、チビとか四季は出られないって聞いた。チビもらーめん屋もいないステージは初めてじゃなかったけど、いままでのそれは『チビが出ることのできないステージ』ではなかったはずだ。チビがここにはどうあがいたって立てない事実は、番組が始まるまでオレ様の頭の中に居座っていた。
画面の中で歌って踊るオレ様たちを見ながら、チビはしみじみと呟く。
「俺があと少し大人だったら、オマエと一緒に歌ってた」
自分が大人じゃなかったから選ばれなかったんだとチビが言う。
大人ってのがなんなのかはわからねえが、チビの考えだとチビは大人じゃないらしい。まぁチビは俺から見てもガキだけど。だとしたら、オレ様は大人だからあの場所にいたんだろうか。バカバカしいと思った。オレ様が選ばれたのはオレ様の実力だ。だけど、チビは選ばれるための資格すら持たなかったんだろう。
オレ様はチビの方を見たけど、チビはずっとテレビを見てる。ずっと見てるから、真っ青な目にちらちらとテレビの安っぽい光が映り込んでいた。ふ、と。チビが目を伏せる。
「できないことってのが、あるんだよ」
小さく囁くようなチビの声をかき消すように、オレ様の歌声がテレビから聞こえてる。閉じ込められたスポットライトを白々しい電球が照らしている。
「……大人じゃねぇと?」
「そうだ」
これだってそうだ。そう呟いたチビの視線には、録画されたオレ様が映っている。
「たとえば何ができねぇんだ?」
「たとえばこうやって、どうしたって隣にいれないときがあるだろ」
「……それで、チビはなんか困るのかよ」
チビがやたらと仕事をしたがるのは知っている。でも、別の仕事だってチビにはたくさんあるはずだ。
「オレ様とからーめん屋といなくたってやることいっぱいあんだろ。わざわざ出れねぇって言われたステージのこと気にしても意味ねえよ」
それが頂点への近道だ。そう言ってやったのに、チビの反応は思ったものと違った。
「……そうじゃない」
「は?」
「なんか嫌だったんだよ。オマエが立てるステージに、俺は立つ資格すらないことが」
それだけならわかる。チビは負けず嫌いだ。それでもチビがわけのわかんねぇことを言うから、オレ様はなんて言っていいのかわからなくなる。
「なんでだろうな。オマエの隣にいたかった。普段は別にそんなことないのに」
ようやくチビがこっちを見た。いまこうやって隣りにいるのに、オレ様の隣にいないことがつらいって泣いているような目をしてる。たぶん、チビにだけわかる距離感がオレ様たちを遠ざけてるんだろう。
「……変なの」
きっと、チビだって変わってるんだ。
---------------
3
成人になったやつらだけでやる記念ライブを今年もやるらしい。去年やって盛り上がったから今年もやるんだと。今年はオレ様が成人だから最強のライブになる。しかし、こうやって見てみるとオレ様と同じ年ってやつは結構いるんだな。
当然チビはいない。チビは来年。らーめん屋は自分もやってみたかったと笑っていた。
成人ライブと言われてもピンとこなかったんだが、この国では二十歳になるということを『成人した』というようで、成人になるということは大人になるということらしい。あの日、チビが言った言葉にようやく合点がいった。成人ってのは特別なものなんだろう。チビはどうあがいたって、オレ様より先に『成人』にはなれない。大人にはなれないのだ。
らーめん屋のラーメンよりも春名の持ってくるドーナツを食う回数のほうが多くなった。夜が遅いからチビの家に行くこともなくなった。別に遅い時間にくるなと言われたわけじゃないけど、月が高く昇るとチビの家に行くのはイヤだった。それなら下僕が渡してきた寮の鍵を使うほうがマシで、物置だった部屋にひとつだけ布団を買った。
***
ライブは大成功。オレ様がいるから当然だ。ま、他の奴らも悪くなかったけどな。
ただ、別にユニット外の仕事は初めてじゃないのに、なんとなく思うところのあるライブになった。
選ばれた理由が年齢ってのは、なんとなくあの夜を思い出す。チビが立ち得ないステージが今日という日で、来年はオレ様がそこにあがることはない。
騒々しい夏の日だった。うっすらとした真昼の月にまで歓声が反響しているようで気分がよかった。終わってもまだ夜の気配はなくて、酒じゃなくてドーナツとケーキで散々騒いだもんだから脳の中まで甘ったるい。
流石にこの人数では男道らーめんを占領することになるから、オレ様は打ち上げが終わったタイミングでひとりでラーメンを食いに行く。そこにはらーめん屋以外にも見知った顔があった。
「チビもきてたのかよ」
「ああ。オマエもくるとは思ってたが……みんなはいないのか?」
「あの人数じゃ動きづれぇだろ。オレ様ひとりだ」
「そうか」
なんだかチビは少しだけ機嫌が良さそうに見える。まぁオレ様の最強のライブを拝めたんだから当然と言えば当然か。ぎゅうぎゅうになった関係者席で、食い入るようにオレ様たちを見つめているチビの目をまだ覚えてる。
チビはもうラーメンを食い終わったあとみたいだったが、オレ様が最強宇宙盛りチャーシュー増しトッピング全部乗せを頼んだら、なんの変哲もない普通のラーメンを一杯だけ頼んだ。らーめん屋はそれを聞いて麺を必要なだけ湯の中に放り込んでいく。
チビと並んでラーメンを食べるのはひさしぶりな気がする。これだけは回数が減ろうとなくなることのない、オレ様たちの『変わらないもの』だった。
ドーナツもケーキも、なんならケータリングの肉やら寿司やらも食べたがあんだけ動いたからまだ腹が減っていた。オレ様はらーめん屋の投げかける称賛に相槌を打ちつつラーメンを食べる。
「やっぱり人生の節目にやるライブなだけあって華やかだったな! 袴をイメージした衣装も似合ってた。プライダルの仕事を思い出すな……」
「あれはケッコンの話じゃねーのかよ」
「結婚とか成人とか卒業とか、めでたいときに袴を着るんだ。袴、覚えてるだろう?」
「衣装がなんだろうと、オレ様は最強なんだよ!」
「はは、そうだな。今日の漣はすごかった」
「今日『も』すごいんだっての!」
「ああ、そうだな。でも今日は漣の新たな一面を見たと自分は思ったぞ」
らーめん屋はオレ様の活躍を次々にあげていく。ついでに他のヤツらのことも。機嫌よく二杯目のラーメンに手を付けた瞬間、チビがぽつりと呟いた。
「……ああ、あの時のオマエはかっこよかった」
「んぐっ…………はぁ?」
あまりにもらしくないことを言うもんだから、一瞬麺が喉に詰まる。いや、流石に二年も経てばお互いを悪くないと言うこともあった。それでもこんなに驚いたのは、チビの声色がいつものそれとあまりにも違ったから。
あまりにも、優しい声をしていたから。
「……んだよ、いきなり」
声に警戒が滲む。
「……俺がオマエを褒めたら悪いのかよ」
なにか、間違えた気がする。
「別に文句はねぇけど」
こういうときに限ってらーめん屋は「どうどう」といういつものセリフを口にしない。ただ笑ってオレ様のどんぶりに味玉を乗せるだけだ。
らーめん屋はしばらくライブのことを話していたが、オレ様はチビがまた変なことを言い出さないかが気になってしまう。チビはもうなにも言わずに、ただらーめん屋の話を聞きながらぼんやりとしているようだった。
帰り道は決めてない。どこに帰るかなんて決めてない。そんなオレ様の手をチビが軽く引いた。
「……んだよ」
まっすぐ進めば公園で、右に曲がればチビの家だ。夕焼けに伸びた影が、たった一点で繋がっている。
チビはオレ様をチビの家に引っ張っていくことはしなかった。ただ、呼び止めるためだけに伸ばした手をそのままにチビが言う。
「ライブ、すごいよかった」
「聞いたっての」
またあの声だ。チビがオレ様を崇めてるってのに、声の熱に意識が逸れる。
「……隣にいたかった。たぶん俺、オマエのこと好きなんだろうな」
それじゃ。そう言ってチビは手を離す。その声はあまりに暖かいくせに妙にフラットで、少し思考が停止した。
「……っ、おい! 待ちやがれ!」
今度はオレ様が、チビの手ではなく肩を思い切り掴む。チビの顔は意外そうで少しカチンときた。オレ様が変なことをしてるんじゃなくて、チビが変なことをしたんだっての!
「チビ、さっき、なんて」
「……俺がオマエのこと好きだとおかしいのかよ」
「おかしいだろ!」
「おかしくなんてない」
オレ様の声にチビはひとつも怯まない。それはいつもどおりのことで、それなのに、目だけが違う。
「おかしくなんて、ない」
不出来な弟子に言い聞かせるように諭される。それなのに、まるで八つ当たりみたいに強い力で手首を掴まれるから、いよいよわけがわからない。
「好きだと思う。でもどうこうなりたいってわけじゃない。どういう好きかもわかってないけど、隣にいたかったんだ。きっと、好きってことなんだと思う」
チビらしくない、まくしたてるような口調だった。は、と息を吐いて、観念したように口にする。
「…………悪い。忘れろ。でも、撤回はできない」
それきりチビはなにも言わなくなった。オレ様もなにも言えなくて、たったふたりで呆然と立ち尽くしてしまう。
何かが少しずつ変わっていった、その結果がこれなのだろうか。きっとチビが好きだのなんだの言い出す前から、どっかで何かが始まってたんだ。
しかし、ずいぶんと勝手な話だ。勝手に好きだと言うくせに、どうしてほしいのかはひとつも言わない。オレ様になにも期待していないということだろうか。それならめちゃくちゃ腹が立つ。
意識して、じっと目を見る。チビは視線を逸らさない。
「……なんだよ」
「チビがなんなんだよ。それ言って、オレ様にどうしてほしいってんだ」
「どうもしなくていい。俺が言いたかったから言ったんだ」
「だからそれがムカつくんだっての! チビがオレ様のことを好きなのはいいが、オレ様に対してなんにも期待してねぇのはムカつくんだよ」
なんか、昔のぶんまでまとめてムカついてきた。「隣にいたい」とか「隣にいたかった」とかじゃねぇだろ。オマエがオレ様に願うのは、「隣にいてくれ」でいいはずだ。
だってオレ様の世界には、当たり前にチビがいるってのに。
「……好きでいることはいいのか?」
「あ? いいも悪いもねぇだろそんなもん」
怒ってやろうと思ったのにチビは見当違いなことを言ってくる。チビがなにしようが、オレ様はオレ様だ。
「……言っといてなんだが、嫌がられると思ってた」
「別にイヤじゃねぇよ」
「そうか……」
イヤじゃない。もう一度宣言して、口を開く。
「……どうしてほしいんだよ?」
二度目の問いかけ。チビは観念したように呟いた。
「……いまからうちにきてほしい。嫌になった瞬間に帰って構わないから」
弱気だが、ちゃんと言えただけマシだろう。オレ様たちは並んで歩く。街灯に照らされて、影がふたつ並んでいる。
***
「つまり、チビにもわかってねぇんだな?」
「だから、そう言ってるだろ」
チビの家で膝を突き合わせて話し合っても結論は出なかった。チビは一貫して「好きなんだ『と思う』」とハッキリしない答えを繰り返した。
「好きだから隣にいたいって思ったわけじゃないんだよな……隣にいたいなって思って、理由を考えたら『好きだからか』って思っただけで」
つまり、まだどうしたいとかどうなりたいかとかはあやふやらしい。
「っていうか、オマエはどうなんだよ。俺はオマエのこと好きだと思うけど、オマエは俺のこと好きなのか?」
「あ? 知らねぇよ」
「ほら、オマエなんてそっからわかってないだろ」
「はぁ!? 最強大天才のオレ様にわからねぇことなんざあるわけねぇだろ!」
チビのことをマジマジと考える日がくるとは思わなかった。チビはチビでよかったが、どうやらそうもいかないらしい。
「んー……。嫌いじゃねぇ」
目の前の青い目をじっと見つめる。深い青にオレ様が映り込んでいて、目に映るオレ様に問いかけるように意識を広げる。
嫌いではない。好きということだろうか。確かなことは、無視ができる存在ではないということ。
「長いこと姿を見ないと変な感じになる。ラーメンを一緒に食べるならチビが一番しっくりくる。決着もつけなきゃならねぇし……それにチビの部屋は悪くねぇな。んー……あとはなんだろうな……」
そして、流石にこの年になれば自覚する。世界の中心はオレ様だが、オレ様の世界の中心にはチビがいる。
「んー、なんつーか、らーめん屋とか下僕とか四季とかとはなんか違うんだよな」
言語化するならこんな感じか。オレ様にわからねぇことなんざねえんだよ。
「……なに変な顔してやがる」
「いや……オマエけっこう俺のこと好きだろ」
「そーなのか? ああ、でも」
「でも?」
「チビがオレ様のことを好きなのは気分がいいな。くはは!」
そう、いまのオレ様の機嫌はだいぶいい。最初はチビの自己満足な告白にイラついていたが、よくよく考えればあのチビがオレ様に惚れてたんだ。惚れたら負けって聞いたことがあるし、これはオレ様の完全勝利だろう。
勝負を抜きにしたって、ちょっと満たされた。一生懸命オレ様への気持ちを口にするチビは普段と違っていてとてもいい。あの声も、あの目も、そこに宿る熱もすべてがオレ様のために存在していたからだ。
冷めたチビの目はムカつく。なら熱っぽいチビの目を気に入るのは当然だろう。
「試してみたいことがある」
「んあ?」
チビはびっくりするほど真剣な目をしていた。少し身構える。
「俺がオマエに触れたら嫌か?」
「……別に」
「……じゃあ、触るぞ。嫌だったら言うか、はらうかしろよ」
すっとチビの手が伸びてくる。それは見たことのない柔らかさで、ゆっくりとオレ様の頬に触れた。
「……嫌か?」
「イヤじゃない」
「俺は……なんか落ち着く。優しい気持ちになる」
すっと動く手がそろそろと頭に伸びて髪をさらさらと撫でる。髪を束ねていたゴムがするりと落ちたがさほど気にならない。やさしい手にまどろんでしまいそうになっていたら、チビがぽそりと呟いた。
「……やっぱ、好きなんだと思う」
「ハッキリしないやつ」
「仕方ないだろ。…………ああ、やっぱ好きだ。俺は好きとかそういうのよくわかんねぇけど、これが好きじゃなかったら嘘だって思う」
チビの手は動いて首の後ろを撫でる。心地よい手だ。いまは人間だけど、喉がくるると鳴りそうになる。
「……別に普段からこうしたいわけじゃないんだ」
「ん……」
「どうなりたいとか、これからどんどん浮かんでくるんだと思う。でもいまはこれだけ」
チビの手が離れたときに、なんだかもったいないような気がした。寂しいわけじゃない。でも、別にもう少し触れていたって許してやるのに。
「よし、じゃあなんかあったら言うから、オマエもなんかあったら言えよ」
「なんかってなんだよ」
「わからないから『なんか』って言ったんだ。…………あ、」
「ん?」
「……いっこ、あった」
気づいてしまった、とチビの顔には書いてある。その声は諦めたような観念したような、とびっきりのおねだりをするような声だった。
「気分がいいから聞いてやるよ」
ようやく出てきたチビのワガママ、これを叶えてやるのも大人の余裕ってやつだろう。オレ様のジヒに、覚悟を決めたようにチビは言う。
「……付き合いたい」
「つき……あ?」
「付き合いたい。意味わかるか?」
「アァ 最強大天才のオレ様にわからねぇことなんざあるわけねぇだろ!」
「いや、オマエは絶対にわかってない。いいか? 付き合うってのは、恋人になるってことだ」
「コイビト……」
チビはオレ様とコイビトになりたいという。オレ様はチビとコイビトになってやればいいのか。まるでニボシを前にした覇王のようなチビの言葉は、少し叶えてやりたくなってしまう。
「……嫌なら断れよ」
「別に、イヤじゃねえよ」
「嫌じゃないのか……それ、恋人がなんなのかわかってないからじゃないのか?」
「あ? 最強大天才はコイビトくらい余裕なんだよ」
さっきからこうだ。オレ様が嫌じゃないって言うとチビは困りながら安心する。なんだかますますチビになったチビの言動は普段なら腹が立つが、これがすべてオレ様のことを好きだからだって考えると悪くない。
「……オマエ、恋人になるなら、それは俺のことが好きってことだぞ。恋人ってのは、お互いがお互いを好きってことなんだから。だから、好きじゃないなら……」
「別に、嫌いじゃねえって言ってるだろ。そんで、コイビトになってやるって言ってんだ。いいから黙ってコイビトになりやがれ!」
「あ、ああ。……よろしく」
「オレ様のジヒに泣いて感謝しろよ! くはは!」
いいことをしてやって悪い気分にはならない。ましてチビの願いを叶えてやったのだから、それなりの満足感もある。よくわかんなかったことも解決して、あとはもう一日を終えるだけ。このままチビの家に泊まってしまおう。
「オレ様は風呂入る」
「えっ……あ、ああ。タオルはそこにある」
チビはまだボーッとしてるみたいだったが無理もない。おおかた、オレ様のジヒの大きさに対応しきれないのだろう。
そのうち頭がハッキリしてきたらしく、いつもの小言が飛んできた。
「……髪、あっちで乾かしてこいよ」
「うるせー。オレ様に指図すんな」
ドアを開ければ相変わらずトイレとバスタブがあって、シャワーを捻れば湯が出てくる。
コイビトってのも知らないわけじゃない。知ってても、チビがコイビトで問題ない。好きの反対が嫌いなら、オレ様は間違いなくチビが好きだから。
これからどう変わるんだろう。考える間もなく風呂を出れば、チビがタオルを持ってすっ飛んでくる。
がしがしとオレ様の髪を拭くチビを見て思う。変わっても、こんな感じなんだな。これからもっともっと変わっていくんだろうけど、きっと変わらないものはある。
オレ様に怖いものなんてないけど、なんだかひどく安心した。
---------------
4
コイビトになった翌日、チビが言った。
「恋人になったこと、誰にも言うなよ」
「あ? 最強大天才が隠し事なんざするわけねぇだろ」
「バレるとアイドルできなくなるかもしれないんだ。恋人になりたいって言ったのは俺だけど、アイドルが出来ないのも困るんだ……頼む」
じゃあコイビトになんかならなければいい。そう言ってやろうと思ったが、チビの顔が想像の何倍もつらそうだったから言うのはやめた。オレ様にだって言ってないことはある。チビにだってあったっていいし、それを守ってやるのも最強大天才のツトメだろう。
「……別に言いふらすことでもねーし。言われなくても誰にも言わねぇよ」
内緒にするし、コイビトもやめない。そう告げればチビは泣きそうなくらいホッとした顔をした。オレ様は早々に寝たからわからないが、もしかしたら昨日ずっと悩んでいたのかもしれない。
「くだらねーこと言ってないで、走りに行くんだろ? おら、」
そう言ってチビの手を取り指を絡めれば、チビの全身が固まるのがわかった。コイビトだからこうしてるのに、わからねぇやつだな。
「オマエ、その、手、」
「あ? コイビトなんだろ?」
チビほどでもないが、オレ様だって恋愛絡みの役を演る。それにやたらと少女漫画のドラマの仕事がくるチビの演技だって見てるから、コイビトの振る舞いくらいわかるんだ。手を握る、抱きしめる、キスをする。それがコイビトの全てではないと下僕は言っていたが、試してみるぶんには問題ない。どれだって、別にイヤじゃない。いまのところは。
そういえば、そうだよな。ってチビの小さな声が聞こえる。
「……もういっこ」
「あ?」
「外では、恋人をしない」
さっきみたいな困った声。でも顔はやたらと赤かった。照れてるのか、恥ずかしがっているのか、はたまた何か別の理由があるのか。真っ赤になったチビはやたらと面白かったが、オレ様はいじめっこではない。外ではコイビトをしないでおいてやろう。
「外がだめなら、中ってのは?」
「俺の家……俺の家でこういうことしてくれたら、嬉しい」
繋いだままの手を頬に当ててそっと呟いたチビの吐息が熱くって、コイビトの温度も悪くはないことを知った。
しかし、隠しごとか。少し考える必要があるかもしれない。今度は二日間だけじゃなくて、ちゃんと。
***
さて、始まった『家の中だけコイビト生活』だが、思っていたよりも快適だ。
まずひとつ、チビがオレ様の髪を乾かすようになった。
びしょびしょになった髪に小言を言わず、ただベッドサイドに腰掛けて自分の下に座れという。位置関係に文句を言ってもよかったが、おとなしく座れば新しいタオルがオレ様の髪の毛を包む。丁寧、なのだろう。チビが自分の髪を拭くよりも何倍も優しい力で髪を拭かれて、そっとドライヤーを当てられた。
強引な熱風ではなくて、使ったこともないような弱い風。その柔らかな熱は慎重に慎重にオレ様の髪の毛を乾かしていく。たっぷりと時間をかけて乾かされた髪をなんども指で梳いて、満足したように名残惜しそうにチビは手を離す。
よくやった、労ってやろうと振り向けば、そっと頬に手が触れた。こういうときの正解がわからないから、オレ様は本能に従って目を閉じた。これはきっと、大昔に親父に頭を撫でられたときの本能だ。十数年前に置き去りにした安心だ。
閉じた目の上の方、額に柔らかいものが触れる。キスをされたとわかるのに時間はいらなかった。チビは答え合わせを待っている時の顔をもっと深刻にしたような顔でオレ様の目を見つめている。チビにそういう顔は似合わないから、オレ様はすっと体を近づけてチビの頬に唇をくっつけた。その日から、オレ様の髪はチビが乾かすことになっている。
ふたつめ、寝るときに背中合わせじゃなくて向かい合って眠るようになった。
これはどちらからともなく始めたことだ。そりゃそうだ。どちらかひとりだけが向きを変えたってこうはならない。どっかのタイミングで目と目があって、逸らせなくて、でもケンカにもならずそれが日常になった。
たまに頬に触れたり、触れられたり。でもなんでかキスはしなかったり。そういえばチビはオレ様のことを抱きしめて眠るのが好きだ。チビはチビだけど、寝ちまえば関係ないからだろう。チビはオレ様の頭を抱いて眠るのが気に入ってるみたいだった。
終わりかけた夏が足掻いて夜まで熱を引きずってる。こんだけくっついたら暑くてたまらないからと、チビはあっさりとクーラーをいれた。
「チビ……いつも渋ってるくせに」
「いいだろ。恋人になれて浮かれてんだ」
「なにをしれっと……」
そりゃ暑いより涼しい方が好きだし、涼しいとこであったまるのは最高。いいことずくめを受け入れないほどバカじゃない。きっと冬になってもチビは暖房をつけないんだろう。オレ様で暖を取ることを許してやろう。
みっつめ、唇にキスをするようになった。
デコとか、頬とか、そういうところにはしてたけど、唇にするキスはなんだか変な感じがする。ってか、ケッコンするときにキスするんじゃなかったのか。
ただぼんやりと並んでテレビを見てて、コマーシャルになったからチビの方を見たらチビもオレ様の方を見ていた。ふっと、ただこういうときにキスするんだなってわかったから、顔を近づけたら、同じように顔を近づけてきたチビの目が近づいて、唇が触れた。
演技じゃないキスは初めてだった。ましてや相手がチビだなんて。それでもなんだかしっくりきてしまうことに納得してたら、チビがぽそりと言う。
「……オマエと結婚したいな」
「別に結婚しなくてもキスすんだろ。キスするたびに結婚してたらチビは何人と結婚してんだって話だ」
チビの仕事は恋愛ドラマが多い。大抵はフリだろうが、本当にキスしたことだってある。
「結婚したいやつにキスしたっていいだろ。ってか、そっちのが本当だ」
ムスッとしながらチビが言う。なんというか、こういうところは本当にガキだ。
「……結婚したいって、マジか?」
「……したい。ずっと一緒にいたい」
そういう約束がしたいとチビは言う。チビが本当に一緒にいたいやつの顔も知らずに、オレ様は言う。
「先のことなんてわかんねぇだろ」
ずっと、とか。チビだって、いま一緒にいるべき人といないように未来などなんの約束もないと知っている。それでもチビは口にするんだ。
「それでも」
チビの言う『絶対』みたいなやつってのは、こうやってふたりでつなげ合うものなんだろうか。オレ様にとっての『絶対』ってのは、オレ様の強さで、オレ様の存在自体だ。それでも、チビはこういうもんで繋がりたいと言う。くすぐったくなるような距離でチビが呟いた。
「先のこと、ひとつもわかんなくても言いたい。わかんねぇから、見失わないように誓いたい」
いつもと同じ、強くて真っ直ぐな目。
「結婚してくれ」
「しかたねーな」
オレ様が笑ってやればチビも微笑む。最後にもう一度キスをしたら、もうテレビドラマは終わっていた。
よっつめ、触れ合うことが増えた。いや、触れ合いかたが変わったと言うべきだろう。
まず、じゃれあいが増えた。冗談のように名前を呼んでじゃれあっていると、いままでのオレ様たちに肉体的接触が少なかったことを知る。気軽に肩に頭を預けたり腰に抱きついたり、最初はおそるおそる見定めていた距離が一気に近づいてコイビトという時間になっていく。別に触れ合うことだけが全てじゃないだろう。それでもこの形はオレ様たちにしっくりときた。
触ったり、触られたりは悪くない。というか、良い。触るのも愉快だが、触られるほうが気分がいい。半分猫だからだろうか、頭や首の後ろを撫でられるとぞくぞくしてたまらない。チビの顔がコロコロ変わるもんだから触るのも楽しいんだけどな。それよりもチビがオレ様で頭をいっぱいにして、オレ様が満足するように尽くすのが最高って話。
こうやって考えるといいことずくめだな。最初はチビの見たことない目がちょっと変な感じだったけど、慣れた。
そもそも全部が変わったわけじゃない。玄関でキスをして扉を開けたらオレ様たちはいつもどおりだ。走ったり、踊ったり、演技したり、ラーメン食ったり。コイビトと仲良しの違いはわからないけど、少なくともコイビトと勝負しちゃいけないって道理はない。
オレ様たちは競い合ったまま誰にも見られない部屋で抱き合う。なんだか、それが一番いいって思ってる。
***
新しい自分に出会う。咲の出した歌のキャッチコピー。
そういえば、恋愛をすると新しい自分に出会うとかなんとか。あながち間違っちゃいないようだ。
オレ様は他人とひっついたりするのはキライだと思ってたんだが、どうもそうではないらしい。チビがやりたいようにやらせていたらくっついてる時間が増えたけど、全然イヤじゃないってのは発見だった。
まぁ、確かに覇王とか他の猫とくっつくのは好きだから、体温が嫌いな道理もないか。らーめん屋もまぁそれなりの触れ合いなら許してやるが、チビには特別な距離も許してしまう。この辺は半分猫なのも影響してるのかもしれない。あったかいものはよいものだ。
そう、二日間だけじゃなくて最近考えていること。オレ様が半分猫になれるという事実。
正直、関係が変わっても『言う必要のないこと』だと思う。チビはきっと全部をオレ様に晒してはいないし、オレ様だって言いたくないことがある。
でも、最近は『言ってやってもいいこと』くらいにはなってる。正直、言ったときに被る面倒と天秤にかけてる。負い目とかじゃなく、純粋な好奇心だ。
まず、驚くチビの顔。これはいつ見ても愉快なもんだ。ふたつ、チビの家で猫になれたらかなりくつろげるという目算。
そして大きな理由──猫になって、耳の付け根を撫でてほしい、と、思ってる。
だって覇王が舐めてくるだけであんなに気持ちいいのだ。そして、覇王はオレ様に付け根を撫でられると喉を鳴らして大喜びしてる。つまり、人間の手で耳の付け根を撫でられると気持ちがいいってことだろう。
別に猫になんてならなくていい。一生ならなくったって生きていける。それでもオレ様は猫の体で浴びるおひさまだとか、耳の付け根を覇王に舐められるために猫になる。
本当に強いやつは──最強大天才は、気持ちいいことを我慢なんてしないのだ。
天秤の片側に厄介事。もう片側には想像上のチビのてのひら。
チビがオレ様のマイナスになるようなことをするとは考えられない。それにここ限定で秘密のコイビトしてるんだ。そこに猫が加わったって大差ねぇだろ。
明日は昼に収録が終わって、明後日と明々後日がオフ。コイビトの明後日はオレ様の物らしいし、明日の夜にでも猫になってみるか。
---------------
5
「おいチビ。オマエに言ってねぇことがある」
それをわざわざ言ってやるのだ。喜べばいいのにチビは微妙な顔をした。『心配と不安をちょっとに呆れがかなり』って感じの表情を見せて少し身構えたチビに「ビビるなよ」と宣言して、オレ様は布団をかぶる。なんというか、変わっていく瞬間を見せるのはイヤだった。変わってく瞬間なんざ自分でも見たことないから念の為ってのもある。変わってく途中がとんでもないことになってたらチビがビビるしな。
布団に潜ると自分の髪にくっついたシャンプーの匂いがこもる。チビもいま、おんなじ匂いをまとっているはずだ。ラーメン食って、風呂入って、あとは寝るだけでぐだぐだとのんびりする時間。これがさらにいい夜になるのかはチビの反応次第だが、どうだろうな。
こめかみでも脳天でも首でも指でも胃でもふくらはぎでもない、意識したこともないような場所に意識を集中させる。あるはずのない場所に力を入れるんだか、脳が認識していない筋肉をほどくのか。すとん、って感覚が浮遊すれば、もう頭には猫の耳だ。
「……おい、オマエ……」
いきなり布団に潜ったオレ様が気になるのだろう。チビがこれまた不安と呆れをのせた声を投げかけてくる。それに応じるように布団をまくれば、オレ様を見たチビの表情が固まった。ま、当たり前の反応だな。人にこの姿を見せたことはないが、想定内だ。
「こーいうこった。オレ様、半分猫だから」
別に半分猫というか、半分猫になれるだけなんだが。説明は難しいし、なにより面倒だ。
「……本物?」
マヌケヅラと、マヌケな声。
「決まってんだろ」
「決まってないだろ……そうか、本物なのか……」
背中を向けてしっぽも見せてやる。ついでにうなじも。ふわふわのそれを見て納得したのかしてないのか。固まりっぱなしのチビを見て、失敗したかと考えてしまう。チビには荷が重かったのか。
ガッカリしたが、これを知ったところでチビはオレ様が困ることはしない。でも、ケッコンはどうなるんだろう。別にどうなってもいいけど、チビが言ったことをなかったことにするのはムカつく。
「おいチビ、ボーッとしてねぇでなんとか言えよ」
「あ、ああ……あれだ……えっと、打ち明けてくれてサンキュ」
「サンキュってのもおかしいだろ。別に、気まぐれだし」
「そうか……」
気まずい沈黙。これだと本来の目的も言いにくい。勝手に耳がぴるぴると動いてしまったが、それを見たチビが何故か感動したような声を出す。
「おお……本物なんだな……」
「さっきからそう言ってんだろ」
動揺から脱した深い青色をした目がちょっとずつ輝いていく。そりゃそうだ。チビは猫が大好きだ。そしてこうも言っていた──猫の耳とかしっぽはかわいいけど、猫が嫌がるからさわれない──と。
「……チビ、猫の耳が触りてぇとか言ってたな?」
「えっ、いいのか?」
オレ様に泣くほど感謝しろよ。そう言う前に食い気味に返事をされる。まぁ本来の目的はそこなわけだし、話をややこしくしてもしょうがないだろう。展開としては上々だ。
「チビの手が気持ちよくなかったら猫やめるからな」
「言い方……まぁいい。それじゃ、触るぞ」
すっと手を伸ばしたチビは、おっかなびっくり耳に触れた。反射で震えた耳に一瞬だけたじろいで、そのまま付け根の方に指を伸ばす。
「これ、猫と一緒でいいのか?」
「あ? 知るかよ。触らせるやつなんていねーんだから、知るわけねーだろ」
「……わかった。痛かったら言えよ」
ベッドの上に乗っかってきたチビはオレ様を抱きしめて、チビの肩にオレ様の頭をのっけた。そのまま身を委ねていたら、そっと後頭部を撫でられる。数回頭を撫でた指は耳の付け根に移動して、やわやわと敏感な部分を撫でた。
「んー……」
気持ちいい。これは予想以上に良い。覇王が舐めるのとはまた違って、自分が掻くのとはぜんぜん違う。他人が触るからこんなにいいのか、チビが猫を撫でるのがうまいのか。考えているのは頭のすみっこだけで、喉がゴロゴロと勝手に振動している。
「……ゴロゴロ言ってる」
そりゃ言うだろ。覇王だって言う。猫は気持ちいいとゴロゴロするもんだ。オレ様はあんまりゴロゴロしない猫だと思ってたんだが、どうやら結構喉は鳴る。
抱えられていた体制を崩し、頭をチビの胸に押し付け、そのままずりおちる。腰に腕を回してくっついて、頭でぐりぐりとチビの腹を押した。指先も、体温も、良い。これは昼寝よりもやめられないかもしれない。
「んん…………おい、手ぇ止まってんぞ」
「あ、ああ。悪い」
チビはオレ様に従って耳を撫でる。気持ちいいし、ホーシされるのは気分がいい。喉がゴロゴロ言うのが止められないが、別に止める必要もないか。
「ふぁ……んー……ぅあー……」
「……風呂入ったオッサンみたいな声出すなよ……」
「うるせー。風呂なんかよりずっと気持ちいいんだよ。あー、猫になれないなんてチビはかわいそーだなぁ……」
チビの指は耳の付け根からこめかみをつたって、喉元とほっぺたをいったりきたりしてる。そこは人間のままだからやめろと言うつもりだったのだが、なんとここが気持ちいいから驚きだ。そうか、人間のままでも、猫になったら感覚が変わる場所ってのがあるんだな──チビは覇王にするように、ヒゲのないオレ様の頬を丁寧に撫でる。
「……俺はオマエが撫でられればそれでいい。……ふかふかだな」
ちょーもーしゅ、とチビが呟いた。それに反応する前に、チビの指先がオレ様の意識をふわふわと溶かす。
そのままずーっと撫でられて溶かされるかと思っていたら、チビのてのひらは移動してそっとオレ様の頭を撫でる。普段とおなじくらいやさしい手がオレ様の髪を何度も梳いた。
「髪も普段よりふわふわしてる……さっき見たけど、うなじは猫っぽくなるんだな。毛並みがある……」
髪を梳いていた指先が首の後ろに回る。さっきの喉元といい、明らかな急所なのに。
「ぅあ……そこ気持ちいい……」
なんだろう。ぞくぞくって感覚は不愉快なはずだったのに、チビが持ってくるぞくぞくはたいてい気持ちいい。そのなかでもこれはかなりいいやつだ。
「ほんとに猫なんだな。猫ってここ喜ぶから……」
首の後ろをかりかり引っ掻かれてるだけなのに気持ちがいい。オレ様は半分人間だから、覇王とかと違ってうなじには手が届く。それなのに自分で触ったときとは違う快感がある。他人の手というのは、思ったよりも特別なものなのかもしれない。理屈はわからないが、チビがいい仕事をしていることはわかる。
「やるじゃねーかチビぃ……その調子でオレ様にもっと……尽くしやがえ……」
「ぐにゃぐにゃになってる……」
チビの手はどんどん遠慮がなくなってくる。力の抜けたオレ様をふにゃふにゃと動かして遊びだすから牙を出して威嚇をすれば、名残惜しそうにまた手を動かし始めた。
「どこまで猫なのかわかんねえから、嫌だったら言えよ?」
猫になると感覚が研ぎ澄まされるのだろうか。背中を滑る手のひらも、頬を撫でる指先も、人間のときとは違って新鮮だった。人間のときだって触れあえば満足していたが、これはまた別の良さがある。背中もおなかも首筋も、なにもかもをチビの前に投げ出して喉をゴロゴロ鳴らしていた。
「ゴロゴロ言ってる……」
なぜだか幸せそうなチビの声。淀みないチビの手にホーシされるうちに、少しジヒを与えてやる気分になった。オレ様からもなにかしてやろう。
ぷに、とチビの頬に触れる。
「うわっ……オマエ……」
「なっ……んだよ……」
オレ様はいつも見たくチビに触れてやろうとしただけだ。それなのに、チビは素っ頓狂な声を出す。ただ、頬に触れただけなのに。
「……肉球?」
「あ? なんて……おいっ、なんだよ」
チビがオレ様の手のひらを取ってぷにぷにと揉んでくる。こうされるのは初めてだし、なんだろう、ここは全然気持ちよくない。
「肉球になってる。気持ちいいな……ぷにぷにだ」
オレ様は気持ちよくないがチビは気持ちいいらしい。ちょっと不満だが多少は我慢してやるか。
と、思ったが少し長い。
「……おい、しつこい」
「あ、悪い。つい……」
肉球を触りすぎたことを悪いと思ったのか、チビが露骨にしょぼくれる。なんというか、居心地が悪い。
「……そこまでイヤじゃねーけどぉ……」
良くもないが、悪くもない。いや、良いか悪いかで言えば悪いのだが、チビにこんな顔をさせるほど悪いということはない。別に、チビが喜ぶなら触らせてやっていい範疇だ。
それでも、ほしいものはもっと別にある。
「いいから、そこじゃないとこ触れよ」
額をチビの腹にぐりぐりと押し付けて、オレ様に尽くすように声を出す。チビが一言、声が甘ったるいと言った。猫になったせいだろうか。猫の状態で誰かと話をしたことがないからわからない。
返事がなくてもチビの手は望み通りに動く。一度腹をつままれたときはぺしりとはたき落としたが、背中を撫でられるのは少し落ち着く。温泉にのんびり浸かっているような、夢の淵にいるようなまどろみ。いつのまにか眉間のあたりをやわやわと撫でてきた指先は魔法みたいで、急所を触られているのに心地よさで目を開けていられない。遠くで車が走るような音が聞こえる。チビの手が喉に触れて、ようやくオレ様の喉がごろごろと鳴っていることに気がついた。
ふと、チビが手を止めて独り言のように疑問を投げかけてきた。
「そういえば……猫ならここもいいんじゃないか? チャンプとか、他の猫を結構喜ぶぞ」
思いついたような言葉。声と同時に伸びたチビの手がしっぽの付け根に触れた瞬間、からだじゅうが電流を流されたようにビリビリと痺れた。
「ひぅっ……ぅあ? え?」
ぴり、という刺激と腰がまどろっこしくなったような甘ったるい倦怠感。耳の後ろあたりがじんじんと熱くなるような、全身の筋肉がこわばる衝動。気持ちよさに少しの怖さとはちみつのような酩酊を加えたような、おそらく快楽と呼ばれる種類の甘やかな痛み。知らないはずの、知っている熱。さっきまでとは違う、チビと気持ちいいほうのキスをしているときに感じるしびれだ。
「ん、やっぱりここは気持ちいいんだな」
チビは安堵したように優しい声でそう呟いて、そのまま付け根と腰の境界をとんとんと叩いてくる。指がとん、と当たるたびに脳の裏っかわがぞくぞくして、意識を集中しないと変な声が出てしまいそうだ。
やめてほしいけど、やめてほしくない。
気持ちいいんだけど、これはまずいってわかってる。
「チビ……ぃ…………ひぁ……」
逃れようと体勢を変えたら顔を上げた先にチビの瞳があって、それを見たらもっとぞくぞくした。もっともっとくっつきたくて、もっともっと熱くなりたくて、抱きしめ合うようにチビの首に腕を回してその肩に額を押しつけた。チビがどんな顔をしてるかわからないが、のんきにオレ様が気持ちいいと思ってるんだろう。どうしたんだと頭を撫でられて、少しだけ戻った意識がどうにかなってしまえと誘いかける。誘惑に従って、その首筋に甘く噛み付いてぺろりと舐めた。
「ん……舌も猫なんだな」
「……っ!」
ざりざりと鼓膜が揺れてオレ様は初めて自分が舌まで猫になっていることを知ったが、正直ちょっとそれどころじゃない。これはだめだ。どうにかなっちゃいたいが、なってはいけないやつだ。
「……ッシャーッ!」
ゴロゴロと鳴り続ける喉を人間の部分で押さえつけて必死に言葉を出そうとしたが、喉からは猫が威嚇する時の音が出た。ゴロゴロ言っていた人間──いや、猫がいきなり牙を見せたもんだから、チビがとんでもなく驚いている。
「……悪い。気持ちいいかと思ったんだが……違ったか?」
「違……く……ねぇけど……」
はぁ、と吐いた息が熱い。ちょっと変な気分になったけど、ちょっとこれはズルい気がする。変になるキスをするときはチビだって必死なのに、これじゃ一方的じゃねーか。あとちょっとどうでもいいことを考えた。猫の舌で、変になるほうのキスをしたらどうなるんだろう、なんて。
やってみようか。でもチビがそういう気分って顔してねぇんだよな。
「なんつーか、ちょっと違う感じだった。オレ様が触れって言うまでしっぽはナシだ」
「わかった。ほら」
チビはあっさりとしっぽから指を遠ざけて耳を撫でる。やっぱりこっちならおかしくならない。アレは別物だ。
でも、そういう気分のときには触らせてやるのもいいかもしれない。脳内を埋め尽くす暴力的な気持ちよさが、ちょっとだけ頭の中に残ってる。
***
「……おいチビ! オマエいい加減にしろよ……!」
「ん?」
「何時間オレ様のことをいじってるつもりだよ!」
気持ちよかったチビの手がいまは少し、いや、だいぶうっとうしくなってきた。正直もう撫でられる気分ではない。
「まだ一時間も経ってないだろ」
「一時間も触られてたまっかよ! 言ってんだろ気持ちいいって……もーぐにゃぐにゃになるっての……てか、もう気分じゃねーんだよ」
温泉に何時間も入っていられないように、どんなにまどろんだ指先も尽くされすぎればただの毒だ。あと、飽きた。
それと、なんか気に食わない。
「……そうか」
名残惜しそうなチビの顔。さっきまでのデレデレした顔。気分が良かったはずのキラキラとした目だって、いまはなぜだか気に食わない。
だって、なんというか。
「……よっぽど猫が好きなんだな」
「ん? そうだな……猫は好きだ」
ちょっとイライラするんだよな。
「じゃあ今度は覇王にかまってもらえよ」
理由もなく気に食わない。あんなに楽しくて心地良い時間だったはずなのに、いまでは気分が萎えている。しっぽがぶわりと逆立つ感じの苛立ちではなくて、耳がぺたりとなるような、そんな気持ち。
「……なんでオマエと一緒にいるのにチャンプの話になるんだよ」
「あ? なんだよ。覇王に妬いてんのか?」
「別に妬いてない。ただ、なんでチャンプの話になるのかわからないって言って、」
「はっ! チビはよっぽど猫の耳が好きらしいからな! 覇王の耳でも撫でてろってんだ」
ぺた、と伏せた耳にチビの手が近づくから、本気で威嚇してやる。もやもやとした自分ではどうしようもない感情に支配されないように、半ば八つ当たりするようにチビに牙を見せる。
わからないけど、気に食わない。チビが困っててもお構いなし。そうやってオレ様を振り回す正体不明の感情に、チビはあっさりと名前をつける。
「……オマエ、もしかして自分の猫耳に妬いたのか?」
「妬い…………はぁ」
なに言ってんだコイツ。オレ様が嫉妬をしてると言いやがった。しかも自分の猫耳相手に、だ。
「オレ様がんなくだらねーことするわけねぇだろ! だいたいなんだよ、自分の耳に嫉妬って……」
「俺がオマエの猫になった部分だけ構ってたから、そこに妬いたのかと思って」
「んなわけねーだろ。バァーカ」
嫉妬、したのだろうか。
チビがバカみたいに喜ぶから、最初は楽しかったんだ。チビが嬉しそうでオレ様も気持ちよくて、それでよかったはずなんだけど。
「……普段のオマエよりよかったとか、そういうことじゃない」
もう一度伸びてきた手を、今度は受け入れた。
「オマエよりも猫のほうが好きとかでもない。ただ、オマエに猫がくっついたから余計に、って言うか……」
猫の撫でるのとは動きも熱も違う指先が頬を伝う。オレ様を求めている指先。
「大好きなものに大好きなものがついたんだ……なんて言ったらいいんだ。こう、カレーにトンカツが乗ったみたいっていうか……」
「カレーにトンカツ……?」
「カレーとトンカツ、好きだろ?」
「まぁ、悪くねぇよな」
「じゃあカツカレーも嬉しいだろ。でもカレーが好きな気持ちは変わらない」
「まぁ……そうだな」
「そういうことだ……俺はオマエが好きで、猫になったオマエも好きだって話」
正直よくわかんねぇけど、最後の言葉がわかったからよしとする。オレ様の機嫌は少し良くなった。
つまり、チビにとってのオレ様がますます最強になったってことだろう。惚れ直した、ってやつだろうな。
「惚れ直したか?」
「聞くなよ……そういうところだぞ、オマエ……」
「返事になってねぇなぁ?」
「……いつだって惚れてる」
「くはは! 上出来!」
褒美にチビの頬を猫の舌で舐めてやる。ざらざらする、とチビは笑った。
普段と違うのも悪くないかもしれないな。チビも喜ぶし、また猫になってやることにするか。
***
「そういえば……なんで猫になれるんだ?」
散々触らせてやった夜。猫は布団が好きだとかチビが誘惑してくるから夏用の薄っぺらいブランケットにくるまったが、堪能する前にチビに捕まって抱きしめられてしまった。チビの好きな、身長差を埋めるような抱きしめかた。胸に顔を埋める形になったオレ様の髪の毛にいくつもキスがふってくる。そういえば、髪もふわふわになってるんだっけ。堪能したいのはチビのほうじゃねーか。
「あー……なんか親父が言ってたな」
顔を上げるついでに目の前にあった首筋を甘く噛む。くすぐったそうに笑うチビに理由を話してやった。
「母親が全部猫になれるんだと。昔に猫を助けた礼? とかで」
「……礼?」
「なんか、『お礼に猫の楽しさを教えてやる』とかで、猫になれるようになったんだと」
「…………そんなこともあるんだな」
「チビも猫ばっか触ってたらなれるようになるかもな。んで、親父は猫になれねえから、オレ様は半分」
「……なるほど?」
不思議そうなチビの声。少しだけ夜目が効く猫の瞳でチビの顔をじっと見る。疑ってはないが驚いてるって表情を眺めてたら、オレ様の視線を感じたチビがぽつりと漏らす。
「……本当に、オマエが猫じゃなくても好きだからな」
「もう聞いたっての、バァーカ。……オレ様はチビの大好きな大好きなカレーで、猫の部分はトンカツなんだろ?」
変な例え話。ちょっとだけ言葉が途絶えて、オレ様とチビは同時に吹き出した。
---------------
6
恋人が猫である。名前は牙崎漣。ついでに言うと俺は大河タケル。
猫と言っても、厳密には人間と猫の中間というのが正解か。ゲームに出てきそうな獣人に近い。全体的にもっとふわふわなんだけど、昔やった仕事のザザキに近いと言えば近い。
なんで猫になるのかの理由は聞いたけどよくわからない。まぁ、コイツが突拍子もないのはいつものことだ。どんなに素っ頓狂なことをされても「コイツなら仕方がない」と受け入れてしまう。惚れた弱みとは少し違う、ある種の達観だ。
それに、猫になったコイツはとてもよい。
神に誓うが、コイツが猫にならなくたって変わらずに愛しているが──俺はコイツも猫も大好きなのだ。
まず、ふわふわになった耳がかわいい。もふもふのしっぽもかわいい。ぷにぷにの肉球になった手のひらもかわいい。猫の毛並みになったうなじもかわいい。そしてなにより、俺に撫でられて、俺の手で気持ちよくなってる恋人は、かわいい。
そんな恋人がいま、長くてふわふわのしっぽを俺の腕に絡めながらそっぽを向いている。アイツの視線は手元の台本にあるくせに、耳だけがたまにこちらを伺うようにぺそりと動く。シルエットがイカに似てるから、イカ耳って呼ばれるアレだ。
おい、と呼びかけても気のない返事。猫の耳がぴるぴると動くだけ。それでもしっぽは付かず離れず、俺の腕を気まぐれにくすぐってくる。でもそのしっぽに触れようとすると、暴れるしっぽが俺の手をはたき落とす。触りたいだけで、触られたくはないらしい。とんでもないワガママだ。そんなワガママを『かわいい』って思ってしまう。
普段から思っているわけじゃない。それでも、家の中だけと決めた『恋人』の時間では、『かわいい』と思うことが多い。普段『かわいい』か『かっこいい』かで答えるなら『かっこいい』んだけど、これはどういう仕組みなんだろう。
猫になっている時間はかわいいが増える。スキンシップが増えて、甘えた声をよく聞くようになる。俺をからかうような、試すような、偉そうで少し幼い声。
片手間に構おうとするのが機嫌を損ねているのだろうか。ゲームをしていた両手を片方空けて、少し背中を撫でてみる。ぴん、と一瞬だけ耳が立ったが、またふにゃりとしてしまう。腕から離れたしっぽがゆらゆらと揺れている。
「…………おい」
「……んー?」
相変わらず、気のない返事。まるで、オレ様はオマエなんて気にしたこともありませんよ。みたいな。
こういうとき、感情がちぐはぐになる。いますぐゲームなんてほっぽりだして抱きしめたい気持ちと、こんなワガママは無視してゲームに没頭してしまいたい気持ち。なんでもコイツの思うままにしてやりたいのに、コイツの思い通りになるのが嫌、みたいな。
コイツのうなじをちらりと見る。ついコイツがどうしてほしいかを考えてしまうんだけど、俺はどうしたいんだろう。
操作をやめたゲーム画面が少しだけ暗くなる。このまま放っておいたらスリープモードになってしまうだろう。さて、どうしようかと迷う指先にもう一度しっぽが絡んだ。
する、と動くしっぽに触れても視線は台本から動かない。焦らすのも、焦らされるのも好きじゃない。
「……俺、バカだから。言ってくれないと動けない」
ゲーム機を置いてそっと距離を縮める。聞くのは無粋なのかもしれないけど、コイツの嫌がることは絶対にしたくないから、ちゃんと声に出してほしい。
「チビはどうしたいんだよ」
「オマエの目が見たい」
触れたい。でも、それよりも瞳が見たい。コイツは何事もなかったかのようにこちらを向いて、しれっと言う。
「……で?」
絡んだ目は嬉しそうで、試すようで。
「……触りたい」
「くはは! 好きにしろよ」
許してやる、とコイツは笑う。なんか、ちょっと悔しい。してやられた、みたいな。
コイツはたまにこういうことをして、俺はまんまとそれに乗っかる。いや、いつも乗っかるわけじゃないけど、コイツがしつこくしっぽを揺らすからなかなか無視はできないのだ。「撫でろ」って素直に言ってくる子猫みたいにかわいい日もあるんだけど。基本的に思考が『オレ様が触らせてやってる』ってスタンスなんだよな。撫でられて気持ちいいのは自分のくせに。
まぁ俺もコイツを撫でられるのは嬉しい。でもそのまま乗っかるのはなんか悔しい。腕を掴んで引き寄せて、少し強引に抱きしめる。コイツは猫のときに触られるのが好きな場所ってのがあるけど、そういう耳の付け根だとかうなじだとかは無視して、わざと腰を撫でた。
「……違うだろ」
「好きにしろって言っただろ」
そのまま腰からしっぽの付け根に。少しからだを緊張させたコイツを無視して、そのまま太ももに指を這わせた。
「そーいう気分じゃねーんだけど」
「俺がそういう気分だって言ったら、嫌か?」
「……別に」
ふい、と顔を背けられてしまう。なんだかその仕草にキュンときてしまい、我ながら自分のツボがわからない。
指先を逸らしてうなじを撫でる。少し気持ちよさそうに喉を鳴らしたコイツが笑う。
「……エロい気分じゃねーのかよ」
「オマエがエロいことしたいなら」
そうじゃないならこうやって触れているだけで幸せだ。いや、俺にだって気分はあるけれど、いまはオマエとこうやって愛し合えるならなんだっていい。
全部は言わなかったけど、いまはこうしていたいと伝えたら上機嫌な喉がくるると鳴った。コイツの言う『ホーシ』に対する『ホドコシ』なのだろうか、ぷにぷにの肉球になった手のひらでほっぺを包まれて、ざらざらになった猫の舌でおでこを舐められた。唇に触れないあたり、今日はこういうふれあいがしたいのだろう。俺だってなにがなんでもエロいことがしたいって気分じゃないから、のんびりとコイツと抱き合うことに決めた。猫みたいに柔らかくなった髪の毛を梳いたり、体温の高くなったからだをゆっくり撫でていたら、だんだん満月のような瞳が蕩けてくる。
「……眠いか?」
ただでさえよく眠るコイツだが、猫になるとそれがより顕著になるらしい。問いかければぼんやりと惚けた声が返ってくる。
「んー……」
「寝てもいいぞ。布団行くか?」
「ここでいい……おい、ちゃんと撫でてろよ……」
そういってコイツは俺の肩に頭を預けて眠ってしまった。構ってほしいくせになかなか触らせてくれなくて、抱きしめたと思えば眠ってしまう。今日はとことんワガママな日だ。俺はコイツのワガママの大抵は愛おしいし、コイツは俺のワガママに目を細めて笑う。気分があわないときはどうしようもなくあわないが、だいたいうまくやっている。
コイツの背中を撫でながらテレビを付けた。くっついた部分がじんわりとあったかくって、幸せの温度はコイツの体温と同じなのだと知る。
のんびりと、このまえ出演したバラエティを見返しておこう。もちろん、ワガママな猫を撫でるのは忘れずに。
---------------
7
俺は酔ったアイツの表情を初めて見たときの感情を覚えている。その瞬間、年の差を思い切り意識させられたことも。
アイツは成人したばかりで、酒の出る打ち上げに参加した。俺は参加できなかったのをよく覚えてる。たったひとり、円城寺さんのいない男道らーめんでおやっさんの作るラーメンをすすりながらぼんやりと二人のことを考えていた。俺がまだ十九歳だということと、アイツがもう二十歳だということを。
ガタタ、とスマホが振動する。なんとなく、カバンに入れっぱなしにはしなかった。円城寺さんからのメッセージは簡潔で、アイツが酔い潰されたこと、自分とプロデューサーが二次会に出るからアイツを回収して保護してほしいということがわかりやすく書かれていた。
酔い潰された、という言葉は酔いつぶれたという言葉よりも容易に俺の意識に染み込んだ。煽られればすぐに反応するアイツのことだ。きっと目を離した隙に、面白いように飲まされんだろう。
見知った街の、行ったことのない店。円城寺さんがでろでろの酔っぱらいを抱えていて、プロデューサーが偉い人に頭を下げている。こういうの、大人の領分だって言われて立ち入らせてもらったことがない。そこに片足突っ込んで潰されたアイツを受け取って、俺の家にひっぱって帰った。
「おい、しっかりしろ。歩けるか?」
「うるえ……オレさまあ……さいきょうなんだ……」
普段だったら絶対に借りない俺の方に全体重を預けてふらふらとコイツは歩く。身を潜めた太陽の代わりに月がコイツの青白い首筋を照らしていて、ときおり街灯が真っ赤な頬を映し出した。
「……ちびぃ……きょうぁな……オレさまのかちだぜぇ……くはは……」
「…………俺は参加できなかっただろ。勝負もなにもない」
参加しなかったんじゃない。参加できなかったんだ。じりじりと背中が焦げ付くような感覚に、なにも考えていない酔っ払いの声が響く。なんだか、ひどく甘ったるい声だ。
「ちびっ……ちびぃー……」
俺のことを繰り返し呼ぶ声はずいぶんとご機嫌だ。意味もなくただ俺だけを呼ぶ声は、遠い記憶を連れてくる。肩に乗っかっているのは一足先に酒が飲めるようになったコイツなのに、なぜだろう、いらだちよりも愛おしさが記憶と紐付いた。
もう少し身長が伸びてたらコイツを引きずらずに済んだんだけど、残念ながら靴の先はすり減ってしまったに違いない。ようやく我が家に放り込んだコイツは床で溶けていて、俺が水を飲まそうとしても要領を得ない。
なんだかふにゃふにゃと笑ってる。ひどく幼い表情だ。散々飲まされたくせにこんな顔をして笑うのはなんでなんだろう。繰り返し俺の名前を呼ぶのはなんでなんだろう。コイツに感じたことのない、この気持ちはなんだろう。
いまならわかる。きっとあのとき、俺はコイツをかわいいって思ったんだ。
酔ってるコイツはかわいい。コイツは特に酒を飲むのが好きというわけではないけど、たまに共演者とかにもらった酒を俺の家で飲むようになった。恋人になってからだ。
──恋人になるまえは飲まなかった。俺の家で飲んだら円城寺さんに申し訳ないし、円城寺さんと飲めば飲めない俺を仲間外れにするみたいだからだろう。
俺が入り込めない場所でこの表情を見てる人間がいる。それは少し複雑な事実だ。でも、こんなに楽しそうに飲んでいるのは俺の家だけのはずだ。円城寺さんから聞くコイツの飲み方と、俺が見ている飲み方は別のものだった。
つまり、コイツの酔い方は知っているんだ。だから、この状況だって対応できる、そのはずだった。
でも今日のコイツは酔い方が違う。それもそうか。コイツはいま酒じゃなくて、マタタビに酔ってるんだから。
***
単純な好奇心を抱いたのは俺だったのか、コイツだったのか。
「そういや、猫ってマタタビで酔っ払うよな」
猫はマタタビで酔っ払う。それはもう気持ちよさそうに。その日は確か、仕事の帰りにチャンプにマタタビをあげに行ったんだっけ。
コイツはマタタビを知らなかった。俺は知っていたけど猫にあげたことはなかった。
俺がいつも行く猫カフェは猫にマタタビをあげてはいけない決まりだから、チャンプにやろうと帰りがけのペットショップで初めてマタタビを買った。
チャンプは気持ちよさそうに喉を鳴らして、俺の足や手に額を擦り付けて可愛らしい声で甘えてくる。撫でてやればいつもより気分がいいらしく、ころりとお腹を見せてきた。チャンプはなかなかお腹を見せてこないから、思う存分撫でさせてもらう。それをアイツはじーっと見ていた。
「……半分猫だと、どうなるんだろうな」
お互い風呂上がり、あとは寝るだけ、そんな状況でポツリと浮かんだ疑問は二人のものだ。考えるのは性に合わないコイツはすぐに軽率なことを言う。
「……試すか」
ぽつりと呟いて、お決まりになった儀式のように布団に戻るコイツを引き止める。コイツは気持ちいいことが好きだから、かんたんに猫になろうとしてしまう。
「待て。もしオマエのからだに良くなかったらどうするんだ」
「あ? オレ様のからだなんだから関係ねぇだろ」
明日はオフだ。そう言って布団をめくったコイツを羽交い締めにする。
「オマエになにかあったら俺がつらい」
「んだよ……オマエはオレ様のなんだってんだ……………………コイビトか」
「そうだ。恋人の心配くらいする」
そのまま抱きしめていたら腕の中のコイツはおとなしくなった。だらん、と力を抜いたコイツは人間のままでも猫のように柔らかい。
「……酒は平気なんだからいけんだろ」
「オマエはそう思ってても、酒を飲んだオマエはわりと平気じゃないぞ」
酒を飲んだオマエはぐにゃぐにゃだ。
「オレ様が酒ごときに負けるわけねぇだろ。ってか、マタタビにも負けねぇし」
諦めが悪い。ため息一つを吐いて、抱いたまま布団に飛び込むつもりだった、のだが。
「……マタタビもらった覇王は楽しそうだったなぁー?」
「……そりゃそうだろ。猫はマタタビで喜ぶんだから」
「覇王はよくてオレ様はダメなのかよ」
でた。コイツはたまに、俺に駄々をこねるようになった。コイツはワガママを言ってるだけのつもりでも、俺はこういうワガママに弱いんだ。なんでだかわかんないんだけど、コイツのことがとんでもなくかわいく思えてしまう。
「……だから、オマエを心配して」
「覇王は心配じゃねーのかよ」
「チャンプは猫だろ? オマエとは違う」
「つまり、猫にマタタビってのは大丈夫なんじゃねーか。んで、人間のオマエはマタタビでどうにかなっちまうのか?」
「なるわけないだろ」
「猫は大丈夫、人間も大丈夫。つまり猫と人間であるオレ様も大丈夫ってこった」
なんでこういうときだけ理屈っぽくなるんだよ。どんだけマタタビが吸いたいんだよ。コイツは浮世離れしているけど、こういうとこはちゃんと貪欲だ。そう、コイツは気持ちいいことが好きなんだ。
「……気持ちいいのが好きなんだろ」
「チビだってそうだろ」
「……気持ちいいほうのキスしてやるから」
「やーだ。マタタビがいいって言ってんだろ」
マタタビに負けた。恋人としての──いや、男としてのプライドが、ふかふかの肉球で踏みつけられてしまう。
そこそこのショックを受けているうちにコイツはするりと腕から逃れて布団をかぶってしまった。そうなると、布団をめくってコイツが見られたくないと思っている変化を目にするわけにはいかない。諦めながら眺めた布団からは、少しして猫耳を生やした恋人が現れた。相変わらずかわいいのがちょっと悔しい。
「チビ、マタタビ出しやがれ!」
こうなったらもうコイツは譲らないだろう。まぁ、コイツの言うことも一理ある。俺の心配しすぎなのかもしれない。
「……木と、粉がある」
言ってしまって気がついたが、粉は普通に絵面がヤバい。
「粉」
ヤバいんだって。
「オマエ、それはちょっと見た目が…………ああ、もういい」
多分舐めやすいのは粉だろう。粉よりも木を舐めるコイツのほうがヤバい気もするし、もう思考とかを全部投げて、コイツが転がるベッドの縁に腰掛けた。
手のひらにマタタビの粉末を少し出してコイツに差し伸べる。チャンプにはちょっとだったが、コイツのからだの大きさを考えたらこれくらいだろう。ケチケチするとコイツが勝手に取り出す。それならある程度の量を最初に差し出したほうが安全だ。
なんのためらいもなくぺろりと粉を舐めるコイツを見て、コイツの手のひらに直接出せばよかったと後悔した。猫のざりざりとした舌が俺の手のひらを這う。それ自体はむしろかわいいのだが、何度も言うように絵面が大変だ。寝っ転がったまま少しだけ頭を持ち上げて、ベッドの上に置いた俺の手のひらをぺろぺろ舐めるコイツは半分は猫だが半分はコイツだから、猫のように愛でるだけってことは出来ない。愛でるだけの存在ならどれほどいいだろう。これはちょっと後ろめたくて、でもとびきり甘やかなもののような気がしてしまう。背徳感ってやつだろうか──正直、少しだけドキドキする。
だって、ベッドに寝っ転がって、低い位置にある頭が高さで舌を出して舐めてるんだ。別に舐められてるのは手のひらなんだけど、ちょっと視覚的にこれはイケない。ふらふらと揺れているしっぽまで、なんだかセクシーに見えてしまう。そして、ふと思い出す。コイツが酔っ払った時の顔、ちょっと色っぽいんだよな。
じゃあマタタビはどうなんだろう。未だに手のひらを舐めているコイツの喉を指で少し触ったら、変化が目に見えてわかった。
ちょっとびっくりするくらい、喉がごろごろと鳴っている。
これ、相当気分がいいってことだよな。だって少し触れただけでもごろごろって振動が伝わってくるんだ。
「……おい、オマエ」
コイツが一言も喋らないのも心配だ。もう手のひらにマタタビが残ってるとも思えない。それでもずっと手のひらを舐めているものだから、空いている手で軽く制す。
「もうないだろ。足りないなら足すから」
「んん……くるる……」
「ん?」
コイツ、いま「くるる」って言わなかったか?
ちょっとびっくりしていたら、舐められていないほうの手が急に捕らえられた。そのまま腕を引っ張られて、引きずり倒されてしまう。
「おい、オマエっ……」
「んー?」
ぱちりと目があう。気がつく。一番目につく変化がそこにあった。
ありえないほど瞳孔が開いているのだ。普段は人間味の薄い蛇のような目が、くりっくりのまんまるになっている。
これは大変なことだ。大抵の猫好きはこの目が好きだ。この、まんまるの黒目がくりっくりになったこの状態が。いや、猫の目は瞳孔が閉じていてもかわいいんだけど。普段とは違うコイツの見た目にぐっときた。きてしまった。
「ちーびぃ」
ちょっと開いた口から、とてもご機嫌そうな声が聞こえる。そういえばチャンプもマタタビで遊んでるときはちょっと口が半開きだった気がする。いまいち締まりきってない口からは赤い舌が覗いていて、唇の薄さとのコントラストにめまいがした。
「なーぁ」
くりくりの目が少し細まり、とろけたようにコイツは笑う。これはどっちなんだろう。問いかけのようにも聞こえるし、甘えた猫の声にも聞こえてくる。なぁなぁと声を出しながら、コイツは腕を俺の首に絡めて抱きついてきた。俺はガッチリとホールドされる。
そしてコイツはそのまま腰のあたりを蹴ってくる。流石に人間の全力ではないが、それなりに衝撃はある。
これあれだ、いわゆる猫キックだ。
「痛っ……おいオマエ、酔ってるだろ」
そして大変なことに、その酔い方は人間の酔い方ではなくて、猫のそれだ。いま、俺は恋人ではなく猫にじゃれつかれている。俺よりもデカい猫に、だ。
腕から逃れて腰のあたりを掴む。思った以上にぐにゃぐにゃのコイツはろくに抵抗しなかったから、抱きかかえたまま上半身を起こして座る。向かい合わせてだっこしたコイツは俺の腰に足を絡めてまたごろごろと喉を鳴らした。
「……大丈夫か?」
「んぐる」
「んぐるってなんだよ」
コイツは酒が弱い。そしてまたたびにも弱かったみたいだ。少量から始めるべきだったのかもしれないが──効果が出るまでコイツはマタタビに手を出すだろう。あれは適量だった、と思いたい。
「んーるる…………るぅ……ぉい、ちびぃ」
猫の言葉半分、人間の言葉半分で俺に呼びかけてくるコイツの目はくりくりしていて子供っぽいのにひどく甘い。額を肩にぐりぐりと押し付けてくるのは猫の時の癖だ。片方の手で抱きかかえたまま、もう片手で耳の付け根をすりすりと撫でる。コイツはここが大好きだ。数回撫でるとコイツは頬を擦り寄せてきて甘えたように笑う。お望み通り、頬も撫でる。ついでに、喉元も。
手にマタタビは残っていないはずなのに、撫でていた手がまたぺろりと舐められた。おとなしく舐められていたら、少し落ち着いたのだろう、コイツがちょっと閉じてきた瞳孔をこちらによこして口にした。
「チビぃ」
「ダメだ」
「まだ何も言ってないらろ」
「どうせマタタビを足せとか、木のほうもよこせとかだろ」
「わかってんならよこしやらぇ!」
ぎゅう、と抱きついてきながらそんなことを言う。俺が言うことを聞く気になっても、これじゃ取りにいけないだろ。いや、もうやらないけど。どうしたものかと考えていたら、首筋に猫の舌が這う。ざらざらしてて、ぞくぞくする。そのまま肩を掴まれて押し倒された。ごろごろと喉を鳴らしながら首に柔らかく牙を立てられると、またぞくぞくしてしまう。でも、今度のぞくぞくには少しだけ恐怖が混じっている。たまにコイツは俺のことを食べようとしてるって思うんだ。
別にコイツがそう言ってたわけじゃない。多分そう思ってすらいない。でも、多分『本能』って牙はいつだって剥き出しで、そういう酩酊はそれを容易く安っぽい蛍光灯の下に曝け出す。
多分コイツが半分ライオンで、もっともっとバカで、気が狂うほど俺のことが好きなら、もう何十回も食い殺されてるんだろう。でもコイツの半分は猫だし、バカだけどバカじゃないし、俺のことを愛してるから甘噛みで済んでいる。
シンプルな生き物は好きだ。本能に本能が呼応して、戦ったり、怯えたり、欲情したり、愛したりするんだ。
「ちび」
瞳孔の定まらない猫の瞳。まだ夢に留まっていたいと囁くざらざらとした舌。自分だけがシラフなのが馬鹿らしくなってきた。俺だってコイツに溺れたい。けど、正解がわからない。
「……くははっ! 油断したなぁ!」
ぱっと俺から体を離したコイツはベッドに転がっていたマタタビの粉を手にとった。ついでみたいにマタタビの枝も。
コイツは手のひらに粉を出したかと思うと、ベッドにコロンと転がってしまった。そのまま甘い声で俺を呼ぶから、俺は近寄ってお腹を撫でてやる。普段は引き締まった筋肉に覆われている固い腹はなんだかたるたるしている。チャンプと一緒だ。
「んー……んるる」
猫はかわいい。コイツだってかわいい。でも、猫になったコイツをどう愛でていいのかちょっとわからない。コイツは全く気にしていないけど、人間の見た目で猫のように酩酊するコイツを見てると、なんだかひやひやする。本人にそんなつもりはなくても、なんとなしにインモラルな印象を抱くのだ。そういうの、人間の定義とか、矜持とか、なんか色々難しいことと結びついてて紐解けない。最終的に俺はバカになるほうを選ぶんだ。そのほうがコイツだって喜ぶから、二人でバカになっちまおう。
愛で方を少し迷うだけで、どんなコイツだって愛してる。それだけハッキリしてれば、なんだっていい。
腹をこちらに見せて寝転ぶコイツをそっと組み敷く。猫のくりくりとした目が、瞬間的に人間の欲に染まった。
「……人間のと、猫の、どっちが好きなんらろ」
ぺろりと舌を出して問いかけてくる。幼児じみた呂律と内容は噛み合わない。
「オマエが好きだ」
その舌を絡め取って口内を犯す。ざらざらとした舌がちょっと痛い。
しばらくキスをしていたら、すっかり瞳孔が細くなったコイツが言う。
「……マタタビ、もー効いてねぇんだけど」
マタタビは時間が経つと酔いが醒めるらしい。そういえば、チャンプもある程度したら『なんにもありませんでしたよ』って顔をして平然としてたっけ。
「…………マタタビ、もっといるか? それともこのまま続けるか?」
「マタタビって言ったら拗ねるだろーが」
「拗ねない」
「マタタビに妬いただろ。だっせぇ」
なんだか見当違いのことを言ってコイツは笑う。いつかの言葉に重ねたんだろうか。
「寝るって言われたほうが拗ねる」
「じゃあマタタビ」
意地悪くコイツは笑う。別にいい。拗ねてなんかいない。そういうことなら、俺はそういう愛し方をするだけだ。
「撫でんのサボんなよ。セーシンセーイ、尽くしやがれ!」
そう宣言したコイツは、もう尽くされる気しかないらしい。マタタビも放ってただ寝っ転がったコイツの目の前で、マタタビの粉末をぺろりと舐める。
「うぇ……なんだこの味」
「チビにマタタビの味はわかんね……んんっ」
マタタビまみれの舌で唾液を移すように口づければ、コイツの目がどろどろに溶けていく。でも、コイツはいま、そういう愛され方をする気分じゃないんだろう。ちょっとだけ面白くなさそうな顔。それでも文句を言わないのは、俺が気持ちよくなるなら受け入れてやろうという気があるからだろうか。
唇を離してそっと抱きしめる。横に寝っ転がって、肩のあたりにコイツの額が当たるように抱きしめる。寝っ転がって抱きしめると、コイツのつむじが見えて少し楽しい。そのまま目の前の耳の付け根を撫でれば、くっついた部分からごろごろって喉が震える音が聞こえる。面白くなって薄っぺらい耳に柔らかく噛み付いてやった。チャンプにやったら絶対に嫌がられるからやらないことも、コイツにはしてしまう。不愉快なんだろう、噛んでいないほうの耳がぺたりと伏せた。
文句を言われる前にうなじを撫でる。猫の毛が生えてふわふわになったうなじをたっぷりと撫でたらそのまま手を滑らせて、背中を何度かさすってやった。
「んるる……んー……」
基本的に、触れてほしくないところ以外は触られたら嬉しいらしい。マタタビの効果も相まってコイツの嬉しそうな甘い声は途絶えない。少しいたずらしたい気分になって、しっぽも撫でてやる。
「あっ、テメェ、っ……あぅ……」
しっぽは触られてほしくないんだろうが、しっぽの付け根は別のようだ。トントンってしっぽの付け根を叩いてやると、声に別の甘さが混じる。
「んぁ……あぁっ……ぅ……」
喉はごろごろと鳴りっぱなし。目は蕩けきっていて舌がチラチラと覗いてる。かわいい、と。口にした気はなかったが、声に漏れ出ていたらしい。コイツはちょっと眉間にシワを寄せる。かわいいって言葉には許されるタイミングと許されないタイミングがあって、どうやらいまは後者のようだ。
「んっ……ウゥー……」
ちょっと威嚇されてしまった。この単純で気難しい王様を甘やかすのは骨が折れるが本当に愛おしい。それでいてずいぶんと楽しいのだから、俺はもしかしたら尽くすタイプの人間なのかもしれない。もっとも、本気でコイツのことを食い散らかしたいと思うときが来たら、わからないけれど。
お望み通りに気持ち良い場所を全部を撫でて、かわいらしいところ全てにキスを落とす。俺の腕の中でぐにゃりと形状を失っていく猫の体が柔らかすぎて怖いほどに気持ちいい。もともと体は柔らかいやつだけど、こうなると本当に猫と大差ない。関節とかが何個かなくなってないか心配になってくる。
触る俺と触られてるコイツの間には、面倒だとぶちまけたマタタビの粉や枝が散乱している。俺にはわからないマタタビの匂いが充満しているのか、コイツの酩酊は醒める気配がない。
シースに散ったマタタビをコイツが舐め取ってしまわないように、定期的にキスをして舌を塞いだ。意図は伝わったらしく、一度だけ俺の舌を甘噛みしたコイツはマタタビを舐めようとしなくなった。代わりに、俺の皮膚が見えているところ全部を舐めてくる。
じゃりじゃりしていて、この舌の意味を思い出す。これは獲物の骨から肉を削ぎ落とすための舌だと山下さんが言っていた。全部残さず食べてしまいたいのは俺も同じだが、今日のコイツは食べられたいわけじゃない。我慢しなくちゃ。
やがてコイツの舌が止まって、ぐりぐりと額が手や胸に押し付けられる。
「んぁ……ちびぃ……くるる…………なぁー……」
眠そうな言葉。数回おでこと髪にキスをしたらコイツはそれきり眠ってしまった。自分勝手なやつなのか、それで俺が喜ぶことを知っているのか。わかりはしないが惚れた弱み、そんなコイツが好きなのだ。
「……片付け、明日でいいよな」
コイツを抱きしめ直して俺も眠ることにした。あと一年、俺が酒を飲めるようになったらどうなるんだろう。
一緒にどろどろに溶けちまってもいいけど、どうだろうな。
俺、酒は強いほうだと思うんだよな。
---------------
8
「年上の恋人っていいよな……」
隼人さんの唐突な言葉に一瞬ドキリとする。事務所のソファで横に座る隼人さんはゲーム画面を見ながらぼんやりと呟いた。
俺は何気なく真正面の空中を見ていて、その視線の足元には向かいのソファに転がったアイツが寝てる。俺の、年上の恋人が、だ。
「……例えば?」
「えっ、えーっと……なんか、包容力があるっていうか、甘えさせてくれそうじゃない?」
ちょっとウキウキした隼人さんの言葉は具体的な人物を思い描いているわけではなく、イメージだろう。そのイメージを借りてみるが、目の前で豪快に口を開けて寝ているアイツとは少しズレている。
まぁ、包容力というよりは寛容なときがあると言ったほうが正しいのだろうか。似たようなものだろうが、ちょっと『包容力』って単語がアイツに似合わないんだよな。アイツはどちらかというと、こちらのワガママを「良きに計らえ」と笑うタイプだ。
そう、アイツはそれなりにワガママを聞いてくれる。どうしてももふもふしたものを撫でたいときなんかは頼めば猫になってくれるし、甘えたいときには笑って受け入れてくれる。まぁアイツだって人間だからよっぽど気分が乗らないときは断られるけど、それはお互い様。
適度に甘えてくる年上の恋人、もしかして最強なのでは? まぁアイツは最強大天才なんだけど。
「……隼人さんは年上の人と付き合いたいのか?」
「あっ、いや……誰と付き合いたいとかはないんだけど……」
隼人さんはもう売れっ子アイドルでとっくにモテてるくせに、まだモテたいと言っている。そして、相変わらず恋愛になると具体的なイメージはないのだ。
「年下は嫌なのか?」
「いや、年下はかわいくていいと思う……」
同感だ。ただきっかけがきっかけだから、アイツが年下だったら俺は未だにアイツへの気持ちが定まっていないかもしれない。それでも、やっぱりアイツにたどり着いていたとは思うんだよな。
「結局、好きになったら年とか関係ないんだろうな……」
「それはそう。本当にそう」
ぼやぼやとした恋愛観にひとまずの決着をつけて二人で笑い合う。そんなことをしていたら、円城寺さんがやってきた。
「あ、道流さん」
「隼人じゃないか。今日はひとりか?」
「タケルにゲーム貸しに来て、ついでにちょっと遊んでるとこです」
「通信してた……そうだ、円城寺さん」
「ん? どうした、タケル」
包容力ってのは、こういう人のことを言うと思うんだけど、そういう人でも甘えたいと思うのだろうか。
「円城寺さんは付き合うなら、年上と年下、どっちがいい?」
「あ、俺も気になります」
円城寺さんは突然の質問に面食らったようだ。んー、となにやら唸っている。
「道流さんは年下の子を甘やかしてるイメージがあるんですけど」
「そんな円城寺さんも年上の人に甘やかされたりしたいもんなのか?」
正直、どっちがきてもイメージと違うくせにしっくりきてしまう。そんな俺たちに円城寺さんは、ニカッと笑ってこう答えた。
「自分は……年上のしっかりものをうんと甘やかしてやりたいかな」
「…………勝てない……」
「流石だ、円城寺さん……」
はは、と笑って円城寺さんがアイツに近寄り歌い出す。俺の恋人が文句をいいながらしぶしぶ目を覚ました。
***
年上の恋人。
言われてみればそんな称号がコイツにはくっつくのか。年上の恋人ってちょっとドキドキする響きがあるけど、コイツにはそういうドキドキを抱いたことはない。
包容力ってタイプじゃない。でも、何かを受け入れる器はちゃんとある。わがまま放題に見えて線引はしているし、俺が甘えたいときにはちゃんと甘えさせてくれるというか。
俺は別にコイツが猫になれるから好きなわけじゃない。だからコイツが進んで猫になるとき以外は求めないようにしてるけど、どうにも疲れ切って、どうしても猫が触りたくなって猫になってほしいと頼んだときが何回かある。そのときも、なんだかんだ叶えてくれたのだ。
人間のコイツを抱きしめたって癒やされる。もちろんだ。でも猫からでしか得られない癒やしというものも確かに存在するわけで、どうしてもぷにぷにの肉球やふわふわのしっぽに触れたいときが男にはある。男はあんま関係ないな。猫好きにはそういうときがある。
そういうとき、なんだかんだ言ってコイツは願いを叶えてくれるのだ。文句を言ったり偉そうに笑ったりとモーションを挟むけれど、俺のわがままは無下にされることのほうが少ない。というより、ほとんどない。まぁ俺はあんまりわがままを言わないからってのもあるけど、コイツが俺のわがままを受け入れるってのは一種の感動がある──コイツのわがままを俺が叶えることに対して、コイツがどう思ってるかはわからないけど。
疲れているときに触れる猫の柔らかさは癒やしだ。半分と言えどそれはもう癒やされる。おとなしく俺に撫でられてるコイツってのにも癒やされる。俺は疲れてるとき、猫を撫でたがる。
だから、今日もコイツは俺を見て、猫を欲していると思ったんだろう。
今日は疲れてたわけじゃないけど、年上の恋人って話になって少しコイツに甘えたくなってしまった。俺の甘え方は単純だから、そっとそばに近づいて肩に頭を預けた。コイツはなんとも思ってない顔で数回俺の頭を撫でて、仕方ねぇなと笑ってみせた。
猫になってくれるのだろう。布団をかぶろうとしたコイツを後ろから抱きしめる。
「あ? どーしたんだよチビ」
せっかく猫になってやろうってんだ。行動を止められたコイツはちょっと意外そうな声を出した。
「……今日はこのままでいい」
もっと強く抱きしめる。コイツは脆くなんてないから、加減せずに、わがままに。
「珍しいじゃねぇか。チビ、猫好きなくせに」
「……オマエが好きなんだって言ってるだろ」
猫が大好きだ。でも、それ以上に俺はコイツが好きで、たまには単純に『年上の恋人』に甘やかされてみたくなって。
「くはは! そんくらい最強大天才のオレ様は知ってんだよ。バァーカ」
絡めた腕がぺちぺちと叩かれたので力を緩めたら、あっという間に脱出したコイツに抱きしめられてしまう。わしゃわしゃと乱暴に俺の髪を撫でて、ずっとくっついてくれる。
コイツは基本的に『ホーシされる』のを好むけど、『ジヒを与える』のも嫌いじゃないんだよな、たぶん。
ただ、コイツの『ジヒ』にはなかなかどうしてバリエーションが少ない。髪を撫でる。額をくっつける。キスを降らせる。抱きしめる。ゆっくりとかわいがられていたら少しうとうとしてきた。
コイツのことを甘やかすのが好きだ。コイツに甘やかされるのも好きだ。結局、俺はコイツが好きなんだ。コイツだってきっとそうだ。
俺が眠たいのに気がついたんだろう。コイツは俺をベッドに引きずって、抱えたままベッドに転がった。宝物を慈しむように俺を抱いて、俺たちふたりぼっちを布団で包む。
俺はコイツの宝物なんだろうか。俺はコイツを宝物のように抱きしめていいのか。俺は失った宝物のためにこの両手を空けておかなくてもいいのか。幸せに迷いがあった日が、なかったと言えば嘘になる。
俺には多分ぽっかり空いた胸の穴があって、それはコイツじゃ塞げない。それでも別の幸せをくれたのは間違いなくコイツで、みんなで、俺自身だ。
幸せを意図的に遠ざけたわけじゃないけど、自分を大切にしていなかったのは本当だ。誰かを大切にして、誰かに大切にされて、自分を大切にして初めて見えるものもある。
俺は幸せなままで、もっと幸せになってもいいんだ。
笑っていようと思う。俺を見つけたあいつらが、悲しい気持ちにならないように。
コイツとか、円城寺さんとか、プロデューサーとか、いろんな人の力を借りて笑っていようと思う。
「……なぁ」
「ん?」
「俺、幸せだ。でもまだ目的は叶えてない。もっと、もっと幸せになる」
「当然だ。オレ様がコイビトしてやってんだ。生半可な幸せで満足してんじゃねーぞ! くはは!」
どうやら俺はもっともっと幸せにならないと、コイツをがっかりさせてしまうらしい。でも、コイツをがっかりさせることはないだろう。
「オマエがいて、みんながいて、夢だって絶対に叶う。……俺は世界で一番幸せになるんだろうな」
「あぁ? 世界一はオレ様だ! オレ様が負けるわけねーだろ!」
「オマエな…………まぁいい。俺だって負けない。こんなに幸せなんだ。……オマエはこうしてて、幸せか?」
そっと背中に手を回す。同じように回された手から、ぬくもりが伝わる。
「幸せでも、オレ様がチビに負けるとかありえねーんだよ」
「……俺だって負けない」
負けたくない、けど勝ちたくもない。だって俺は世界一幸せものだけど、コイツのことを世界一幸せにもしたいから。
でも俺たちの間に引き分けはないから困ってしまう。勝利条件があやふやだ。
貪欲に、幸せについて考える。できることってなんだろう。少し『恋人』を練習してみようか。
もしかしたら、大人のキス以上のことがあるかもしれない。もう少しドキドキすること──もっときわどいところを触り合いたいと言ったら、コイツは真っ赤になって怒るだろうか。コイツはそういうのに疎いから、慌てるかもしれない。まだまだ隠れているコイツのまだ見ぬ一面を想像したら、ちょっと目が覚めてきた。
キスしてもいいかな。ふと視線が絡んで、自然と唇が触れる。俺がもっと深くに踏み入る前に、なにもわかってないコイツが俺を抱きしめて、優しい声で言った。
おやすみ、って。