「ところで、セノが俺の大胸筋を揉みにくるのですが」「アルハイゼン、頼みがある」
唐突にアルハイゼンの家に訪れたセノは言った。
「胸を揉ませてくれないか」
アルハイゼンは一度本から目を離し、そしてすぐに文字を追った。セノはその間も真剣な表情を崩さない。
「…………」
沈黙が部屋の中に充満した。
「大マハマトラともあろうお方がわざわざ男に声をかけるとは。まさか、武器と同じ扱いをして愛想を尽かされたのか?」
アルハイゼンは特に他人の趣味嗜好を気にするような人間ではない。とはいえ、顔見知り(戦友と言ってもいいかもしれない)が突然、己で性的搾取させろと言ってきたら流石に動揺せざるを得なかった。一瞬の沈黙は彼にしては珍しく返事に迷った事の表れである。人によっては返事をするほどのものでもないと無視していると思われるかもしれないが。
「俺はお前がいい」
アルハイゼンは心の中で目頭を押さえる。セノという男が、態々このような冗談を言うような人間で無いことを知っているが故に、困惑を通り越して呆れていた。
「……君は、もう少し仕事を休む事を覚えた方がいいだろう。大マハマトラとして勤勉に振る舞うのは誇りかもしれないが………」
本を閉じ、話題をすり替えようとしたところで先に動いたのはセノの方であった。彼はアルハイゼンに近付き、容赦無く抱き締め胸元に顔を押し付ける。一瞬反応が遅れたアルハイゼンは目下で胸筋に顔を埋める男をまじまじと眺めた。何が楽しいのだろうか。これが最初に抱いた感想である。
「…………」
「………」
再び訪れた沈黙。セノは無心でアルハイゼンの胸筋を文字通り吸い、しっかりと堪能しているようだった。アルハイゼンはというと、少しだけ固まった後、セノの頭を台にし本を置いて読み始めた。この行為が自身の探究心を邪魔する事は無いと理解したのだ。
それから十数分間、セノはアルハイゼンの胸筋をしこたま堪能した。力の入っていない胸は柔らかく、手を添えればマシュマロのように形を変えて指に吸い付く感触を楽しんだ。本を読むのを邪魔しなければ特に平気だと察知したのか、少しだけ胸の尖りで遊んでみたが無反応であった。
「ありがとう」
セノは礼を言うとアルハイゼンから離れ、颯爽と家を出て行った。後に聞くと、どうやら彼は仕事が重なり徹夜が続いていたらしい。
──────
それから度々、セノはアルハイゼンの元へと訪れるようになった。相変わらず無言の空間で胸元で深呼吸する男の息遣いと紙の捲れる音だけが響いている。
「……何してるんだ君達」
家に帰って来たカーヴェが酷い物を見たという形相で指摘すれば、セノは「休息をとっているだけだ」と告げ、アルハイゼンはだんまりを決め込んだ。彼は現在、接触する事……及び男性の胸筋による癒し効果の影響力に関する書物を片っ端から漁っていたのだ。
カーヴェは二人の様子を怪訝そうに見た後、そっと自室へと帰って行った。触らぬ神に祟りなしというのはこの事である。
この日もセノはアルハイゼンの胸筋を堪能した後あっさり帰って行った。
──────
「ねえ、セノ。アルハイゼンとの逢瀬は上手くいっているかしら?」
スラサタンナ聖処にて。お茶と菓子の準備を手伝い席について一息ついたセノは、自身の仕える草神からの発言に茶を吹き出しかけた。噎せる彼の背を彼女は優しく撫でる。
「あの……なぜそのような……」
「この前アルハイゼンを此処に呼んだ時に聞かれたの。『俺の大胸筋に癒し効果があるかどうか試して頂いてもいいですか』って」
この方に何を言っているんだあいつは。と、セノは戦慄した。スメールの母。知恵の主。様々な異名を持つ我らが神に向かって胸を揉め、と。一歩間違えばセクハラ以外の何物でもない。
「それで……?」
「その効果について私は考えた事が無かったから試してみたの。筋肉って硬いものだと思っていたけれど、力を込めて居なかったら柔らかくて……最近ニィロウから貰ったクッションのようだったわ」
それは、聖処の椅子の上に置かれている花形の可愛らしいクッションの事だろうか。と、セノは思案し黙りを決め込んだ。女性らしい贈り物と無粋な男を比べるのはニィロウに申し訳が立たないからだ。
「それで私、貴方に謝らなければいけないの」
「えっ!?」
今の話の中に謝る箇所があっただろうか。セノは長考した。
「アルハイゼンの胸部に触れた後……彼から、貴方が度々家に訪れ揉んで行くと聞いて……ごめんなさい、貴方のアルハイゼンなのに……」
「まっっっっっってください」
セノは心の中で頭を抱えた。アルハイゼンが自分の行いを草神に話している事、アルハイゼン自ら胸を触らせた事。そして何より、草神が勘違いをしてしまった事。これらが同時に襲いかかり優秀な大マハマトラの頭もパンク仕掛けた。
「……そもそも、アルハイゼンは俺のものでは無いです」
「え?ならどうして彼の胸部を揉みしだくの?」
最もな疑問をぶつけられセノは言葉を詰まらせる。一度深呼吸し、彼は持ち上げかけた腰を下ろした。落ち着かなければスラサタンナ聖処を飛び出しそうだった。
「……彼の大胸筋は、俺を癒してくれる、からです……」
セノは誤魔化す事など出来なかった。
そう、セノは以前よりアルハイゼンに好意を寄せていた。それは友好的な意では無く、淡白な言い方をすれば性的に。気付けば彼はことある事にアルハイゼンの事を想い、偶に目の端に入れては微笑んでいた。彼の中でアルハイゼンと結ばれるという未来は存在せず、ただ想うだけで十分だった為今迄黙っていたのだ。
が、然し。
仕事の疲労が積み重なり、セノが我に返ったときにはアルハイゼンの胸筋を堪能した帰り道だった。自分は今何をしでかしたのか。あれは合意の上で行った出来事だろうかと。再三家で悩んだ挙句、再びアルハイゼンの元を訪れた。勿論、謝罪するつもりで。そんな中、当の被害者はこう言ったのか。
「今日も揉みに来たのか」
と。これは、許されているのだろうか。セノは考えるよりも先に柔らかく豊満な胸に収まっていた。そしてアルハイゼンはセノを受け入れ、まるで聖母の様に軽く頭に手を置いた後再び本を読み始めたのだ。
セノは心の奥底で歓喜し、その日も発達した男の乳房を堪能した。
「つまり、貴方は特に説明もせず彼の元に訪れただ胸部を揉んでいて、彼もそれを受け入れているだけなのね?」
ナヒーダに掻い摘んで問われ、罪悪感と羞恥でセノは顔を覆った。無言で頷く事しか出来ない暫定不審者に、彼女は小さく笑ってみせる。
「あのアルハイゼンが何も言わないのなら、きっと問題は無いわ。受け入れているのか、それすら興味が無いのかは私にも分からないけれど。少なくとも、貴方の事を気にしたから私に相談してきたのでしょう」
場合によっては性犯罪者と訴えられても仕方の無い男に慈愛の笑みを浮かべる神を、セノはこれからもお守りしようと誓った。
「でも、残念ね……もし貴方とアルハイゼンが恋仲なら、結婚式が見れるかと思ったのだけれど……」
「え?」
「私は以前、キャサリンの身体を借りて民の結婚式を見に行った事があるの。誰もが幸せそうにしていて、とても心地の良い空間だったわ。機会があれば、今度は私本人の姿で参加したかったの」
────────
その日の夜。
近頃の習慣になりつつあった男の来訪に、アルハイゼンはまたもや密かに困惑していた。
「俺と結婚しないか」
ただ只管大胸筋を揉む者と、揉まれる者の関係だった筈だが。そう考えながら目の前で婚姻届を卓上に置くセノを訝しげに見詰め、本を閉じる。
「……君と俺は、婚姻を結ぶような仲だっただろうか?」
得意の嫌味を吐くことも無く、率直に問いかけるアルハイゼンは、内心「こいつをどうしたものか」と目の前の男の友人に問い掛けたい気持ちだった。
「俺はお前が好きだ、アルハイゼン」
「そうか」
「そして草神様は結婚式に参列したいと仰っていた」
「なるほど」
「だから俺と結婚しよう」
その方程式はおかしい。アルハイゼンは眉を潜め、自身の感覚が間違っていないかどうかを隣の椅子に座る同居人に目配せして問うた。そう、ここには彼も居たのだ。カーヴェは無言で目を合わせず、汗をだらだらと流しながらコーヒーを流し込んでいる。それはアルハイゼンが自分の為に用意した物だった。
「セノ」
「何だ」
「少し、時間が欲しい」
セノは目を丸くし、カーヴェはコーヒーを気管に流し込む。アルハイゼンはそんな中涼しげに告げた。
「俺は君の言う‘好意’や、恋愛事。婚姻を結ぶ事に関しての智識が浅い。まずはそれらについて理解する時間が欲しいんだが」
そういう話では無いだろう。と、カーヴェは心の中で指摘した。本来恋愛事は風情を交えて、二人きりの空間で行うのが最適だろうに。ロマンを謳う建築家は非常に胃が苦しかった。
「……なら、俺が教えるから。先ずは交際するところから始めよう」
僅かな希望を見いだせたとセノはアルハイゼンの手を握った。正直、彼は断られると考えていたのだ。様々な過程をすっ飛ばしていたと言うこと自体は理解していた。
「何故そうなる?君から得られる情報は君の主観によるものでしかない。それでは性格な知識は得られないだろう」
そうでは無く。カーヴェはすんでのところで声を出すのを堪えた。セノも再び目を丸くし……然し食らいつくが如くアルハイゼンを説得し始めた。
「確かにその通りだが、何事にも実践は必要だろう。実体験を交える事で得られる成果は幾つもある。そうは言えないか?」
そうかもしれない。……と、アルハイゼンの心が揺らいでいる事が、長年付き合いのあるカーヴェは分かってしまった。此奴ら本当は馬鹿なんじゃないか?と、静かに空になったカップを置く。
アルハイゼンは暫し無言になり、小さく頷いた。
「いいだろう。一先ず君で検証する事にしよう。とはいえ、実践は俺がある程度の知識を得てからだ」
こうして奇妙な恋人がここに爆誕した。この話は一部始終を目撃していた同居人の愚痴により、共通の友人であるレンジャー長に知られる事になる。巷では‘あの’書記官が本屋に恋愛小説を買いに来たとか、大マハマトラが指輪を見繕っていたとか、色々な噂が持ち切りになっていた。二人が本当の意味で恋人になる日が来るのかどうか、それは知恵の主にも分からない事だ。