Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    mimuramumi

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 28

    mimuramumi

    ☆quiet follow

    青氏過去編の最初のほう

     にゃあ、と声がするたび、頭上の枝が不安定に揺れる。帰り道を見失って所在なさげに前脚を彷徨わせる黒猫に向かって、彼はゆっくりと手を伸ばした。
     数秒の沈黙。身を乗り出してより近くへ手を差し出した次の瞬間、枝の上にいた猫はぴょんと跳んで彼の胸に飛び込んでくる。
    「うわっ!」
     押し倒されるような形でひっくり返った彼の耳に、慌ただしくこちらへ近付いてくる足音が届く。身を起こし、胸の上をふみふみとしながら陣取っていた猫を抱え上げた──同時に背後から声が響く。
    「ブルース!」
    「博士。見てください、捕まえました!」
     振り返った彼がそう言ってにこやかに猫を掲げれば、父は安堵と困惑がないまぜになったような表情でひとつ息を吐いた。
     ゆっくりと歩み寄ってきた父が、彼の頭や肩についた木の葉をそっと払う。彼は嬉しくなって、跳ねるように立ち上がった。胸の内で猫がにゃあと鳴く。ふわふわの丸い体を抱く彼の腕は、人工皮膚特有のつるりとした冷ややかさを帯びている。

     彼の名はブルースという。ロボット工学の世界的権威であるトーマス・ライト博士の息子だが、人間ではない。彼はロボットだ。創作物に出てくるような、自分で物を考えて人間のように振る舞う、最新型の人造人間アンドロイドである。
     ロボット研究の分野において、人間と遜色ない自律思考が可能な電子頭脳の開発は長く永遠の命題とされてきた。工学的技術のみならず、「人間」を扱う様々な科学の力を借りてなお、研究には長い時間がかかった──もはや乗り越えられないのではないかと思われてきた深い不気味の谷を越えて、世界初の「心を持つロボット」として生まれたのが、ブルースだった。
     けれど今はまだ、彼は「世界初」ではない。今は試運転中なのだ。しばし稼働データを蓄積し、動作に異常がないことを確かめなければ、存在を公にすることはできないのだ、と父は言っている。
    「俺はもう大丈夫です、博士。猫だって捕まえられます」
     と、ブルースは作業台の上で主張する。傍らに座ってモニターを眺めていたライトは苦笑しながら振り返った。
    「それは、確かにすごい事だが……万が一のこともあるからなあ。そう焦らなくてもいいんだよブルース。時間はたくさんある」
    「でも、俺は早く博士の研究が認められてほしいです」
    「認められる、か……」
    「俺が世に出たら、たくさんの人が博士のことを好きになりますよね。俺はそれがいちばん嬉しいです」
     ブルースの言葉にライトは曖昧な笑みを返した。その表情の裏にある感情を読み取ることは、まだブルースには難しい。
    「……そうだ、あの猫はどうしようか」
     ライトがそう言えば、ブルースは何度か瞬きをして廊下に繋がる扉に目を向けた。先程捕まえた猫は、ひとまず水と食事と一緒にケージに入れてある。窮屈な中に置いておくのは気の毒だが、屋内で自由にさせて何かあれば困るのでやむを得ない処置である。
    「人馴れしているから飼い猫なのかもしれないが、ここではマイクロチップの確認もできないしな。一度動物病院に連れて行かないと」
    「そしたら飼い主が見つかりますか?」
    「どうだろうな。ボランティアに預けられればいいが、私にそんな伝手は無いし」
    「研究所でお世話するのは駄目ですか? 俺、ちゃんとやります」
    「ここでかあ……」
     うーんと腕を組み、ライトはしばし思案する。
     ブルースは動物が好きなようだ。今回捕まえた猫も少し前から庭に来ているのをよく見ていて、それで捕まえようと思ったのだろう。研究所にもペットロボットの類は何体かいるが、ロボットと生きた動物とでは扱い方も違う。生き物に触れさせるのはいい経験になる……それに、実際にひとりで適切に捕まえる事ができたのだ。心配はあるまい。
     うん、と頷き、彼はそわそわと返事を待っていたブルースに向き直る。
    「そうだな。病院に連れて行って、問題がなければそうしよう」
    「! いいんですか!」
    「いいとも。ただ、研究室に入られると困るから、世話の仕方は考えないとな。お前に合う飼育マニュアルも探しておくよ」
    「ありがとうございます!」
     ブルースはにこにことしながら扉の向こうに目をやる。電子頭脳に接続されたモニターには「喜び」を表すシグナルが表示されていた。ライトも微笑みながら得られたデータを保存する。試運転は、至って順調であった。
    「知っていますか博士。ペットを飼うときは、動物にとって有害な植物にも注意しないといけないらしいです。リビングの花瓶の花は大丈夫でしょうか? 確認したいので、植物のデータベースを入れてほしいです」
    「おや、よく知っているな。自分で調べたのかい」
    「テレビで見ました」
    「テレビか……お前はテレビが好きだなあ……」
    「大好きです! 視覚的に連続した情報を、ファイルチェックを介さずに受動的に受け取るのは、わくわくします」
     ブルースの物言いにライトは苦笑した。それは、人間には理解しがたい感想だ……だがこういった素朴な価値観の差異ひとつひとつに着目し、受け入れてこそ、人間とロボットという二つの種族は新たなステージに進む事ができる。そして彼は、その先にあるものが希望だと信じていた。
    「好きなものが増えるのはいいことだ。だが、テレビの情報をすべて真に受けてはいけないよ」
    「そうなんですか? テレビは、嘘をつきますか?」
    「そういうわけではないが。お前にはまだ少し難しいかもしれないな」
     また今度、ゆっくり話そう。そう言ってモニターに向き直る父の背中を見つめながら、ブルースは考える。人間の世界は難しいことばかりだ。生まれてくる前、仮想人格プログラムの実装前テスト段階にあった頃は、コンピュータの中でモニター越しの博士と話をしているだけで良かったのに、今は自分で考えて判断しなければならない事がたくさんある。これは、とても大変なことだった。
     だがブルースはこうして機械の体を得て、「心を持つロボット」として生を受けた事を嬉しく思っていた。人間と同じ形をした、自由に動く体のお陰で、大好きな父と直に触れ合うことができる。猫だって抱けるし、庭でサッカーもできるし、洗濯や料理だってできるのだ! ……料理は、味覚センサーが未実装なので、人間にとっておいしく作れているか分からないけれど。
     そしてゆくゆくは、自分は父の偉業の結晶として世に出る。人類史上だれも成し得なかった、完璧な人造人間の誕生だ。きっとたくさんの人が父を知り、好きになるだろう。ブルースはそれが待ち遠しかった──そんな未来が訪れると、信じて疑っていなかった。
     父と子はよく似ていた。彼らはお互いを愛し、その行く先には光があるのだと、素朴に信じていたのである。



     猫の飼い主は見付からなかった。懐っこくはあるが装着が義務付けられている筈のマイクロチップは見当たらず、去勢もされていない若い個体なので、恐らく捨てられたか何かで野外暮らしをしていた野良猫だろう……というのが獣医師の見立てだった。
     ケージの中でみゃあみゃあ鳴く猫と、勧められるまま買ったフードやペットシートを伴って動物病院から帰ってきたライトに、ブルースはそわそわと問いかける。
    「ここでお世話できますか?」
    「ああ、ボランティア団体に里親の斡旋も頼めるが、それには去勢やワクチン接種が必要らしい。受け入れ準備もすぐにはできないからしばらく預かっていてほしいそうだ」
    「本当ですか!」
     喜ぶブルースの前で父はケージをそっと床に置き、扉を開ける。飛び出してきた猫はしばしリビングをうろついていたが、やがてブルースの足元に歩み寄るとにゃあと鳴いた。
    「何か言ってます。どうした? お腹減ったのか?」
    「病院で水とフードを貰ったから、そんな事はないと思うが」
     ケージを壁際に寄せ、荷物をしまえるスペースを探しながらライトは言う。
    「何か欲しいのではなくて、ただ、お前のことが好きなだけかもしれないよ」
    「!」
     ブルースはぱっと表情を輝かせ、猫を抱き上げる。抵抗なく彼の腕に収まった猫は尻尾を何度か振り、リラックスした様子で毛繕いを始めた。この様子なら、研究所での暮らしにもすぐ慣れてくれるだろう。
    「名前をつけてあげなければな。何と呼ぼうか? 性別はメスだそうだが」
    「俺、留守番している間に考えました。オスでもメスでも「タンゴ」がいいなって。博士の部屋にレコードがありましたよね」
    「『Volevo un gatto nero黒猫のタンゴ』か。成程、いい名前じゃないか。お前とおそろいだ」
     父の返答にブルースはますます笑みを深くした。ライトは猫を床に下ろしてトイレの場所はあそこがいいだの壁で爪を研がないよう気をつけないとだの言い出す彼を横目に、自室のレコードの並びを入れ替えようと心に決めた。折角だからふたつ並べて置くことにしよう。きっと、その方が息子も喜ぶだろう。



     タンゴと名付けられた猫の存在は、ブルースによい影響をもたらした。彼は多忙な父の手を煩わせまいと熱心に彼女の世話をし、かつ折角ここに来てくれたのだから楽しく過ごしてほしいと快適な居住環境の提供にも取り組んだ。それでいてしっかり躾もするものだから、今や彼はすっかり彼女の飼い主であった。ちなみに家主であるライトはたまに撫でさせてもらえる程度で、基本的に無視されている。なかなか世知辛い。
    「どうして博士に懐かないんでしょう? 飼い猫は、人間が好きなはずなのに」
    「それは、猫によるからなあ……きっと私のことを、自分を捕まえて病院に連れていく悪いやつだと思っているんだろう」
    「博士はそんなんじゃないのに……」
     そう言ってむくれるブルースの腕の中でタンゴがにゃあと鳴く。お前の話だぞ! と彼女に語りかけるブルースに苦笑しつつ、ライトは目の前にあった箱の中身に目を向ける。
     今は古い資料や物品の整理中なのだ。研究室の整頓があらかた終わり、次はライトの自室に手を付けようとクローゼットを開けたところでタンゴが乱入してきたので、手が止まってしまっていた。父が作業を再開したのを見たブルースがタンゴを部屋の外に連れていく。
     にゃあにゃあ抗議する声に一言一言応えながら歩いていくブルースの足音を聞きつつ、ライトは箱の中の物をひとつひとつ選り分けていく。とはいえここにしまっているのは仕事関係の書類とは違い、昔から保管していた私物ばかりだ。どれも思い出深い品ともあってなかなか整理がつかない。
     ブルースが戻ってきたのは、手に取ったアルバムをつい開いて眺め始めた頃だった。彼は部屋のドアをしっかり閉めると、ライトの手元のアルバムを興味深げに覗き込む。
    「これは何ですか?」
    「私が小さい頃の写真だよ。父が記録熱心な人でね、事あるごとに撮ってはこうして残していた」
    「じゃあ、この男の子が博士なんですね」
     と、ブルースが三輪車を漕ぐ子供の写真を指さす。ライトはひとつ頷いた。古い写真の中の自分は、無邪気に笑っている。
    「懐かしいな。この三輪車がお気に入りで……どこへ行くにも乗っていたんだが、ある日散歩に出かけた先で排水溝にはまって頭から転がり落ちて……っと。今は整理整頓が先だな。とりあえずアルバムは残しておくから、先に分けて適当に置いておいてくれるかい?」
    「はい」
     明るく返事をして、ブルースは箱の中からアルバムらしき書籍を取り出しては中身を確かめ、床に積んでいく。ライトはその動作を横目で確かめながら、選別されたアルバムを新しい本棚の空きスペースへ移した。
     自律思考回路の動作は、ひとまず問題ないと結論付けるべきだろう──数年前までのロボット用電子頭脳は、先程ライトが言ったような指示を受けても「箱の中から書籍を取り出し」「中身がアルバムであることを確かめ」「作業の妨げにならない場所を自ら選定し」「安置する」という一連の動作を行うことができなかった。ブルースを製造するにあたっても何百回何千回の試行錯誤を繰り返した上で現在の試用期間に至るのだが、今のこの調子であれば、もう何の心配も必要あるまい。
     父の安堵をよそに、ブルースはてきぱきと選別を進めていく。アルバムの冊数はさほど多くはない。古い児童書を箱の中に戻し、次に手に取ったのはスケッチブックらしきものだ。何気なく開いたページから紙が一枚、ひらりと落ちる。
    「わ……すみません博士、落としてしまいました」
    「うん? ああ、中に挟まっていたんだな」
     ブルースが慌てて拾い上げたそれをライトも覗き込む。古びた紙に描かれているのは子供が描いた絵らしきものだ。ライトはうーんと首をひねる。
    「これは……いつ描いたんだったか。ここにあるという事は、私が描いたものなんだろうが」
    「子供の頃の博士の絵なんですね」
    「ああ。そっちも何が描いてあるか見てみよう」
     そう促され、ブルースはスケッチブックを開く。紙はそれなりに劣化しているが描かれている絵自体に汚損は見られない。ただ、ブルースにはそこに描かれているものが何なのか分からなかった。写実性のある絵画ならともかく、子供の抽象的な絵を読み解く能力はブルースの電子頭脳にはまだ無い。
     スケッチブックを睨むように見つめたまま沈黙するブルースに、ライトが笑いかける。
    「ああ、思い出した。昔描いた発明品のアイデアスケッチだ」
    「発明品?」
    「アニメや漫画に出てくる魔法のアイテムを現実世界で作ってみたかったんだ。子供の頃はそんな事ばかり考えていて……ほら、これは壁につけると向こう側を覗ける輪っかだそうだ」
     と、ライトが指さしたページを見て、ブルースはふんふんと頷いた。そう言われればそんな風にも認識できる絵である。
    「顔が見える電話、なんて、今では本当に発明されている物もあるが……おや、これは」
     そう呟いてライトはページを捲る手を止める。ブルースが覗き込んでみればそこには人型のように見える物体がふたつ、横に並んでいる様子が描いてあった。ライトが添えられた文章を読み上げる。
    「ともだちロボット、だそうだ。これも現実になったなあ」
     ブルースはスケッチブックに描かれた様子と、父の横顔とを見比べた。ロボットの絵。スケッチということは設計図と似たようなものだろうか。ライト製のロボットは数多いが、人型ロボットとして設計されたものは少なく、現時点で稼働しているのは自分だけだ。ということはつまり。
    「これは俺ですか?」
    「ふふふ、そういう事になるかな」
    「……おれは手がこんなところから生えていないし、髪の毛もありますよ!」
    「ははは。それは確かにそうだ」
     納得いってなさそうな表情でスケッチを見つめるブルースの頭を、ライトの掌が撫でる。
    「この絵は子供の空想でしかないが、その空想の先にお前がいるという事だよ、ブルース。色々あったが、小さい頃の夢がこうして叶ったと思うと感慨深いものがあるな」
    「夢……」
    「さあ、片付けを再開しようか。そのスケッチブックは記念に取っておこう」
     そう言ってライトは箱の中身に向き直る。ひとつひとつ見ていくと全部取っておきたくなってしまうなあ、などとぼやきながら残った小物や書籍を選別し始める父を、ブルースはしばし見つめていた。
     父の言う「夢」が、生物のレム睡眠時に発現する実像を持たないイメージとしての夢を指すわけではないことはブルースにも分かる。この場合の夢とは将来的に実現したいと望む事象のことだ。それが時として人間の生涯や価値観に大きな影響を及ぼすことも、ブルースは知っている。
     一連のやり取りをまとめるとつまり、父が子供の頃に思い描いた空想は、自分という形で実現したということだ。そう結論を得たブルースは、にわかに沸き立つ心を抑えきれなかった──自分は父が長い時間をかけて追い求めてきた夢のロボットなのだ!
     はやく本当に叶えてあげたいと思った。はやく完成して、試作機ではなくなって、世に出て……自分は世界でいちばんのロボット博士が造った、夢のロボットだと胸を張って言えるようになりたい。
     ブルースは試作機であるため、たとえば一般的な作業用ロボットに設定されているような「用途」は存在しない。それは世界初のまったく新しいロボットであるブルースが、自らの意志でやりたいことを決められるように、というライトの意向であったが。今、この時をもって、ブルースは自分がどうなりたいかをはっきりと決めた。
     息子・・として、父の夢を叶えるのだ。
     ──俺が博士の「ともだちロボット」になるんだ。
     とはいっても、そのためにブルース自身ができる事はそう多くない。せいぜい壊れたり妙な誤作動を起こしたりしないよう、いい子で過ごす事くらいだ。そのためにまずはお手伝いをしっかりこなそう……そう心に決めて作業中の父へ向き直ったブルースは、思わず目を丸くした。取捨選択していく筈だった品が、ほとんど全て「残しておくもの」の箱の中に収まっている。
    「博士。ぜんぶ残したら、片付けになりません」
    「だが……やはりちゃんと見ていくと、全部思い出のある品で……」
     しゅんと肩を落とすライトを前にしてブルースはむーんと唸る。それは確かにそうだろうが、だからといってこのまま全ての品を残していてはいずれ部屋が物で埋まってしまう。そうすれば困るのは他でもない部屋の主だ。
     よし! と気合いを入れ直し、父の隣に座り込んでひとつひとつ選別を始める。捨てるのが惜しいという気持ちを尊重したいのはやまやまだがこういう時は思いきりよくいかねばならないのだ。先日テレビでやっていたので、間違いない。



     ブルースの機体は現在の科学技術の粋を結集して設計された最高峰の機構で構成されているので、人間が日常的に行う動作についてはごく自然に再現できる。外見にも機械的要素はほとんど見受けられないため、普段通り振る舞っている限り彼の姿は人間そのものにしか見えないだろう。
     だがそれは外見だけの話だ。人工物で構成された体は人間のそれより遥かに重く、皮膚はつるりとしていて関節には継ぎ目がある。それに近くで耳を澄ますと動力系の駆動音が聞こえてくる。ロボットである以上致し方のないことだが、もしそれが何も知らない一般人に知られてしまえば、面倒な事になるのは目に見えている。
     なので、ブルースは研究所の外に出た事がない。本当は敷地の外、例えば山や海に行って自然に触れてみたり、街に出て人間の営みを直に観察してみたい気持ちもあったが、それも難しいのだ。なにせブルースの機体重量は百キログラムをゆうに超えている。この重さでは乗用車に乗るのもひと苦労だ。
     しかし別に悲しくはないのだ。なにせ研究所には父がいる。父は仕事で外に出ることはあってもその日のうちに帰ってきてくれるし、ブルースが知らない世界の話をたくさんしてくれる。最近はタンゴもいて尚更賑やかだ。ブルースは寂しい思いなどしたことはなかった……そう、過去形だ。寂しさを知らなかったのは、今日までの話である。
    「呼び出し? ですか?」
     忙しなく荷物をまとめるライトに畳んだ着替えを差し出しながら、ブルースは問う。ライトは珍しく不機嫌そうな表情で頷き返した。
    「ああ、少し前に納品した実験用機器が故障したとか何とかで……それもあちらの不手際でだ。マニュアルの最初の方に書いてある禁止事項を、どうしてこんな短期間でやらかす事ができるんだ? まったく……」
    「その納品した場所って、外国の研究施設でしたよね。場所は……」
    「移動だけで十時間かかる……現地での作業もすぐには終わらないだろう。二、三日で済めばいいが」
     その返答にブルースは俯いた。長期間の仕事……当然ブルースはついて行くことができない。
     父が何日も家を空けるのはブルースが稼働し始めてから初めての事だ。うまくやれるだろうか、と心配になった。ひとりでいる間に研究所に何かあったらどうすればいいだろう。家主を訪ねてくる客人だっている筈だ。もし誰か来たらどう対応すればいいのか分からない。それに、本当は、いつもの留守番の時だって不安だから、傍にいてほしい……。
     じっと床を見て立ち尽くすブルースの様子に気付いたライトは、ふと表情を緩めて彼の頭を撫でた。暖かな掌が人工毛髪を梳く感触にブルースが顔を上げれば、穏やかな瞳と視線が合う。
    「大丈夫だ。お前用の通信機の使い方は分かっているね?」
    「はい……」
    「もし何か困ったことがあれば連絡しなさい。すぐに戻ってくる。夜にはメッセージを送るよ。そしたら私が無事なことも分かるだろう?」
     ブルースはすぐには答えなかった。だが、すぐにわがままを言うわるい子であってはいけないと思い直し、父に頷き返す。ライトはブルースの肩を優しく抱き、荷物を抱えて玄関へ向かっていく。
    「大事な来客の予定は全てキャンセルしてあるから、もし誰か来ても対応しなくていい。セキュリティシステムは切らないようにな」
    「はい」
    「タンゴの事はよろしく頼むよ。じゃあ、行ってきます」
    「行ってらっしゃい……」
     ……慌ただしく駆けていく足音と、表に停めていたタクシーのエンジン音が聞こえなくなり、辺りが静寂に包まれてもまだブルースは玄関に立ち尽くしていた。昼寝をしていた筈のタンゴがリビングからやって来て、彼の足にするりと絡む。
     彼女の背をひとつ撫で、ブルースは緩慢な足取りでリビングへ戻る。つけっぱなしになっていたテレビが大袈裟なコマーシャルを垂れ流している。
     ロボットの重量にも耐えられるよう誂えてもらった特製の椅子に腰かけ、液晶画面をじっと眺める。父がいればインパクト重視のどぎついコマーシャルについてもああだこうだと話して楽しめるのに、ひとりではそれも叶わない。ぼうっとテレビを見るブルースの足元で、タンゴが大きくにゃあと鳴く。
     ブルースが視線をやれば、タンゴは軽やかに床を蹴って彼の膝に跳び乗った。そのまま居座る姿勢に入る彼女を見てはっと我に返る。そうだ、父がいないのは寂しいが、今はタンゴがいるのだ。彼女のためにもちゃんと留守番のつとめを果たさなければならない。
     よし、と気合いを入れ、ひとまずブルースは彼女の丸い額を掻いた。黒猫は心地よさげに目を細めてぐるぐる喉を鳴らした。とても、かわいい。

     家主の留守は五日間にも及んだ。ブルースはその間、家の掃除やタンゴの世話をしながら、父からの連絡を今か今かと待ち続けていた──毎晩スリープモードに入る前にメッセージのやり取りはしていたけれど、それではやはり、足りなかったので。
     ブルースの電子頭脳は「寂しさ」や「不安」のようなマイナスの感情も抱くように造られている。正直ブルースは、ロボットにはそんな感情は要らないのではないか、適切な動作の邪魔になるのではないか、と思わなくもないのだが、父の考えはそうではないようだった。
     悲しみを知ってこそ、悲しむひとの傍に寄り添える。そして自らが悲しんでいるとき傍にいてくれる人の優しさに触れられるのだ……そう父は言った。そして、そのように寄り添い合える関係こそが、自分が理想とする人間とロボットの関係性なのだとも。
     ブルースにはその言葉はよく分からなかった。だが彼にとって父の理想は自分の理想でもあったので、きっとそれが正しいんだろう、と思った。だから今も、彼は日に日に大きくなる寂しさにじっと耐えている。
     心の動きが体のはたらきに影響するというのはブルースにはよく理解できていなかったが、こうしてひとりになってみて身をもって実感した。寂しい気持ちはじわじわと内側からにじみ出て、ふとした瞬間に全身の動力系に染み渡っていくように感じられるのだ。それに、まだ帰れそうにない、とメッセージがきた時は不思議とすぐに返事ができなかった。本当なら一言でも多く言葉を交わしていたいのに。
     けれどこの、ロボットが役割を果たすのにはどう考えても邪魔な機能こそ、父の夢へ繋がる大事なピースなのだ。そう思うと少し元気が出た。父のためになるのだと思えばつらい気持ちもいくらでも我慢できる。
     そんな調子だったから、明日には帰れると連絡がきた時は飛び上がるほど嬉しかった! ……本当に飛び上がると床に穴があいてしまうかもしれないので、堪えたけれど。
     家中ぴかぴかに磨き上げ、洗濯物を残さず綺麗に畳んで片付け、タンゴに餌をあげて、ブルースは父の帰りをそわそわしながら待っていた。今ごろ飛行機はどこを飛んでいるだろうか、そろそろタクシーに乗っただろうか、まだかな、まだかな……。
     いよいよ日も暮れようとしている頃に、ついにその時はやって来た。外から聞こえたエンジン音に、二階の掃除──とは言っても小一時間ほどうわの空で同じ場所を繰り返し掃いていただけで、何も綺麗にはなっていない──をしていたブルースは慌てて窓の外を覗き込む。表に停まっているタクシーから降りてくる待ち焦がれた姿に、彼は意気揚々と階下へ向かう。
     玄関の鍵が開くのとブルースが階段を降りきるのとはほぼ同時だった。見慣れた顔が扉の向こうから覗いた。ブルースは思わず駆け出す。
    「博士!」
     ──瞬間、胸の奥に衝撃が走る。
     踏み出したはずの右足がぐらりと揺らいで、機体が床に叩きつけられた。無数のエラーが脳裏に浮かぶ。あれ、と思った次の瞬間には、その思考も大量の通知に押し流されて消えていった。異常信号だけが電子頭脳の中を駆け巡る──痛い……痛い、痛い!
    「ブルース!!」
     ライトが荷物を放りだしてブルースの元へ駆け寄る。その時にはブルースの電子頭脳は強制シャットダウンを始めていて、彼は消えゆく意識の波間に辛うじて、いけない、とだけ思った。ここで動けなくなったら、博士が、こんな重い体を運ばなきゃいけなくなる、……。
     思考の終わりを見ることもなく。ふつり、と意識が途切れて、ブルースはそれきり何も分からなくなった。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works