狩人 vol.1どんなに走っても間に合わないものはあった。
閉店間際に駆け込もうと思った店の前で足は止まった。スプレーで派手に落書きされているシャッターを眺めていると、冷たい夜の風と共に体も心も冷えていく気がする。
大きくため息をついてもシャッターが開くことはない。
なにも考えずに帰宅したあとに、大事な同居人の夕食がなかったことに気がつき、慌てて財布と自宅の鍵を持って走ってきた。しかし、もうどこも店を開けていなさそうだった。
夜になればなるほど、訪れる客はドロの可能性が高くなるからだ。中心部に近づけば開いているかもしれないが、この時間ではもう夜の街の住民たちが騒ぎ出す
空をみると、遠くで派手なネオンの光が見える。
高いビルの立ち並ぶ中心部から少し距離のあるここは、どちらかというと民間人の割合が多い。ドロがでる確率はゼロではないが、少なくともこんなところで遊ぶもの好きもいない、と前にあったドロがいっていた。その日は気づいたらいなくなっていたが。
参った、仕方がないから食べられそうなものを与えてみるしかないが、同居人の白猫は野良猫だったわりに人の食べ物を食べたりはしない。
最初は苦労したものの、食卓に上ることもなければ勝手につまみ食いすることもない。この街では野良猫がなにかを食べている様子を見る方が少ないのは、よくないものを与える人間もいるのか、路地裏には食べない方がいいものが多いのか。
物音ひとつしないシャッターの前でしばらく考えたが、今日は頭を下げるしかない。
暖まっていた体は少しずつ冷えてきた、早く家に帰ろう。
そう思ってから、そのあとの記憶がなかった。
なにか声が聞こえる
誰かが体を揺するような、ひどく慌てた様子だった。なにかあったのか?なぜか、体はひどく重くて、声はどこか遠くから聞こえてくる
夢を見ていたんだっけ、あのあとどうしたんだっけ
ぼんやりと思い出した記憶の先にたどり着いてから、急に早送りするように意識がはっきりした
「ねぇ!起きて、起きてよ…!」
肩を強く揺すられて目を開けると、ひどく眩しい
視界にぼんやりとうつる人影がゆらゆらと揺れているように見える
「気づいた…?ねぇ、大丈夫?どこか痛む?」
瞬きをしてようやく視界がはっきりした頃に、ふとズキっと鈍い痛みを感じた
頭痛とは違う、なんだかぶつけたときの痛みに似ている
頭を押さえると手がひんやりとした
白い手が頭を押さえる自分の手に添えられていた
「大丈夫?髪が赤いから出血してるのかと思ったけど…」
逆光によって暗く見えるが女の人だった。
先ほどの影は肩につくくらいの長さの髪が揺れていたようだった。眉間にシワをよせて不安そうに自分を見つめるその目は、とても大きかった。
「………っえ、あの………ここは………」
覗きこむ顔が意外と近くて少し顔が熱くなる。
起き上がるにも起き上がれなくて、見える範囲で周りを見る。自分がにらめっこしていたシャッターはなく、辺りは壊れかかった壁があるだけだった。天井からは、ぶら下がる電球が揺れる音が聞こえる。
体を起こすと、コンクリートの床は砂ぼこりでひどく汚れている。辺りには瓦礫が転がっていて、壁に貼られているのは広告なのかなにか、それすらもわからないくらい色あせていて、亀裂が入っている。
取り壊す予定の廃墟かなにかなのか。
どこかの一室かと思ったが、自分達を囲む壁は正面と背後にしかない、左右の道は唯一ここを照らす電球の明かりが届かないのか、先が見えないほど真っ暗だった。どこかの通路なのだろう、壁の隙間から風の通るような音が聞こえる
「ほんとに大丈夫?」
「あ、その…………大丈夫です。髪は染めてるだけなんで……」
こういうのも恥ずかしいが、不安の色を浮かべる瞳がじっとこちらを見つめてくる方が恥ずかしい。
頭に触れたときは気がつかなかったが、よく考えると家をでたときに被っていた帽子がない。
近くにあるか周りを見渡すと、向かいの壁に寄りかかって座る男性と、そこから少し離れて髪の短い女性が膝を抱えていることに気がついた。
寄りかかる男性はひどく落ち着かない様子で、薄汚れた白シャツとネクタイをしているところから仕事帰りなのだろうか。
あぐらをかいているものの、やけに辺りを見回して顔色が悪いように見える、この現状に戸惑っているのが伝わってくる。
髪の短い女性はパーカーとショートパンツ姿で、ランニングシューズをはいているあたりランニング中だったのか。
ついそっちに目がいったのを不快に思ったのが姿勢を崩していた、たしかに足を出しているのもあってそれを目でおったのが嫌だったのだろうか。
苦い気持ちになったが、この場にいるのは全員に見覚えがなければ、なぜここにいるのかもわからなかった。
その頃にはすっかり帽子のことなんて抜けていて、ここにどうやってきたのか、最後の記憶からたどっても全く思い出せない。
もしかして
「…あの、ここって」
そういうと目の前の女性は少し顔を伏せた。
ゆっくりと首を振ると申し訳なさそうに呟いた。
「ごめんなさい、私もわからない…気がついたら、ここにいたの」
離れて座る人たちも顔を合わせないあたり、みな同じように状況が飲み込めないのか。
「ここにいるのって、皆さんだけですか?」
「ううん、あと彼がまだ…」
振り返った彼女の目線の先には、誰かが横たわっていた。派手な髪色と革ジャン、体格的には男なんだろうが、こちらに背を向けているため、顔はよくみえない。
「あの人も、その、寝てるだけ…?」
「その……」
少し言葉につまっていた。
その様子から、少しだけ嫌な予感がしてきた。腹の奥が冷たくなるような、それに反して心臓がうるさくなるような。あの横たわる体は、もしかしたらひどく冷たいのかもしれない。
そう思っていたとき、その背中がゆっくりと動いた。
目を覚ましたときのあくびのような伸びをしてからゆっくりと体を起こすと、いててと頭を押さえていた。
少し安堵するも、隣にいる彼女は自分にはしつこく声をかけてくれたものの、男には全く声をかけなければ近寄りもしなかった。
それどころか、なにか見てはいけないものをみるような目で、その男の派手な髪を見ている気がする。それは彼女だけではなく、自分を除いた全員だった。
「…あ?」
振り返った男はすぐにこちらを睨んできた。
黒いマスクをした顔は明らかに不機嫌そうで、なんなら少し怯んでしまいそうになるくらい睨み付けてくる。ここにいる人間のなかで、どこか彼だけ違う。
「なに見てんだよ、てめぇら、なにしやがった」
起き上がると、隣にいた彼女が身構えていた。
少しだけ自分の後ろに下がるように、ジャリ、と地面の砂を踏む音が聞こえると、男の視線はこっちに切り替わった。
「あー?お前か?随分と調子のったことしてくれるじゃねぇか。お姉さんよぉ」
一歩、また一歩と男がこちらに歩み寄ってきた。
彼女は慌てて自分の服の裾を背中から引っ張るように、強く握っているのがわかる
怯えている、この男に。
「おい、邪魔だよ赤毛」
つい後ろに気をとられていた。
足の間にダンッと強く踏み込む足と、上から威圧するようにこちらをみる顔に言葉がつまった。
やけに喧嘩腰だ、この街ではそういう人間は不思議ではないが、なんだこいつ。
「お前、どっかでみたことあんな…」
少しドキッとした。
なにか言葉を返す暇もなく伸びてきた手がぐっと胸ぐらを掴んできた。
目の前で眉間にシワをよせている顔に見覚えはないが、派手な髪色と黒いマスク、赤い靴の男
頭に浮かんだ言葉の羅列に聞き覚えがあった、最近出回っているから注意しろ、と言葉を添えて。
「お前…もしかしてドロ……」
気がついたときには遅かった、口にした言葉に自分でもビックリしたが男が目を大きく見開いた顔の方がぞっとした。
ギリッと歯を食い縛る音が聞こえる、胸ぐらを掴んだ手がすごい力で服を引っ張りあげた。
目と鼻の先にある顔は先程とは違う
なにかを警戒しているのか
「お前」
男がなにか言おうとしたとき、乾いた音が部屋に響いた。空気を切るような音、そんな表現しか浮かばないくらいなんの音かわからなかったからだ。
「……まさか…」
引っ張りあげられていた力が急に消えて、思わずそのまま後ろに倒れそうになった。
後ろにいた彼女が慌てて受け止めてくれたおかげでなんとか姿勢を立て直したものの、男は自分に目もくれず、この場所の中心を見つめていた。
視界の端に、赤い布がひらめいているのが見えた。
よくみると、弓矢のようなものに布がまきつけられている。コンクリートの地面に亀裂を作り、電球に照らされた赤い布がやけに眩しく感じる。色のないコンクリートの中で変に目立って見えた。
どこから、誰が?向かい際の男も、髪の短い女性も、みんな赤い布を見つめていた。
「……ハンターだ」
こぼすようにつぶやいた言葉は、さっきまで自分を見下ろしていた男とは思えないほど、震えていた。
「ハンター…?」
「おい、冗談だろ…嘘だ!」
「ちょっと、落ち着いてよ。なにもわからないんだけど」
「ふざけるな!こんなとこにいたらすぐにやられるだろ!」
男がつぶやいた言葉に髪の短い女性は恐る恐る立ち上がるも、男は急に取り乱し声を荒上げた。
はっとした顔をして、慌ててマスクの上から口元を押さえた。
見開かれた目は視界の端から端までゆっくりとみるように、最小限の動きだけで辺りを見回していように見える。
「……まさか、ほんとうに、本当にあるなんて」
白シャツの男は壁に寄りかかるように立ち上がるとネクタイを緩めていた。
顔色がやけに悪い、白色灯に照らされた頬は血の気がないようにも見える。
「ゲームだよ、簡単さ…知らないのかい?狩人から逃げる、単純な話さ」
肩を震わせているけども、様子がどこかおかしい。
目を覚ましたときから落ち着かない様子だったが、今はむしろ一周回って落ち着いているようにさえ見える。
「狩人から…?なにそれ、逃げるって何よ、狩人は何をするの?」
「噂だよ…ハンターのゲームさ、ここは狩り場で、私たちはハンターから逃げる。ただ、それだけ」
空気がどこかおかしい
男はどこをみているのかわからない、壁に手を添えて、緩めたネクタイから離れた手は力なく揺れていた。
半笑いを浮かべているような口元に対して、顔はやけに汗をかいている。
「だから、逃げるって何よ!狩り場って!?ハンターはどこにいるの!」
「うるせぇ!黙れよ!」
髪の短い女性が声を上げると、焦りと不安からか出た声をかき消すかのように、マスクをした男は押さえていた口から手を離した。
一瞬、響いた声を遮るような、乾いた音が聞こえた。
さっきと同じ空気を切るような音。
はっと息を飲むような声が後ろから聞こえた。
視線の先にいた髪の短い女性の胸には、長い矢が伸びていた。
それが矢だと気づいたのは、丸い赤い色が中心から広がっていくのが見えてからだった。
開いた口は閉じることなく、驚いたように自分の胸元を見つめていた。じわじわと広がる赤は服を赤い色に染め上げていく。
目があったとき、なんで?と言われた気がした。
再び乾いた音が聞こえ、彼女の胸を2,3本の矢が刺さると、口からも赤い色を吹き出した。
灰色のコンクリートに飛び散る赤と、彼女が矢の飛んで来る方向をみたとき、思わず目を閉じた。
乾いた音が再び聞こえた。
そのあとに聞こえたのは、なにかが倒れる音、男のわめき声、そして後ろにいる女性の小さい悲鳴だった。
「いったろ!ハンターだ、あいつが、あいつがいるんだよ!」
マスクをした男は背を向けて走り出した。
声をだす間もなく、乾いた音と共に足元のコンクリートに矢が突き刺さった。
ぞっとした、これが彼女を貫いていた光景が頭をよぎり血の気が引く感覚がする。
「私たちは、ハンターから逃げる」
白シャツの男の声がする。
はっとして向かいの壁を見ると、もう姿はなかった。再び空気を切るような音が聞こえ、なにかが頬を掠めた。
ここは狩り場で、ハンターから逃げる
自分達は
その考えに頭を使う前には走り出していた。
とっさに掴んだ腕はひどくつめたくて、走っている途中で何度もすすり泣くような声が聞こえた
その場にいたもう一人の彼女を見てはいけないとそれだけは頭に浮かんでいた。
所々外の明かりが入っているのか、なんとか道は見えるものの、暗がりの道を駆け抜ける間に何度もなにかにつまずき、足を引っ掻けた。
なにで引っ掻けたのかもわからないが、痛みに気をとられている暇はない。
足を止めてはいけない、ただ、ハンターから逃げるしかなかった。