あなたのために、 黒野は休日に葛之葉の家に招待された。
葛之葉の家は、彼の職場であるアヤカシ清掃社の社屋でもある。黒野は葛之葉から渡された名刺を頼りに、アヤカシ清掃社へ向かった。建物には裏口と呼べるものが見当たらず黒野は様子を窺う。会社の客では無い自分が入口から入って良いのかと悩んでいると、入口の扉が開いて葛之葉が顔を覗かせた。
「よく来たな、黒野。いらっしゃい」
「おう。……お邪魔します」
黒野は躊躇し、それから軽く頭を下げて建物の中へ入った。
「上が俺の部屋になっている。ここはアヤカシ清掃社の応接室といったところだ」
品の良い調度品が並べられており、掃除の行き届いた室内を、葛之葉の視線を追うように黒野は見渡した。
「素敵な部屋だな。変な言い方だが、アニさんによくあってる気がするぜ」
黒野の言葉に葛之葉は目を細めた。口元を緩め、微かに笑い声を漏らす。「そいつは嬉しいな」と零された言葉に、黒野も嬉しくなった。
葛之葉に案内され、建物の奥へ向かう。そこには黒野の背丈の半分ほどの靴箱があった。葛之葉が靴を脱ぐのを見て、黒野も靴の踵部分に指をかける。葛之葉が黒野を呼び止めた。
「あ?」
「黒野、待ってくれ」
黒野は手を止めて、葛之葉を見上げる。葛之葉は柔らかな笑みを浮かべ、黒野の前に跪いた。
「なあ、靴を脱がせてもいいかい?」
「は。いや、自分で脱げるが」
そう言いかけ、黒野は葛之葉の目の奥が熱を持っているように見えて口をつぐんだ。
「わかった。雨彦アニさん、靴を脱がしちゃくれねぇか?」
喉の奥が乾いて、やはり自分は命令するのが苦手だと感じる。コマンドを聞いた葛之葉は、黒野の膝を丁寧に持ち上げると靴紐を解いていった。
黒野は葛之葉が自分の靴を脱ぐ様子を見るのが気恥ずかしく、視線を逸らす。
葛之葉と黒野はパートナー契約を結んだり、首輪を送ったりはしていないものの、ほとんど事実上はパートナー同士として振る舞っていた。葛之葉にSubだとカミングアウトされた日から、黒野は葛之葉に教わるような形で定期的に簡単なプレイをしていた。黒野はDomだと自覚してから火が浅く、葛之葉が満たされているかわからない。だが、休日に時間はあるかと聞かれ、うすうす自分はDomとしての責任を果たせていないのだと考えていた。
今日は雨彦アニさんに満足してもらう。
黒野は今日1日を葛之葉のために尽くそうと、休日までにDomやSubについての書籍やネットの記事を読んで準備していた。葛之葉に靴を脱がされ、今更自分が何をするためにここへやって来たのか思い直した。
「ん。くろの、できたぞ」
葛之葉の溶けた声に、黒野は脱がせてもらった靴を受け取る。それを靴箱に入れてから、葛之葉の頭を撫でた。
「ありがとう、雨彦アニさん。助かったぜ」
何となく、言葉が上滑りしているような感覚がする。
黒野の意識が逸れ、葛之葉が不安げに黒野の名前を呼んだ。
「大丈夫だ。雨彦アニさん、アニさんの部屋まで案内してくれないか?」
「わかった。黒野、こっちだ」
黒野が少し考えてから葛之葉に手を伸ばすと、葛之葉は笑みを浮かべ手を取った。自分とそう変わらない大きさだが、手の皮が少し厚い。黒野はプレイのために張っていた気を緩めた。
息を吐いた黒野に気づいた葛之葉は、溶けていく思考をどうにか繋ぎ止める。
「はぁ……っ、すまんな。急に盛っちまって」
「いや、俺の方こそ上手くできなくてすまねぇ。ちゃんと出来ねえとアニさんが辛いのによ」
葛之葉は眉根を寄せた。
「俺はお前さんにプレイしてもらっている以上、黒野のことを尊敬しているんだ。お前さんはDomになりたてなのに俺のわがままを聞き入れて、よくやってくれているぜ」
「本当にありがとうな」とつづけられ、黒野は思わず握る手に力を込める。胸が締め付けられるような感覚がして、熱に浮かされたように体が火照る。
「雨彦アニさん。俺、アニさんのために立派なDomになるな。アニさんがしたいこと、されたいことは何でも教えてくれ。出来るだけ応えてみせるからよ」
黒野の言葉に葛之葉は深く頷いた。