ごうごうと黒く光る海を見て、黒野はしゃくりを上げた。
学校のクラスメートと喧嘩をし、施設へまっすぐに帰る気になれず愚図っているうちにこんなところへ来てしまった。施設では夕食が始まった頃かもしれない。もう小学5年生になるのに自分の感情に振り回され、施設の人に迷惑をかけるなんて情けないと黒野は唇を噛んだ。早く帰らなければならないのに、どうしてか帰る気になれない。孤児の自分を待っている人などいないのだから帰らなくても良いじゃないかとさえ思い、そんな自分に嫌気が刺した。
いつまでも泣いているわけにはいかないのに動けず、黒野はとうとう膝を抱えて蹲った。
「うるさいガキだな」
深く響く声に、黒野は顔を上げて辺りを見渡した。
「おちおち寝てられないだろ? なあ」
視線を彷徨わせ、海を見た。瞬間、強い風が噴いた感覚がして黒野は両目を瞑る。次に眼を開くと目の前には男がいた。絵本に載っている海賊のような格好をしていて、片目がやけに煌々と光っている。まるで星空のようで、黒野は思わず息を呑んだ。
震える声で綺麗と呟いた黒野を彼は嘲った。
「悪霊に綺麗とは、趣味の悪いガキだな」
「悪霊? って、おばけのことか? そんなもんいるわけねぇだろ」
黒野は眉間に皺を寄せる。
彼は気味の悪い笑みを浮べたまま、ずいと黒野の体に腕を入れ込んだ。腹の中に異物が入る感覚がして、黒野は眼を見開く。生理的な涙と、開いた口から涎がぼたぼたと落ちた。
「ほら、見ろよ。透けてるだろ」
声を上げようと息を吸うだけで腹がじくじくと痛む。黒野は自分の腹に沈んでいる彼の腕から眼を逸らし、何度も首を縦に振った。
「ん? ああ、痛いのか」
すまんなと無遠慮に腕を引かれ、黒野はたまらず声を上げる。喉の奥が痛んだ。濁った叫び声が耳に障ったのか、彼は眉を顰めた。
「うるせえガキだな」
黒野はむっとして、掠れた声で言い返す。
「いきなり腹に手つっこまれて、叫ばないわけないだろ。痛いのは嫌だ」
「痛いのは嫌、か」
彼は口端を上げると、少し考えてから黒野の頭を撫でた。髪が風に揺られているような心地がする。先ほどのことは忘れられないが、不思議と気持ちよさが勝る。黒野は思わず、ほおと息を吐いた。
「お前、なかなか面白いな。……俺はヒューゴ=レイン。ヒューゴと呼べ」
「え?」
黒野は驚いて彼を見上げた。
ヒューゴと名乗った幽霊は、ギラギラと光る片目を細める。
「名前は」
「えっと、玄武。黒野玄武」
「ゲンブか、よろしくな。今日からお前についてやろう」
「つく?」
黒野は言葉の意味がわからず首を傾げた。ヒューゴが握手を求めるように差し出している腕を無視して、意味を問うように彼を見上げる。ヒューゴは意味深長な笑みを浮かべるばかりだった。
黒野が催促するように声を上げようとした時、施設の先生が名前を呼ぶ声が聞こえた。驚いて声がした方を振り返ると、懐中電灯を持った先生が黒野を見つけて手を振っている。黒野は手を振りかえし、一目散に先生の方へ駆け出した。
風の音と波の音に混じって、ヒューゴの声が響く。
「またな、ゲンブ。長い付き合いになることを期待しよう」
ヒューゴは言葉通り、その日から黒野の前にたびたび姿を現せるようになった。
体の中に腕を入れられることは無くなったが、何かに気づいたような表情をすると体を貸すように迫ってきた。体を貸している時の記憶は曖昧で、俗に言う「乗っ取られている」という状況なのだろうが、ヒューゴが何のためにそんなことをしているのか黒野は知らなかった。体の中に腕を入れられた時とは比べようもないほど気分が悪くなり、せめて何をしているのか教えろと何度か言ったがヒューゴが口を破ることはなかった。
黒野は高校に入学すると同時に一人暮らしを始める。一人暮らしで大丈夫か、寂しくないかと施設の先生に聞かれたが、黒野はその度に一人ではないしなと苦笑いした。
「狭い部屋だな」
「学生の一人暮らしなんだ、こんなもんだろ」
黒野は荷解きをしながら、部屋を見渡すヒューゴの言葉に返す。ヒューゴは相槌を打つと、ひらりと身を翻して部屋の奥へと入っていく。新居に初めて訪れた子どもはこんな感じだろうかと、黒野は首を傾げる。彼はヒューゴの背を見送ると荷解きを再開した。
部屋の片付けや荷解きを終え、昼食にしようかと考える。
「食材、買いに行かねえとな」
「今日くらい買ったもので済ませても良いんじゃないか?」
「そうはいかねえ。医食同源、質素倹約。施設を出たからにはしっかりとした生活を送っていけるよう心がけねえとな」
そう言って財布の準備をする黒野を見て、ヒューゴはクソ真面目がと眉間に皺を寄せた。
黒野はヒューゴを無視して、玄関の扉を開ける。外に出ると隣の部屋からも鍵が開く音がした。そちらを見れば、長身の男が部屋から出てくるところだった。鍵をかける横顔が誰かに似ているような気がして、黒野は思わず彼を見つめてしまった。鍵を閉めた男が黒野の視線に気づき、人の良さそうな笑みを浮かべる。
「お前さん、新人さんかい?」
「すみません、ご挨拶が遅れてしまって。今日、この部屋に引っ越してきた黒野玄武と申します」
黒野は頭を下げた。
「ご丁寧にどうも。俺は葛之葉雨彦だ」
葛之葉も軽く頭を下げる。よろしくなと笑った表情を見て、黒野は心の中で息を飲んだ。色素の薄い細い瞳と柳のような眉は、黒野が部屋を出るまで会話をしていたヒューゴの顔とよく似ている。似ていると思えば、見れば見るほど彼に思えてくる。ちょっとした気持ち悪さも覚えた。
黒野が挨拶をして去ろうとすると、葛之葉に呼び止められた。
葛之葉はわずかに眉間に皺を寄せると、つかぬことを聞くがと前置きする。
「肩が重たいだとか、以前よりも疲れやすくなっただとか、そんなふうに思ったことはないか?」
「あ? いえ、ないですが」
妙な質問に黒野は首を傾げた。
「そうか、変なことを聞いたな。気にしないでくれ」
またなと葛之葉は黒野のそばを通り過ぎてアパートを出ていく。黒野は妙な質問の意図が掴めず、しばらく葛之葉が歩いて行った方を見つめた。
どこからかヒューゴが現れ、面白そうに喉で笑う。
「面白いやつがいたものだ。昔は珍しくなかったがな」
「それは、あの人にもお前が見えるってことか?」
「あれは全部見える奴だろうな」
ヒューゴの言葉に黒野は、どういうことだ? と視線で問うた。
「お前には俺しか見えてないが、あいつはそうじゃないってことだ」
「他にも悪霊ってのがいんのか」
「ああ。お前には俺がいるから近寄らないがな、ゲンブ」
黒野は眉間に皺を寄せて、そうかよと言った。たびたび起こる体の乗っ取りさえなければ素直に感謝できたのだが、やっかいなものに憑かれているという認識は幼い頃から変わっていない。
黒野は扉の鍵が閉まったことを確認すると、アパートから出ていく。ヒューゴはそのまま姿を消した。
施設の先生方に教えてもらった店に出向き、数日分のメニューを考えながら買い物を済ませる。